「わたし」に込めた500年の美術史
インタビュー:森村泰昌 聞き手・構成:原 久子
2016.05.20
インタビュー:森村泰昌 聞き手・構成:原久子
森村泰昌(1951年生)は大阪に生まれ育ち、いまもこの地で暮らしを営む美術家だ。1985年にフィンセント・ファン・ゴッホの自画像(セルフポートレイト)に扮した写真作品を発表して以来31年間、彼は一貫して“自画像”を制作し、国内外で高い評価を受けてきた。そんな森村の大阪の美術館での初個展となる《森村泰昌:自画像の美術史―「私」と「わたし」が出会うとき》の開催初日(2016年4月5日)に、この取材ができた。すでにこの日はいくつかの取材を受けていたから、その流れに勢いがついていたのか、彼は席に着くなり饒舌に話しはじめた。もしかすると5年後には、すべての言葉がまったく裏返ってしまうかもしれない、と思いつつ、ユーモアに満ちた森村の言葉に飲み込まれていった。
つくられていく「物語」
僕の作品について、みんなが勝手に解釈してくれるほうが面白いですね。そういう見方もあるねんな、っていうような見方。答えはひとつということはないんです。昔はこうやって取材を受けるときに、答えを用意しないとなあかんと思っていました。でも、答えありきで作品をつくるってことはないですからね。僕の場合、直感だけですから。
取材があっても最初はうまく説明できないですよ。でも、自分でも少しずつ説明がうまくなっていくのがわかる。2回目、3回目、4回目と説明が徐々にうまくなっていく。お話が洗練されていく、そんな自分がいますね。コンセプトを他人から問われ、何度か答えるうちに、お話として面白くなる。話している自分も満足するし、訊いている人も満足する答えが紡ぎ出されていくんです。
いま、ある雑誌でインタビュアをやらせてもらっていて、お話を訊く側にまわっているんですが、すごくしゃべってくれはるんやけど、みなさん見事な「物語」をつくらはりますね。
今回の展覧会の展示の “第1部 自画像の美術史 第0章美術史を知らなかったころの「わたし」がいる” では「ラデカルな意志のスマイル」展(1985年)を再現しているんです。この展示のために関係者が記憶をたどっていくんですが、全員言うことが違う。作品の位置やどの作品だったかの記憶がことごとく違うんです。僕は会場写真を撮りました。だけど、僕もそのときに展示した作品かどうかが実ははっきりしない。僕の写真の真ん中のカラー写真2点と、左右にモノクロ写真2点ずつ展示した作品のうち、多分そのときのモノクロ2点と思われるものは兵庫県立美術館にあり、あとの2点の行方はわからないんです。
さらに作品名に関して出てきた謎もありました。「ラデカルな意志のスマイル」展の展評をヨデンマモルさんが当時『月刊 美術手帖』に書いてくれた。そのことが原動力となって、次につながっていったということはよく語られるエピソードなんです。そしてその資料は多くの人が持っていました。ただ、その誌面に掲載されたゴッホの肖像の作品図版には《肖像(ゴッホ)》というキャプションではなく、アンドレ・マルローの小説『王道』のフランス語タイトルが書かれているんです。そういえば、敢えてこの情けない顔のゴッホを「王道」と呼ぶんだと当時僕はそんなことを言っていたかもしれない。展覧会名も含めて言葉遊びをしていたこともあって、そんなタイトルをつけたかもしれない。でも、京都のギャラリー16で展示したときにどういうタイトルで展示したかの記録はだれも残していないんです。
「森村論」を書きたいと言って調査にくる若い研究者に、僕は「作家って嘘八百ならべるから」と言うんです。もっとも真実味のある情報として扱われるけど、僕はもっとも裏のあるものだと思っている。僕がこういうインタビューうけているときに、こう言わんとしゃあないのかな、と思いながら嘘を言っていることがあるからね(笑)。
時間の経過とともに変化する「私の美術史」
正直、つくった最初の頃はゴッホもそうだし、美術史自体をさほど知らなかったんです(笑)。高校時代に美術部に入って絵を描いていたけど、高2くらいになって、同時代的なものに自然に興味を持ち、いきなり20世紀の美術、戦後美術、現代美術というところに興味がいってしまった。だから日本美術も西洋美術も歴史的なことは知らないままで、バロックにしてもルネッサンスにしてもどう位置付けられるのかも知らなかった。ずっとそこは飛ばして、現代のものに憧れていた。ゴッホも嫌いではなかったけれど、図版でしか見たことがないし、印刷も当時はよくなかったので、オリジナル作品もむちゃくちゃケバケバしいものだと思っていました。「炎の人」というキャッチがつけられていて、それが頭にこびりついていました。だけど、面白いのは、僕の体質なのか、皆さんそうなのかわかりませんが、一回出会ったものとは“ご縁”ができるんです。ご縁ができて、ずっとゴッホのことは気になりつつ、これで終わりではないよなと思って、ずっとどこかで引きずっていました。
