ラーンキ夫妻のドビュッシー
浅田 彰
2012.09.28
ラーンキ夫妻のドビュッシー
2012年9月28日、京都コンサートホールでデジュー・ラーンキ&エディト・クルコン夫妻(ハンガリー人なので姓名順に記すべきかもしれないが)がドビュッシーの四手の作品を弾くコンサートがあった。ライヴで弾かれる機会の少ない、しかしとてもチャーミングな作品群をまとめて聴くことのできる、貴重な機会と言えるだろう。
プログラムは次の通り。
前半:ピアノ連弾による作品
「牧神(半獣神)の午後への前奏曲」(ラヴェル編曲)
「6つの古代碑銘」
「小組曲」
後半:2台のピアノによる作品
「白と黒で」
「リンダラハ」
「夜想曲」(ラヴェル編曲)より「雲」「祭り」
ロラン・バルトの言う「musica practica」——などと小難しいことを言う必要もない、要はオーケストラ曲もまずは自分たちでピアノで弾いて楽しんでいたサロン音楽の時代を彷彿させるコンサート。とくに前半はインティメットな雰囲気を保ち(「牧神」で作曲者による2台ピアノ版ではなくラヴェル編曲の連弾版を選んだのもそのためだろう;ちなみに会場で配布されたパンフレットの解説[萩谷由喜子による]で「牧神」と「夜想曲」が作曲家自身の編曲と記されているのは誤りだと思われ、プログラムには「夜想曲」の第3曲「シレーヌ」も記されているが実際は演奏されなかった)、スケールやダイナミズムに欠けるわけではないものの、音楽をいたずらに大きく膨らませずすっきりとまとめてみせる手際がなかなか見事だった。ピアノの響きがやや直截に過ぎると思われる節もあったし(私の席がピアノの真ん前の3列目だったせいもあるかもしれない)、いわゆる「フランス的なエスプリ」を感じさせる洒落た節回しには欠ける面もあったが、総じてすぐれた演奏と言えるだろう。
それにしても、「6つの古代碑銘」は久しぶりに聴いても実に魅力的な音楽で、冒頭のペンタトニックの旋律(「日本的」とも言える)が最後に回帰してくるところなどはシンプルでありながら感動的だ。これはもともとピエール・ルイスの「ビリティスの歌」(古代ギリシアのサッフォーのような女性詩人の詩の仏訳と称して発表された)の朗読を彩る室内アンサンブルの音楽として作曲され、その中から6曲を選んで編曲しなおしたものだ(室内アンサンブル版もある)。同系列には傑作歌曲「ビリティスの3つの歌」もある。これらをまとめて取り上げるサロン・コンサートを開けば面白いのではないか。
他方、「小組曲」はピアノを習いたての子どもがよく連弾する初期作品で、懐かしくも愛らしい響きに満ちている。ラーンキ夫妻の演奏も実にチャーミングで、とくにメヌエットの典雅な表情は素晴らしかった。それを聴きながら、ふと、やはりドビュッシーの初期作品である「アラベスク」第1番をフィーチャーした「リリイ・シュシュのすべて」の監督である岩井俊二のことを思い出す。最近日本でも上映された近作「ヴァンパイア」は、いわば弱気で神経質な吸血鬼をめぐるグロテスクかつエレガントな(言い換えれば吸血鬼映画と聞いて連想するサスペンスからはほど遠い)映画なのだが、そこにもアルツハイマー病を病んだ吸血鬼の老母がラヴェルの「死せる王女のためのパヴァーヌ」を弾く忘れがたいシーンがあった……
だが、コンサートに戻らねばらない。後半は、前半とは対極的に、2台のピアノを駆使して主に後期の作品が演奏され、前半ではまだ十分にわからなかったかもしれないドビュッシーの音楽のスケールとダイナミズムが開示された。とくに、第一次世界大戦下に書かれた「白と黒で」(1915年)は、苦渋に満ちてしかも輝かしい音楽であり、なかでも「ラ・マルセイエーズ」(フランス)とルターのコラール(ドイツ)——ただし、かなり変形された——が音楽の戦争を繰り広げる第2曲は感動的だった。コラールの後に、静かな和音の連続がシンプルな旋律を奏でる部分(遺作「燃える石炭に照らされた夕べ」を予感させる)の、何と美しく響いたことだろう。
