三浦基の『フィデリオ』
小崎 哲哉
2016.01.14
1月11日、前日にリニューアルオープンした京都ロームシアターのメインホール(2005席)。オペラ『フィデリオ』の舞台は、出演者の配置からして意表を突くものだった。オーケストラ(下野竜也指揮・京都市交響楽団)は舞台上にいる。歌手と役者は、オケの後ろに組まれたシンプルなセットに上ることもあるが、半分くらいはオーケストラピットにいる。だから頭くらいしか見えず、それを補うかのように、天井に設置してあるとおぼしきカメラがオケピを俯瞰で捉え、横に細長い映像が舞台奥に投影される。
最初に映し出されるのは、全身をフード付きの赤いマントで覆ったパフォーマーたちだ。同じく赤マント姿の役者がふたり(たぶん安部聡子と石田大)、舞台の上手と下手に登場し、狂言回しというか、歌以外の台詞を担当する。サミュエル・ベケットの『クワッド』に出てくるパフォーマーの格好によく似ているなあ、とぼんやり考えていると、オケピのパフォーマーたちが不可視の正方形の辺と対角線に沿って歩き始める。まさに『クワッド』。演出家・三浦基は、19世紀初頭に初めて上演されたベートーヴェン唯一のオペラに、20世紀後半に不条理演劇の作家が作ったテレビ作品の動きを引用した。
これだけでも、「オペラ」を期待してきた観客・聴衆にとっては「なんやこれ?」ではなかったかと推測する。狂言回しの発話は地点の役者に特有の奇妙な語り口で、しかも複数の役柄をふたりが担当し、省略もあるから、台本を読んでこなかった観客には副筋が理解しづらかったろう。歌手はおよそ演技というものをせず、ほとんどの場合、正面を向いて歌うのみ。シンプルな衣裳(堂本教子)はみなよく似ていて、赤マント以外に2種類しかない。舞台上のセットの後ろに押し込まれたコロスは囚人の合唱を担当するが、オケピにいる(つまり、視覚的に明らかに囚人だとわかる)役者は歌うどころか台詞も発しない。幕間に、オペラファンの知人が「女性トイレではみんな文句たらたら。地味、暗い、わからないって」と言っていたが、文句を言いたくなる気持ちは理解できなくはない。
だがもちろん、演出の三浦基はすべてを確信犯的に行っている。マルツェリーネとヤキーノの副筋など、原作でも中途半端なのだからわからなくてもかまわない。そもそも『フィデリオ』の物語は陳腐なまでに単純で、台本など読まなくても推測できるくらいだから、わざとらしい演技や衣裳は必要ない。オペラの歌詞内容を理解させるなら、歌が本職ではない地点の役者ではなく、歌い手たちと字幕に任せるほうが合理的だ。本人に確かめたわけではないけれど、そんなところではないだろうか。だとすれば、「地味」と「暗い」はさておき、「わからない」という苦情は的外れだと言える。
オケピを演技空間として使うことも、単なる思いつきではないだろう。もともと三浦は、舞台における高低の位置関係を演出に取り入れることに長けている。『桜の園』の地面と窓枠、『ワーニャ伯父さん』のピアノの上下、『三人姉妹』の天井から逆さに吊り下げた木と床を這う役者など、視覚や体感から、物語とその背後にある劇的世界の構造を観客の意識無意識に刷り込もうとする。フロレスタンほか、囚人が閉じ込められているのは地下牢である。舞台より下に位置するオケピを地下に、舞台上を地上に見立てるのは、だからベタかもしれないが自然であり効果的である。
『クワッド』の引用も、単に演劇的な教養をひけらかすのが目的ではないだろう。ローマ市の演劇記念館で『(不)可視の監獄 – ベケットの演劇と現代世界』展を企画した多木陽介は「『監獄』(囚われの状態)と言う観念は、ベケット演劇の中で常に中心的な装置として機能し続ける」と主張している。多木によれば、『ゴドーを待ちながら』(1952/53年)から『勝負の終わり』(1956/58年)や『しあわせな日々』(1961年)などを経て、『ねえジョウ』(1965年)や『私じゃない』(1972年)などに至るベケット作品は、『ゴドー』の「心理的な監獄」から、『勝負の終わり』などの「密閉された室内」、『しあわせな日々』などの「身体的拘束」を経て、『私じゃない』などの「自分の意識という牢獄」に至る「囚われの状態」を主題としている。「人間その物が監獄なのだ」(多木)という認識である。
それと同じ認識が、三浦版『フィデリオ』の登場人物に重ねられる。フランス革命時に書かれた『フィデリオ』を実存主義的に解釈するのは、いまに始まった話ではない。だが、ベタであるとは言え、『クワッド』を引用することにより、デウス・エクス・マキナ的、というより水戸黄門的ご都合主義のオペラが、ベケット的にして普遍的な意味を帯びることになった。ドイツ語で歌手が歌うと、台詞の日本語訳が舞台奥に投影される。オケピの床の黒い地は、白抜きの文字の可読性に寄与しているが、同時に「自分の意識という牢獄」の暗さを想わせもする。その周縁に囚人の赤い服がうごめく様は鮮烈にしておぞましい。
