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トーク「福田尚代と福永信の小さな一時間」全記録
福永 信

2013.07.12
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トークショーというのがけっこう好きでして、高校生のときから新聞とか雑誌とかで情報を得ては、聞きに行ったものだ。今もわりと行く方だと思う。高校生くらいのときに見に行ったやつで思い出すのは、浅田彰さんのトーク(これはハガキで応募して見に行くタイプのもので、タイトルは「ポスト・ポストモダン社会の行方」だったと思うが、その会場になっているビルの建築の話題からはじまって、モダニズムからポストモダニズム、その飽和状態までを一気にガッと語るそのよどみなさに「台本があるのだろうか」と思ったほどだったが、話の途中で、「ちょっと、今、思いついたんで」と言いながら、ホワイトボードに図をかいて、即興的に話を別の方向へ投げていこうとする、そのライヴ感が印象的だった)とか、チャップリン研究で孤高の存在だった故・江藤文夫のトーク(これは、たしかどこかの公民館みたいなビルの一室で、ほんの数人の聴衆を前にしたものだった。なんだか僕も申し訳ない気持ちになったくらいだが、江藤さんは、「こうしてチャップリンの話ができることがとてもうれしい」というようなことをおっしゃっていた)とか、もう京都造形大の入試の直前だというのに聞きに行った、故・荒川修作のトーク(東京国立近代美術館の個展の際に開催されたもので、そのときの彼の「アー、きょうは、何を言わないか、ということだけを決めてきましたが…」という第一声は、今でも忘れられない)とか、トークの全体がどんな内容だったかなんて、今ではすっかりどれも忘れてしまっているけれど、そのときのトークをしている男達の顔は、今でも忘れない。とてもかっこよかったのだ。

自分が将来、そんなふうに、人の前でトークをしたりするなんてのはまったくその時点では想像すらしていなかった。まぁ僕の場合ほとんどが聞き手、トークのお相手で、いってみれば、もっとも近くでトークが聞ける特等席に座っているだけなのだが。

今、福田尚代の展示が東京・水天宮のミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションという美術館で開催されている(ほかに、現在、大阪・FUKUGANGALLERYで個展を開催中の三宅砂織、池内晶子、そしてもちろん浜口陽三が参加)。その福田さんのトークの聞き手を仰せつかったのは、たぶん、前にこのブログでも触れた、京都でのブックラダー展のトークの御縁があったからだろうが、今回は、会場の規模も大きいし、マイクは使わないといけないし、また話題もかぶらないようにしないと、と思って、なかなかむずかしかった。しかし、それでもやはり、トークをしている福田さん、そのお顔は、とてもかっこいいのだった。

この展覧会『秘密の湖』を企画した学芸員の方が、驚異的なほどの短期間で、トークの全部を原稿に起こし、それに僕らが加筆修正をほどこし、そこから一部を抜粋して、今、この美術館のウェブサイトに掲載されているが、福田さんのお話をそれだけにしぼるのはもったいない。というわけで、以下、今回ここに掲載するのは、その原稿の全部である。

―――――

福田:浜口陽三さんの美術館で、浜口陽三さんと現代の作家が一緒になる貴重な機会をいただき、ありがとうございます。それではお話のほうに移りたいと思います。

 
福永:福田さんの作品のことを福田さんがいらっしゃる時に、こういった場所でお話をきくっていうのは、なかなかない機会だと思うので、そういう話もおりまぜながらきいていきたいと思います。年表が配られていると思うのですけど、それを手元に置きながらお話をきいてもらえるといいかなと思います。

「福田尚代略歴 あるいは作品に関するメモ」と書かれてある紙です。これが今日の一時間の中身の秘密、という感じなのですけど、これは年譜になっています。2010年から今年までを書いた一枚と、福田さんの1988年からの一枚です。それについて、最初の88年を、どういったところから始まったものであるかを、言ってもらえますか。

 
福田:もともと自分のサイトのために、ふつうの略歴のページを書いていたんです。それが書いているうちに段々変化していって、題名だけが「略歴」のまま残ったものなんですね。

もう一枚の紙は、今回のトークどうしましょう?と福永さんに相談したら、各自、ここ数年の「略歴」を書きましょうとご提案いただいて、二人がつい最近書いたものです。

じつは福永さんは、たぶん誰も見ていなかった私のサイトの「略歴」に、ほとんど初めて言及してくださった方でもあります。

 
福永:「略歴」はもともと、ほんとはもっと前から、福田さんが生まれたところから順番に書いたものもあったということなんですか。

 
福田:最初は本当の略歴だったから、大学卒業の辺りから始まっているんです。大学より前の年については、まだ書いたことはないです。

 
福永:福田さんの年譜は、いろんな面白さがあって、まず画面上でほんとうにちっちゃいんですよね。だけどね、だからこそむしろ積極的に、読んでしまいますね。例えば「少女漫画のせりふを刺繍で消しはじめる。」と書いてありますね、2005年のところ。それはその通りのこととして思い描けるけど、「消しはじめる」って、おもしろいですね、消しているのにこれから始まる感じがあって。そもそも過去形じゃないじゃないですか。ほかにも完了形とか、現在を感じさせる、過去ではない仕方で、年表が書かれている。それが面白くて、何度も読み返すんです。文体って言っていいのか分からないですけれど、これって、どういう感じででてきたんですか。

