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狩野山雪のマニエリスム
浅田 彰

2013.03.30
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このブログの2012年10月15日のエントリーにも書いたように、マニエリスムというのは西洋美術史の文脈ではルネサンスとバロックの間に位置する歴史的カテゴリーである。しかし、一定のマニエラ(手法・手つき)の反復と洗練を主軸とする様式を広義のマニエリスムと定義するなら、京狩野――とくに山雪のうちに日本美術史におけるマニエリスムの典型を見てもいいのではないか。

室町時代の狩野正信(1434? – 1530)を祖とする狩野派は、永徳(1543-90)の段階でひとつの頂点に到達する。大徳寺聚光院の襖絵は、永徳が精緻な絵を描く才能をもっていた証左だが、織田信長や豊臣秀吉に重用されて売れっ子となった永徳は、多くの注文に応える必要もあって、「檜図屏風」に代表される「大画」を量産するようになる。圧倒的なダイナミズムをもって斜めに空間を突き破らんとするかのようなその様式は、西洋のバロックよりやや早いものの、広義のバロックと呼んでも構わないだろう。永徳の死後、その仕事は、狩野派の大番頭格だった山楽(1559-1635)によって受け継がれるが、政権交替に伴って、豊臣政権と深くコミットしすぎていた山楽は一時は徳川政権に追われる身となる。他方、狩野派は永徳の孫の探幽(1602-74)を新たなリーダーとして、江戸に移り、徳川幕府の御用絵師へと転身していくのだ。探幽が中心になった京都・二条城の障壁画制作には山楽も参加している。しかし、京都に残った山楽とその後継者の山雪(1590-1651)、そして彼らを祖とする京狩野は、時代のメイン・ストリームから取り残された反時代的とも言える位置で、永徳のマニエラを反復し変形し洗練する――そして永徳の熱いダイナミズムを氷結させたとも言うべきマニエリスムに到達するのである(バロックの後にマニエリスムがくるというアナクロニズムが許容されるとするなら)。山雪の「雪汀水禽図屏風」はその極北――日本美術史におけるマニエリスムの極点と言うことができるだろう。

この「京狩野」の出発点に焦点を絞った、一見専門的な、しかしきわめて興味深く魅力的な展覧会が始まった。京都国立博物館の「狩野山楽・山雪」展(3月30日~5月12日)である。山楽、そしてとくに山雪の作品がこれだけ集まったのは、初めてのことだろう(新発見・再発見の作品や初公開の作品も多い)。京都にいてこれを見逃す手はない。

まず確認できるのは、山楽が永徳の「大画」様式を受け継ぎ、師に勝るとも劣らぬダイナミックな作品を描いていることだ。「龍虎図屏風」(catalogue number[以下 cat.と略]7)はその典型である。大覚寺の襖絵(cat.3・4)も豪奢そのものだ(私は昔から、正寝殿の方から庭ごしに宸殿の襖絵を見るのが好きだった)。しかし、中国の「界画」に学んで定規を用いて描かれる建築の描写(cat.9)には奇想建築への傾きを見て取ることができるし、中国の仙人などの描写(cat.5)にもすでにマンガ的とも言える誇張されたパターン化を見いだすことができる。

その山楽から山雪へのバトン・タッチの場としてクローズ・アップされるのが、あの美麗きわまる妙心寺天球院の襖絵だ。寺伝では山楽作と伝えられるものの、研究者によって山雪作と考えられるようになったこの襖絵を、展覧会では「山雪/山楽筆」としている。自宅からそう遠くない天球院(一般には非公開)を昔から見慣れてきた者としては、三面(もう一面は庭に面する障子)の立体的な交響がなければこの種の作品の魅力は半減すると感じずにはいられないが、「梅花遊禽図襖」(cat.22)の幾何学的に決まりすぎているとも見える画面を細部までつぶさに見られる、これはやはり貴重な機会だろう。