その後、調べていくと、ゴッホって実はめちゃくちゃ繊細な人で、えらいチマチマしたところがあって、ぜんぜん炎の人のイメージとは違う、とあるとき思ったりとか。新しく発見するところがあったり、いろんな部分を重ねていって、30年後のゴッホが自分のなかにある。だから最初につくったときから、考えるとずいぶん違うゴッホ像があります。
カラヴァッジョを知らないのは僕の責任ではなくて、黒田清輝の責任
最初よくわかっていなかったものも、自分なりの輪郭線がだんだん描けるようになってきたり、いろんな面があるねんなとか知ることができるし。観る人に付き合わせるのも何なのですが、これは「美術史の勉強」ですね。レクチャー(森村泰昌連続講座「新美術寺子屋・自画像の話 第二回「カラヴァッジョ」2016年3月12日於:国立国際美術館)のときに言ったんですけど、カラヴァッジョを知らないのは僕の責任ではなくて、黒田清輝の責任じゃないのか、テネブリズム(暗闇主義)は日本に入ってきたはずで、暗い闇とロウソクの光の作品は日本にもたくさんあってとても面白い。そういう作品があるにもかかわらず、黒田のなかでは西洋のキリスト教美術のようなものを日本でやるわけにはいかない、と考え、日本に「印象派」を持ち帰ってきた。一気に画家たちの絵は明るくなる。日本画まで明るくなった。そうした感受性に僕らも育てられ、そんななかレンブラントくらいまでは私たちはさかのぼっても、カラヴァッジョまでは遡ることはしなかった。いわゆるバロックからルネッサンスまで飛び越して、その間にいた極めて重要な画家を僕たちは教えられずにきた。三島由紀夫もカラヴァッジョの話はどこにも書いていない、だけどあの人自身はカラヴァッジョでしょ(笑)。
日本画も彼の悪影響で印象派化していった。黒田の悪影響を批判する人はいなかったけど、その功罪は大きいと僕は感じています。そしてその功罪を問うことなしに、カラヴァッジョを語ってはならないと思います。
ゴッホは印象派が嫌い?
印象派についてはゴッホに語らせていますけどね(映画《「私」と「わたし」が出会うとき―自画像のシンポシオン―》で)。でもね、僕の高校1年生のときの絵はまさに印象派でしたよ。赤瀬川(原平)さんがどこかに書いていたけど印象派というのは「幸せな絵」であると。あんなに人間と自然が仲睦まじい時代はない。それまでは自然は恐ろしい制御しきれないものとして見られていて、得体の知れない暗いものとしてとらえられてきた。
あの時代、エジソンが電球を発明するとか、ライト兄弟が飛行機を発明して人間も鳥のように飛べるようになったり、自然はけっして怖くないものになるんです。印象派の絵には自然が描かれているわけではない。あれらは「都会のなかの自然」で、人工的につくられた都市と自然とがとてもバランスが良い時期でした。自然が人間を襲うわけでなく、人間が自然を破壊するわけでもなく、人間と自然の調和が成り立っていた。
でもそんな幸福な時期は一瞬で、次の瞬間には人間もヘンになっていく。印象派の頃はあまりにも幸せすぎる絵なので、そこから表現主義に移行したり。いま自分が生きている時代にあまりにもリアリティがなさすぎる。
ゴッホは印象派嫌いやったと思うんです。印象派は嫌いやけど、パリに来たら皆が印象派に傾向していた。だけどゴッホはこれまでの絵からどういう方向性を見出せばいいのかと考え、発見したのは内なる光だった。では「光」はどこにあるか、と思ったときに。ジャガイモは掘り出したときは土がついて真っ黒に汚れている。でも割ったら中は黄色く光輝いている。光や色ってそういうもんじゃないだろうか。闇の世界の反転として、光の世界が出てくるのがゴッホだと思ったんです。ゴッホは僕にとっては黄色なんです。それは本当は金色で、日本画では金泊を使えるけど、油絵具には金はないので、黄色になっています。
特に、いまの時代に生きている僕らにとって印象派的な世界はあまりにも現実とかけ離れている。
テオ抜きにゴッホは語れない
