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GAT 034 Saskia Bos
武力闘争の時代にアートを教えること: Part 2

2023.05.26
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David Levi Strauss: «Cape Town, South Africa, February 11, 1990»

2022年2月24日のロシアによるウクライナへの軍事侵攻は世界中を驚かせた。国際紛争、戦争や経済的困難、移住問題、絶えざる問題にさらされるわたしたちの現代。歴史上、不穏な時代に生きたアーティストたちは、これらのテーマにどのように向かい合ってきたのだろうか。2022年8月8日、アムステルダムに拠点を置く美術史家、批評家、インディペンデント・キュレーターでもあるサスキア・ボスは「武力闘争の時代にアートを教えること」というタイトルでオンライン・トークを行った。以下はその抜粋である。

石井潤一郎 (ICA Kyoto)




武力闘争の時代にアートを教えること: Part 1』 へ



フィリップ・ガストンによる数点の絵画、《In prison》1968年。

なぜこれをお見せするのかというと、KKKについてです。恐ろしく極端な右派の人々で、監視のための穴がついたこのようなユニフォームを着ており、極めて人種差別主義的です。このためにフィリップ・ガストンの展覧会は検閲されました。今現在、美術館でフィリップ・ガストンを語ることは、本当に難しいそうです。

もちろん、ユダヤ人であるガストンは、人種差別が人生において最悪の事態のひとつであることを十分に承知していました。彼はそのことを描いていたのですが、ある時期からそれができなくなったようです。特にアメリカでジョージ・フロイドが殺害された後(2020)、美術館ではこの作品を展示することが難しくなったようです。

これは《American People Seris #20: Die》という1967年の作品です。先ほどお見せしたガストンの絵とそれほど変わりません。

大きな違いは、ガストンは白人男性で、こちらは黒人の女性のアーティストであるということです。

ほんの2、3年前、この作品はニューヨーク近代美術館で再展示されました。近代美術館で、写真の奥にはピカソの《アヴィニョンの娘たち》が見えますが、これは、アフリカを扱っていることから、常に前衛的な作品だと考えられてきました。

美術館は今回初めて、1967年のフェイス・リングゴールドの作品を同じ部屋に置くことによって、美術史に少し言及しようとしたのですが、それに対してヨーロッパ中の新聞が、おそらくここ日本でもそうでしょう、「なぜそんなことができる?」「なぜそんなことをした?」と騒ぎ立てました。

それはフェイス・リングゴールド自身がピカソを好きで、この《Picasso’s Studio》を描いているからだけではありません。彼女自身がここにいます。ピカソが見えます、その前でヌードのポーズを取っているフェイス・リングゴールドが見えます。

ここで重要なのは、美術館が、ジョージ・フロイドの殺害事件やその他の議論など、今日の社会で起きていることを考慮してコレクションを展示し直しているとしたら、それはそれで興味深いことですが、同時に検閲をしていること、すでに決着は着きましたが、フィリップ・ガストンの展示が2年間検閲されていたということも忘れてはいけません。

それは諸刃の剣です。「よし、現実を直視しよう。わたしたちは、フェイス・リングゴールドのようなアーティストを十分に評価してこなかったかもしれない」と言うことで、正しくありたいのでしょう。しかしそれを恐れて、取り下げてしまうというのはどうでしょう。確かにガストンの展覧会を開催しなかったのは、世間の反応を恐れてのことだったのでしょう。それに対してジャーナリストや批評家たちから、検閲や自己検閲に対する攻撃的な反応がありました。

そしてそれは(京都芸術大学大学院グローバル・ゼミの)教室でもよく話していることですが、検閲、そして自己検閲とは、性差別や人種差別と関連しています。性差別とは女性のアートや同性愛者のアートを見せたくないということで、自分が性差別主義者であるアーティストの場合、自身の作品を見せたくないということになります。そして人種差別。それは明らかに民族や出身地と関係がある、これは周知のことです。

《Dead Troops Talk》は1992年、カナダのアーティスト、ジェフ・ウォールは、「再演」しました。彼は19世紀の歴史的な絵画やパノラマのアイデアに魅了されて、それらを敬愛し作品を制作しています。これは「ミザンセーヌ」です。つまり配置され、創り出されたものです。写真ではありません、セット写真、演出された写真なのです。

ロバート・キャパに戻りますが、動機はまるで異なります。ロバート・キャパのものは、何かを非常に効果的に見せようとするものです。これもアーティストとして何かを効果的に見せようとするものですが、アーティストとして、ライフ誌に載るのではなく、わたしたちの感情に何が起こっているのかを分析しようとしているのです。

