本の梯子 福田尚代 かなもりゆうこ
福永 信
2013.04.03
3月の最後の日、『本の梯子 bookladder』という展覧会のクロージングイベントがあって、その構成をぼくが担当した。
この日のメインは、出品作家のひとり、福田尚代さんのトークだが、その前に、本展の企画者・村松美賀子さんと、共同企画者でもうひとりの出品作家でもある、かなもりゆうこさんに、同名の箱の本『本の梯子 bookladder』の解説をやってもらった。
箱の本『本の梯子 bookladder』は、上記の3人のほか、いしいしんじ、華雪、mama!milkといった人達が参加した(ぼくもそのひとり)本で、本といっても、白い、箱のかたちをしている(デザインは仲村健太郎、京都造形を卒業したばかり)。同名の展覧会は、福田さん、かなもりさんの二人展だが、10日間ほどのその会期のところどころで、イベントが組まれていた。箱の本にはそのイベントの結果、もしくは関連したものが収められている、というわけである(たとえばぼくは、「おでこのなかで」という小さな本を書いて、それをこのクロージングイベントで朗読した。といっても読んだのはぼくじゃなくて、かなもりさんの映像作品に登場している女性に、朗読してもらった。こんなふうに、それぞれの作品が、たがいに関連しているところもある)。
この最終日のイベントでは、マイクを使わなかった。
福田さんの声は、小さく、とても繊細なので、ほんとはマイクを使わないと聞きづらいのだが、それでもあえてそのままにした。
というのは、内容よりもむしろ、声そのものを受け取ってほしかったからだ。福田さんとは、展覧会の会期中に何度かお目にかかったけれども(彼女は、会期中ずっと、会場にいたのだ!)、お目にかかっているうちに、とてもすてきなその声を、聞いてもらえたらいいんだ、どんなお話になってもいいやって、思うようになっていた。
客席は、壁に沿って展示されている福田さんの作品に囲まれるように設置したのだから、お客さんのすぐ近くにあるそれらの作品について語ってもらうのが、こんな場所でのトークには相応しいのだろうけれども、そんなのあたりまえすぎてテンションが下がる(ぼくの)。だから、展示作品については、聞かないことにした。トークしているうちに、どっか別の場所から、不意につながったほうがおもしろい。だから福田さんが、今回、展示してない回文の作品、言葉の作品について、そこから、まず、聞くことにした。
回文というのは、文章を最初からふつうに読んでも、文章が終わった後ろから、前へ向かって、さかさまにたどっても同じ文章になっている。読み進めていくことが、最初に読んだ文字に戻っていくことであるという、時間がまるで巻き戻るかのような循環の体験が回文にはあるが、福田さんは、何行にもわたる長い詩作品として、回文を制作している。どうやってつくったのねえねえどうやったらできるのねえねえねえ!と、すぐに問い詰めたくなる誘惑にかられるが、福田さんは、キョトンと「発見するだけなんです」という。すでにあるものを見つけるだけなのだ、と。
たいてい、人は、文章を読むように、上から下へ、もしくは、左から右へ、書く。文字は、順番に配置され、流れていく。書くとは、ひとまずそんな方向性を持っているといえるだろう。
しかし、福田さんはそうではなく、四方八方から、彼女の眼の前に文字が集まってきて、それを発見する(実際に福田さんはこのとき、両手を上下左右からまんなかにかき集めるような、落ち葉を掃き寄せるようなしぐさをした)だけだ、という。
神秘的な感じをウッカリ受けるかもしれないけれども(ぼくも、15秒間くらい、そう思い込んでしまったが)、そうではない。きわめて現実的、明晰で、リアルな認識がそこにはある。たとえば、トークでも例に出したが、彼女のウェブサイト「回文と美術」にある「作品に関するメモ」という自筆年譜の2010年の一節。
2010
作文と詩と読書感想文が書かれた古い原稿用紙(唯一残っていた子供時代の筆跡)の束。言葉が書かれている升目すべてを切りとってしまう。写しはとらない。切りとった紙片を混ぜ合わせる。二度と読むことができない。
言葉というのが、組み合わせにすぎないことがこれほど、はっきりわかる文章もめずらしい。なんか、スカッとする(この「作品に関するメモ」は、短い言葉で自作を振り返っているが、これ自体が最良の短編小説みたいな、言葉の魅力にあふれた読み物になっている。ただし、かなりちっこい字だ。色もやや薄くしてある。「なぜ小さい字なんですか」とトークのときに聞いたら、「言葉って、小さなものだと思う」、福田さんは即答した。サイズなんかないはずの言葉に、文字に、それでも、大きさを見つけること。それは、言葉との距離を見つめることでもあるだろう。彼女の作品を見たことがなくても、面白く読めるので、ぜひ読まれたい)。