他方、1901年に作曲されながら没後に発見された「リンダラハ」(曲名はグラナダのアルハンブラ宮殿の中庭の名前)は、ハバネラのリズムにのったスペイン的なメロディが印象的だ。
そして最後の「夜想曲」は、ラヴェルの巧みな編曲を生かして、典雅な「雲」(ピアノ版はオーケストラ版より抽象的に響く)から光彩陸離たる「祭り」にいたるまで、聴きごたえのある音楽が繰り広げられた。
ドビュッシー自身の出てきた土壌であるサロン音楽のインティメットな雰囲気を甦らせ、しかも、それを突き抜けるドビュッシー音楽の潜在力を十全に顕在化する、生誕150周年にふさわしいコンサートだった。
思い返せば、ラーンキと言えばかつてコチシュやシフとともにハンガリー若手ピアニスト三羽烏と謳われ、なかでもラーンキがいちばんのスターだったのだが、コチシュはヴィルトゥオーゾとして認められ、ワーグナーの編曲やクルタークの演奏などでも活躍、シフはリリカルなピアニズムに磨きをかけながらECMを中心に着実に録音を続行、対してラーンキの方はいささか影が薄くなっていたと言うべきだろう。そのピアニストとこういう形で再会できたのは喜ばしいことだ。実は京都に先立って9月22日にも兵庫県立芸術文化センターでラーンキ単独のリサイタルも開催された。調律に難があって、最初のハイドンのソナタはいまひとつだったが、ドビュッシーの「子どもの領分」、そしてとくに「版画」はなかなか充実した演奏で、そのあとのシューマンの「クライスレリアーナ」もライヴならではの聴きものだった。この2回のコンサートだけからはまだ最高度の評価を与えることはできないものの、成熟したピアニストとして再び日本にやってきたラーンキの今後に大きな期待を寄せたいと思う。
*
ちなみに、生誕150年を記念して出たドビュッシーのピアノ音楽の録音として、アレクセイ・リュビモフの「前奏曲集」(ECM)に触れておこう。「前奏曲集」全2巻のほか、アレクセイ・ズーエフとのデュオで「牧神(半獣神)の午後への前奏曲」(作曲家自身の手になる2台ピアノ版)と「夜想曲」(ラーンキ夫妻の弾いたのと同じラヴェル編曲の2台ピアノ版で、「シレーヌ」まで含む)が収録されているからだ。とくに「牧神」は連弾版とは違うスケールの大きさとダイナミズムが印象的で、その豊かな響きは一聴の価値がある。肝心の「前奏曲集」も、いったん冷凍した音楽を人工的に解凍して甦らせたかのような演奏で、少し粘着的で硬いところもある(つまり「フランス的」な軽みには欠ける)半面、クールな造形美を帯びている。たとえば終曲「花火」をこれほどシャープに弾いた例は少ないのではないか。そこには旧ソ連時代から活動してきたこのロシア人ピアニストならではの独自の表現を見ることができるだろう。
面白いのは、リュビモフがこの録音にあたって、ドビュッシーが自宅にあったベヒシュタインのアップライト・ピアノで作曲していたことなどを考慮し、フランスのピアノを使わなかったことだ。具体的には、「前奏曲集」第1巻は1925年のベヒシュタイン、第2巻は1913年のスタインウェイを使っており、現代のピアノに負けない、しかし微妙なニュアンスのある音が、なかなか魅力的だ(デュオでは、自分がスタインウェイ、ズーエフがベヒシュタインを弾いている)。
ドビュッシー・イヤーに出た「前奏曲集」の録音の中では、ピエール=ロラン・エマール盤(ユニバーサル)を挙げるほうがオーソドックスな選択かもしれない。だが、私の見るところ、エマールはメシアンの「音価と強度のモード」やリゲティの「練習曲集」のようなハードな構造をもった曲を驚くほど弾力的に弾きこなすときに真価を発揮するので、その意味ではドビュッシーでも「練習曲集」の方がよく、「前奏曲集」の初めから柔らかな音楽をさらに柔らかく弾きこなしてしまうと音楽の構造が曖昧になってしまう時があるように思われるのだ。そういう意味で、ここでは、やや異色の選択であることを意識しつつ、リュビモフ盤に注目しておきたい。
