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美術史家としての私とマルチチュード
石谷 治寛

2013.04.20
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自分のことを紹介しろと言われると、いつももどかしさを感じる。十数年来アートとその歴史に関心をもち研究と教育を続けてきていて、十九世紀近代のリアリズムや印象派と同時代の美学についての翻訳やささやかな著作も書いてきた。美術史家と言っていいだろうか。自分の関心は、いわゆる美術館に展示されるハイ・アート(絵画・彫刻)だけでなく、大衆文化や人文学や心理学におよび、メディア文化の考古学という側面もあるので、文化の社会史を扱う視覚文化研究や、芸術学という呼称も併記してきた。しかし、どこかしっくりこない。というのも、映像を例に出すまでもなく、視るという行為にはそれにともなう物語や言葉、そのイメージの媒体自体の物質感がともなうからだ。あるいは視るという行為の現在の瞬間の一点に、かけがえない人生のすべての機会やタイミングが凝集されているとも言っていい。表象文化論では生硬すぎるし、視聴覚文化(オーディオ・ビジュアル・カルチャー)では、最新のテクノロジーに嬉々としているようだし、物質文化ではあまりにもモノに固着しているような感じがする。領域や専門性やアプローチの仕方を限定してその差異を誇示しても、専門外から見たら何だかわからないだろう。古典主義やロマン主義だのといった、古めかしい党派性が、芸術文化研究のなかに姿を変えて残り続けているかのようだ。

他方で、自己表象のもどかしさは、自分自身の職業的な地位の曖昧さにもある。博士課程を修了してからというものの、京都の大学で非常勤講師を勤めながら、ある種のインディペンデント・リサーチャーとして研究を続けてきた。美術館にも大学にも、他の企業にも属さない非正規雇用の研究者であった。自分で積極的に選んだわけではないが、今風に言えばプレカリアート(不安定雇用者)、さきほど来日したイタリアの思想家に倣えば「マルチチュード」と言えるだろうか。

4月6日(土)と4月12日(金)に、来日したアントニオ・ネグリの講演が行われたが、私はその模様をユーストリームで視聴した。「マルチチュード」という言葉は、通常、雑多な群衆を指す言葉ではあるが、ネグリは、この言葉を自分自身の価値を創造することができる主体のあり方として肯定的に用いている。ネグリの現状認識は、非常にわかりやすく整理されていて、彼の考えには同意できるところが多い。4月6日の講演では、東京藝術大学の文化研究者の毛利嘉孝は、3.11以降の日本の状況と関連させて、この語を「脱原発」デモを行うために集まった群衆と捉え、日本における原発運動の歴史について語っていた。しかし、この概念を単に文化的デモンストレーションに結実させてしまうことには違和感を感じたことも確かだ。危機の時代のアーティストの活動の役割とはストリートに出て、デモを扇動することにあるのだろうか? もちろん、脱原発運動において、奈良美智が自分の作品をプラカードに使ってもらって構わないとツイッターで発言をして話題になったりと、アーティストが思い思いの活動を行ったことは事実だ。マルチチュードは、その中にデモや街頭パフォーマンスを行う群衆が含まれるとしても、哲学者の市田良彦がその研究者の議論を先取りして的確に指摘していたように、財産権や共有財の問題を真剣に問わなければ、いまある国家や資本主義の暴力を等閑視したうえで合議民主主義を機能させるための体のいいエージェントに容易に堕してしまうだろう。

