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『Foujita』はなぜ映画としても伝記としても失敗なのか
浅田 彰

2016.01.07
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最近の日本映画の文字通りの停滞には目を覆いたくなるものがある。マンガの実写化(それも三池崇史くらい破天荒ならばともかく、多くはマンガをなぞるだけでマンガそのものの魅力に遠く及ばない)が氾濫する一方、そんな流行に背を向けたシリアスな作品として評価されているらしい映画はたんに貧乏くさく辛気臭いだけで輪をかけてつまらないものがほとんど。困ったことにそんな「日本映画」をありがたがるモントリオール世界映画祭のようなものさえ現れる始末だ。『二十才の微熱』(1993年)、『渚のシンドバッド』(1995年)、『ハッシュ!』(2001年)と続く初期作品では切実でありながら滑稽な修羅場の表現などに見るべきもののあった橋口亮輔が、つまらない人間たちのつまらない関係をひたすら真面目に描いた『恋人たち』(2015年)を撮るとキネマ旬報ベスト・テンの第一位に選ばれる。濱口竜介が日韓の俳優を使って撮った『The Depth』(2010年)を見て「もう少しリズム感がよければもっと面白くなるのに」と思っていたら、東日本大震災以後に東北で撮った映画をへて『不気味なものの肌に触れる』(2013年)になるとますます鈍重になり、あげくの果てに317分に及ぶ『ハッピーアワー』(2015年)で(海外のいくつかの国際映画祭で賞を取ったほか)やはりベスト・テンの第三位に選ばれる(決断の手前のためらい、分岐の手前の揺らぎというのは重要なテーマだが、言うまでもなく1年のためらいが1秒のためらいより深いとは限らないのだ)。ちなみに、いま挙げた二人の監督はいずれも演劇やダンスのワークショップに付き合うことで新たな表現を獲得したのだと言うが、劇映画の出発点は演劇の鈍重さからの解放ではなかったのか。(→付記)
 
のっけから話が逸れてしまったけれど、そんな近年の日本映画の中でも飛びぬけて貧乏くさく辛気くさい映画が、小栗康平監督の『Foujita(フジタ)』(2015年)である。一貫して鈍重な映画を撮り続けてきた小栗康平が、「軽薄才子」と貶されながら世界を股にかけたトリックスター藤田嗣治(以下「フジタ」と表記)を撮る――この企画の話を聞いたときから「何かの間違いではないか」と思っていたのだが、その危惧は最悪の形で実現されてしまった。『Foujita』は主に1920年代のパリと1940年代の日本におけるフジタを描いたもので、かなりの部分がスタティックな活人画の連続のように構成されている。その活人画がどれをとっても安っぽく鈍重で見るに堪えない。さらに問題なのは、フジタを演ずるオダギリジョーに付け焼刃のフランス語でフランス人俳優たちと会話をさせていることで、当然ながら結果は耳を覆いたくなるものとなった。フジタ本人がどれほどフランス語がうまかったかは別問題として(しかし彼は1920年代のパリでスターとしてもてはやされ、多くの女性たちと浮き名を流したのだから、決して下手ではなかったはずだ)、この会話はとても公衆の前に出せるものではない。(むろん、この惨事の責任は俳優にはなく、フランス語の感覚もなしにフランス語の会話を演出した監督、そして、クイズ番組の罰ゲームのようなことを俳優にやらせるのに同意してしまったマネージャーにある。)よっぽど途中で帰ろうと思ったのだが、我慢に我慢を重ねて最後まで見た結果、この映画が1920年代のパリと1940年代の日本しか描かないことでフジタ伝として致命的な欠陥を持っていることがわかった。それなりに重要な問題なので、画家の生涯を簡単に振り返りながら説明しよう。(その前に断っておけば、フジタについては京都造形芸術大学で同僚だった林洋子[現在は文化庁芸術文化調査官]の一連の研究から多くを教えられた。また、岡﨑乾二郎が『ユリイカ』2006年5月号で語っているフジタ像は例によって抜群にシャープで、いまも第一に参照されるべきであり、本稿もその決定的な影響を受けていることをはっきり認めておく。とはいえ以下に記すのは私個人の意見であって、文責は全面的に私にある。)