テオをテーマにした本があって(『テオ ―もうひとりのゴッホ』マリー=アンジェリーク・オザンヌ&フレデリック・ド・ジョード)、それを読んでからテオ抜きにゴッホは語れないと思いました。テオとフィンセントの2人の署名の記された作品があると、ゴッホは手紙に書いている。フィンセントは自分だけで描いていたわけではない、そこには複雑なものがあった。自画像を描く場合は「わたしはこういう人です」というアイデンティティの表現として、主張する。肌はこういう色である、どこそこの生まれだ、とか。往々にしてマイノリティ意識を持った人が社会的に自分の立場を位置付けるために描いたりする。非常に強い意志が出ている自画像もあるが、ゴッホの自画像はなんだかいつも不安定なんです。
丸刈りにしている絵があるが、ゴッホは丸刈りにした自画像を共同生活をすることになるゴーギャンに渡すことを楽しみにしていたはずです。解説書などにはゴーギャンの訪問を待ちわびてわくわくしている状態の絵であると書かれている。だけど僕は最初に見たときにはなんて怖い絵だと思った。なぜ不安定なのかと考えたんです。それは人格が割かれている、ということでもあるのかな。あとの半分の自分がここにいない不安定さで、そういう表現も「わたし」という存在のあり方の一例としてあっていいんじゃないかと思いました。
「あくまで私の話は捏造です」と言う。学問だったら絶対に間違ったらダメですが、芸術は間違っていても面白ければいいという鉄則がある。面白いというのは笑えるという意味ではないのは当然ですが。たとえば典型的な例としては遠近法が間違っていても、面白い絵はいっぱいあります。そこにある種の真相、あるいは真実味があれば、芸術として成り立つんです。テオとフィンセントの関係については、芸術としてはありかな(笑)。
自画像の時代の終わりがきている
映画作品《「私」と「わたし」が出会うとき―自画像のシンポシオン―》に登場するのは自画像の画家たちなんですね。画家ではなく、「自画像」自体が語るわけです。絵の物語であって、人間の物語ではないんです。ゴッホが語るのではなく、ゴッホが描いた絵が語っている、ということです。全部そう、ベラスケスだってそうです。絵が語っていることがポイントなんです。自画像だけで美術史を語っていこうというのが、展覧会全体もそれが目的なんです。
自画像で描かれるのは画家の「わたし」というものが描かれるんだけど。昔は自画像を描くことはなかった。描かれるようになったのは15世紀以降。僕は鏡の登場が一番大きいと思うけど、自分を「外化」する装置というのが発明されたわけです。昔の鏡は金属でボコボコしていて、フラットなガラスに水銀を付着させた鏡をつくるようになったのが、そのあたりの時期です。自分の姿をまざまざと見ることができる状況が生まれるわけです。その頃から自画像が描かれるようになり、バストショットでこちらを見ている。それはまさに鏡を見ているわけですよね。15世紀半ばのファン・エイクの自画像なんかもまさにそうですよね。
僕が勝手に思ってるだけだけど、当然それまでは「あなたが何者か」を決定するのは「神様」だったはずなんですね。神様がすべてを決める存在だから。自分ってなんだろうと疑問に思うと神様に訊いて、そうすると「汝は…」って言うてくれはるわけ。鏡を見るとそこに自分という現実の存在がまざまざと現れる。鏡を見たら、自分が何者かであるかがたいへんよくわかる。すると自分は何者かということを知る手段は鏡と神様の二つになる。その後、鏡はいろんなメディアに変わっていく。
メディアは鏡から写真、映画、テレビ、ビデオなどが登場する。そしてインターネットの時代になってくると、また大きく世界が変わってくるわけですね。結論を先に言うと自画像の時代の終わりがきている、と僕は思っているんです。
わたしとは何かと人間が自分に問うということが当たり前にみたいになっている。それが終わるときがくる、それが今ではないかと思うんです。ですから僕は最後のセルフポートレイトをやっているという気持ちで制作しています。
自画像の時代
この500年間を僕は自画像の時代だったと思っているので、自画像でもって美術史を語っていくことに意味があると思う。そして自画像の画家たちをどういうラインナップにしようかというときに。本当に典型的な自画像はデューラーの自画像だと思うけど、だれもが知っている自画像はレオナルド・ダ・ヴィンチだと思ったので。だとするとレオナルドはセンターかなと。並びとしては彼のミラノにある作品《最後の晩餐》をモチーフにして並べるというのはどうだろうと思いました。
そうなると13人でなければならない。で13人を選びだしたんです。だけど、マルセル・デュシャンを語るというのは何だかそぐわないと思ったので、最終的には「不在」ということにしようという結論となり。僕がユダを演じるので残りは……というふうに考えました。クールベのような典型的な自画像アーティストで抜けている人もいますが、まあなんとか13人にまとめてみたわけです。