あるいは「マルチチュード」について語るならば、社会学者の上野千鶴子が自分の研究活動を紹介しながら議論していたように、感情労働やケア・ワーカーの現在性を問うという立場もある。芸術文化産業従事者もコミュニケーション産業や認知資本主義の一形態であり、その尖端で活動を行っている。上野やネグリにならって、かつてのマルクス主義フェミニズムの用語を使うならば、非正規雇用労働者の「主婦化」やインフォーマルなセクターとしての家内労働や無償労働としての封じ込めはいまなお切実な問題であり、芸術大学の入学者には女性が多いことは、その端的な徴候であるかもしれない。また西洋美術史研究者は哲学や美学に比べても比較的女性が多い。美術史家であるならば若桑みどりの果敢な研究の貢献は常に立ち返るところである(とりわけ『象徴としての女性像――ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』筑摩書房、2000年を参照のこと)。もし、東京藝術大学の文化研究の先生が、芸術学と「マルチチュード」をめぐる問いをたてるならば、いかに街頭に出るかを問題にする以上に、文化産業を支えている見えにくい労働のあり方や家政の現在形を真剣に議論して欲しいと切実に思ったのは私だけだろうか。

他方で、「文化政治」を包摂したグローバルな芸術文化市場や現代美術館やビエンナーレの増大があり、2012年のベルリン・ビエンナーレでは、展示として「占拠運動」のグループが招きいれられたことや、ドクメンタ13でも芸術監督のキャロライン・クリストフ=バカルギエフが、芸術祭に占拠運動が参加することを歓迎したことは記憶に新しい。実際私がドクメンタに訪れた時にも、会場の前の公園に占拠運動のテントがあった。しかし、芸術祭の観客と運動家たちのあいだでは暗黙の住み分けがなされていたとも感じた。

ドクメンタ13会場前の「占拠」風景、著者撮影、2012年9月


マルチチュードという語が文化産業にともなう矛盾を溶解させる符号となりはじめているのだとしたら本末転倒である。東京という霞が関のまわりの文化圏では、核国家(ネグリ)の論理に汚染させられて、すでに亡霊とされたマルチチュードが徘徊しはじめているのだろうか。情熱的なネグリの話を関西の自宅で聞き、市田と上野の語り口には共感を覚えながら、そんなことをつらつらと考えていた。

私は幸いにも数年前から甲南大学の人間科学研究所で博士研究員として勤め、単年度契約を更新しながら任期を終えようとしている。この研究所は、芸術学の専門家とともに臨床心理学の専門家が共同研究を行っている研究機間で、主にアートセラピーをめぐるプロジェクトに携わってきた。私自身はセラピストとしての職業的な訓練は受けていないないものの、既存のアートセラピーという治療技法の分野の枠組みを超えて、文化の技芸と臨床の技法とが、いかに密接に絡みあってきたかに魅了され、関連する芸術史と臨床心理学の文献を読み漁る日々を送っている。臨床の視点を通せば、アートとは、目的や約束の地ではなく、道具のひとつである。アートとはさまざまにレッテルづけられた(病名やアイデンティティや社会的肩書き)をもつ人々を、自己の主体性の生産へと再び方向付け直す媒体以上の何ものでもないのだ。この観点からすると、私と芸術との関わりは、近代的な意味での芸術作品や展示物の批評や価値付けという行為から遠ざかりつつあるようにも思える。芸術批評を標榜するウェブサイトに私のような人間がいかなる貢献ができるだろうか。

私が本ブログを通して何か貢献できるとするならば、美術史家として、文化をめぐる争点が現れてくる徴候を査定し、記述し、吟味することにあるだろう。その中にはもちろん従来的な美術批評や映画批評の役割も含まれる。むしろ、伝統的な芸術批評や映画批評は、ジャーナリスティックな書き手として美的判断をくだすだけでなく、美の判断それ自体を公衆へと投げ入れることで、文化的な闘争とその媒介の契機を生み出してきたように思える(19世紀の批評家・詩人シャルル・ボードレールや20世紀の映画批評家・作家ジャン=リュック・ゴダールを想起したい)。しかしかつてのボヘミアン的な遊民としての批評家像は高度に芸術や文化理論の教育が高等教育で行われている現代の文化状況にはそぐわないかもしれない。そうしたことを考えながら、自分自身を説明する呼称として批評家ではなく、メディエーターという言葉が適切かもしれないと考えているのだが、それについては次回に譲りたい。