そして次に来るのが、海外から里帰りした山雪の傑作群だ。メトロポリタン美術館のあまりに有名な「老梅図襖」(旧・妙心寺天祥院;cat.25)とミネアポリス美術館の「群仙図襖」(同;cat.26)が、もともとそうだったように背中合わせに展示されているところは、この機会を逃せば当分見られないだろう。「梅花遊禽図襖」にあった老梅は、ここでは垂直と水平を意識していっそう誇張され、小さな花をつけたたくさんの小枝がそこから放電するかのように走り出る(もはや鳥の姿はない)。永徳にあって画面を突き破りかねない勢いを見せていた巨木は、枠の中に封じ込められ凍結されているかのようだ。われわれはそこに、一種の自閉を、また閉じられた空間の中で過度に研ぎ澄まされた人工的なデザイン意識を見ないわけにいかない。だとしても、そこにひとつの完成された美の世界が開けていることを、誰も否定することはできないだろう。また、「長恨歌図巻」(チェスター・ピーティー・ライブラリー;cat.30)も必見だ。「ほぼ全場面におよぶ展示は初めて」と言うが、その全場面にわたって、精緻な線描、そして裏彩色を施した色彩の織りなす饗宴が展開される。現実にはありえないほど急峻な山々、そしてやはり現実にはありえないほど壮麗な楼閣(露台に空のまま残された椅子が何度も描かれているのが印象的だ)。その極点には、処刑せざるを得なかった楊貴妃の魂を探すよう玄宗に命じられた方士が行き着く仙宮があり、それは無人の「夢の浮橋」で終わる。

山楽から受け継がれたこういう建築表現は、もともと奇想として描かれたのではないのかもしれない。見たこともない中国にある――いや、あったはずだと考える建築を中国的な手法で表現しようとするあまり、山雪は、古代ローマの建築と都市を徹底して再現しようとしたピラネージにも似た奇想に結果的に行き着いてしまった――そう考えた方がいいのではないか。巨大にして空虚な建築群と、それに比べて豆粒のように小さな人物たち。それをもう一段誇張すれば、曽我蕭白(1730-81)のあの奇想の世界が開けるはずだ(四隅の太い柱で支えられた正方形の亭[cat.52]のように蕭白に直結する形象もある)。他方、「群仙図襖」ではまだ上品な中国趣味の域に収まっていた人物表現も、「寒山拾得図」(cat.79)まで来ると、引用源の顔輝を超えて怪異な衝迫力を増し、やはり蕭白の直前まで達すると言ってよい(と言うと駄洒落のようだが)。蕭白を初めとする「奇想の系譜」に光を当てた辻惟雄がその前に山雪を論じているのは正しかったのである(『奇想の系譜』[1970]は岩佐又兵衛・狩野山雪・伊藤若冲・曽我蕭白・長沢芦雪・歌川国芳を扱っている)。

もっとも、多才な絵師である山雪は、格式の高い仏画や聖賢図も描いているし、かと思うとマンガ的な生き生きした筆致の「武家相撲絵巻」(cat.65)も描いている。動物画でも、とぼけた表情が笑いを誘う「松梟竹鶏図」(cat.38)、そして、牧谿の猿を長谷川等伯がかわいくマンガ化した、それをさらにかわいくしたような「猿猴図(cat.39)などもある。しかし、やはり最も山雪らしいのは、冷ややかなまでに整った構図の中に美しく凍結された鳥たちだろう。「四季花鳥図屏風」(cat.33)のツバメやガンは、空に舞う姿を確かな観察力と表現力でとらえられているにもかかわらず、ほとんど生動を感じさせない。マラルメが「白鳥のソネ」で歌う「逃れえなかった飛翔の透明な氷塊」さえ思わせる不動の姿において、永遠の現在にうちに凍結されているのだ。そして、このような美意識の究極の表現が、あの「雪汀水禽図屏風」(cat.83)なのである。この前では琳派も色褪せると言わざるを得ない究極の装飾世界。金の雲の下、銀の波濤の上を飛ぶ鳥たちは、よく見ると賑やかに鳴き交わしていたりもするのだが、画面全体から響いてくるのは冷ややかな沈黙に他ならない。この豪奢きわまりない沈黙の音楽こそ、京狩野のマニエリスムの極北と言うべきだろう。