レオナルド・ダ・ヴィンチがセンターなので、レオナルドから最初に、というふうに編集していった。試写会のときには実際にそうなっていたんです。展覧会開幕前日までそういう編集方針だったんだけど、どうも違うな、と。いろんな時間の流れとして、思い切って、冒頭にファン・エイクを持って来ることにした。
500年の時間の流れを途切れさせたくないということを藤井(光)さんにも言った。流れがあるわけやから、映画の尺である70分間で500年の時間の流れを感じさせなければならない。時間の流れが歴史、水が流れるような感じが伝わるように、感じ取るような編集にして欲しいと言いました。
オムニバス的にどこから見てもいいように、一話完結のものにしようと当初は考えていた。でも1本ずつ作って、あわせてみて、流してみると、これは全然違うと思いました。一つ一つがブツ切れになっていて、それで全編観てもらうようなかたちにつなごう、ということになりました。
500年の西洋美術史を語っているにもかかわらず、西洋美術史を破壊し、一般的な通説を全部覆す試みをし、全然違う「わたし」のあり方を模索しました。愛するがゆえに抹殺するようなところにもってゆくように…。
粘り気のあるエロティックな映像
横浜トリエンナーレ2014で、映像記録をアーティスツ・ギルドに依頼することになり、その際に最初に藤井(光)さんに会いました。田中功起の作品などを撮っているのは知ってたんですけど、彼は高山明の映像制作にもかかわっていた。ヨコトリの高山明の出品作で、高山さんの作品の出演者がバスで移動していく映像のシーンを見たときに、映像に粘り気があって、ねっとりしているな、めちゃくちゃエロティックだと思ったんです。彼の映像には色気があると。
機械仕掛けになってしまったような、エロスのない映像は全然だめだと思うんですよね。藤井さん自身の作品は硬派ですけど、本来映像ってねっとりしたもので、彼はフィルムのあのねっとり感を知っていてやっている感じが良かったので、それを僕は今回欲しかった。美術の歴史はそんなにカラっとしてるものじゃないですから。
藤井光はだれとでもそうなのか、僕とだけなのかはわからないけれど、僕のやりたいことに対して、ものすごく理解が早かった。僕は映像言語では語らない。しかし当然、藤井さんのほうは映像言語に翻訳して理解しないと映画は撮れない。その誤差が少なかったのが良かった。ここをこう撮りたいというときに、「ですよね」という阿吽の呼吸でいける。誤差が出ると進めにくい、だけど映像にしていくのは映像監督なので、そこは委ねないと仕方ないんだけど、藤井さんとのやりとりでストレスが溜まることはなかったし。
彼のスタッフで録音を担当してくれた藤口(諒太)くんにしても、音フェチでね。
「森村さん、羊のところまで歩く音を録らせてください」って言うんやけど、何の音もしていないように思うんだけど、録ってくれて「OKです」とかってね。草の音のちょっとしたものも、録るんです。映像の最後にピストルの音が鳴るんだけど、本物らしい音もできるし、ものすごくおもちゃっぽい音にもできる。迫力はあるけどおもちゃっぽい音もできます、と言われた。それはおもちゃっぽいほうだろうということになった。ハラミュージアム アーク(群馬県渋川市)でレンブラントを撮っているときに、少し時間があったときに、モデルガンがあることを確認し藤口くんが貸して欲しいと言ってきたのです。何をするのかと思ったら自動車のなかで音を録っていた。北加賀屋(名村造船所跡地)で撮影時に録った音と、2つの異なる音を重ねたものを最終的には使っているのね。彼ら2人とやるのは時間もかかるし、本当にたいへんなんです(笑)。
「森村さん、ここはじっくりいきましょう」って彼らは言うから困るんですけどね。彼らとはイメージを共有できるし、面白い提案もあったし、いいセンスをしていたと思います。
どの自画像に自己投影をしたか
今回の映像のなかのどの画家に、僕自身を自己投影したかどうかというと、12人にほぼ等しく分散させています。森村の「わたし」なんです。それはあまり言いたくないですが、姿・形をかえて自分を語りました。登場した13人の漢字の「私」が統合できたら、ひらがなの「わたし」になったといいますか…。だけどそこはあまり言いたくない。そこは言わずもがな、で理解をしてほしいと思います。