 
藤田嗣治(1886-1968年)は東京美術学校(後の東京藝術大学)で黒田清輝に油画を学んだあと1913年にフランスに渡る。ちなみに、東京藝術大学大学美術館で《舞踏会の前》の修復が完成したお披露目を兼ねて関連する作品や「藤田嗣治資料」の公開が行われたが(2015年12月1~6日) 、そこでも示唆されたように、黒田清輝のアカデミズムに反発したという従来のとらえ方は単純に過ぎるだろう。実際、フジタは驚くべきことに第一次世界大戦中もパリで過ごし、ピカソの衝撃を消化しながら、大戦後、1920年代のパリで、ピカソらの新古典主義回帰(広くはコクトーの言う「秩序回帰」――1910年代までのモダニズムに対し、これをあえてポストモダニズム [postmodernisme avant la lettre] と呼ぶことも不可能ではない)をも意識しつつ、ある意味で「反動的」な具象画――ただし、タルカム・パウダーを用いてつくられた独特の「素晴らしき乳白色の地」(grand fond blanc)の上に日本の面相筆で細い輪郭線を引いて制作される「日本的」な具象画を発表して、一躍エコール・ド・パリのスターの座を獲得したのである(ルノワールやシニャックからローランサンをへてレジェに至る同時代の多種多様な画家のスタイル、小林秀雄風に言えば「様々なる意匠」を巧みに真似てみせた《〇〇風に》という26点の連作[2013年秋冬に美術館「えき」KYOTOに巡回した「レオナール・フジタとパリ 1913-1931」展で展示された]を見ても、フジタがそのような文化状況をよく観察した上で「日本的」なスタイルを戦略的に選び取ったことは明らかだ)。そう、彼はたんなる画家にとどまらぬ文字通りのスターだったのであり、コクトー――ただし、東洋人のエキゾティックな魅力を兼ね備えた――を思わせるところさえあった(ちなみにフジタはコクトーの本に挿絵を描いてもいる)。コクトーがゲイだったのに対し、フジタは女性たちと浮き名を流したと言ったが、おかっぱ頭にピアスのイアリング、そして真ん丸なロイド・メガネにちょび髭という、ジェンダーを攪乱する姿をした画家は、マッチョとして女性たちを征服したというより、女性たちの仲間として共に生きたと言ったほうがいいだろう。自画像には、トレード・マークの面相筆のほかに、針や鋏などの裁縫道具がよく描かれていることからも、フジタのそのような自己認識・自己演出が見て取れる(逆に、女性の身体がいわばマッチョ的に描かれる場合が少なくないのも面白い)。他方、パリの文化状況やフジタの戦略を理解する由もない日本では、成功へのやっかみから、恥も外聞もない宣伝活動で成り上がった軽薄な「売り絵」画家というフジタ像が流布され、後の悲劇への土壌を準備することになるだろう(戦後も、ポストモダンな転回までは、それがフジタ像の定番だったと言っていいのではないか)。
ともあれ、パリにおけるこの成功に影を落としたのが、1929年の大恐慌だった。それは1920年代のバブル経済と華やかなスペクタクル社会に終止符を打ち、不況の中で世界は第二次世界大戦へと坂道を転げ落ちていくことになる。1920年代のパリで富裕層の肖像画によって成功を収めていたフジタは、絵が売れなくなるという窮地に陥ったわけだが、彼はそこにもっと広く深い時代の変動を感じ取ったのではないか。こうして彼はパリを離れ、2年間にわたってラテン・アメリカを旅し、1920年代の乳白色と黒を基調とするシックな絵から一転して、赤土の色を基調とする一見土俗的な絵を描くようになるのだ。そこで最も大きな影響を与えたのは、メキシコでディエゴ・リベラやダビッド・アルファロ・シケイロスらの展開していた、民族解放と社会主義革命を民衆に訴える壁画運動だった(フジタはすでにパリ時代にも壁画を手掛けていたが、その主題や形式は当時の彼のタブローの延長と言ってよく、そこに新たな土俗的ダイナミズムをもたらしたのがメキシコの壁画運動だった。なお、現在では私的なこだわりの中で女性性や民俗性を表現したフリーダ・カーロの方が夫のリベラより有名かもしれないが、これはポストモダンな転回の後のことであって、当時はリベラこそ資本主義国アメリカからさえ壁画のコミッションが舞い込むほどの世界的大スターだったことは言うまでもない。実際、フランスからメキシコを訪れたフジタのみならず、たとえばアメリカからリベラのもとを訪れたイサム・ノグチもそこで《メキシコの歴史》[1936年]という立体壁画を制作している――カーロと関係をもつだけではなく。そして、フジタの後、1930年代のパリで知的形成を遂げ、やがてこの壁画運動の影響を受けることになるもうひとりの日本人アーティストが、岡本太郎に他ならない)。パリの華やかな社交界で富裕層にシックな肖像画を売るよりも、壁画によって人民大衆に直接訴えかける。社会主義的だったかどうかはさておき、このような構想をもったフジタは、帰国後1930年代の日本でもさかんに壁画を制作した。中でも《秋田の行事》という大作は有名だ。(この壁画は新しくなった秋田県立美術館の目玉である。設計者の安藤忠雄は□と〇にこだわってきたが、直島の地中美術館の頃から△を使うようになり、さらに松山の「坂の上の雲ミュージアム」の頃から支えなしに宙に浮いた階段にこだわるようになった。それがデザインとしてどれくらい効果的か私にはわからないが、秋田県立美術館のエントランス・ホールは現時点でのその完成形といってよく、そこから2階に上がったショップ&カフェから水庭ごしに城跡の公園を見晴らすところも素晴らしい。その先のホールに問題の壁画があって、フロアとバルコニーから眺めることができる。ちなみに、この秋冬には「藤田嗣治と平野政吉 まぼろしの美術館1936-1938」展が開かれ、秋田におけるフジタのパトロンだった平野政吉の構想したフジタ作品を中心とする美術館のコンピュータ・グラフィックスや模型による再現が目を引いたが、そこでは壁画は描かれた人物が観衆とほぼ同じ高さにくるよう低い位置に展示されることになっていたらしく、観衆との直接的な触れ合いを重視したのだろうその構想からすると現在の展示の位置は高すぎるということになる。ともあれ、この美術館のためにフジタの寄託した自他の作品も含め、1920年代のパリと1940年代の日本の間で決定的に重要な位置を占める1930年代の「メキシコ-日本」を理解するためにも、秋田県立美術館はぜひ訪れておきたい。)

