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高谷史郎の「CHROMA」
浅田 彰

2012.09.09
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高谷史郎の「CHROMA」
高谷史郎の新作「CHROMA」が9月8・9日にびわ湖ホールで初演された

前作「明るい部屋」(2008年ハレで初演、2010年びわ湖ホールで日本初演)に続き、ダムタイプのメンバーとして活躍してきたアーティストが個人名で発表するパフォーマンス作品である。といっても、彼が脚本家・演出家・振付家としてすべてを統御するのではなく、基本的にはダムタイプの作品と同じく参加アーティストたちの発想をコラージュするようにして作り上げられた作品だ。そのせいもあって、1月に観た公開リハーサルの段階では、バラバラの断片が投げ出されているだけで、あまりに散漫だったと言わねばならない。それだけに、初演の舞台の完成度は驚きだった。そう、それは驚くほど洗練され、ほとんど冷ややかとさえ言えるほどクールな美を湛えた舞台だったのだ。

ダムタイプはインスタレーションをそのままパフォーマンスの舞台として使う手法で知られているし、高谷史郎の前作「明るい部屋」も、客席が舞台を両側から囲み、天井のスクリーンにも映像を投影する形で展開されるのだが、今回の「CHROMA」は、普通のプロセニアム舞台を使って、何の衒いもないストレートな形で、しかし照明にせよ装置にせよ一分の隙もない完成度で展開される。インスタレーション・アーティストが見事なペインティングを描くようなもの(現に数枚のパネルが照明でヨゼフ・アルバースの絵画のように見える場面もある)だと言えばいいだろうか。かつてのインスタレーション作品「frost frames」を思わせる、無数の映像が急速に明滅するシーンを除いては、総じて静かな緊張を湛えつつも抑制されたトーンが維持され、その中で微妙なニュアンスが開示されていく。アーティストはもはや強烈な光や音で観客にショックを与えることを必要としないかのようだ。とはいえ、それを「成熟」とは呼ぶまい。われわれがそこに見るのは、むしろ、あくまでもクールな「洗練」なのである。

「明るい部屋」が明/暗に関する考察であり、ロラン・バルトの同題の写真論へのオマージュでもあったとすれば、「CHROMA」は文字通り色彩に関する考察であり、デレク・ジャーマンの協力者だったサイモン・フィッシャー・ターナーが音楽を担当していることからしても、1994年にAIDSで亡くなったジャーマンが最晩年に視力を失いながら色彩(論)をめぐって書き遺した詩的エッセー『CHROMA』へのオマージュと見てもいい。アリストテレス(ギリシア語)、レオナルド(イタリア語)、ニュートン(英語)、ゲーテ(ドイツ語)、ウィトゲンシュタイン(英語)らがジャーマンのエッセーを通して再引用される(テクストと朗読をコンパイルしたアルフレッド・バーンバウムの手並みは見事だ)。と同時に、他方では、薮内美佐子を主役として残酷で甘美な幼年期のメルヘンが語られ、ジャーマンが早すぎる晩年を過ごしたダンジュネスの浜辺(原子力発電所を遠望する)を背景に不条理=滑稽(absurd)な一幕が演じられたりもする。かと思うと、インタラクティヴに動くモノクロームのマップの上で平井優子が踊るシーンの抽象的な美しさ! 静かな夢にも似たそれらのシーンを通じて、観客は、目の眩む光や鮮烈な色彩に圧倒されるのではなく、いわば半透明なスクリーンを通して多様で微妙な色調を感じ取るように仕向けられる。そう、『CHROMA』はさまざまな色彩を巡った末に「半透明 translucence」(「透明 transparence」ではなく)で終わるのだが、それはまさしくこのパフォーマンスのトーンでもある。
詰まるところ「美しい」としか言いようのないこのようなパフォーマンスについては、「劇場で体験してほしい」と言うほかない。早い機会の再演を待ちたいが、その前に前作「明るい部屋」が遅まきながら東京の新国立劇場で再演される(12月7-9日)ので、まずはそれを観るべきだろう。

他方、びわ湖ホールと同じ琵琶湖畔にある佐川美術館では、「吉左衞門X」シリーズの一環として樂吉左衞門と高谷史郎のコラボレーション展が開催される予定で(9月29日-2013年4月7日)、「CHROMA」の舞台と共通する美意識が展覧会という形式でいかに展開されるか、興味津々というところだ。

さらに付け加えると、古橋悌二の早すぎた死の後、高谷史郎の下でダムタイプに新しい風を吹き込んだと言っていい池田亮司も、10月に来日し、京都造形芸術大学・春秋座で「datamatics」のコンサート(KYOTO EXPERIMENTの一環:20日)とそれについての公開講座(21日)を行う予定である。

18世紀後半から19世紀にかけての美学は、有限な領域のなかで多様なニュアンスを楽しむ「美」と無限なものに戦慄する「崇高」を両極としたが、ダムタイプから分岐した二人のアーティストが20世紀末から21世紀にかけていわばハイテック版の「美」と「崇高」を目指し、それぞれに完成度の高い作品で世界をリードし続けている、これは実にスリリングな光景ではないだろうか。