高橋悠治の現在――簡潔な線、透明な響き
浅田 彰
2015.04.11
この2月と4月、高橋悠治(1938-)が東京と京都でフクシマとチェルノブイリに関係する新作を発表した——というのはミスリーディングな誇張で、後者《苦艾(ニガヨモギ)》とチェルノブイリの関係はインプリシットなものでしかない。ともあれ、それらはいずれも非常に興味深いコンサートだった。ここでは、批評家めいたことを言う前に、コンサートの内容を覚え書きにまとめておきたい。
*
2月26日に東京の浜離宮朝日ホールで開かれた高橋悠治のピアノ・リサイタルでテーマとして掲げられていたのは
簡潔な線 透明な響き
Gesualdo Bach Haydn Wolff
見えないフクシマのための沈黙の音
というもの。実際、それにふさわしい内容だったが、まずは順に見ていこう。
J.S.バッハ (1685-1750) : 《フランス組曲》 第5番 BWV.816 (1725) 作曲や演奏のレッスンとして書かれた曲を、仲間の作曲家が楽譜と首っぴきで試し弾きしている感じ。揺れるリズムや自由な装飾音が面白い。ガヴォットやブレではちょっとふらつく場面も見られたものの、その後は独特のリズム感で音楽に新鮮な生命を与えながら走り抜ける。
F.J. ハイドン(1732-1809): 《ソナタ》 ハ長調 Hob.XVI/50, L.60 (1794) ハイドンの最後から3曲目のソナタ。やはり、開発途上だったフォルテピアノ(現在のピアノの前身)による作曲と演奏の実験としてとらえ、それを試し弾きする感じ。フォルテピアノのややドライな響きを連想させる半面、ダンパー・ペダルを使って大きく響かせるところも。
カルロ・ジェズアルド(1560-1613): Canzon francese del Principe(王のフランスの歌) W.10 No.16 ジェズアルドの器楽曲(鍵盤楽曲)のうち唯一知られているもの(ただし未刊の作品がたくさんあるらしい)。一見簡潔ながら不思議な和声の連なり。その合間に32分音符や64分音符の装飾音が素早く自由な曲線を描いてゆく。文字通りマニエラ(手つき・手くせ)を生かしたそのマニエリスティックな表現が見事。
クリスチャン・ウォルフ(1934-): Pianist: Pieces (2001) クセナキスを追悼し、とくに《シナファイ》(高橋悠治が初演)を意識して作曲され、高橋アキに献呈された五つの小品。(ちなみに、前に左手首を骨折したことのある高橋アキは、最近また右手首を骨折して包帯姿で会場に姿を見せた。素晴らしいピアニストなのだから、くれぐれも注意してもらいたい。)
(休憩)
高橋悠治《海からの黙示(Revelation from the Sea)》(2012-14)(映像:富山妙子) 昔からコラボレーションを重ねてきた富山妙子がフクシマをめぐって描いた絵をいわば紙芝居的に映像化したものがスクリーンに投影され、高橋悠治が簡潔なピアノの音楽をつけてゆく(DVDのためにつくられた音楽がライヴで演奏された)。
「震」「曝」「風」「滅」「雷」「蝶」という構成。そのタイトルくらいならいいとしても、「見えるもの」「見えないもの」といった画家の言葉がそのまま画面に映し出されると過度に説明的に見えてしまう。絵そのものはいいとして、四天王や風神雷神などの古い像の写真をそのまま引用するのもいささか安易では?