フジタにとって残念なことに、しかし、1930年代の「メキシコ-日本」風の作品は、1920年代の「パリの日本」風の作品ほどの評判をとらなかった。皮肉にも、彼にその評判を、つまりは人民大衆の支持をもたらしたのは、1930年代終わりから彼が日本軍の委嘱で制作した戦争記録画(略して戦争画)だったのである。フジタの戦争画は、敗戦70周年を記念するいくつかの展覧会でも展示されたし、昨年 秋冬には東京国立近代美術館での「藤田嗣治、全所蔵作品展示 。」の際に史上初めて14点が一挙に公開された(「所蔵」といっても、厳密には、フジタ作品を含む「戦争記録画」は敗戦後アメリカ進駐軍に接収され後に東京国立近代美術館に「永久貸与」された形になっている)。それらを見てもわかるように、日本軍の勝利を明快な構図の中で描こうとした初期の戦争画――たとえば《南昌飛行場の焼打》(1938-39年:ちなみに防衛省江田島教育参考館の所蔵するこの作品の小型ヴァージョンが京都造形芸術大学で開かれた「戦争と芸術」展第1回[2007年]で展示されたことがあり、キュレーターの飯田高誉と私が針生一郎に当時の感想をあらためて聞いた記録が、4回の展覧会をまとめた飯田高誉『戦争と芸術』立東舎[近刊予定]に収録されている)は、構図が十分シャープに実現されておらず、必ずしも成功とは言えないだろう。すでに見たように、裁縫の人だったフジタは、何枚かの布を縫い合わせたキルトのような画面構成が得意で、1920年代を中心とする有名な作品群を見ても、黒い背景の作品を除けば、背景から女性(たち)がくっきり浮き出るようには見えない(むしろ保護色をまとったかのようにキルト的な環境に溶け込んで見える)。対して初期戦争画では背景から浮き出た男性の英雄が敵を打ち倒すところを描こうとしてはいるものの、やはりもうひとつうまく行っていないのだ。しかし、敵と味方、兵士と民間人が入り乱れて全滅に向かう様を描く戦争後期の玉砕画――《アッツ島玉砕》(1943年)から《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945年)などになると、逆説的にもフジタ本来の持ち味が発揮され、異様に錯綜した画面が異様な迫力を帯びるに至るのである。その前で手を合わせ賽銭を投げる人々の姿を見て、フジタは、パリ時代に日本人から嫌われていた自分が、ついに日本人――とりわけ人民大衆の支持を得たと感じたのではないか。実のところ、この時期の文章は軍国主義体制による検閲を意識していることを考慮して読まねばならないし、それまでのフジタの姿を見ても、一筋縄ではとらえられないこのトリックスターが本気で「日本回帰」したのかどうかは疑問の余地がある。とはいえ、1930年代には、自画像がおかっぱ頭から刈り上げ頭に変わったものの1920年代の「パリの日本」風の意匠を「メキシコ-日本」風に置き換えただけだったのが、1943年の小さな自画像では、刈り上げ姿の自分の顔だけを、しかも逆光で陰になった像として描いている、そこにフジタの真情のようなものを感じたくなるとしてもおかしくはないだろう(豊田市美術館がバリアフリー化の工事を終えて再開された際に講演に呼ばれ、「開館20周年記念コレクション展 l」に含まれているこの自画像を久しぶりにゆっくり眺める機会を得た、これがそのときの両義的な感想だ。この自画像は「コレクション展 ll」でも引き続いて展示されているが、これがミニマル/コンセプチュアル・アートの展覧会としても日本で見られる最上級のものであることをついでに強調しておきたい)。それにしても、『Foujita』がここで『遠野物語』に代表される日本の民話の世界の再現へと逸れていくのはいったいどうしたことだろう。フジタが華やかだが表層的なパリから帰って貧しく悲しい日本の「村」を引き受けたことのメタフォリックな表現なのだろうか。しかし、フジタが童話に回帰するとすれば、それは次の段落で見る戦後のフランス時代にラ・フォンテーヌの動物寓話を取り上げたときであり、日本時代のフジタは、1935年に自ら監督した映画『現代日本 子供篇』を見ても、貧乏くさく辛気臭い民話などではなく、たとえば子供たちのチャンバラごっこの軽やかな運動感をとらえようとしていたのではなかったか(小栗康平が表現しようとしたのは、もっと後、1940年代の戦争末期における画家の心象風景なのかもしれないが、その時期でさえフジタは戦争画で「チャンバラ」に挑戦するのだと言っている―とすればフジタの伝記映画もチャンバラ映画のように撮るべきなのだ)。