組み合わせがほどけてしまえば、文章というのは、それはもう人間には手に負えないものになる。イメージが消え、意味が消え、しかし、そこには、文字が残る(残ってしまう)ということ。それは、実は、ここで展示されている、原稿用紙の升目をくりぬいた作品群「残像/雪」(2010-2012)を見ていても、よく感じ取ることができる。福田さんは、この2010年の年譜の一節の、このときのことが、「残像/雪」という作品につながっている、ともいった。
ところでさっき、「ぜひ読まれたい」なんてえらそうに書いてしまったが、ついでにいえば、回文のほかに、福田さんには「転文」という言葉の作品シリーズもある。
「転文」とは福田さんの造語で、ひとつの文章が、後ろから読み返すと、別の内容に変化している、というものだ。回文がまったく同一の文章になっている、無時間的なそれなのに対して、この転文は、2つの意味、2つの時間、2つ空間が、折り重なっているといえるだろう。ぼくは、この福田さんの転文を読んだとき椅子から落ちた。たまげたからだが、同時に、自分が、やりたいことがここにあるじゃないかとはげしくじだんだもふんだんだ。鼻水もたれていたかもしれない。それくらいの感動があった。とくに『福田尚代 初期回文集 無言寺の僧 言追い牡蠣』(2007/キャラバン書籍部)に収められた「一九九五年 一月十二日」を読んでほしい(112-113ページ)。あたまから読んだ文章と、後ろから読み、たどりなおした文章が、たがいに関連し合い、往復書簡のようになっている。そして、それは生と死との往還でもあるのがわかる。涙も流すかもしれない。
ギャラリーに足を踏み入れて、全部で7点ほどの作品が展示された福田さんのスペースは、壁に仕切られた向こう側のかなもりさんの、大小の映像を中心にしたスペースとも、ゆるやかに関連していた。それは偶然なのかもしれないが、たとえば、かなもりさんの、映像ではない作品「コルデウ」(2012-2013)というシリーズの素材は、残布、残糸で、これは、これまで彼女の映像作品などに出てきた、たとえばカバンや服といった、彼女が手づくりしたものから、その糸をや布をぬきだして集め、あらためてクルクルと(途中まで)まるめたり、かがったりしたものである。かつての作品から抜け出して、別のかたちに小さく変容し、肩を寄せ合っているような、その姿が、これがなんとも素晴らしいのだが、福田さんの「煙の骨」(2007-2013)もまた、かつて作品として使用した何本もの色鉛筆を、削って、芯だけにした作品だった。
さまざまな長さの色鉛筆の芯が、さらに彫られて、そのもともとの大きさから可能なかぎり、別のかたちへと変化している。もともとの大きさ、かたちがかたちなのだから、劇的な変化は最初から、封じられているのだが、しかしそれでも、そこに同じかたちはない。くねくねしたかたちになったり、急に細くなったり、小さくなったり。削られていくうちに光沢が現れ、光をまとってさえいるように見える。これらの芯が、ゆるやかに分類され、小さな世界をかたちづくっている。いや、それは小さな世界などではなく、すでに十分に大きく、むしろ見ているわれわれの体が、もてあますほどの大きさというだけなのかもしれない。アクリルケースの内側の、色鉛筆の芯の世界の外の空間に、自分だけが取り残されているような、そんな気がふっと、してくる。
回文(そして転文)は、朗読できない。たぶん、不可能だろうと思う。文字が介在しなければならないから。
でも、黙読するとき、文字を目で追っているとき、どこからか、声が聞こえてくる、そんな気がすることがある。その声は、外の空間には響かない声だ。その声が、いつか彼女の回文の本を読み返すとき、この日のイベントで聞いた、福田さんの声に少しだけ似ている瞬間が、もしあるのならいいのになと思う。
本の梯子 bookladder
展覧会
福田尚代 かなもりゆうこ
展示
2013年3月20日-3月31日(26日、27日、休み)
ギャラリーモーネンスコンピス
なお、福田尚代さんの個展が、5月7日から6月7日まで、東京は神田の小出由紀子事務所で開催される。これまでの代表的な作品に新作を加えた20点ほどの展示になるとのこと。
また、同じく東京でだが、5月18日から8月11日まで、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションでのグループ展「秘密の湖」においても、福田さんの作品が見られる。こちらは新作が中心の展示になるようだ。このグループ展には、以前、RealKyotoでもレビューを載せた「アブストラと12人の芸術家」の三宅砂織さんも参加している。6月1日には福田さんのトーク、7月28日には三宅さんのトークが開催予定。詳細は、ギャラリー、美術館のウェブサイトに、ぜひ!