ちなみに、最後の「蝶」では、放射線によって変異した蝶をテーマに、ゲーテが光にひかれて焼かれる蝶または蛾(Schmetterling)を歌った『聖なるあこがれ(Selige Sehnsucht)』の一節「Stirb und werde(死して成れ)」とグリーグの《蝶》(抒情小曲集 3-1)が引用される。
以上のごとく、とくに映像はちょっと説明的になりすぎたところが気になるものの、音楽は無駄を削ぎ落として短い簡潔な線をつないでゆく最近のスタイルでよく聴くと素晴らしいし、そもそも手の込んだ映像作品にするのではなくあえて電気紙芝居のようなスタイルをとるというのが水牛楽団の精神にはふさわしいのかもしれないとも思う。
J.S.バッハ:《フランス組曲》第2番 BWV.813 (1722) 最初に弾かれた第5番と似たアプローチ。
(アンコール)
グリーグ:《蝶》 予想以上にダイナミックな演奏で素晴らしかった。
総じて、ピアニストのヴィルトゥオジテ(名技)を楽しむのではなく、作曲家がピアノに向かって試行錯誤する(過去の作曲家の試行錯誤をなぞってみることも含めて)、その現場に立ち会うかのような、いわばクリエイティヴな臨場感に溢れるコンサートだった。
*
続いて4月11日に京都コンサートホールで高橋悠治の新作《苦艾》を含む京都フィルハーモニー室内合奏団のコンサートが開かれた。新作は私の聴いた中ではここ数年でも最も素晴らしいものだったが、他の作品も想像以上に面白かったので、やはり順に見ていこう。
黛敏郎(1929-1997)《10楽器のためのディヴェルティメント》(1948) 19歳の作曲家が東京音楽学校(現・東京藝術大学)の卒業作品として作曲したもの。なんと、10歳か11歳の高橋悠治は親に連れられてその演奏会(おそらく1949年)に行っており、同時に演奏された矢代秋雄の卒業作品とのコントラストが印象に残っているという。
「ディヴェルティメント」は「気散じ」「気晴らし」という意味で、音楽の領域では普通「喜遊曲」と訳されるが、タイトルにふさわしく、ラヴェルや6人組、そしてガーシュインやコープランドなどを思わせる洒落た多彩な音楽で、映画音楽的なところもある(黛は在学中からジャズ・バンドでもピアノを弾き、1951年には木下恵介監督『カルメン故郷に帰る』で主題歌を作曲している)。敗戦後3年目に19歳の若者が書いたとはとても思えない。ピアノが独奏かつ伴奏として音楽を支えるので全体の構造は単純だが、第2楽章でピアノの伴奏に乗って管楽器が次々にメロディを奏でるところ(ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章を意識したか)のアイロニーを含んだエレガンスなどはなかなかのもの。10年後に、声明のような合唱を取り入れ、梵鐘の音をスペクトル解析してオーケストラで再現した代表作《涅槃交響曲》(1958年)を書くことになる若き作曲家の、記念すべき出発点ということになる。
水野修孝(1934-)《ヴィオラと弦楽オーケストラのための協奏曲》(2014:改訂版) 多種多様な音楽を融合した大作《交響的変容》(1961-87)で知られる作曲家も、初期は集団即興演奏などの実験を行なっており、1961年頃に高橋悠治もそれに加わったことがあるという。水野の回想では、演奏が終わったとき高橋の手は血だらけだったらしい。今回はそれから半世紀以上たっての邂逅ということになる。
演奏されたのは比較的シンプルな3楽章の作品で、第3楽章のミニマル・ミュージック風の部分などはなかなか魅力的だったが、新古典派的、そして多少映画音楽的な響きを聴いていると、黛敏郎の出発点に近い所に戻っているような気がしなくもない。