山雪の子の永納(1631-97)は狩野派にいたる日本画の歴史を『本朝画史』にまとめたが、そこで彼が永徳の「大画」様式を「恠恠(怪怪)奇奇」と呼んでいることはよく知られている。徳川時代になって、そういう破天荒なダイナミズムは失われ、江戸の狩野派の安定した様式(こちらは、最悪の場合、マニエリスムならぬマンネリズムに堕す)が支配的になるかに見えた(という通説は疑わしいのだが、それについてはひとまず措く)。しかし、それがすべてではない。京都に残った狩野派は、山楽から山雪への過程で、永徳のマニエラを徹底的に洗練する―そのダイナミズムを凍結するような仕方で。そこに生まれたマニエリスティックな表現は、それ自体「怪怪奇奇」と呼ぶにふさわしく、現に蕭白のような「奇想の系譜」へと直結していくのである(ついでに言えば、村上隆の「カイカイキキ」な「大画」も、そのスーパーフラットな洗練において、永徳よりは山雪の方に近いのではないか)。そういう特異な転換点をつぶさに観察することのできる、これはきわめて興味深い展覧会だった。

ちなみに、昨年から全国を巡回してきた「特別展 ボストン美術館 日本美術の至宝」が大阪市立博物館で開催されており、山雪の「十雪図屏風」も展示されている。一見硬い感じの屏風だが、山雪のさまざまなマニエラに親しんだ後で見直すと、冷たくも柔らかな雪の精妙な表現があらためて印象的だし、たしかに空っぽの空間はあまりに大きく広がっているのだが、豆粒のような人間――たとえば雪下ろしをする人々が実に生き生きと描かれているのにも目が向くだろう。そして、山雪の息子、永納の「四季花鳥図屏風」。その美麗な画面には山雪のさまざまなマニエラがちりばめられている――にもかかわらず、山雪の奇矯なまでの鋭さが明らかに欠けているのだ。山雪のマニエリスムが永納にあってはマンネリズムになってしまっていると言ってもいいだろう。さらに、この展覧会には蕭白の重要な作品群が含まれている。京都で山雪を見たあと、大阪で蕭白を見るというのも、面白いのではないだろうか。

京狩野については、「近世京都の狩野派」展(京都文化博物館、2004年)で一応全貌を見渡すことができたものの、まだまだ一般に知られているとは言えない。この展覧会を機に、山楽・山雪の後も長い歴史をもつ京狩野が再発見され、他の流派との関連も明らかにされていくことを期待する(一例だけ挙げるなら、妙心寺隣華院には、長谷川等伯の襖絵と並び、幕末の狩野永岳[1790-1867]のカラフルな襖絵があるが、そのマニエリスム/マンネリズム的な装飾性は山雪からの流れの最後の発現とも見える)。なお、今回の展覧会は図録も充実しており、最近の美術史研究が反映されていて読み応えがあることを強調しておかなければならない。永徳の「大画」、そして探幽以後の「余白の美」の背後には、殺到する注文に応ずる必要があった、他方、それに背を向けた京狩野は、コスト/パフォーマンスを無視して細部まで凝りに凝った表現―「濃い」表現を展開した、という山下善也(企画・構成)のざっくばらんな説明は、私のような素人にもよくわかる。また、「雪汀水禽図屏風」に描かれた鳥の数から77(および88)という吉数を見出し、そこから制作年を推定する奥平俊六の論考も、推理小説めいて面白い。いくら何でも深読みに過ぎるだろうと思うかもしれないが、いや、それくらい手の込んだことをやりかねないのが山雪というマニエリストなのである(ついでに言えば、山楽・山雪・永納らのサヴァイヴァル戦略については、去年出た五十嵐公一『京狩野三代 生き残りの物語』(2012)も興味深い)。

最後に一歩引いた視点から一般的なことを言うなら、私はマニエリスムを――またとくに京狩野のマニエリスムを、特権的に評価するものではない。むしろ、そこに自閉ゆえの屈折を見る常識を否定するのは難しいと思う。しかし、繰り返すが、出口なしの空間で徹底して突き詰められていった空しいマニエラの戯れが、不毛な、しかし、この上なく華麗な美の世界を生み出したことは、誰も否定できないだろう。その凍てついた美の絶壁の前にしばし立ち尽くすことは、耽美主義者でなくとも、いや、そうでない人にこそ、重要な経験となるはずだ。

 
注記

行ってみようと思う人のために言えば、美術史に関心がないとしても、細部を見ているだけで面白いので、時間はたっぷりあった方がいい。一般に、東京の同様の展覧会に比べるとはるかに空いているけれど、金曜は20時まで空いているのでおススメだ。4月23日から展示替えがあるので、できれば2回見た方がよい。