さらに付け加えると、リュビモフはケージ生誕100周年でもある今年、ケージの音楽を集めた「John Cage : As it is」(ECM)もリリースしている。彼は1960年代からケージの作品を演奏し、1976年にモスクワ音楽院で初めてケージの作品だけのコンサートを開催、1988年にケージが旧ソ連を訪れたときもモスクワ音楽院に招いている。旧ソ連におけるケージ受容の先駆者の一人と言ってよい。主に初期(1932-50年:キャシー・バーベリアンの追憶のために書かれた「Nowth upon nacht」だけが1984年)の作品を集めた今回のCDも、「Dream」に始まって中盤「Two pieces for Piano」で頂点を築きまた「Dream」で終わるというように、なかなかうまく構成されており、とくにジョイスやスタインやカミングスの詩による声楽曲をたくさん入れているのは卓見だ(ただしロシア人女性歌手の歌は英語の発音に難がある)。そもそもシルヴェストロフのようなポストソヴェト/ポストヒストリカル・ミュージックを得意とするリュビモフだけに、ケージの演奏としてはメランコリックに過ぎるところもある(録音もリヴァーブを効かせすぎている)ものの、ケージのもっている繊細な一面をうまくとらえているとは言えるだろう(逆に言えば、戦後のケージは、こういうメランコリーから別の方向に向かって歩み出て行ったと言えるかもしれない)。
しかし、かつて触れた2011年の神戸でのコンサートを思い出せば、このディスクのようなレパートリーなら高橋悠治(ケージの傑作「プリペアード・ピアノのためのソナタとインタールード」は今もって彼の録音がベストだろう)と波多野睦美でずっといい録音ができるはずだ。日本にそういうことのやれるプロデューサーはもういないのだろうか…。
昨年リリースされたCDだが、ケージに関連して付け加えておけば、1981年ルクセンブルク生まれのフランチェスコ・トリスターノ(・シュリメ)が文字通りバッハとケージを組み合わせた「bachCage」(ユニバーサル)はたいへん興味深い試みで、昨年6月に聴いたライヴもなかなかよかった。テクノをピアノでガチャガチャ弾くのさえやめれば、可能性のあるピアニストだと思う。
2012年9月28日、京都コンサートホールでデジュー・ラーンキ&エディト・クルコン夫妻(ハンガリー人なので姓名順に記すべきかもしれないが)がドビュッシーの四手の作品を弾くコンサートがあった。ライヴで弾かれる機会の少ない、しかしとてもチャーミングな作品群をまとめて聴くことのできる、貴重な機会と言えるだろう。
プログラムは次の通り。
前半:ピアノ連弾による作品
「牧神(半獣神)の午後への前奏曲」(ラヴェル編曲)
「6つの古代碑銘」
「小組曲」
後半:2台のピアノによる作品
「白と黒で」
「リンダラハ」
「夜想曲」(ラヴェル編曲)より「雲」「祭り」
ロラン・バルトの言う「musica practica」——などと小難しいことを言う必要もない、要はオーケストラ曲もまずは自分たちでピアノで弾いて楽しんでいたサロン音楽の時代を彷彿させるコンサート。とくに前半はインティメットな雰囲気を保ち(「牧神」で作曲者による2台ピアノ版ではなくラヴェル編曲の連弾版を選んだのもそのためだろう;ちなみに会場で配布されたパンフレットの解説[萩谷由喜子による]で「牧神」と「夜想曲」が作曲家自身の編曲と記されているのは誤りだと思われ、プログラムには「夜想曲」の第3曲「シレーヌ」も記されているが実際は演奏されなかった)、スケールやダイナミズムに欠けるわけではないものの、音楽をいたずらに大きく膨らませずすっきりとまとめてみせる手際がなかなか見事だった。ピアノの響きがやや直截に過ぎると思われる節もあったし(私の席がピアノの真ん前の3列目だったせいもあるかもしれない)、いわゆる「フランス的なエスプリ」を感じさせる洒落た節回しには欠ける面もあったが、総じてすぐれた演奏と言えるだろう。