ハンス・アイスラー(1898-1962)《室内交響曲(15楽器のための)》(1940) ベルクやヴェーベルンと並ぶシェーンベルクの高弟でありながら、ブレヒトらに接近してザッハリッヒな左翼プロパガンダ芸術へ転進したアイスラーが、亡命先のアメリカで書いた作品で、元は大自然を描くドキュメンタリー映画『ホワイト・フラッド』の音楽として作曲された。師の2曲の《室内交響曲》は傑作として有名であり、それを意識してかアイスラーもそこここで密度の高い音楽を聴かせる。他方、楽器編成はノヴァコード(1937年に発表された最古のシンセサイザー)とエレクトリック・ピアノを含んでおり、今回はモーグ・シンセサイザーとピアノで代用されたが、シンセサイザーの音量が大きく一本調子に過ぎて音楽のバランスを損ねていたのは残念である(ちなみに、ヒッチコック監督『白い恐怖』(1945)では電子楽器テルミンが使われており、そこまで行く前段階と言えるかもしれない)。
高橋悠治(1938-)《苦艾》(2015) 久しぶりの交響作品。5年前の《大阪1694年》(注1)は、この年(元禄7年)南御堂で死ぬまでに芭蕉が大坂で詠んだ14句の俳句を読み(初演では指揮者の沼尻竜典が担当)、それぞれの句に続けて短い音楽が演奏される構成だった。
今回の《苦艾》は、馬場駿吉(俳句のほか美術批評でも知られ、名古屋ボストン美術館の館長を務める。耳鼻咽喉科の権威でもある)が、志村ふくみによる苦艾染めの紬の着物(ステージに展示された)を見て、妖しい緑色のアプサンに香りをつける苦艾が爽やかな薄緑色の衣になっている、その魔性と聖性の転換に打たれて詠んだ独吟半歌仙『苦艾』をテクストとしている(ニガヨモギ[Artemisia absinthium]の近縁種のオウシュウヨモギ[Artemisia vulgaris]はウクライナ語でチョルノブイリ。原発事故で有名になったチョルノブイリ[ロシア語でチェルノブイリ]は付近に自生するこの草が地名のもとになった。作曲家がそれを意識しなかったはずはないが、直接には言及されていない)。長句(5・7・5)と短句(7・7)を36句にわたってリレーしていくのが歌仙(本来は2人以上で巻くが1人だと独吟)、半歌仙だから18句で、それが詠まれる前後と合間に19の短い音楽が入ることになる。
今回は能楽師の片山九郎右衛門が能装束で登場、演奏者たちのまわりを歩きながら能の謡のような朗詠を聴かせた。さすがによく通る声で、印象的ではあったのだが、あまりにも能の謡に近くて、5・7・5・7・7のリズムがわかりにくくなったりするところは、問題なしとしない(注2)。今後、少し違ったスタイルを試みてもいいのではないか。
とはいえ、これは小さな問題であり、音楽そのものは実に素晴らしいものだった。連句の精神に倣って、音楽も前の句に「付ける」、そして「転ずる」という操作を繰り返してゆく。個々の曲の中でも、個々の楽器が互いに音形をなぞったり反転したりしながらリレーしてゆく。広い意味では対位法的と言ってもいい。ただ、バッハからシェーンベルク(そしてアイスラー)にいたる西洋音楽の対位法が構成を緊密化させストレッタでクライマックスを盛り上げて終止に至るのに対し、ここでの対位法は、短くシンプルな音形と余白の多い構成によって、もっと自由でフレキシブルな展開を見せる。それは、緊張をへて統一に向かう弁証法的な対位法ではなく、多様なものを多様なままに遊ばせる対位法、自然科学の用語を意図的に誤用すれば「散逸構造」とでも言うべきものを生み出す対位法なのである。そこに立ち上がるのは、風通しのいい、多様でありながらどこまでも透明な音楽——まさしく東京でのコンサートのテーマに謳われていた「簡潔な線 透明な響き」だ。