ワリッド・ラードという名前を聞いたことがあるかもしれません。以前はアトラス・グループと名乗っていました。これは2001年の作品で、もちろんニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件に近い時期ですが、このアーティストはレバノンのベイルート出身で、そこに暮らしていました。子供時代には、レバノン戦争に深い衝撃を受けたそうです。レバノン戦争は、公式には1975年に始まり1990年まで続きましたが、2006年に再び勃発し、決して平穏ではなかったと思います。

この作品は少し前のもので、《Let’s be honest, the weather helped(正直に言うと、天気に助けられた)》というタイトルです。1998年の作品で、これはわたしが持っている本の表紙でもあります。

このスライドはわたしが作りました。本のタイトルは「Miraculous Beginnings(奇跡的な始まり)」というものです。ニュースをご覧になっている方はご存知かと思いますが、ニューヨークタイムズの紙面です。ワリッド・ラードの作品を思い浮かべたので、印刷された面を写真に撮って持ってきました。

これは今年のキエフです。

わたしの講演の締めくくりとして、ひとつの作品を紹介して、あとは文章を読むことにしたいと思います。

2002年、わたしはオクウィ・エンヴェゾーの『ドクメンタ』を訪れ、カッセルの主要な建物の一つであるフリデリチアヌムの、ドクメンタを開催するために割り当てられた部屋にやってきました。そこはとても長い廊下にいて、わたしはなんだか訳がわかりません。わずかなテキストが見えました。

廊下の突き当たりで、まぶしい光が明滅して、わたしは目が痛くなりました。それでわたしは歩いて戻り、テキストを読み始めました。

この作品は《Lament of the Images 2002》と呼ばれ、パトリシア・フェルプス・デ・シスネロスがアーティストを支援するためにコレクションし、現在はMoMAに収蔵されているものです。

アーティストの名はアルフレド・ジャーで、チリ出身です。アルフレッド・ジャーがその廊下を作りましたが、彼はわたしも知る人物と一緒に仕事をしていました。そのことは後で知ったのですが、その人物とはデビッド・レヴィ・ストロースで、デビッド・レヴィ・ストロースは3つの文章を書いていたのですが、すべてここで読み上げるのは大変ですので、1つだけ紹介します。《1990年2月11日、南アフリカ、ケープタウン》というタイトルです。

“アパルトヘイト政権による28年間の残酷なあつかいを経て、ネルソン・マンデラは釈放された。世界中に生中継された釈放の映像は、まるで目を奪われたかのように光に目を細める男の姿を映し出していた。

マンデラは刑期の半分以上を、喜望峰の危険な海に囲まれた、風吹き荒ぶ岩山、ロベン島で過ごした。ケープタウンの沖合いわずか10キロのこの島は、1959年以来、「非白人」男性のための最大警備の刑務所として使われていた。マンデラ氏は数人の仲間とともにそこにいたが、後にロベン島は “わたしたちが二度と理想を追い求める強さ、そしてその勇気を持てないように、わたしたちを無力にするための場所だった “と語っている。

1964年の夏、マンデラ氏と隔離棟の仲間たちは鎖につながれ、島の中心部にある石灰岩の採石場に連れていかれ、岩を砕き、石灰を掘る仕事に従事させられた。石灰は島の道路を白くするために使われる。一日の終わりには、黒人たち自身が石灰の粉で真っ白になっていた。石灰は太陽の光を反射して、囚人たちの目をくらませる。目を保護するためのサングラスを何度も要求したが、拒否された。

ネルソン・マンデラが出所した日、涙を流している写真はない。石灰のまぶしい光が、彼の泣く力を奪ってしまったのだ、と言われている”

ご静聴ありがとうございました。アートや詩が、世の中のあらゆる災害を対処するのに役に立つと考えましょう。


サスキア・ボス(美術史家、キュレーター、批評家)

アムステルダムに拠点を置く、現代アートの批評家、インディペンデント・キュレーター。ヨーロッパと米国で、展覧会制作、アート教育やアドミニストレーションにおいて長いキャリアを持つ。「デ・アペル」キュラトリアル・プログラムの創設ディレクターであり、2005年から2016年までニューヨークのクーパーユニオン大学で芸術学部学部長を務めた。現在、国際美術館会議(CIMAM)理事。
ボスはこれまで、多くの機関とコラボレーションのもと国際的なプロジェクトの企画を行ってきた。ルディ・フックスが率いるキュレーション・チームとともにカッセル・ドクメンタ7のカタログ編集補佐として携わったのち、Sonsbeek’86(アーネム、オランダ)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(「アペルト」共同キュレーター、1988年)、サンパウロ・ビエンナーレ(オランダ館コミッショナー、1998年)、第2回ベルリンビエンナーレ(2001年)、第3回ミュンスターランド彫刻ビエンナーレ(2003年)など。2009年にはヴェネツィア・ビエンナーレのオランダ館をキュレーションした。

※ このトークは2022年8月8日にオンラインで開催された。