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アートと音楽
浅田 彰

2012.10.26
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東京都現代美術館で「アートと音楽」展が始まった(2012年10月27日-2013年2月3日)。坂本龍一を「総合アドバイザー」に招き、新たな共感覚(とくに視覚と聴覚の響き合い)の発見をひとつのテーマとして、20組のアーティストの作品を集めたグループ展だ。

最初に言っておかなければならないが、この展覧会に最先端のシャープな表現の一貫した展示を期待するなら、失望するかもしれない。部外者なので詳しい事情はわからないが、展覧会の企画と準備はどちらかといえば拙速に行われたように見受けられる。たとえば「共感覚」というテーマにしても、カンディンスキーらの小品がおざなりに展示されているだけで、現代の作品まで一貫してこのテーマのもとに集められたとは思えない。さらに問題なのは、21世紀のいまも美術館というとやはりまずは絵画や彫刻を持ってきて展示する場所ということなのか、技術的サポートが十分とは言えず、おそらくはそのせいで詰めの甘い作品や展示が散見されることだ。

しかし、少なくとも「総合アドバイザー」の坂本龍一はもはや「最先端の表現」などに関心をもっていない。「私たちはもう一度、現代のアートを外界そして自然にさらす必要がある」という、カタログの帯に引かれた言葉が示すように、彼が目指すのは、狭いアート・ワールドの中でひたすら前進を続けてきたモダニズムのアートを相対化し、揺らぎながらたゆたう自然(内なる自然としての自己の身体も含め)に向かって開いてやることなのだ。

坂本龍一自身の作品がそのことをよく示している。そのひとつ、オノセイゲンおよび高谷史郎とのコラボレーションによる「silence spins」は、新しい吸音/遮音材でいわば抽象化された茶室をつくったもので、観客はそこで沈黙に耳を傾けるよう誘われる(以前、彼を大徳寺真珠庵庭玉軒——たまたまこの秋に特別公開される——に案内したとき、茶室の中で聞いた時ならぬ驟雨の音がことのほか印象的だったらしい)。そして、もうひとつ、高谷史郎とのコラボレーションによる「collapsed」は、かつてオペラ「LIFE」のために特注されたミニマルなデザインのMIDIピアノ2台が間歇的に音を投げかけ合う作品だ。それは、プラトン、イェイツ、そしてダニエル・クィンの対話仕立てのテクストを一定のアルゴリズムによって音に変換したもので、それらのテクストは同時にレーザーによって周囲の壁に投影される。そのレーザーの字が読みにくいためか、会場を中途半端な薄明が満たしている、そこは改善の余地があると思われるが、本物のピアノが奏でる複雑なニュアンスをもった音を間近に聴くのはやはり得難い体験だし、2台のピアノがそうやって人間と関係なしに音で対話を続ける様子は不思議に印象的だ。
この薄明を抜けて明るい吹き抜けに進むと、そこには119台ものポータブル・レコード・プレーヤー、プリペアード・ピアノやドラム、スピーカーやMP3プレーヤー、そして意味不明なオブジェなどから成る大友良英リミテッド・アンンサンブルズの作品が展開され、そこここで不可思議な音を立てている。コンセプトはジョン・ケージ直系だし(生誕100周年記念イヴェントの中でもこれは注目すべき例のひとつだろう)、この作品自体、山口情報芸術センターをはじめすでに何ヶ所かで披露されてきたものではあるが、思いきり丈の高い吹き抜けが舞台なので、音が拡散する半面、高い天井から吊った仕掛けなどが効果を上げて、インスタレーションとしては非常に面白いものとなった。

その次に来るのは、一転、きわめてシャープで隙のない作品だ。池田亮司が「datamatics」プロジェクトのインスタレーションとして制作した「data.matrix」(2006-2009)——膨大なデータの流れをそれ自体オーディオヴィジュアルな作品として提示する試みである。展覧会のテーマと直接には関係ないが、直前に見直す機会のあった「datamatics」ライヴの圧倒的な映像と音響の流れを、今度は同時に投影される10の映像を通して分析的にとらえかえすという意味で、タイムリーな展示と言えるだろう。
他方、池田亮司の僚友でもあるカールステン・ニコライは、やはり科学実験に基づくものであっても、展覧会のテーマにより近い作品を展示している。さまざまな周波数の振動がミルクの表面に描く波紋をとらえた「ミルク 10Hz」から「ミルク 110 Hz」にいたる作品は、静謐な美しさを湛えながらも秩序と無秩序の狭間を示して興味深く、実際に水面に二つの励振器を接触させ、そこから生ずる波の干渉を大きく投影する「干渉の部屋」は、単純な理科の実験のようでありながら、変幻するパターンは見飽きることがない。