このような志向の音楽は近年のソロあるいは小編成の作品でも聴くことができたし、オーケストラのための《大阪1694年》も似たような書法によってはいるのだが、オーケストラならではのダイナミックな響き、とくにグリッサンドなどが印象的だった半面、大人数(大阪初演のときは57人)になるとどうしても、個々の楽器が自律性を保ちながら互いに呼応しあって進んでゆくこと(ドゥルーズ&ガタリの用語を使えばモル的な集団ではなく分子的な群れとして動いてゆくこと)が難しくなる。その点、今回の室内オーケストラ(弦4+管7+打楽器1)という編成は作曲家の意図に最も適していたのではないか。12人の奏者ができるだけ広く合間をとってバラバラに配置され、互いに音楽の断片を受け渡したり投げ返したりしてゆく。その間を「読み人」の能役者がゆっくりと巡回し、音楽の合間に連句を読んでゆく。それによって、余白の多い面の上で短くシンプルな曲線が呼応しあうような音楽が立ち上がるのだ。
序奏に続き、
爽やかに着て苦艾染の衣(きぬ)
で始まり、第5句
星涼し時間光を追い越せず
のあと打楽器が加わってややスケルツォ的な展開を見せる。第13句
友逝きて歩道も荒野冬の月
でメランコリーを帯びたスタティックな音の風景が描かれたあと、
戯画の獣に冬眠ありや
と転じたところでコントラバスとバリトン・サックスがややコミカルな掛け合いを聞かせるのも面白い。その後、
遥かなり前足が手となりたる日
夢の余白に瀬音がかすか
一瞬も永遠のうち飛花落花
時空の糸を織りなして春
と続く終盤、音楽は熱く盛り上がることなくしかもテンションを増し、聴衆に静かな感動を——そして傑作の初演に立ち会えたという喜ばしい確信を与えた。
齊藤一郎指揮の京都フィルハーモニー室内合奏団は、黛作品などでも生き生きした多彩な音楽を聴かせてくれたが、とくに《苦艾》の演奏は自発性に溢れた見事なものだったことを強調しておきたい。実のところ、俳句を趣味とする齊藤一郎は《大阪1694年》を指揮したことがあり、そこから、俳句の師である馬場駿吉の作品に高橋悠治が作曲するという構想を思いついた。黛敏郎の初期作品と高橋悠治の「late style(後期様式・晩年様式)」の作品を最初と最後に置き、アイスラーの室内交響曲と高橋の室内交響曲(《苦艾》をそう呼んでもおかしくない)を対比させるというプログラムも、いろいろな意味で興味深い。指揮者と演奏者たちの積極的な挑戦は高い評価に値するだろう。
客席には、高橋悠治の鎌倉での中学時代からの友人である青木昌彦(1960年安保闘争にいたる時期に共産主義者同盟[ブント]の理論家として勇名を馳せ、アメリカ留学後は主流派経済学を枠内から組み替える方向に転じて、国際経済学協会[International Economic Association ]会長も務めた。京都大学で教えを受けたにもかかわらず経済学を途中放棄した私は不肖の弟子ということになる)も白髪をなびかせたダンディな姿を見せた。首都ではなかなか会う機会のない人たちが京都でふと出会うことがよくある、そんな意味でもいかにも京都らしい、豊かな一時だった。
—
注1
suigyu のウェッブサイトから《大阪1694年》の楽譜をダウンロードできるが、作曲家の文章は《苦艾》と共通する部分も多いので(いずれもひとつの断片が見開き2頁に記譜されている)、ここに引用しておく。
「(前略)楽譜にはテンポ、小節線、拍、強弱、フレージングは書かれていない。演奏者はききあいながら、自律的に音楽を作り、指揮者はその調整と進行を司る。したがって、スコアとパーツの区別はなく、全員がおなじ楽譜を見て演奏する。芭蕉の連句衆の座のように、平等な創造の空間でありたい。(中略)
困難な状況のなかで委嘱してくれた大阪センチュリー交響楽団が自立して音楽を続けるために、そして大阪にかつて栄えた文化伝統の記憶のために、あえて実験的な書法を試みた。生きるのも、音楽を続けるのも、いまこの場での実験の継続にかかっているだろう。(高橋悠治)」