 
福田:これを書いている時って、「その時」と「今」の両方に居る感じで書いているでしょ。過去の「その時」に身を置いた自分が再び体験したことを、もうひとりの「今の自分」が書いている。ちょっと質問の意図とはずれちゃっている?

 
福永:いや、ぼくがうまく質問できてなかったですね。別なふうにききたいのですけど、一行の年もある一方で、数行にわたる年もある。同じ一年間なのに、どうしてこの一行にまとめられて、あるいは別の年では行数が増えたりするの?

 
福田:それは…誰もそうじゃない?福永さんだってそうじゃない?

 
福永:あ、ぼくも人のことまったく言えませんね…。

 
福田:福永さんの2010年は一行だけなので。(会場笑)

ただ、年表って不思議ですよね。いろんなことが起きているはずなのに、書くときに選択しているわけじゃないですか。その時点ですでにフィクションというか、意識的とは言えなくとも、ひとつの繋がりになる何かを選んでいて、実は書かれていないこともいっぱいあって、それも透けて見えますよね。その年に、ほんとうにそれだけしかなかったわけではないから…。この「略歴」はそういうものかも。作品みたいな感じです。

私には「すべての過去の記憶」を均一に書こうと試みた作品もあるんだけど、これはそれとはちょっと違いますね。

 
福永:2010年に、「11月6日 けしごむの夢を見る。白い骨のような輪郭線だけが残されている。」とありますけど、これは、下で展示されている作品のこと?

 
福田:はい。

 
福永:あの展示のままの夢をその時に見たっていうことですか。

 
福田:今展示している、あの配置ではないんですけど、輪郭線だけ残して全部くり抜かれた状態のけしごむが夢にでてきた。でも私、ずっとそんなこと忘れていて、福永さんから年表を書いて、と言われた時に、この頃の日記をちょっと読み返してみたんですよ。そうしたら、この夢のことが書いてあって、それで思い出したの。実は、原稿用紙の罫線だけの作品も夢で見ているんですよ。他にもいくつか夢がきっかけになった作品があるのですが、全部はこの略歴に書いていません。

 
福永:夢のなかで最初からけしごむっていう存在としてあったんですか。というのは、あの作品は、なかなか、パッと見ただけではけしごむだと気づかないと思うんです。そこに驚きもあるわけですね。それとも、夢のなかでは、けしごむが段々くり抜かれていくような映像を見たということなんですか。

 
福田:すでにくり抜かれた状態でした。あ、けしごむだなっていうのは、見たらすぐわかりました。「略歴」にはもうひとつ、コラージュの夢が書いてありますが、このコラージュ、もっと分かりにくい素材なんです。でも夢の中の私は、見ただけで何なのか分かるんですね。夢ってそうじゃないですか?

その作品が現実にすでにあるわけじゃないので、間違いかもしれないですよ。でも夢のなかで私はそうだと思った。そのままそれを信じてつくっちゃったという感じです。

けしごむの輪郭も、けしごむだと自分では思ったけど、正解はだれも知らない。勘違いかもしれない。ただ私はそう感じた。

 
福永:夢のなかで?

 
福田:はい。そういうことです。

 
福永:けしごむの夢は、何度も見たんですか?

 
福田:けしごむは一回しか見ていない。11月6日に見て、それから作りはじめた。

 
福永:強烈な経験だったということですか?

 
福田:でも忘れていたぐらいなので…。日記を読み返していると、実はいま展示しているもののほとんどって2010年につくりはじめてるんだなって気がついたり、随分ながい時間つづけていたんだなって思ったり。

 
福永:夢を見て、それをつくりはじめる。そのあいだには、何かありそうな気もするんですが、そうでもなくて地続きな感じなんですか。目覚めたら、もう手が動きはじめる、よし、つくるぞ!っていうふうになっているの?

 
福田:さっき言ったコラージュは、目が覚めてすぐにつくりはじめました。けしごむはどうだったかな…。たしかに夢が現実の手の動きへとつながる瞬間には、何かある感じがしますね。

 
福永:けしごむの夢を見る前に、けしごむと私、みたいな出会いが、福田さんにはあったりするんですか?