話が兄弟の話から、父と娘の話、息子と母の話、だんだんと非常に個人的なプライベートなものにシフトしていっているでしょ。あれはけっこう意識してスクリプトを書きました。大きな歴史の話、500年の美術史を語るんだけど、そこにじつはそれとはまったく別の時間の流れがずっとあるということを感じ取って、一人一人が自分自身の問題として感じとっていただければと思っています。本当は美術史の話ではない。それとは違う人間のもっているものだし、大げさにいうとテロリストになっていく人の感覚って他人事のように思っているけど、本当にそうなのか……と。
さまざまなかたちで読み込んでもらえると作者としては嬉しいです。
(2016年4月5日取材/2016年5月25日公開)
もりむら・やすまさ
1951年大阪市生まれ。大阪市在住。京都市立芸術大学美術学部卒業、専攻科修了。
1985年ゴッホの自画像に扮するセルフ・ポートレイト写真を制作。以降、今日に至るまで、一貫して「自画像的作品」をテーマに作品を作り続ける。
1988年ベニスビエンナーレ/アペルト88に選出され、以降国内外で展覧会を開催する。
2014年横浜トリエンナーレ2014「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」のアーティスティック・ディレクターを務める。
主な国内での個展に、「美に至る病/女優になった私」(横浜美術館1996)、「空装美術館/絵画になった私」(東京都現代美術館他1998)、「私の中のフリーダ/森村泰昌のセルフ・ポートレイト」(原美術館2001)、「なにものかへのレクイエム/戦場の頂上の芸術」(東京都写真美術館他2010)など。
近著に「森村泰昌/全女優」「まねぶ美術史」「対談 なにものかへのレクイエム/20世紀を思考する」「美術、応答せよ!─小学生から大人まで、芸術と美の問答集」など。
2006年、京都府文化功労賞、2007年度、芸術選奨文部科学大臣賞、2011年、第52回毎日芸術賞、日本写真協会賞、第24回京都美術文化賞を受賞。2011年秋、紫綬褒章を受章。2012年、第47回大阪市市民表彰の文化功労部門を受賞。
はら・ひさこ
京都造形芸術大学にて『A & C : Art & Critique』の編集に創刊時より携わる。1997年よりフリーのアートプロデューサー、編集者、ライターとして活動。「六本木クロッシング2004」(森美術館)「あいちトリエンナーレ2010」(愛知県美術館ほか)などキュレーションに参画。共編著『変貌する美術館ー現代美術館学2』(昭和堂)ほか。 大阪電気通信大学教授。
(展覧会情報)
「森村泰昌:自画像の美術史―「私」と「わたし」が出会うとき」
2016年4月5日(火)‒ 6月19日(日) 国立国際美術館
(関連記事)
【SMALL ARCHIVE 森村泰昌】 『A & C : Art & Critique』は1987年7月〜1994年2月まで、京都芸術短期大学(現・京都造形芸術大学)が刊行していた芸術批評誌です。いまでは入手が難しいこの雑誌から森村泰昌関連記事を選び、OCRで読み取って、小さなアーカイブを作ってみました。
転載を許諾して下さった森村氏をはじめとする執筆者の方々と、『A & C』誌元編集担当の原久子氏、京都造形芸術大学のご協力とご厚意に感謝申し上げます。なお、記事はいずれも原文のママであることを申し添えます(明らかな誤字は訂正しました)。
(REALKYOTO編集部)
CONTENTS ▶『Art & Critique 5』〈DRAWING〉「美に至る病へ」へのプロローグ(文・森村泰昌)1988年
▶『Art & Critique 8』
〈TOPICS〉ベニス・ビエンナーレ——ベニス・コルデリア物語
(文・石原友明、森村泰昌)1988年
▶『Art & Critique 9』
〈CROSSING〉森村泰昌展「マタに、手」(レビュー・建畠晢/篠原資明)1989年
▶『Art & Critique 15』
〈CROSSING〉森村泰昌・近藤滋「ART OF ARTS, MAN AMONG MEN.」
(レビュー・山本和弘)1991年
▶『Art & Critique 15』New 〈NOTES〉 森村泰昌[1990年 芸術のサバイバル](構成・原久子)1991年
小池一子 井上明彦 松井恒男 塚本豊子 飯沢耕太郎 長谷川祐子
横江文憲 山野真悟 南條史生 中井敦子 斎藤郁夫 岡田勉
藤本由紀夫 石原友明 山本和弘 尾崎信一郎 アイデアル・コピー
富田康明 近藤幸夫 篠原資明 一色與志子 南嶌宏
▶『Art & Critique 19』
〈INTERVIEW〉 森村泰昌(構成・原久子)1992年