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GAT 028 グレッグ・ドボルザーク
ELEPHANTS IN OUR LIVING ROOM:太平洋諸島の人々の抵抗、回復力、そして連帯 – 日本およびアメリカ帝国をこえて

2021.12.06
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早稲田大学で教鞭を取り、太平洋・アジア文化研究を行うインディペンデント・キュレーターのグレッグ・ドボルザークは語る。「日本帝国の「亡霊」と、アメリカ帝国が現在進行形でとる主導的地位との絡み合いは、アジア太平洋地域に複数ある植民地化・軍国化された経験をもつ共同体をつなぐ障壁となっています…」わたしたちのすぐそばにある世界最大の海洋、太平洋。それほど遠くない過去にそこで起きた出来事を、わたしたちはどれくらい知っているのだろうか。以下は2021年7月3日に行われたオンライン・トークの抜粋である。

* 本記事に掲載された画像は教育目的による使用許可を得ています。また、プレゼンテーション・イメージの著作権はグレッグ・ドボルザークに帰属します。

構成: 石井潤一郎(ICA京都)




マーシャル諸島

さて、なぜわたしなのか?なぜわたしがこのようなことをしているのか?

これは3歳の時のわたしで、マーシャル諸島のクワジェリン環礁のビーチを歩いています。

太平洋諸島には25,000以上もの島があります。その中で、赤道の北側にマーシャル諸島が見えます。

1986年以来の独立国で、200万平方キロメートルの海を有しています。そのマーシャル諸島の中央に、地球上で最大の有人環礁、クワジェリンが見えます。

環礁内にも100以上の島があるのですが、これがそのメインの島です。ご覧の通り、とても大きな滑走路があり、2つのスイミングプールが見え、とても快適そうな島です。

再びわたしです。1976年、子供の頃で「Almost Heaven, Kwajalein(天国に近い、クワジェリン)」と書かれたTシャツを着ています。

しかし、あまり「天国」といった訳でもありません。実際に、ここは軍事基地だったのです。アメリカ軍にとってとても重要な軍事基地であり、日本にとっても、非常に重要な海軍基地でした。この島、この環礁は日本の南太平洋における植民地「南洋群島」の一部でした。

この写真のわたしは、第二次世界大戦時のトーチカ(バンカー)に登っています。日本軍のトーチカです。これは朝鮮人の労働者、つまり日本軍の基地を作るために、日本軍や海軍によって強制的に連れて来られた、朝鮮人徴用工によって建設されたものです。

ミクロネシアの至るところで、かつての「南洋群島」のあらゆるところで、このような光景が見られます。パラオ、サイパン、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦の、太平洋戦争で戦いが起こった多くの場所で、このようなトーチカが今日でも見られるのです。

ここには別の種類のバンカーがあります。これは冷戦時代にアメリカ人が核戦争に備えて作ったコンクリート製のバンカーです。

しかしこの写真を見ると、わたしは自分の家が思い浮かび、不思議と、とてもこの光景が懐かしい。なぜわたしがこういったことを話しているのか?つまりわたしはあなた方ひとりひとりに、暴力がどれだけ身近にあるのかに気がついて欲しいからです。わたしたちの周りにある暴力や軍国主義は、いとも簡単に、当たり前のことのようにして受け止められます。

別の例をご紹介しましょう。これはミサイル、ナイキ・ゼウス・ミサイルです。わたしの父が1978年に撮影したものです。このミサイルは、わたしたちが使っていた野球場に設置され、モニュメントのように扱われていました。本物のミサイルなのですが、このように象徴として大切にされていました。これは子供の頃のわたしにとって、とても身近な光景でした。わたしはこれに抱きついていたのも覚えています。懐かしい故郷の風景の一部です。考えてみればこの矛盾は大変に興味深いものです。子供の頃、このような暴力や、なぜこの恐ろしい物体がそこにあるのかについて、深く考えさせられることはありませんでした。

太平洋

これは三つの「ネシア」を示した地図です。これらの地域は、実際には非常に大きなものです。そこへヨーロッパの入植者たちがやってきました。キャプテン・ジェームズ・クックのような探検家たちです。そして彼らは自分たちの馬鹿げた観察に基づいて、これらの地域に名前をつけました。

場合によっては、これらの分類は的を射ています。時として真実です。ご覧の通り、海洋の広範囲を占める「ネシア」があります。「ポリ」とは「多くの」という意味です。

メラネシアはオセアニアの南西部にあります。この地域にはたくさんの島があり、何千年も前の非常に古い集落があり、多様性に富んでいます。そしてその上の方がミクロネシアです。

名前についてもう少し見てみましょう。ポリネシアとは、「たくさんの」ということを意味しています。他の語はどうでしょう?「メラ」は?