先に書いたとおり、オペラファンの気持ちはわからなくはない。けれども、初演から200年以上経ったいま、没入型の舞台芸術に真に没入することなどできるのだろうか。狂言回しの役者の奇妙な発話も、棒立ちで正面を向いた歌唱も、もちろんベケットの引用も、偽りの没入を偽りと暴き立てるための三浦流の異化効果である。ベートーヴェン=19世紀から遠く離れて、3月のKyoto Experimentで、同じロームシアター(のサウスホール)で上演される『スポーツ劇』(音楽=三輪眞弘)が楽しみである。
最初に映し出されるのは、全身をフード付きの赤いマントで覆ったパフォーマーたちだ。同じく赤マント姿の役者がふたり(たぶん安部聡子と石田大)、舞台の上手と下手に登場し、狂言回しというか、歌以外の台詞を担当する。サミュエル・ベケットの『クワッド』に出てくるパフォーマーの格好によく似ているなあ、とぼんやり考えていると、オケピのパフォーマーたちが不可視の正方形の辺と対角線に沿って歩き始める。まさに『クワッド』。演出家・三浦基は、19世紀初頭に初めて上演されたベートーヴェン唯一のオペラに、20世紀後半に不条理演劇の作家が作ったテレビ作品の動きを引用した。
これだけでも、「オペラ」を期待してきた観客・聴衆にとっては「なんやこれ?」ではなかったかと推測する。狂言回しの発話は地点の役者に特有の奇妙な語り口で、しかも複数の役柄をふたりが担当し、省略もあるから、台本を読んでこなかった観客には副筋が理解しづらかったろう。歌手はおよそ演技というものをせず、ほとんどの場合、正面を向いて歌うのみ。シンプルな衣裳(堂本教子)はみなよく似ていて、赤マント以外に2種類しかない。舞台上のセットの後ろに押し込まれたコロスは囚人の合唱を担当するが、オケピにいる(つまり、視覚的に明らかに囚人だとわかる)役者は歌うどころか台詞も発しない。幕間に、オペラファンの知人が「女性トイレではみんな文句たらたら。地味、暗い、わからないって」と言っていたが、文句を言いたくなる気持ちは理解できなくはない。
だがもちろん、演出の三浦基はすべてを確信犯的に行っている。マルツェリーネとヤキーノの副筋など、原作でも中途半端なのだからわからなくてもかまわない。そもそも『フィデリオ』の物語は陳腐なまでに単純で、台本など読まなくても推測できるくらいだから、わざとらしい演技や衣裳は必要ない。オペラの歌詞内容を理解させるなら、歌が本職ではない地点の役者ではなく、歌い手たちと字幕に任せるほうが合理的だ。本人に確かめたわけではないけれど、そんなところではないだろうか。だとすれば、「地味」と「暗い」はさておき、「わからない」という苦情は的外れだと言える。
オケピを演技空間として使うことも、単なる思いつきではないだろう。もともと三浦は、舞台における高低の位置関係を演出に取り入れることに長けている。『桜の園』の地面と窓枠、『ワーニャ伯父さん』のピアノの上下、『三人姉妹』の天井から逆さに吊り下げた木と床を這う役者など、視覚や体感から、物語とその背後にある劇的世界の構造を観客の意識無意識に刷り込もうとする。フロレスタンほか、囚人が閉じ込められているのは地下牢である。舞台より下に位置するオケピを地下に、舞台上を地上に見立てるのは、だからベタかもしれないが自然であり効果的である。
『クワッド』の引用も、単に演劇的な教養をひけらかすのが目的ではないだろう。ローマ市の演劇記念館で『(不)可視の監獄 – ベケットの演劇と現代世界』展を企画した多木陽介は「『監獄』(囚われの状態)と言う観念は、ベケット演劇の中で常に中心的な装置として機能し続ける」と主張している。多木によれば、『ゴドーを待ちながら』(1952/53年)から『勝負の終わり』(1956/58年)や『しあわせな日々』(1961年)などを経て、『ねえジョウ』(1965年)や『私じゃない』(1972年)などに至るベケット作品は、『ゴドー』の「心理的な監獄」から、『勝負の終わり』などの「密閉された室内」、『しあわせな日々』などの「身体的拘束」を経て、『私じゃない』などの「自分の意識という牢獄」に至る「囚われの状態」を主題としている。「人間その物が監獄なのだ」(多木)という認識である。
それと同じ認識が、三浦版『フィデリオ』の登場人物に重ねられる。フランス革命時に書かれた『フィデリオ』を実存主義的に解釈するのは、いまに始まった話ではない。だが、ベタであるとは言え、『クワッド』を引用することにより、デウス・エクス・マキナ的、というより水戸黄門的ご都合主義のオペラが、ベケット的にして普遍的な意味を帯びることになった。ドイツ語で歌手が歌うと、台詞の日本語訳が舞台奥に投影される。オケピの床の黒い地は、白抜きの文字の可読性に寄与しているが、同時に「自分の意識という牢獄」の暗さを想わせもする。その周縁に囚人の赤い服がうごめく様は鮮烈にしておぞましい。
先に書いたとおり、オペラファンの気持ちはわからなくはない。けれども、初演から200年以上経ったいま、没入型の舞台芸術に真に没入することなどできるのだろうか。狂言回しの役者の奇妙な発話も、棒立ちで正面を向いた歌唱も、もちろんベケットの引用も、偽りの没入を偽りと暴き立てるための三浦流の異化効果である。ベートーヴェン=19世紀から遠く離れて、3月のKyoto Experimentで、同じロームシアター(のサウスホール)で上演される『スポーツ劇』(音楽=三輪眞弘)が楽しみである。