次のコーナーにはレコード盤からインスパイアされた二人のアーティストの作品がある。八木良太の「Vinyl」は、冷蔵庫に収められた氷のレコード盤を取り出してプレーヤーにかけるもので、アイディアは単純だが、氷が解けるまでの数分間、そこに刻まれた音楽に耳を傾けるのは、不思議に感動的な体験だ。他方、バルトロメウス・トラウベックの作品は、木の年輪をレコード盤の溝に見立ててそこから音を読み取っていくもので、変換規則のせいで響きが調性を感じさせる部分が多いのは問題だが、それでも聴く者をはっとさせる瞬間があるし、なにより「Ears」ならぬ「Years」というタイトルの示すコンセプトが秀逸だ。

その次のコーナーのフロリアン・ヘッカーは池田亮司らと同じく無機的な音響に戻り、3チャンネル(高・中・低、正面・右・左)のサウンドスケープを形成してみせる。その論理はよくわからなかったが、マイヤーの小型スピーカーからミニマルな音響が響いて単純なようでありながらそれなりに複雑なサウンドスケープをつくる、その中を目を閉じてさまよう(空いていればの話だが)のはなかなかスリリングな体験だった。ちなみに、ここで使われている音響の原型はCD「Speculative Solution」(mego 118)に収められたもので、CDケースにいくつかの小さな金属玉(ビリヤードのメタファー?)とともに封入されたブックレットにはロビン・マッケイの「これはこれ」、カンタン・メイヤスーの「形而上学とエクストロ-サイエンス・フィクション」、そしてエリー・アヤシュの「リアルな未来」が掲載されているのだが(*注)、その邦訳が展示室に置かれている——「最新流行理論」を安易に援用するのはどうかと思うし、観客が音を聴くと同時にこれらのエッセーを音読することで初めて作品を構成する要素が一つに統合されるという作家の意図にも疑問を感じるが。
繰り返せば、この展覧会に最先端のシャープな表現の一貫した展示を期待するなら、失望するかもしれない。しかし、こうして一端を見てきただけでも、それが多様な音の世界を体ごと体験できる貴重な機会であることがわかるだろう。

さらに付け加えれば、常設展に入ったところにある藤本由紀夫(「アートと音楽」展に入っていて当然の作家のひとり)の「Ears with Chair」(1990/2001)は、長いパイプを両耳に当ててみるだけで周囲のサウンドスケープが一変して聞こえる、すでに古典的と言っていい傑作で、とくに東京都現代美術館のヴァージョンでは倉俣史朗の金網の椅子に座ることができる。まだ体験していない人はぜひこの機会に試してみるべきだ。
また、現在の常設展では藤本由紀夫に学んだ八木良太の「Lento-Presto(Corridor)」(京都造形芸術大学の人間館4階廊下で撮影された)も展示されていることを付け加えておく。

他方、「アートと音楽」展にちなんだパフォーマンスについては、このブログの10月20・21・28日の項で取り上げている。

坂本龍一は、この後も、2013年に山口情報芸術センターの10周年記念祭、2014年に札幌国際芸術祭のディレクターを務める予定だ。今回の展覧会で提示されたさまざまな試みが、試行錯誤をへていっそう多様化されると同時に突き詰められていくことを期待しよう。

 
(*注)

ロビン・マッケイは、アラン・バディウの英訳者であり、言語論的転回[→ポストモダン相対主義]への揺り戻しとして近年世界的に(私見では過度に)注目される思弁的転回 speculative turn の舞台である『Collapse』の founding editor でもある。
カンタン・メイヤスーは思弁的転回を代表する哲学者。過去に書いたレビュー(2011年9月26日)でも彼のマラルメ論を取り上げている。

エリー・アヤシュは金融エンジニアで、同じレバノン生まれのナシーム・タレブのベスト・セラー『The Black Swan』をもじった『The Blank Swan』では金融工学を論じつつバディウやメイヤスーを引いている。