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『イミテーション・ゲーム』の余白に
浅田 彰

2015.03.14
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「フォン・ノイマンやその他の連中ってのは実に先駆的だったと思いますね。コンピュータを作るということ。それを使って非線形現象やなんかを調べていくということ。この二点を先取りしてるわけだから。
[中略]
その点でいちばんシンボリックなのは[アラン・]チューリング[1912-1954]だと思うんです。まず、[19]36年の論文で、ゲーデルの不完全性定理とある意味でパラレルなことをやる。これもそれ自体きわめて現代的な意味をもつんだけれど、それを示すのに、思考過程をマシーンとテープでモデル化するという、哲学者ではない、むしろ機械工にふさわしい方法をとっていて、これがコンピュータやオートマトン理論につながっていくわけでしょう。それから、[19]52年の論文で、非線形のプロセスによって一様な空間から生物の形態みたいなものが生まれてくるという話をしている、これはまさにプリゴジーヌ[現在の表記ではプリゴジン]やなんかの理論の先駆けですよね。それもまたコンピュータ・シミュレーションともつながりうるわけだし。
[中略]
ちなみに最近チューリングの大きな伝記が出たんだけど、著者のホッジスってのは[中略]ペンローズのトウィスター理論をやってる一方で、ゲイ・リブの運動もやってて、その両方の関心から伝記を書いてるんですね。で、ニューヨークの本屋ではこの本がゲイ・カルチャーのコーナーに置いてあったりする(笑)。ともあれ、チューリングってのはオープンなホモセクシュアルだった。[19]30年代のケンブリッジのリベラルなエリート社会はそれを許容したし、戦争中の政府は彼の才能を買って暗号の解読にあたらせた——チューリングがいなかったらイギリスはドイツに降伏していたかもしれないとすら言われる程でしょう。ところが、戦後、世の中が正常化していく中で、チューリングはそこからだんだんはみ出していく。で、ある朝、ベッドで死んでいるのが見つかり、遺体から青酸カリが検出される、というわけですね。
[中略]
何にせよ、チューリングってのは、フォン・ノイマンやウィーナーに比べるとマイナーとは言え、いかにもシンボリックな存在だと思うんです。」

 
これは1985年1月3日に行なった森毅インタヴューにおける私の発言である(森毅『世話噺数理巷談』平凡社、1985年→『森毅の学問のススメ』ちくま文庫、1994年:異分野の人々との対談集を本にするにあたって、私によるインタヴューと森敦との対談を前後に置いた)。そこで話題にしたアンドリュー・ホッジスのチューリング伝(1983年)の邦訳『エニグマ』(勁草書房、2015年:エニグマとはドイツ軍の暗号の名前であると同時に、チューリングの死をめぐる「謎」をも指す)が、今は亡き森毅に報告してから30年以上たったいま、やっと刊行され始めた。チューリングを描いた映画『イミテーション・ゲーム』(モルテン・ティルドゥム監督)のおかげである。

実際、この映画はホッジスの伝記を脚色したものを台本としている(この伝記に基づく映画としてはすでに『ブレイキング・ザ・コード エニグマ』[ハーバート・ワイズ監督、1996年]がある)。たまたまTVをザッピングしていたとき、脚本家のグレアム・ムーアがアカデミー脚色賞を獲得してのスピーチを見たところ、「チューリングはこんな大舞台で喝采を浴びたことがなかった、ところがぼくはいまここに立っている、こんなにアンフェアなことはありません」と言ったあと、自らの性的志向を暗示しつつ「ぼくは自分が他のみんなと違って周囲に溶け込めないことに悩み16歳で自殺しようとした、でもいまはここに立っている、だからぼくはこの場を、自分の居場所がないと感じている子どもたちのために捧げたい。どうか他人と違ったままでいてほしい、そしていつかあなたがこの場所に立った時に同じメッセージを次世代に伝えてほしい」と続けた。ホッジスの意図の少なくとも一端は脚本家によって正しく受け継がれたと言えるだろう。

