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池田亮司@Kyoto/Tokyo
浅田 彰

2012.10.28
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池田亮司が2006年から展開してきた「datamatics」プロジェクトのしめくくりとなるオーディオヴィジュアル・コンサートが10月20日に京都造形芸術大学・春秋座で開催された。世界各地で熱狂的に迎えられる演目ではあるが、内容をまとめた書物(”datamatics”, Charta)がこの夏に刊行されたこともあり、コンサートはここでいったん打ち止めにしようというわけだ。京都に続き、東京でもクラブwww(旧シネマライズ)で開催されたが、京都でははるかに大きなスペースで音響・映像ともにほぼ完璧な条件を整えることができたので、それをもって「datamatics」の集大成と考えることができるだろう。

いかにも池田亮司らしいストレートな剛速球で、膨大なデータがめくるめく音響と映像のフローとなって観客を圧倒する。私は2006年に東京フォーラムで上演された「datamtics」のプロトタイプに始まって何度か上演を見てきているのだが、ここまで来てそれがひとつの作品として完成されたことを確認することができた。

実を言うと、池田亮司が「datamatics」で——さらに言えば、さまざまな可能性を孕むエッセー的な作品「C4I」(2004年)で、意味のあるデータを取り上げるようになったとき、私はそれにむしろ批判的だった。彼のテクノミニマリズムの徹底性は、すべてを正弦波や白色雑音といった純粋に形式的な要素に還元するところにあるので、自然科学的なものであれ社会科学的なものであれ中途半端に意味のあるデータを導入することは、作品が本来もっていた形式的純粋性を濁らせ、悪くすると説明的な印象を与えてしまうのではないか。また、意味のあるデータである以上、「datamatics」で最初に遺伝子のデータ、次に天体のデータ、そしてまたタンパク質のデータが現れるといった順序が、恣意的なものに見えてしまうのではないか……。だが、作品体験を重ね、アーティストと対話する中でわかったことは、いかなるデータであれ、彼がその意味を還元し(括弧に入れ)、たんなるデータとして扱っているということだ。したがって、どういうデータがどういう順序で出てくるかは、問題ではない。むしろ、データを1次元、2次元、3次元、4次元(の射影)でグラフィックに表示する、その順序だけが問題なのだ。たしかに、あえてデータの意味には目をつぶり、膨大なデータがさまざまに表示されて流れていくプロセスに身を委ねていると、そこに一種音楽的な快感を感じ取れるようになるだろう。私としては、最初に述べた批判を撤回することなく、しかし、「datamatics」が形式的にきわめて洗練された作品となったことを認めておきたいと思う。

実のところ、2006年にこのプロジェクトが始まった頃から、「ビッグ・データ」、あるいは「マッシヴ・データ・フロー」という問題が急速に浮上してきた。人間は昔から不可解な世界の中で限られたデータを単純な理論モデル(天文学でいえばプトレマイオス・モデルなりコペルニクス・モデルなり)で解釈して世界を理解し予測・制御しようとしてきたのだが、電子情報システムの発展によって現在ではありとあらゆるデータのリアルタイムの流れがわれわれを圧倒するようになる。そして、場合によると、理論モデルで解釈するまでもなく、たんにある種のデータのトレンドをフォローし延長するだけでかなりうまく未来が予測できるようにもなってきたのだ。池上高志の言うように、そうしたマッシヴ・データ・フローの時代にあっては、単純な理論モデルで世界を理解するということ自体の意味が問われることにもなるだろう。

別の角度から言えば、「C4I」で引用されたスティーヴン・ウルフラムの『A New Kind of Science』を考えてもよい。彼は、フォン・ノイマンの自己増殖オートマトン理論の延長上で、ひとつひとつのセル(一般的な意味での細胞・升目)の次期の状態が周囲のセルの今期の状態によって決まる、その遷移規則が決定論的かつ単純であっても、セルラー・オートメーションの中から複雑系と呼ばれるような予測不能な多様性をもつパターンが生じてくることを示した。とすると、刻々と姿を変える自然現象もそのようなセルラー・オートメーションとして理解できるのではないか。いや、自然現象を人間がコンピュータ・モデルで計算して理解する以前に、自然そのものがいたるところでセルラー・オートメーション=コンピューテーション(計算)を行っていると考えればいいではないか…。このラディカルな発想の転換については当然さまざまな議論があるのだが、ここではひとまず措くとして、それが池田亮司をインスパイアしたことはよく理解できる。

実際、池田亮司の「datamatics」はマッシヴ・データ・フローのリテラルな表現であり、観客はそれを理解することなくひたすらそのフローに圧倒される——そして圧倒されることから一種の崇高体験に誘われるのである。繰り返せば、私はこの作品における池田亮司の戦略に批判がないわけではない。それはあまりにストレートな剛速球であり、観客は思考の余裕もなくただ圧倒されるだけなのではないか。あるいは逆に、崇高は滑稽に転化するという法則の通り、いったんそれを説明的に見始めると、すべてがSF映画めいたつくりものに見えてくるのではないか……。しかし、それが現代のテクノサイエンティフィックな現実を敏感に反映したきわめてアクチュアルな作品であることに疑いはない。そして、いったん思考を止めてめくるめく映像と音響の奔流に身を投ずるや、それはわれわれを圧倒的なエクスタシーへと誘ってくれるだろう。