そもそも高橋悠治はもうオーケストラのために作曲することはないと言っていたのだが、橋下徹大阪府知事(当時)の予算削減の対象となって補助金を大幅にカットされ2011年度からは完全に打ち切られることになって存続の危機に立っていた大阪センチュリー交響楽団(現・日本センチュリー交響楽団)からの依頼なのであえて引き受けたのかもしれない。
注2
そもそも、和歌や俳句、そして連句の朗詠が本来いかなるものかというのは、実は難しい問題だ。現代人はしばしば
●●●●●○○○
●●●●●●●○
●●●●●○○○
●●●●●●●○
●●●●●●●○
(○は休符。2行目と4行目は○●●●●●●となる場合も)
と読んでしまうが、これは西洋音楽の規則的な拍子の取り方に引きずられており、本来のリズムとは違う。
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2月26日に東京の浜離宮朝日ホールで開かれた高橋悠治のピアノ・リサイタルでテーマとして掲げられていたのは
簡潔な線 透明な響き
Gesualdo Bach Haydn Wolff
見えないフクシマのための沈黙の音
というもの。実際、それにふさわしい内容だったが、まずは順に見ていこう。
J.S.バッハ (1685-1750) : 《フランス組曲》 第5番 BWV.816 (1725) 作曲や演奏のレッスンとして書かれた曲を、仲間の作曲家が楽譜と首っぴきで試し弾きしている感じ。揺れるリズムや自由な装飾音が面白い。ガヴォットやブレではちょっとふらつく場面も見られたものの、その後は独特のリズム感で音楽に新鮮な生命を与えながら走り抜ける。
F.J. ハイドン(1732-1809): 《ソナタ》 ハ長調 Hob.XVI/50, L.60 (1794) ハイドンの最後から3曲目のソナタ。やはり、開発途上だったフォルテピアノ(現在のピアノの前身)による作曲と演奏の実験としてとらえ、それを試し弾きする感じ。フォルテピアノのややドライな響きを連想させる半面、ダンパー・ペダルを使って大きく響かせるところも。
カルロ・ジェズアルド(1560-1613): Canzon francese del Principe(王のフランスの歌) W.10 No.16 ジェズアルドの器楽曲(鍵盤楽曲)のうち唯一知られているもの(ただし未刊の作品がたくさんあるらしい)。一見簡潔ながら不思議な和声の連なり。その合間に32分音符や64分音符の装飾音が素早く自由な曲線を描いてゆく。文字通りマニエラ(手つき・手くせ)を生かしたそのマニエリスティックな表現が見事。
クリスチャン・ウォルフ(1934-): Pianist: Pieces (2001) クセナキスを追悼し、とくに《シナファイ》(高橋悠治が初演)を意識して作曲され、高橋アキに献呈された五つの小品。(ちなみに、前に左手首を骨折したことのある高橋アキは、最近また右手首を骨折して包帯姿で会場に姿を見せた。素晴らしいピアニストなのだから、くれぐれも注意してもらいたい。)
(休憩)
高橋悠治《海からの黙示(Revelation from the Sea)》(2012-14)(映像:富山妙子) 昔からコラボレーションを重ねてきた富山妙子がフクシマをめぐって描いた絵をいわば紙芝居的に映像化したものがスクリーンに投影され、高橋悠治が簡潔なピアノの音楽をつけてゆく(DVDのためにつくられた音楽がライヴで演奏された)。
「震」「曝」「風」「滅」「雷」「蝶」という構成。そのタイトルくらいならいいとしても、「見えるもの」「見えないもの」といった画家の言葉がそのまま画面に映し出されると過度に説明的に見えてしまう。絵そのものはいいとして、四天王や風神雷神などの古い像の写真をそのまま引用するのもいささか安易では?