数学の才能に溢れると同時に人付き合いが苦手だった(現在の精神科医ならアスペルガー症候群を疑うだろう)チューリングが、少年時代の唯一の友人だったクリストファーという名前をつけた人工知能を唯一の伴侶とするに至るというストーリーは、いささか単純化が過ぎるけれど、いちど関係をもった男娼に盗みに入られた件で警察に呼び出されたチューリングの事情聴取(それが映画全体の枠となる)を一種のチューリング・テスト(相手が人間か人工知能かを対話によって見分ける手続き)とみなす設定は悪くないし、そうした精神障碍の方を同性愛より重視しているのは賢明な判断だろう——最終的には、当時違法だった同性愛が露呈したためチューリングは収監を避ける唯一の選択肢として薬物療法(「化学的去勢」)を受けさせられ、その過程で自殺することになるのだが。

エニグマを解読したことで戦争の勝利に大きく貢献したにもかかわらず、エニグマが解読されたことをドイツに悟られないため、ドイツに対してのみならずイギリスの政府や軍の大半にも解読の事実は(したがってまたチューリングらの貢献は)伏せられた。この映画には出てこないが、コヴェントリーが爆撃されるとわかっていながら、あえて迎撃を控え、コヴェントリーが壊滅するに任せたことは、あまりによく知られている。MI6(秘密情報部)とチューリングのチームだけが影ですべてを動かしていた——したがってまた重い罪責感を担うことになったというストーリーは誇張が過ぎるものの、チューリングの功績が秘密にされた半面、冷戦期のパラノイアゆえにチューリング宅の窃盗事件のあと警察がスパイの疑いをかけ、結局それが同性愛の露見につながるという展開は、残酷なまでに効果的ではある。

写真で見るチューリングは四角いナイーヴな顔をしているので、ベネディクト・カンバーバッチに適した役とは思えなかったのだが、さすが演技派だけあって、アスペルガー症候群を思わせるパーソナリティを見事に演じきっている。MI6を舞台とする『裏切りのサーカス』(トーマス・アルフレッドソン監督、2011年)のピーター・ギラム役(ジョン・ル・カレの原作『Tinker Tailor Soldier Spy』とは違ってゲイという設定)でもふとボーイッシュな魅力を漂わせるときがあった、それが今回もうまく生かされている。他の俳優陣や演出・撮影について特筆すべきことはないけれど、伝記映画なのだから主役が突出していればそれでよしとすべきだろう。その意味で、これはとくにすぐれた映画というわけではなく、そもそも映画でチューリングの理論を理解することも期待できないとはいえ、あらためてチューリングに注目し、ホッジスの伝記を初めとする文献を読むきっかけになるとすれば、歓迎すべきことだと思う。

『イミテーション・ゲーム』
(C)2014 BBP IMITATION, LLC




たまたま今年のアカデミー賞では、もうひとつ、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患いながらブラック・ホールの研究を続けたスティーヴン・ホーキングを主人公とする『博士と彼女のセオリー』(ジェームズ・マーシュ監督)も作品賞候補となり、ホーキング役にはキュートすぎるにもかかわらず役作りのため骨格まで変えたかと思われる見事な演技を見せたエディ・レッドメインが主演男優賞を獲得した。原題は『The Theory of Everything』——すべての物事を説明する究極の理論——だが、この映画に限っては邦題の方が内容にふさわしいだろう。すべてがそこに吸い込まれるブラック・ホールが話題になるとはいえ(ちなみにそこでホーキングをインスパイアしたのがロジャー・ペンローズであり、ホーキングの博士論文の審査のシーンでは指導教官のほかペンローズとキップ・ソーン[クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』の監修者]も登場するが、ペンローズが後に展開することになるのがホッジスの研究分野であるトウィスター理論である)、事あるごとに渦巻き状の形象を強調してそれを暗示するのは安易すぎる。また、不可逆的に重症化するALSを患ったホーキングが時間の流れを研究対象にするというのはいいのだが、とくに最後の方でフィルムを逆回しにして時間の反転を示すところもまた安易すぎる。他に仕方のないこととはいえ、ホーキングの理論は曖昧なイメージで説明されるにとどまり、映画そのものはホーキングと妻やヘルパーたちとの人間関係に焦点を当てて展開されるのだ。ホーキングはALSを発症した後に結婚して3児を成すが、結局、離婚することになる。障碍者をめぐる美談にとどまらないところは好感が持てるものの、主人公が天才的科学者でなかったなら映画として成り立たないだろう。総じて、映画としては中途半端と言わざるを得ない。