 
福田:(はずかしそうな笑い)ないよそんな。けしごむについて話しはじめたら止まらないから。

 
福永:でもちょっとそのことをききたいですね。

 
福田:ほんとに?じゃあちょっとだけ。(会場笑)

小学生の時に、同級生たちがけしごむを集めていたんだけど、みんな最後まで使わないんですよ。早く次のけしごむを使いたいから、小さくなったら机にしまって、それがちょっとずつたまっていく。そういうね、使い残しのけしごむになぜかとても惹かれた。小学校から高校くらいまで、そんなけしごむだけを貰って集めていて、家には人の使いかけのけしごむがいっぱいあったんです。大学3年の時に、子供の頃からずっと集めていた、「みんなが使いきれなかったけしごむ」を並べて展示しました。それが最初のけしごむの作品です。

大学卒業後、私には「物」をつくることからしばらく離れていた時期があって、その頃は言葉を書いたりしていたんですけど、もういちど「物」について考えて、「物」へかえってきた時に、最初にしたことが、けしごむの彫刻だったんです。

けしごむは無くなっていく。「物」ではなくなっていきますよね、言葉を消しながら自分も消えていく姿は、私たちと一緒、ほとんど一緒みたいです。消える前に形をとどめたいという、そういうことだったのかな。

けしごむのシリーズはずっと続いていて、とうとう輪郭だけになりました。

 
福永:福田さんの作品を見るという経験が、まるで、ぼくらの見ている夢だったらいいですね。でも、夢で終らないのは、作品はまさに目の前にあって、空洞で向こうが透けて、すかすかなんだけど、全部の輪郭が消えてしまっているのではなくて、がんばれば文字だって消せるという、すれすれのところで、けしごむという機能が残されていることですね。

福田さんの作品は、言葉と密接につながってますよね。回文の作品もそうですが、言葉にまつわるものを素材にされているわけですね。本であるとか、原稿用紙であるとか、けしごむであるとかね。最初に「消しはじめる」という年譜のことをいいましたけど、言葉というのは福田さんにとって消えていくものですか。それとも、消していきたいというものでしょうか。言葉というものがこう継続していて、言葉をどんどん自分で書いて、生み出してゆくことをうながすものなのか、それとも、言葉というものはどんどん自分から消えてゆくという感覚なんでしょうか。ぼく、自分でもだんだん何をいってるのかわからなくなってきましたけど…。

 
福田:今回はたぶん私がこれまでにつくった空間のなかで、いちばん静かな展示になりました。言葉はくりぬかれてしまって無いのだけれど、まさに消し「はじめる」だから、言葉を消して終わった、というよりは、言葉とかかわった果ての姿という感じです。言葉によって「物」のことを考えたり、「物」としての言葉を想ったり、つまり美術の立場から言葉を「物」として使っているところがある。ひとつひとつ、粒のように使っている。

原稿用紙からくり抜かれた言葉というのは、そこには無いんだけど、同時にどこかにあると想像できる、想像しないと聞こえない、そういうことなのかな。消滅させてしまいたいというより、別の見方がもしかしたらできるかもしれないという、そういうことをしている…。もしかしたら言葉が煙になっていたり、水にとけていたり。書くことと消すことがじつは同じ行為、伝える行為になっている。

 
福永:ある種の反復作業があるでしょ、福田さんのなかに。それってとても不思議なんですよ。けしごむをくり抜いてゆくっていうのも一日ではできない。しおり紐をほぐしてゆくっていうのも、一日ではできない。今日と明日は似ていて、少しずつ変化してゆくがそれは微細なものであって、明日も明後日も、やることがわからないわけではない、ほとんど同じ作業としてやることができるわけですね。それって自分の感じ方を信じていないとできないんではないでしょうか。小説も毎日の反復作業の繰り返しで完成するといえばそうなんですが、ちょっと違うところもあって、一瞬にして駄目になる、という感じもあるんです。今日書いたことが、明日になるともう駄目になる。どういうことかというと、信じられなくなる、ということです。昨日の自分が信じられない。過去の年表のように一日一日積み重なってゆく自分がほんとうに信じられない、ということが、日常、何度もおとずれるんです。福田さんとは逆じゃないかな、と思うんです。でもね、矛盾するんですが、同時に、福田さんにもその反復してゆく自分の行為っていうものが、昨日や今日、明日と少しずつ密接に反復していながら少しずつ、ある種、もう駄目だ、やめようという瞬間があるんじゃないかな、と思うんです。年譜を読んでいると、その揺れ動きが書かれているようにも思えるんですが、そういうのってある?