ちなみに、最後の「蝶」では、放射線によって変異した蝶をテーマに、ゲーテが光にひかれて焼かれる蝶または蛾(Schmetterling)を歌った『聖なるあこがれ(Selige Sehnsucht)』の一節「Stirb und werde(死して成れ)」とグリーグの《蝶》(抒情小曲集 3-1)が引用される。
以上のごとく、とくに映像はちょっと説明的になりすぎたところが気になるものの、音楽は無駄を削ぎ落として短い簡潔な線をつないでゆく最近のスタイルでよく聴くと素晴らしいし、そもそも手の込んだ映像作品にするのではなくあえて電気紙芝居のようなスタイルをとるというのが水牛楽団の精神にはふさわしいのかもしれないとも思う。
J.S.バッハ:《フランス組曲》第2番 BWV.813 (1722) 最初に弾かれた第5番と似たアプローチ。
(アンコール)
グリーグ:《蝶》 予想以上にダイナミックな演奏で素晴らしかった。
総じて、ピアニストのヴィルトゥオジテ(名技)を楽しむのではなく、作曲家がピアノに向かって試行錯誤する(過去の作曲家の試行錯誤をなぞってみることも含めて)、その現場に立ち会うかのような、いわばクリエイティヴな臨場感に溢れるコンサートだった。
*
続いて4月11日に京都コンサートホールで高橋悠治の新作《苦艾》を含む京都フィルハーモニー室内合奏団のコンサートが開かれた。新作は私の聴いた中ではここ数年でも最も素晴らしいものだったが、他の作品も想像以上に面白かったので、やはり順に見ていこう。
黛敏郎(1929-1997)《10楽器のためのディヴェルティメント》(1948) 19歳の作曲家が東京音楽学校(現・東京藝術大学)の卒業作品として作曲したもの。なんと、10歳か11歳の高橋悠治は親に連れられてその演奏会(おそらく1949年)に行っており、同時に演奏された矢代秋雄の卒業作品とのコントラストが印象に残っているという。
「ディヴェルティメント」は「気散じ」「気晴らし」という意味で、音楽の領域では普通「喜遊曲」と訳されるが、タイトルにふさわしく、ラヴェルや6人組、そしてガーシュインやコープランドなどを思わせる洒落た多彩な音楽で、映画音楽的なところもある(黛は在学中からジャズ・バンドでもピアノを弾き、1951年には木下恵介監督『カルメン故郷に帰る』で主題歌を作曲している)。敗戦後3年目に19歳の若者が書いたとはとても思えない。ピアノが独奏かつ伴奏として音楽を支えるので全体の構造は単純だが、第2楽章でピアノの伴奏に乗って管楽器が次々にメロディを奏でるところ(ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章を意識したか)のアイロニーを含んだエレガンスなどはなかなかのもの。10年後に、声明のような合唱を取り入れ、梵鐘の音をスペクトル解析してオーケストラで再現した代表作《涅槃交響曲》(1958年)を書くことになる若き作曲家の、記念すべき出発点ということになる。
水野修孝(1934-)《ヴィオラと弦楽オーケストラのための協奏曲》(2014:改訂版) 多種多様な音楽を融合した大作《交響的変容》(1961-87)で知られる作曲家も、初期は集団即興演奏などの実験を行なっており、1961年頃に高橋悠治もそれに加わったことがあるという。水野の回想では、演奏が終わったとき高橋の手は血だらけだったらしい。今回はそれから半世紀以上たっての邂逅ということになる。
演奏されたのは比較的シンプルな3楽章の作品で、第3楽章のミニマル・ミュージック風の部分などはなかなか魅力的だったが、新古典派的、そして多少映画音楽的な響きを聴いていると、黛敏郎の出発点に近い所に戻っているような気がしなくもない。