チューリングの伝記映画と比較するなら、むしろ、ナッシュの生涯を描いた『ビューティフル・マインド』(ロン・ハワード監督、2001年)だろう。ジョン・ナッシュ(1928年生)はラインハルト・ゼルテン、ジョン・ハーサニとともにゲーム理論に関する功績で1994年にノーベル経済学賞を受賞したが、その生涯は、チューリング、あるいはホーキングのそれに勝るとも劣らぬ困難に満ちたものだったのである。

あまり知られていないことだが、ゲーム理論が生まれるきっかけになったのは、カール・メンガー(Karl Menger)——ジェヴォンズやワルラスとともに限界革命(微分による最適化の導入)によって近代経済学を樹立したカール・メンガー(Carl Menger)の息子——がウィーンで主催していた数学コロキウムである。そこにはチューリングに関連して名前を挙げたクルト・ゲーデルも参加していた。ウィーンの住人ではなかったジョン・フォン・ノイマンも何度か参加し、経済学者のオスカー・モルゲンシュテルンと出会う。その出会いからゲーム理論が生まれ、アメリカへの亡命後、『ゲームの理論と経済行動』(1944年)という共著にまとめられるのである。その次の大きなステップが、非協力ゲームの「ナッシュ均衡」や交渉ゲームの「ナッシュ解」に名前を残すナッシュの業績(1950年から1953年にかけて公刊)だった(気になる読者のために一言だけ言っておけば、ゲームはプレイに先立つコミュニケーションと拘束力のある合意の有/無で協力ゲーム/非協力ゲームに分かれ、交渉ゲームは協力ゲームの一種である)。

実のところ、大数学者フォン・ノイマンにとってそうだったように、ナッシュにとってもゲーム理論は小手調べに過ぎず、本来の関心は純粋数学、とくにリーマン多様体の微分幾何学であり、いくつかの重要な論文を発表している。だが、その研究が大成される前に、彼は統合失調症に冒されてしまうのだ。取り組んでいたリーマン予想の証明の困難が引き金になったとも言われるが、真偽のほどはわからない。ゲーム理論で博士号を取得してから、アメリカ軍がシンク・タンクとして設立したランド・コーポレーションの研究員を務めるのだが、ある事件で逮捕されたことをきっかけにその職を失った、そのときのストレスが発病のきっかけになったという説の方が具体的で説得力があるのではないか。

映画は、ナッシュの発病の背景となった冷戦期のパラノイア(すべてがソ連の陰謀ではないか、云々)や、彼の受けた電気ショック療法の残酷さを、かなりヴィヴィッドに再現している。ゲイ・リブの闘士なら、伝記作家の指摘する同性愛的傾向に触れられていないのはおかしいと言うかもしれないが、一本の映画にすべてを盛り込むことは可能でも必要でもないだろう。ともあれ、ナッシュは入退院を繰り返した末、1970年代になって回復の兆しを見せ始め、いまもプリンストン大学で研究を続けている。注目に値するのは、映画がそれを完全な治癒として描いてはいないということだ。ナッシュを苦しめた幻覚上の人物たちは決して消え去ることがなく、ノーベル賞の授賞式にもついてくる。ただ、ナッシュはもはや彼らに怯えたりはしない。幻覚から自由になるかわりに、彼は幻覚と共存していくことを覚えたのだ……。