それにしても、「6つの古代碑銘」は久しぶりに聴いても実に魅力的な音楽で、冒頭のペンタトニックの旋律(「日本的」とも言える)が最後に回帰してくるところなどはシンプルでありながら感動的だ。これはもともとピエール・ルイスの「ビリティスの歌」(古代ギリシアのサッフォーのような女性詩人の詩の仏訳と称して発表された)の朗読を彩る室内アンサンブルの音楽として作曲され、その中から6曲を選んで編曲しなおしたものだ(室内アンサンブル版もある)。同系列には傑作歌曲「ビリティスの3つの歌」もある。これらをまとめて取り上げるサロン・コンサートを開けば面白いのではないか。
他方、「小組曲」はピアノを習いたての子どもがよく連弾する初期作品で、懐かしくも愛らしい響きに満ちている。ラーンキ夫妻の演奏も実にチャーミングで、とくにメヌエットの典雅な表情は素晴らしかった。それを聴きながら、ふと、やはりドビュッシーの初期作品である「アラベスク」第1番をフィーチャーした「リリイ・シュシュのすべて」の監督である岩井俊二のことを思い出す。最近日本でも上映された近作「ヴァンパイア」は、いわば弱気で神経質な吸血鬼をめぐるグロテスクかつエレガントな(言い換えれば吸血鬼映画と聞いて連想するサスペンスからはほど遠い)映画なのだが、そこにもアルツハイマー病を病んだ吸血鬼の老母がラヴェルの「死せる王女のためのパヴァーヌ」を弾く忘れがたいシーンがあった……
だが、コンサートに戻らねばらない。後半は、前半とは対極的に、2台のピアノを駆使して主に後期の作品が演奏され、前半ではまだ十分にわからなかったかもしれないドビュッシーの音楽のスケールとダイナミズムが開示された。とくに、第一次世界大戦下に書かれた「白と黒で」(1915年)は、苦渋に満ちてしかも輝かしい音楽であり、なかでも「ラ・マルセイエーズ」(フランス)とルターのコラール(ドイツ)——ただし、かなり変形された——が音楽の戦争を繰り広げる第2曲は感動的だった。コラールの後に、静かな和音の連続がシンプルな旋律を奏でる部分(遺作「燃える石炭に照らされた夕べ」を予感させる)の、何と美しく響いたことだろう。
他方、1901年に作曲されながら没後に発見された「リンダラハ」(曲名はグラナダのアルハンブラ宮殿の中庭の名前)は、ハバネラのリズムにのったスペイン的なメロディが印象的だ。
そして最後の「夜想曲」は、ラヴェルの巧みな編曲を生かして、典雅な「雲」(ピアノ版はオーケストラ版より抽象的に響く)から光彩陸離たる「祭り」にいたるまで、聴きごたえのある音楽が繰り広げられた。
ドビュッシー自身の出てきた土壌であるサロン音楽のインティメットな雰囲気を甦らせ、しかも、それを突き抜けるドビュッシー音楽の潜在力を十全に顕在化する、生誕150周年にふさわしいコンサートだった。
思い返せば、ラーンキと言えばかつてコチシュやシフとともにハンガリー若手ピアニスト三羽烏と謳われ、なかでもラーンキがいちばんのスターだったのだが、コチシュはヴィルトゥオーゾとして認められ、ワーグナーの編曲やクルタークの演奏などでも活躍、シフはリリカルなピアニズムに磨きをかけながらECMを中心に着実に録音を続行、対してラーンキの方はいささか影が薄くなっていたと言うべきだろう。そのピアニストとこういう形で再会できたのは喜ばしいことだ。実は京都に先立って9月22日にも兵庫県立芸術文化センターでラーンキ単独のリサイタルも開催された。調律に難があって、最初のハイドンのソナタはいまひとつだったが、ドビュッシーの「子どもの領分」、そしてとくに「版画」はなかなか充実した演奏で、そのあとのシューマンの「クライスレリアーナ」もライヴならではの聴きものだった。この2回のコンサートだけからはまだ最高度の評価を与えることはできないものの、成熟したピアニストとして再び日本にやってきたラーンキの今後に大きな期待を寄せたいと思う。
*