「黒」です。

これらの島々がこのように分類され命名されたのは、太平洋に進出したヨーロッパ人が、彼らの素朴な視点から現地の人々を捉えたからです。ポリネシアの人々の肌の色は明るいと思っていたのに、南西の海へ行くと人々の肌がもっと暗いということに気がついた。それでこの地域を「メラネシア」と呼ぶことにした…

これは「黒」の蔑視です。人種差別です。ヨーロッパの「白人」が「黒人」という認識を地図の上に押し付けているのです。

第三のカテゴリーである「ミクロ」ネシアは文字通り「その他」、エトセトラ、取るに足らない、たくさんの小島…しかし、これも非常に軽蔑的な表現です。小さい、小ささ、ポリネシアほど大きくない、重要でない、非常にネガティブな言い方です。小さい、無関係な、無視しても構わない…

そして近年、わたしたちは太平洋地域から多くの影響を受けているのを知っています。米軍もアプローチを変えつつあります。日本もより多くの資本を投入しています。例えば中国の太平洋進出に関する多くの国際ニュースがあります。

これはわたしの造語です。しかしある意味では事実です。太平洋のさまざまな角度からこの地域を見てみると、中国の力に大きく影響され、望まれている島々、つまり「チャイネシア」であると言えるかもしれません。

では「ジャパネシア」はどうでしょう?

日本による植民地支配

非常に多くの、多角的な視点が、植民地の幻想を産み出します。この「ジャパネシア」には、実際にとても長い歴史があります。日本はミクロネシアのこの地域を、30年以上もの間「委任統治領 南洋群島」として植民地化していました。

ここでわたしが指摘しておきたいのは、この日本という国では、歴史の空間である博物館において、このことを語っている場所がほとんどないということです。大阪にある国立民族学博物館に行くとほんの少しだけ、それにしても日本がこの島々を植民地化していたということについては、ほとんど触れられていません。実際に、物語から欠落しているのです。

これはパラオの写真だと思います。日本人の先生と「公学校」にいる子供たちです。わたしが出会った多くの島の高齢者たちは、当時、日本人の先生をよく慕っていたと言います。

彼らはかなり親しくなって、日本語を学び、実際に日本語がかなり流暢でした。しかし、日本ではこれらのことをまったく学びません。ミクロネシアにいた日本人について考えたとき、日本では通常、1941年に始まった太平洋戦争のことだけが語られます。戦争の話ばかりです。「戦争があった」「戦争が起きて、それが終わった」でも、それまでに何があったのか?その歴史とは何だったのか?

わたしの目的は、すべてを語ることではありませんが、歴史があったこと、多くの歴史があったこと、そしてそれらについて考える必要があることを指摘したいのです。

アメリカによる解放

次にお見せするのは、少し暴力的なイメージです。

わたしが育った島では、アメリカ人がいつも「解放」について話していました。解放について、「アメリカによる太平洋の解放について」。

しかし実際の「解放」とはこうでした。

これは、1944年のアメリカの雑誌「Yank」の表紙に掲載された写真です。背景には生きているアメリカ兵、手前にはおそらく日本兵と朝鮮人の強制労働者の遺体が写っています。

わたしが生まれ育ったクワジェリン環礁へは、侵攻でたくさんのアメリカ兵がやって来ていました。日本兵の4倍くらいの数のアメリカ兵がいました。

もちろん、マーシャル諸島の人々にとっても、これは非常につらいことでした。彼らの土地は破壊され、家も破壊され、村も破壊されました。すべてが焼かれ、誰もその被害を修復しようとはしませんでした。日本人もアメリカ人も… さらに悪いことには、アメリカ人はマーシャル人に日本人の死体を埋葬させたのです。

このイメージはわたしを最も不快にさせます。

想像してみてほしいのですが、当時のマーシャルの人々は、日本語を話していました。彼らは自分たちを日本と関係があると考えていました。彼らは必ずしも反日ではなく、むしろ親日的で、アメリカ人にはほとんど馴染みがありませんでした。しかし突然、日本の兵士を埋葬しなければならなくなったのです。中には、個人的に知っている人もいたかもしれません。