ともあれ、敗戦後、この戦争画の「成功」が「失敗」に転じ、フジタをいわば「亡命」へと追いやったことは、よく知られている通りだ。1930年代の民俗色豊かな作品で得ようとして得られなかった人民大衆の支持を1940年代の暗い玉砕画で獲得してしまった、これがそのあまりに皮肉な帰結だった。実を言えば、戦争の時代には、洋画・日本画を問わず、多くの画家が軍部に協力して戦争記録画を描いた。横山大観に至っては、絵の売り上げで軍用機を寄付したくらいだ。ところが、もともとパリから戻ってきたストレンジャーだったにもかかわらず戦争画家として最も成功したフジタに戦争責任を代表させようとする動きが画壇に起こり、それに嫌気がさしたフジタは(公的に訴追されたわけではないものの)日本を捨てることを決意する。そして、最終的にはフランス国籍を取ってレオナール・フジタとなり(この名前がダ・ヴィンチへの憧れから来ているとしても、フジタはフランス人になったのだから、『Foujita』が「レオナール」を「レオナルド」としていることには違和感が残る)、カトリック教徒として礼拝堂の壁画を描いて生涯を閉じるのである(野外の人民大衆を民族解放と社会主義革命に駆り立てるメキシコの壁画が、内側に、また後ろ向きに反転したと言ってもよい)。面白いのは、この戦後のフジタが、自画像や注文された肖像画、あるいは宗教画の中の救世主や聖人などを除いて、ほとんど女性と子供と動物の絵しか描かなかったことだ――男性たちの戦争の歴史、つまりは歴史一般にほとほと嫌気がさし、女性と子供と動物しかいないポストヒストリカルな楽園に閉じこもるかのように(ただし、別の文脈では、黒い背景の上で何匹もの猫が輪になってくんずほぐれつ争っている《猫(争闘)》[1940年]こそ戦争画のパラダイムだ――そして《私の夢》[1947年]の画面中央で眠る裸の美女がフジタ自身なら周囲で噂話をする動物たちは画壇の人々だ――という岡﨑乾二郎説はきわめて興味深い)。この時期、主に夫人のために描かれた多くの小品が、昨年秋、岐阜県美術館の「小さな藤田嗣治展」で初公開された。ささやかな手すさびのように見えて、いま述べたように重要な意味合いをもつ作品群だから、箱入りのトランプのような図録にごく簡単なテクストしか添えられていないのは残念だが、むしろそのこと自体、歴史と歴史画を捨てた晩年のフジタにふさわしいと言えるかもしれないし、その洒落た「トランプ」から想像される通り、小さく繊細な作品だけが会場を満たす、たいへん印象的な展覧会だった。