ちなみに、生誕150年を記念して出たドビュッシーのピアノ音楽の録音として、アレクセイ・リュビモフの「前奏曲集」(ECM)に触れておこう。「前奏曲集」全2巻のほか、アレクセイ・ズーエフとのデュオで「牧神(半獣神)の午後への前奏曲」(作曲家自身の手になる2台ピアノ版)と「夜想曲」(ラーンキ夫妻の弾いたのと同じラヴェル編曲の2台ピアノ版で、「シレーヌ」まで含む)が収録されているからだ。とくに「牧神」は連弾版とは違うスケールの大きさとダイナミズムが印象的で、その豊かな響きは一聴の価値がある。肝心の「前奏曲集」も、いったん冷凍した音楽を人工的に解凍して甦らせたかのような演奏で、少し粘着的で硬いところもある(つまり「フランス的」な軽みには欠ける)半面、クールな造形美を帯びている。たとえば終曲「花火」をこれほどシャープに弾いた例は少ないのではないか。そこには旧ソ連時代から活動してきたこのロシア人ピアニストならではの独自の表現を見ることができるだろう。
面白いのは、リュビモフがこの録音にあたって、ドビュッシーが自宅にあったベヒシュタインのアップライト・ピアノで作曲していたことなどを考慮し、フランスのピアノを使わなかったことだ。具体的には、「前奏曲集」第1巻は1925年のベヒシュタイン、第2巻は1913年のスタインウェイを使っており、現代のピアノに負けない、しかし微妙なニュアンスのある音が、なかなか魅力的だ(デュオでは、自分がスタインウェイ、ズーエフがベヒシュタインを弾いている)。
ドビュッシー・イヤーに出た「前奏曲集」の録音の中では、ピエール=ロラン・エマール盤(ユニバーサル)を挙げるほうがオーソドックスな選択かもしれない。だが、私の見るところ、エマールはメシアンの「音価と強度のモード」やリゲティの「練習曲集」のようなハードな構造をもった曲を驚くほど弾力的に弾きこなすときに真価を発揮するので、その意味ではドビュッシーでも「練習曲集」の方がよく、「前奏曲集」の初めから柔らかな音楽をさらに柔らかく弾きこなしてしまうと音楽の構造が曖昧になってしまう時があるように思われるのだ。そういう意味で、ここでは、やや異色の選択であることを意識しつつ、リュビモフ盤に注目しておきたい。
さらに付け加えると、リュビモフはケージ生誕100周年でもある今年、ケージの音楽を集めた「John Cage : As it is」(ECM)もリリースしている。彼は1960年代からケージの作品を演奏し、1976年にモスクワ音楽院で初めてケージの作品だけのコンサートを開催、1988年にケージが旧ソ連を訪れたときもモスクワ音楽院に招いている。旧ソ連におけるケージ受容の先駆者の一人と言ってよい。主に初期(1932-50年:キャシー・バーベリアンの追憶のために書かれた「Nowth upon nacht」だけが1984年)の作品を集めた今回のCDも、「Dream」に始まって中盤「Two pieces for Piano」で頂点を築きまた「Dream」で終わるというように、なかなかうまく構成されており、とくにジョイスやスタインやカミングスの詩による声楽曲をたくさん入れているのは卓見だ(ただしロシア人女性歌手の歌は英語の発音に難がある)。そもそもシルヴェストロフのようなポストソヴェト/ポストヒストリカル・ミュージックを得意とするリュビモフだけに、ケージの演奏としてはメランコリックに過ぎるところもある(録音もリヴァーブを効かせすぎている)ものの、ケージのもっている繊細な一面をうまくとらえているとは言えるだろう(逆に言えば、戦後のケージは、こういうメランコリーから別の方向に向かって歩み出て行ったと言えるかもしれない)。
しかし、かつて触れた2011年の神戸でのコンサートを思い出せば、このディスクのようなレパートリーなら高橋悠治(ケージの傑作「プリペアード・ピアノのためのソナタとインタールード」は今もって彼の録音がベストだろう)と波多野睦美でずっといい録音ができるはずだ。日本にそういうことのやれるプロデューサーはもういないのだろうか…。
昨年リリースされたCDだが、ケージに関連して付け加えておけば、1981年ルクセンブルク生まれのフランチェスコ・トリスターノ(・シュリメ)が文字通りバッハとケージを組み合わせた「bachCage」(ユニバーサル)はたいへん興味深い試みで、昨年6月に聴いたライヴもなかなかよかった。テクノをピアノでガチャガチャ弾くのさえやめれば、可能性のあるピアニストだと思う。