この日のメインは、出品作家のひとり、福田尚代さんのトークだが、その前に、本展の企画者・村松美賀子さんと、共同企画者でもうひとりの出品作家でもある、かなもりゆうこさんに、同名の箱の本『本の梯子 bookladder』の解説をやってもらった。
箱の本『本の梯子 bookladder』は、上記の3人のほか、いしいしんじ、華雪、mama!milkといった人達が参加した(ぼくもそのひとり)本で、本といっても、白い、箱のかたちをしている(デザインは仲村健太郎、京都造形を卒業したばかり)。同名の展覧会は、福田さん、かなもりさんの二人展だが、10日間ほどのその会期のところどころで、イベントが組まれていた。箱の本にはそのイベントの結果、もしくは関連したものが収められている、というわけである(たとえばぼくは、「おでこのなかで」という小さな本を書いて、それをこのクロージングイベントで朗読した。といっても読んだのはぼくじゃなくて、かなもりさんの映像作品に登場している女性に、朗読してもらった。こんなふうに、それぞれの作品が、たがいに関連しているところもある)。
この最終日のイベントでは、マイクを使わなかった。
福田さんの声は、小さく、とても繊細なので、ほんとはマイクを使わないと聞きづらいのだが、それでもあえてそのままにした。
というのは、内容よりもむしろ、声そのものを受け取ってほしかったからだ。福田さんとは、展覧会の会期中に何度かお目にかかったけれども(彼女は、会期中ずっと、会場にいたのだ!)、お目にかかっているうちに、とてもすてきなその声を、聞いてもらえたらいいんだ、どんなお話になってもいいやって、思うようになっていた。
客席は、壁に沿って展示されている福田さんの作品に囲まれるように設置したのだから、お客さんのすぐ近くにあるそれらの作品について語ってもらうのが、こんな場所でのトークには相応しいのだろうけれども、そんなのあたりまえすぎてテンションが下がる(ぼくの)。だから、展示作品については、聞かないことにした。トークしているうちに、どっか別の場所から、不意につながったほうがおもしろい。だから福田さんが、今回、展示してない回文の作品、言葉の作品について、そこから、まず、聞くことにした。
回文というのは、文章を最初からふつうに読んでも、文章が終わった後ろから、前へ向かって、さかさまにたどっても同じ文章になっている。読み進めていくことが、最初に読んだ文字に戻っていくことであるという、時間がまるで巻き戻るかのような循環の体験が回文にはあるが、福田さんは、何行にもわたる長い詩作品として、回文を制作している。どうやってつくったのねえねえどうやったらできるのねえねえねえ!と、すぐに問い詰めたくなる誘惑にかられるが、福田さんは、キョトンと「発見するだけなんです」という。すでにあるものを見つけるだけなのだ、と。
たいてい、人は、文章を読むように、上から下へ、もしくは、左から右へ、書く。文字は、順番に配置され、流れていく。書くとは、ひとまずそんな方向性を持っているといえるだろう。
しかし、福田さんはそうではなく、四方八方から、彼女の眼の前に文字が集まってきて、それを発見する(実際に福田さんはこのとき、両手を上下左右からまんなかにかき集めるような、落ち葉を掃き寄せるようなしぐさをした)だけだ、という。
神秘的な感じをウッカリ受けるかもしれないけれども(ぼくも、15秒間くらい、そう思い込んでしまったが)、そうではない。きわめて現実的、明晰で、リアルな認識がそこにはある。たとえば、トークでも例に出したが、彼女のウェブサイト「回文と美術」にある「作品に関するメモ」という自筆年譜の2010年の一節。
2010
作文と詩と読書感想文が書かれた古い原稿用紙(唯一残っていた子供時代の筆跡)の束。言葉が書かれている升目すべてを切りとってしまう。写しはとらない。切りとった紙片を混ぜ合わせる。二度と読むことができない。
言葉というのが、組み合わせにすぎないことがこれほど、はっきりわかる文章もめずらしい。なんか、スカッとする(この「作品に関するメモ」は、短い言葉で自作を振り返っているが、これ自体が最良の短編小説みたいな、言葉の魅力にあふれた読み物になっている。ただし、かなりちっこい字だ。色もやや薄くしてある。「なぜ小さい字なんですか」とトークのときに聞いたら、「言葉って、小さなものだと思う」、福田さんは即答した。サイズなんかないはずの言葉に、文字に、それでも、大きさを見つけること。それは、言葉との距離を見つめることでもあるだろう。彼女の作品を見たことがなくても、面白く読めるので、ぜひ読まれたい)。
