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樂吉左衞門×高谷史郎
浅田 彰

2012.10.04
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樂吉左衞門×高谷史郎
遊園地の廃墟に聳える錆びついた観覧車(びわ湖タワー)を過ぎ、湖面に広がるえり漁の仕掛けを大橋から眺めながら、琵琶湖東岸、守山市の佐川美術館を訪れる。佐川急便グループがつくったこの美術館は、佐藤忠良と平山郁夫がコレクションの柱で、見に行く気にはならなかった。樂家15代当主が自ら設計した樂吉左衞門館ができた後も、水面下あるいは水面すれすれの展示室や茶室に興味を惹かれつつ、わざわざ見に行こうとまでは思わなかった。そもそも私は茶道に縁遠く、楽茶碗も初代と三代目のがあれば——もっと言えば光悦の黒さえあれば足りると思っている素人なのだが、それでも、「茶の美学」の基本と言っていいだろう無私のミニマリズムからすると、アーティスト出身である当代の作品は主観的な自己表現がうるさく感じられたのだ(茶道に限らず、たとえば勅使河原蒼風の「前衛華道」にも違和感を感ずる、それと似通った印象である)。

その佐川美術館を初めて訪れたのは、「吉左衞門X」シリーズの一環として高谷史郎が樂吉左衞門の茶碗を独自の角度から扱う展覧会が始まったからだ。結論から言えば、それはたいへん興味深い試みであり、遠くまで足を延ばす価値は十分にあった。

今回の展覧会では、樂吉左衞門の23点の茶碗を素材として、高谷史郎がさまざまな形式の展示を行っている。たとえば「Camera Lucida」の手法による展示。これは、Camera Obscura(暗箱カメラ:近代的な内面的意識のモデルでもある)とは対極的に、外に剥き出しになったピント・ガラスと対物レンズを通してオブジェを観察するシリーズであり、2004年に児玉画廊で発表されたときはオブジェとして小動物の骨などが使われていた。今回はその代わりに茶碗が置かれるのだ。中途半端に「茶の美学」にすり寄ることなく、それを外から観察する立場を明示した、潔い展示と言えよう(なお「Camera Lucida」=「明るい部屋」は12月7-9日に東京の新国立劇場で再演される高谷史郎のパフォーマンス作品のタイトルでもある)。

さらに見事なのは、茶碗を回転させながら外周を2万枚の写真に収め、それぞれの写真から左右の真ん中の縦長ストリップを切り取ってつないでいった「Toposcan」シリーズだ。人工衛星から天体をスキャンするように茶碗を観測するといったところだろうか。無数のディジタルな糸が高速度でカラフルなタペストリーを織り上げていくかのような無音の動画は催眠的なまでに美しく、その前にさりげなく置かれた茶碗本体と見事なコントラストをなしている。同じシリーズで静止画像を使った作品も悪くない。
他方、茶碗を撮った映像ではなく、空を撮影した写真(それ自体は素晴らしい)の前に茶碗を置いたシリーズについては、茶碗自体がもっとストイックかつミニマリスティックだったらよかっただろうにと思わずにはいられなかった。もうひとつ、茶碗の表面に映像を投影するシリーズは、「茶の湯」を現代社会の現実と接続するというコンセプトのようだが、少数の人々の専有物である高価な茶碗(ただし、ここでは特別につくられた白い茶碗が使われている)に現実の映像を投影してみたところでそのような接続が実現されるべくもなく、視覚的にも成功とは言えないだろう。とはいえ、この作品のために改造された小型レーザー・プロジェクターのデザインが素晴らしいことは付け加えておかなければならない。

最後に注目すべきは、水面を通してゆらめく光が天窓から差し込むエントランス・ホールに、高志向性スピーカーを仕込んだ回転柱(実は先日びわ湖ホールで初演された「CHROMA」でも使われており、客席の観衆に耳もとで音が聞こえるかのような印象を与えていた)を並べて、作陶や茶事の物音を流す、サウンド・インスタレーションである。私のような素人も、主と客がかすかな物音を合図に互いの気配を感じ取って茶事を進める「茶の湯」の洗練を認めるに吝かではない。茶碗そのものを見せることなく、それをめぐる気配だけを取り出してみせるこのインスタレーションは、そのような洗練を別の形で達成してみせた注目すべき試みであり、展覧会の始点・終点としてきわめて効果的である。

こうして高谷史郎の側から展覧会を見てきたわけだが、茶道と前衛の衝突といった文脈を離れ、いわば天文学者が天体を観測するように観察してみると、樂吉左衞門の茶碗もそれなりに魅力的なオブジェに見えてくるから、面白いものだ。また、本人のデザインによる樂吉左衞門館と茶室も、これ見よがしのハードボイルド趣味に食傷させられる場面が無くはないものの、総じてミニマルかつゴージャスで、確かに一見の価値があることは認めておくべきだろう。それを見るのに恰好の機会が、10月4日〜11日4日に開催される中谷芙二子の霧のパフォーマンスである。

 
実のところ、雪の科学者として有名な中谷宇吉郎を父にもつこの霧のアーティストと高谷史郎は、以前からコラボレーションを重ねてきており、サウンド・インスタレーションに使われたスピーカー・システムも、二人が2010年に山口情報芸術センターで開催した「Cloud Forest」展に際してつくられたものだったのだ(この展覧会は、中谷芙二子がEAT[芸術とテクノロジーの実験]の一員として参加した1970年大阪EXPOペプシ館の構想の一部を現代のテクノロジーでヴァージョン・アップして実現しようとするもので、スピーカー・システムから流れた音響の主体は当時デイヴィッド・チュードアの準備したものだ)。その中谷芙二子が、今回の展覧会に際し、水面の茶室を霧で包むパフォーマンスを構想したのである。地下通路を通って、水面すれすれに床面を設定した茶室に入り、巨大な一枚ガラスの窓から西を望むと、まわりの池に茶室を囲むようにして生い茂る葦や蒲の茂み、そしてはるか彼方に琵琶湖対岸の比叡山が見える。そこに吹き寄せる霧は、驚くほど多彩な表情を見せながら舞い踊り、やがて風に吹かれて消えていくのだ。ガラス越しに見ると、その光景はまるで映画のよう——そう、黒澤映画の最良の部分をサイレントで体感するかのようだ(琵琶湖岸なのだからむしろ溝口映画を引き合いに出すべきだったかもしれないが、予想をはるかに超えたダイナミズムゆえに黒澤の方を選んだ)。その光景はいつまで眺めていても飽きることがない——遠くの雲もいつまでも見飽きないのと同じように。佐川美術館を訪ねるとしたら、この機会をおいて他にないと断言しておこう。