しかし、アメリカ人とマーシャル人の関係はすぐに変わります。

これは、アメリカ兵がマーシャルの子供たちに銃を持たせて、一緒に遊んでいるところです。

とても父権的で、家父長的な新しいタイプの男らしさ、アメリカ人は少年たちが尊敬する、戦後の新しいヒーローのようになりました。皮肉なことに、今日のマーシャル諸島の人々にとって、最高の仕事のひとつは米軍に入ることです。自由連合盟約の下での米国との特別協定により、マーシャル諸島の人々は米軍に入隊することができるからです。ですから今、アフガニスタンやイラクで悲惨な死を遂げたマーシャルの兵士たちが実際にいるのです。

ビキニ

さて、もっと酷くなります。しかしこのことを忘れるわけにはいきません。日本の広島と長崎への原爆投下からわずか1年後、実際には1年も経たないうちに、アメリカはマーシャル諸島のビキニと、エニウェトクと呼ばれる二つの環礁で核実験を始めました。

米国エネルギー省は、1946年から1958年までの10年間以上にわたって、これらの環礁で67回の核実験を行いました。この期間の原子力爆発量を積算すると、10年間、毎日一個の広島原爆の爆発に相当します。

ここは誰かの家でした。この土地はビキニの人がアメリカ人に貸しただけなのです。なぜならアメリカ人は土地を返すと約束したからです。そして彼らは言いました。「人類のために、すべての戦争を終わらせるために借りるのだ」と。

悲しいことに、今日「ビキニ」という言葉をウェブで検索しても、まずこの歴史や環礁は出てきません。女性の肉体を露出させて、ヘテロ規範主義の男性を興奮させるために作られた、水着を見つけるだけなのです。

実際、この水着に「ビキニ」という名前がついたのは、ルイ・レアールというフランス人デザイナーが、男を「爆発させる」刺激的な名前として、とてもクールだと考えたからです。

わたしたちがこうした刺激的で爆発的なスペクタクルを見るときに、いつも忘れてしまうのは、そこは誰かの家であり、何世代にも渡って避難し、心に傷を負うのは現実の人間であるということなのです。

ですから日本では、原子爆弾の経験が新しい記憶を生み出したことが重要です。日本では、原子爆弾を体験したことによって「戦争の終結とそれ以前の出来事」という新しい記憶が生まれたということが重要なのです。そしてある意味で、これはマーシャル諸島にも同じことが言えます。

この現象を踏まえて考えてみると、新しい太平洋とは、単なる「アメリカネシア」の始まりではありませんでした。実際には、過去を忘れることを要求されている「アムネジア(忘却)」の海の始まりなのです。

わたしが伝えたいのはこの点にあります。実際にわたしたちが忘れてしまうだけでなく、彼らがわたしたちに忘れさせようとしているだけでもなく、つまりアメリカ政府はむしろ、これは解放のためのものだとわたしたちに信じさせたがり、日本政府はむしろ、戦後は発展と平和のためだけにあったと信じたがっているということなのです。

しかも、それだけではありません。それ以上です。わたしたちはこれらの恐ろしいイメージを、観光とビキニの水着、ビーチでのバカンスといった、商品化されたイメージで置き換えようとしています。しかし忘れてはならないのは、わたしが子供の頃に遊んだミサイルのように、いくら慣れ親しんだものであったとしても、これは紛れもない平野に隠れている暴力なのです。


グレッグ・ドボルザーク

早稲田大学教授、インディペンデントキュレーター。早稲田大学国際学術院(国際コミュニケーション研究科・国際教養学部兼任)にて太平洋・アジア文化研究の教授を務める。マーシャル諸島、米国そして日本で過ごした後、主にポストコロニアルメモリー、ジェンダー、ミリタリズム、レジスタンス、そしてオセアニア地域のアートについて教鞭をとり、研究活動を行っている。アートや学術領域における草の根ネットワーク「プロジェクト35(さんご)」の創設者であり、第10回アジア太平洋トリエンナーレの北オセアニアアートフォームの共同キュレーターや、ホノルルビエンナーレなど他の展覧会のアドバイザーとしても活躍している。その他の出版物としては、2018年にハワイ大学出版より上梓した『Coral and Concrete: Remembering Kwajalein Atoll between Japan, America, and the Marshall Islands』がある。

※ このトークは2021年7月3日にオンラインで開催された。