ハンス・アイスラー(1898-1962)《室内交響曲(15楽器のための)》(1940) ベルクやヴェーベルンと並ぶシェーンベルクの高弟でありながら、ブレヒトらに接近してザッハリッヒな左翼プロパガンダ芸術へ転進したアイスラーが、亡命先のアメリカで書いた作品で、元は大自然を描くドキュメンタリー映画『ホワイト・フラッド』の音楽として作曲された。師の2曲の《室内交響曲》は傑作として有名であり、それを意識してかアイスラーもそこここで密度の高い音楽を聴かせる。他方、楽器編成はノヴァコード(1937年に発表された最古のシンセサイザー)とエレクトリック・ピアノを含んでおり、今回はモーグ・シンセサイザーとピアノで代用されたが、シンセサイザーの音量が大きく一本調子に過ぎて音楽のバランスを損ねていたのは残念である(ちなみに、ヒッチコック監督『白い恐怖』(1945)では電子楽器テルミンが使われており、そこまで行く前段階と言えるかもしれない)。
高橋悠治(1938-)《苦艾》(2015) 久しぶりの交響作品。5年前の《大阪1694年》(注1)は、この年(元禄7年)南御堂で死ぬまでに芭蕉が大坂で詠んだ14句の俳句を読み(初演では指揮者の沼尻竜典が担当)、それぞれの句に続けて短い音楽が演奏される構成だった。
今回の《苦艾》は、馬場駿吉(俳句のほか美術批評でも知られ、名古屋ボストン美術館の館長を務める。耳鼻咽喉科の権威でもある)が、志村ふくみによる苦艾染めの紬の着物(ステージに展示された)を見て、妖しい緑色のアプサンに香りをつける苦艾が爽やかな薄緑色の衣になっている、その魔性と聖性の転換に打たれて詠んだ独吟半歌仙『苦艾』をテクストとしている(ニガヨモギ[Artemisia absinthium]の近縁種のオウシュウヨモギ[Artemisia vulgaris]はウクライナ語でチョルノブイリ。原発事故で有名になったチョルノブイリ[ロシア語でチェルノブイリ]は付近に自生するこの草が地名のもとになった。作曲家がそれを意識しなかったはずはないが、直接には言及されていない)。長句(5・7・5)と短句(7・7)を36句にわたってリレーしていくのが歌仙(本来は2人以上で巻くが1人だと独吟)、半歌仙だから18句で、それが詠まれる前後と合間に19の短い音楽が入ることになる。
今回は能楽師の片山九郎右衛門が能装束で登場、演奏者たちのまわりを歩きながら能の謡のような朗詠を聴かせた。さすがによく通る声で、印象的ではあったのだが、あまりにも能の謡に近くて、5・7・5・7・7のリズムがわかりにくくなったりするところは、問題なしとしない(注2)。今後、少し違ったスタイルを試みてもいいのではないか。
とはいえ、これは小さな問題であり、音楽そのものは実に素晴らしいものだった。連句の精神に倣って、音楽も前の句に「付ける」、そして「転ずる」という操作を繰り返してゆく。個々の曲の中でも、個々の楽器が互いに音形をなぞったり反転したりしながらリレーしてゆく。広い意味では対位法的と言ってもいい。ただ、バッハからシェーンベルク(そしてアイスラー)にいたる西洋音楽の対位法が構成を緊密化させストレッタでクライマックスを盛り上げて終止に至るのに対し、ここでの対位法は、短くシンプルな音形と余白の多い構成によって、もっと自由でフレキシブルな展開を見せる。それは、緊張をへて統一に向かう弁証法的な対位法ではなく、多様なものを多様なままに遊ばせる対位法、自然科学の用語を意図的に誤用すれば「散逸構造」とでも言うべきものを生み出す対位法なのである。そこに立ち上がるのは、風通しのいい、多様でありながらどこまでも透明な音楽——まさしく東京でのコンサートのテーマに謳われていた「簡潔な線 透明な響き」だ。
このような志向の音楽は近年のソロあるいは小編成の作品でも聴くことができたし、オーケストラのための《大阪1694年》も似たような書法によってはいるのだが、オーケストラならではのダイナミックな響き、とくにグリッサンドなどが印象的だった半面、大人数(大阪初演のときは57人)になるとどうしても、個々の楽器が自律性を保ちながら互いに呼応しあって進んでゆくこと(ドゥルーズ&ガタリの用語を使えばモル的な集団ではなく分子的な群れとして動いてゆくこと)が難しくなる。その点、今回の室内オーケストラ(弦4+管7+打楽器1)という編成は作曲家の意図に最も適していたのではないか。12人の奏者ができるだけ広く合間をとってバラバラに配置され、互いに音楽の断片を受け渡したり投げ返したりしてゆく。その間を「読み人」の能役者がゆっくりと巡回し、音楽の合間に連句を読んでゆく。それによって、余白の多い面の上で短くシンプルな曲線が呼応しあうような音楽が立ち上がるのだ。