 
以上はフジタの生涯を振り返ったごく大ざっぱなスケッチに過ぎず、近い将来に開催されるであろう本格的・総合的なフジタ展を見直してもっと細かく考えてゆく必要がある。しかし、これだけでも、『Foujita』のように1920年代のパリと1940年代の日本を描くだけでは「西洋近代社会と日本的共同体の間で引き裂かれた芸術家」という嫌になるほど通俗的な紋切り型を反復するほかなく、フジタの特異性は、そしてその特異な軌跡にこそ反映された世界全体の動きは一向に見えてこないこと、それを描こうと思ったら1930年代のメキシコ-日本と戦後のフランスを描かないわけにはいかないことは、はっきりしたはずだ。『Foujita』の映画としての欠陥は、フランス語によるドラマの失敗をあげつらうまでもなく、映像の貧しさとその運動の鈍重さを見れば一目瞭然であるとして(しかし、最初に述べたのは、こんな噴飯ものの映画が「真面目な芸術映画」としてまともに受け取られてしまうという日本映画界の文字通りの停滞こそが問題だということだ)、伝記としての欠陥は、つまるところ、フジタというきわめて興味深い対象に肉迫しようとせず、いま述べたような紋切り型の怠惰な反復に終始しているところにある。

 
最後に付け加えておけば、昨年秋冬に資生堂ギャラリーで開催された小沢剛の「帰ってきたぺインターF」展は、フジタがインドネシアに従軍、敗戦後もそこにとどまっていたとしたら、という仮定に基づき 、インドネシアの画家たちに描いてもらった作品を主とするもので、なかなか興味深くはあったものの、やはりせっかくなら戦後フジタをメキシコに戻した方が面白かったような気がしてならない。フリーダ・カーロ(1937年に亡命してきたトロツキーをリベラがかくまったときカーロとの関係が生じ、そのため警戒の厳重なリベラ邸を出ることになったのが、スターリンの刺客によるトロツキー暗殺につながったというのは有名な話だが、先に触れた通りその前にはイサム・ノグチとも関係があった)が出てきても面白いだろうし、そこで岡本太郎と再会するのでもいいかもしれないし…

というのはすでに妄想だが、ともあれ、これほど波乱万丈の生涯を送り、そこに世界史が映し出されているような日本人画家も少ないのだから、『Foujita』は何かの間違いだったとして、運動神経のいい監督が伝記映画を撮り直せば面白いのではないか。そういえば、ジュリー・テイモアがカーロの生涯を撮った『フリーダ』(2002年)は、ミュージカル演出家として(悪)名高い彼女らしく悪趣味なところも多い作品だが、それがカーロの悪趣味と合致して、誰もが面白く見られる映画にはなっていたと思う。とりあえずはあのレヴェルでいいので、まじめくさった「芸術映画」である必要はまったくないと思うのだが。

 
 
(付記)

これは映画をテーマとするエントリーではないので一言だけ。「シリアス」な日本映画の端的な欠陥は、「はい、出会いの場面」「次は、語らいの場面」と律儀につないでゆくだけの義務的な編集に見られるリズム感のなさであり、それが映画を鈍重なものにしている。言うまでもなく映画とは文字通りの「動画(motion picture)」であり、運動感(蓮實重彦のように「動体視力」という言葉を振り回す気はないけれど)のない映画は映画ではない――これはもちろんストローブ&ユイレやアンゲロプロスの長回しのように外延的・相対的に遅くとも内包的・絶対的な運動感をもった映画があることを前提としての話であって、たんに速ければいい(それこそアメリカのTVドラマ「SCANDAL」のようなあざとい編集がいい)というのではまったくないけれど(ドゥルーズ映画論の枠組みでいえばこれは「運動イメージ」と「時間イメージ」の差異にもかかわる問題だが、さしあたってはドゥルーズ&ガタリの「速くあれ、たとえその場を動かぬときでも」という一文を引いておけばすむだろう)。そうした意味でも、とくに近年の「シリアス」な日本映画の運動神経の鈍さは致命的に見える。この際、編集が乱暴になってもいいから――それこそゴダールのような確信犯的「つなぎ間違い」(faux raccord)を連発してもいいから――上映時間をとりあえず5~10%削ってみてはどうか。それだけでも少しはましになるような気がするのだが。