組み合わせがほどけてしまえば、文章というのは、それはもう人間には手に負えないものになる。イメージが消え、意味が消え、しかし、そこには、文字が残る(残ってしまう)ということ。それは、実は、ここで展示されている、原稿用紙の升目をくりぬいた作品群「残像/雪」(2010-2012)を見ていても、よく感じ取ることができる。福田さんは、この2010年の年譜の一節の、このときのことが、「残像/雪」という作品につながっている、ともいった。
ところでさっき、「ぜひ読まれたい」なんてえらそうに書いてしまったが、ついでにいえば、回文のほかに、福田さんには「転文」という言葉の作品シリーズもある。
「転文」とは福田さんの造語で、ひとつの文章が、後ろから読み返すと、別の内容に変化している、というものだ。回文がまったく同一の文章になっている、無時間的なそれなのに対して、この転文は、2つの意味、2つの時間、2つ空間が、折り重なっているといえるだろう。ぼくは、この福田さんの転文を読んだとき椅子から落ちた。たまげたからだが、同時に、自分が、やりたいことがここにあるじゃないかとはげしくじだんだもふんだんだ。鼻水もたれていたかもしれない。それくらいの感動があった。とくに『福田尚代 初期回文集 無言寺の僧 言追い牡蠣』(2007/キャラバン書籍部)に収められた「一九九五年 一月十二日」を読んでほしい(112-113ページ)。あたまから読んだ文章と、後ろから読み、たどりなおした文章が、たがいに関連し合い、往復書簡のようになっている。そして、それは生と死との往還でもあるのがわかる。涙も流すかもしれない。
ギャラリーに足を踏み入れて、全部で7点ほどの作品が展示された福田さんのスペースは、壁に仕切られた向こう側のかなもりさんの、大小の映像を中心にしたスペースとも、ゆるやかに関連していた。それは偶然なのかもしれないが、たとえば、かなもりさんの、映像ではない作品「コルデウ」(2012-2013)というシリーズの素材は、残布、残糸で、これは、これまで彼女の映像作品などに出てきた、たとえばカバンや服といった、彼女が手づくりしたものから、その糸をや布をぬきだして集め、あらためてクルクルと(途中まで)まるめたり、かがったりしたものである。かつての作品から抜け出して、別のかたちに小さく変容し、肩を寄せ合っているような、その姿が、これがなんとも素晴らしいのだが、福田さんの「煙の骨」(2007-2013)もまた、かつて作品として使用した何本もの色鉛筆を、削って、芯だけにした作品だった。
さまざまな長さの色鉛筆の芯が、さらに彫られて、そのもともとの大きさから可能なかぎり、別のかたちへと変化している。もともとの大きさ、かたちがかたちなのだから、劇的な変化は最初から、封じられているのだが、しかしそれでも、そこに同じかたちはない。くねくねしたかたちになったり、急に細くなったり、小さくなったり。削られていくうちに光沢が現れ、光をまとってさえいるように見える。これらの芯が、ゆるやかに分類され、小さな世界をかたちづくっている。いや、それは小さな世界などではなく、すでに十分に大きく、むしろ見ているわれわれの体が、もてあますほどの大きさというだけなのかもしれない。アクリルケースの内側の、色鉛筆の芯の世界の外の空間に、自分だけが取り残されているような、そんな気がふっと、してくる。
回文(そして転文)は、朗読できない。たぶん、不可能だろうと思う。文字が介在しなければならないから。
でも、黙読するとき、文字を目で追っているとき、どこからか、声が聞こえてくる、そんな気がすることがある。その声は、外の空間には響かない声だ。その声が、いつか彼女の回文の本を読み返すとき、この日のイベントで聞いた、福田さんの声に少しだけ似ている瞬間が、もしあるのならいいのになと思う。
本の梯子 bookladder
展覧会
福田尚代 かなもりゆうこ
展示
2013年3月20日-3月31日(26日、27日、休み)
ギャラリーモーネンスコンピス
なお、福田尚代さんの個展が、5月7日から6月7日まで、東京は神田の小出由紀子事務所で開催される。これまでの代表的な作品に新作を加えた20点ほどの展示になるとのこと。
また、同じく東京でだが、5月18日から8月11日まで、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションでのグループ展「秘密の湖」においても、福田さんの作品が見られる。こちらは新作が中心の展示になるようだ。このグループ展には、以前、RealKyotoでもレビューを載せた「アブストラと12人の芸術家」の三宅砂織さんも参加している。6月1日には福田さんのトーク、7月28日には三宅さんのトークが開催予定。詳細は、ギャラリー、美術館のウェブサイトに、ぜひ!