序奏に続き、
爽やかに着て苦艾染の衣(きぬ)
で始まり、第5句
星涼し時間光を追い越せず
のあと打楽器が加わってややスケルツォ的な展開を見せる。第13句
友逝きて歩道も荒野冬の月
でメランコリーを帯びたスタティックな音の風景が描かれたあと、
戯画の獣に冬眠ありや
と転じたところでコントラバスとバリトン・サックスがややコミカルな掛け合いを聞かせるのも面白い。その後、
遥かなり前足が手となりたる日
夢の余白に瀬音がかすか
一瞬も永遠のうち飛花落花
時空の糸を織りなして春
と続く終盤、音楽は熱く盛り上がることなくしかもテンションを増し、聴衆に静かな感動を——そして傑作の初演に立ち会えたという喜ばしい確信を与えた。
齊藤一郎指揮の京都フィルハーモニー室内合奏団は、黛作品などでも生き生きした多彩な音楽を聴かせてくれたが、とくに《苦艾》の演奏は自発性に溢れた見事なものだったことを強調しておきたい。実のところ、俳句を趣味とする齊藤一郎は《大阪1694年》を指揮したことがあり、そこから、俳句の師である馬場駿吉の作品に高橋悠治が作曲するという構想を思いついた。黛敏郎の初期作品と高橋悠治の「late style(後期様式・晩年様式)」の作品を最初と最後に置き、アイスラーの室内交響曲と高橋の室内交響曲(《苦艾》をそう呼んでもおかしくない)を対比させるというプログラムも、いろいろな意味で興味深い。指揮者と演奏者たちの積極的な挑戦は高い評価に値するだろう。
客席には、高橋悠治の鎌倉での中学時代からの友人である青木昌彦(1960年安保闘争にいたる時期に共産主義者同盟[ブント]の理論家として勇名を馳せ、アメリカ留学後は主流派経済学を枠内から組み替える方向に転じて、国際経済学協会[International Economic Association ]会長も務めた。京都大学で教えを受けたにもかかわらず経済学を途中放棄した私は不肖の弟子ということになる)も白髪をなびかせたダンディな姿を見せた。首都ではなかなか会う機会のない人たちが京都でふと出会うことがよくある、そんな意味でもいかにも京都らしい、豊かな一時だった。
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注1
suigyu のウェッブサイトから《大阪1694年》の楽譜をダウンロードできるが、作曲家の文章は《苦艾》と共通する部分も多いので(いずれもひとつの断片が見開き2頁に記譜されている)、ここに引用しておく。
「(前略)楽譜にはテンポ、小節線、拍、強弱、フレージングは書かれていない。演奏者はききあいながら、自律的に音楽を作り、指揮者はその調整と進行を司る。したがって、スコアとパーツの区別はなく、全員がおなじ楽譜を見て演奏する。芭蕉の連句衆の座のように、平等な創造の空間でありたい。(中略)
困難な状況のなかで委嘱してくれた大阪センチュリー交響楽団が自立して音楽を続けるために、そして大阪にかつて栄えた文化伝統の記憶のために、あえて実験的な書法を試みた。生きるのも、音楽を続けるのも、いまこの場での実験の継続にかかっているだろう。(高橋悠治)」
そもそも高橋悠治はもうオーケストラのために作曲することはないと言っていたのだが、橋下徹大阪府知事(当時)の予算削減の対象となって補助金を大幅にカットされ2011年度からは完全に打ち切られることになって存続の危機に立っていた大阪センチュリー交響楽団(現・日本センチュリー交響楽団)からの依頼なのであえて引き受けたのかもしれない。
注2
そもそも、和歌や俳句、そして連句の朗詠が本来いかなるものかというのは、実は難しい問題だ。現代人はしばしば
●●●●●○○○
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(○は休符。2行目と4行目は○●●●●●●となる場合も)
と読んでしまうが、これは西洋音楽の規則的な拍子の取り方に引きずられており、本来のリズムとは違う。