こうして見てくると、科学者の伝記を映画化するというのがいかに難しいことかがわかる。『イミテーション・ゲーム』はかなり健闘していると言っていいだろうが、まだ十分ではない。結局、映画は、科学者の生涯——愛や家庭生活、あるいは病いを描くことはできても、科学そのものを描くことはほとんどできないのだ。

たとえば、昨年亡くなった最も重要な人物のひとりとも言われる数学者アレクサンドル・グロタンディーク(1928-2014)の伝記映画を撮ることができるだろうか。ユダヤ系の孤児としてフランスで辛うじて戦争を生き延びたグロタンディークは、戦後、数学者としてめきめきと頭角を現し、ブルバキ(数学における構造主義を代表するグループ)を継承する存在として代数幾何学の全面的な再構築を進めて、1966年にフィールズ賞を受賞する。しかも、当時はあまりの抽象性・一般性ゆえにほとんど理解されず「ジェネラル・ノンセンス」と言われたその理論が、近年になって数学のみならず物理学にも新たな可能性を開くものとしてさまざまな面で注目されているのだ。ところが、彼自身は1960年代後半から過激な反戦運動・エコロジー運動に身を投じ、1970年代に入ると軍産複合体と関係のある大学や研究所との一切の関係を断って南仏の田舎に隠棲してしまうのである。ある意味で波乱万丈のその生涯を、しかし、いわゆる人間ドラマとして映画化することができるだろうか——しかも、私のような非専門家でもチューリングの業績をある程度は理解し解説することができるが、グロタンディークとなるとその業績のほんの一端でもとても理解できないというのに。

観客は科学者の伝記映画で彼らもやはり悩みを抱えた人間であると知って安心し、彼らの理論についてある種のイメージを描けたような気分になる。しかし、それはきわめて表面的な理解でしかない。科学はイメージの領域を超えたシンボル(数学の記号のような)の領域に属すると同時に、それにもかかわらず不思議にも(ユージン・ウィグナーがエッセー「自然科学における数学の不合理な有効性」で言う「不合理性」をもって)リアルなものの領域に直結するものでもあるのだ。いかなるイメージもそれをとらえることはできない。

 
(後記)
ブログ欄の隣人である石谷治寛から、ベネディクト・カンバーバッチの主演映画では、ビル・コンドン監督『フィフス・エステート』(2013年)もけっこういいのではないか、と示唆されたので、遅まきながらヴィデオを見てみた(日本では劇場公開されていない)。立法・行政・司法の三権に加え、マス・メディアが「第四の権力」と呼ばれてきたが、いまやコンピュータ・ネットワークとハッカーが「第五の権力(the Fifth Estate)」となった、というのがタイトルの意味で、史上最大の内部告発サイトとして名高いウィキリークスを描いている。ということは絵になりにくい対象に取り組んでいるということで、現に映画として成功しているとは言い難いが、ウィキリークス——それが暗号(サイファー)で情報のアナーキーを実現しようとするサイファーパンクのアンダーグランド・カルチャーから発生し、世界を揺るがす一連の情報暴露事件を起こすにいたるまで——をそれなりにうまく描いているし、カンバーバッチがウィキリークスの創設者であるジュリアン・アサンジュを見事に演じていて、一見の価値はあるだろう。ストイックなランナーでもあったチューリングと、天才肌でありながら社会性に欠ける一匹狼のギーク(ITおたく)のアサンジュ——共通点を持ちながらも対極的なパーソナリティといっていいこの二人をこれだけうまく演じ分けるのだから、名優と言われるだけのことはある。そこで描かれるのは、つまるところ、不幸な幼年期を送ったナルシシストの肖像なのだが、カンバーバッチ演ずるアサンジュが、この映画の元になった2冊の本、そしてそれに基づく映画——つまりこの映画を批判して終わるところも、うまい構成と言えるだろう。