実のところ、その危険なエクスタシーにこそ池田亮司の魅力がある。思い返せば、「あいちトリエンナーレ2010」のクライマックスとなった「spectra」も、よく見るときわめて精細なレーザー光線の糸で織り上げられたもので、ナチス党大会のためのアルベルト・シュペーアの光の列柱などとは比較にならないのだが、単純な論理を究極まで突き詰めたところに出てくるストレートな力が大衆をダイレクトにつかむ、その一種のポピュリズムにおいて、両者に共通する部分があることも認めておかなければならないだろう。もちろん、アーティストはそのことをはっきりと意識し、その上で危険なゲームを続ける。繰り返せば、そのスリリングな歩みにこそ、池田亮司の魅力があるのだ。、
なお、東京都現代美術館で始まった「アートと音楽」展(2012年10月27日-2013年2月2日)には、「datamatics」のインスタレーション・ヴァージョン(2009年の個展「+/-」のときに収蔵された「data.matrix [no1-10] 」)が含まれていて、コンサートではシークエンシャルに提示される10の要素が同時に10の映像として提示される。コンサートのエクスタシーは感じられない半面、「datamatics」をあくまでクールな目で見直すには絶好のセッティングと言えるだろう。コンサートに圧倒された観客も、このインスタレーションを見ながらチル・アウトし、もういちどその意味を考え直してみるといいのではないか。
他方、東京での「datamatics」コンサートの会場となったwwwでは、その後、10月27日深夜(というか28日早朝)に池田亮司の「Test Pattern」のライヴが行われた。TVのテスト・パターンから発想されたこの作品には、やはりインスタレーション・ヴァージョンもあって(日本では2008年に山口情報芸術センターで展示された)、きわめてクールな雰囲気なのだが、ライヴは一転して素敵に凶暴な目つぶし/耳つぶし攻撃とも言うべきもので、クラブに行くときは脳の思考回路の大半をシャット・ダウンすることにしている私も、立錐の余地もないフロアで大いに楽しむことができた。さらに、「音楽とアート」展に際して来日したカールステン・ニコライとの共同プロジェクト「cyclo.」のライヴも行われ、位相メーターのリサジュー図形をそのままグラフィックな形態として鑑賞する、あるいは面白い形態から逆に音を生成するといった、一種マッド・サイエンス的とも言えるプロジェクトの、もっともスリリングな部分を、コンパクトに凝縮して楽しむことができた。このプロジェクトについては京都造形芸術大学でも2010年に池田亮司とカールステン・ニコライを招いてレクチャー・コンサートを開催したことがあり、2011年には大部の本(”cyclo.id”, Gestalten)も刊行されているのだが、そういう頭脳的な側面と同時に、クラブで観客の身体を直接とらえて踊らせる力がある、そこが池田亮司やカールステン・ニコライの魅力だろう。

池田亮司の2012年秋の京都・東京公演は、こうして終わった。なお、京都ではコンサートの翌日に同じ会場で公開講座も開催され、ここで触れた問題やその他の問題をフランクに語り合うことができたし、11月にパリのポンピドー・センターで初演される新作パフォーマンス「superposition」の話も聞くことができた。このタイトルは、とくに量子力学的な波の重ね合わせを意味しており、作品自体も、量子計算の世界へのアーティスティックなアプローチとして構成される。単純な1と0からすべてが構成されるというビットの世界を表現の舞台としてきた池田亮司が、qビット(量子ビット)の世界に何を見出すことになるのだろうか。この新作も2013年10月下旬に京都で上演される予定であり、今から楽しみでならない。
最後にカールステン・ニコライについても付け加えておけば、10月28日には東京都現代美術館で(alvar noto名義による)「univrs」のライヴが開催され、途中から坂本龍一も加わって、どちらかといえば静謐な展覧会の作品とは対照的に、これまたとびきりパワフルなパフォーマンスが展開された。その場で鳴っている音を波に分解した図が映像で示され、さまざまな波の合成から世界が出来上がる——あるいはまた、さまざまな文字の組み合わせから社会が出来上がるという単純な論理が、子どもの教科書のようにカラフルな、しかしめくるめく速度で疾走する映像によって示されると同時に、いかにもドイツ的と言うほかない重低音を効かせたパワフルな音響によってホールを満たす。他方、坂本龍一は金属を叩く音のようなアナログなノイズによってそこに介入し、剥き出しのリズムに近いところまで還元されたデジタルな音響とともに、スリリングなサウンドスケープを現出した。この二人のコラボレーションには「Insen」のような美しく洗練された作品もあるのだが、こういう暴力的な爆音ライヴもたまには悪くない。それに接する機会を与えてくれただけで、「音楽とアート」展が開かれた価値はあった——といえば他のアーティストたちに失礼だろうか。この展覧会自体については、また稿を改めて触れることにしよう。