 
福田:書くことと消すことのくり返しです。一つの作品の中に、福永さんの言う「逆のこと」が同時に起きている場合がある。同じ意味になっていく…。

福永さんが小説を書いてる視点とまったく同じにはなれなくても、想像をね、するんです。自分が書いている言葉を異様にくっきりと見渡している様子とか、福永さんの小説は一つの言葉がおおきな効果を発揮するものだから、単語を一個書き換えた時に見え方ががらっと変わったりする様子とか。小説を読みながら、作者が書いている時の手許の光景を想像することがある。

けしごむを彫る作業はものすごく単調なので、同じことの繰り返しに見えるかもしれないけれど、実はちぎれたりいろいろなことが起きている。原稿用紙は一見まっすぐに見えるけど、フリーハンドでひと升ずつカッターでくり抜いてゆくから、近付いて見ればゆがんでいる。その視点に誰か他の人が入り込むことができたら、きっと退屈には見えないでしょう。でもそこまで見せる気持ちもないし、表面にあらわれたものだけを見てくださる方がいて、続けていられるんだろうな、とも思う。

特に2010年から今年は、個人的にも世間的にも今まで以上にいろんなことがあって、そのなかで同じ事を続けていくことはむつかしかったかもしれない。途中で価値観が変わった部分もある。でもこの作品は続けられていた。もっとも、同じではないですよね、2010年にはじめた時の感覚と、2012年にもつづけている手の感じは。同じことのなかで、徐々に変わっていった。

それから一個の作品が終わらずに、違う姿に生まれ変わって、制作が続いてゆくこともあります。本の背表紙から切りとったしおり紐も、最初はただの紐だったんです。その後、洗濯したり、アイロンをかけたり、あるときはほぐして綿状の雲になり、今回はああいう形になり、そういうことが、実は起きてる。

 
福永:言葉というものが、そもそも、文字の組み合わせにすぎない、同じものを繰り返し使い続けているのに、じつに多彩に変化しますからね。

 
福田:うん、それは一緒。

 
福永:限られた絵具を組み合わせてまったく違う絵を描いてゆくように、福田さんの作業のなかに、人間の根本のようなものがあるということですね。変化の前には戻れない。ほぐした紐を元通りにしようとするプロジェクトにはならないですよね。

 
福田:わからない。可能性はゼロではない。

 
福永:でもそれはもとに戻るということではないかもしれない。

 
福田:そうですね、まったく同じものには戻れないかもしれない。今回のしおりも、また変わるかもしれないし、もしかしたらほんとうにあれで終了かもしれないし。まだわからない。

 
福永:ある日あるとき福田さんのなかで、これだって一つに決めてしまえるものですか。それともいくつかのプランのあるなかから選択されるものなんですか?

 
福田:ここでは幸い設営に時間をたっぷりとらせて頂けたので、たとえば色鉛筆の芯がね、展示していくうちに、だんだん砂浜に散らばっているちっちゃい貝殻に見えてきたんです。隣のしおりの作品も、まったく思いがけない形、島みたいな形になったんだけど、その島の中にも、ちっちゃい貝殻が散らばっているのが見えたんです。本当は単にしおりの糸のちいさな粒だったんですけど、私には隣同士の作品がつながったように見えて、すごくびっくりしたし、嬉しかったし、納得した。今日はこうしてお話していますが、普段は完成した状態だけを見ていただくわけです。でも実はそういうことがたくさん私の中におきています。もしこうしようと意図していたら、おそらくそういうことは起きない。びっくりもしない。作品は自分でプランをたてて出来ることではないです。多分、この場所や時間や人もかかわって起きていることです。

 
福永:そういう展示する場所とか、ある種の締め切りという機会がないと、なかなかそういう変化はおきないですか?

 
福田:そんなこともないです。家での制作はいつもそんな感じだから。今回は設営のときにもそうなったということです。時間をたくさん頂けたし、ひとりにして貰えたから、そういうところまで行けたんだと思う。

 
福永:自分の決断がはたらいているということですか。

 
福田:機会を捉える感じでしょうか。

「略歴」では、決断しておこなったかのように、後から第三者的に記述しているけれど、本人が決断して行動したとは限らないですね。

 
福永:さて、突然ですが、この年譜の好きな年ってありますか。それをひとつ朗読してください。ぼくもやりますから。(恥ずかしがる福田さんに対して)自分の人生じゃないですか。

 
福田:(年譜の88年を朗読)

 
福永:なんか、ずっと聞いていたくなる、良い声ですね。こんな声をもつ文字だったのだなと思えるし、あたたかいやさしい言葉だなと感じる。黙読で読むのと変わりますね。

 
福田:あ、そうですか。

 
福永:ぼくも、年譜を書いたんですけど、何も出てこないんですよ。福田さんの形式をまねたらを自分でもようやくちょっとだけ書けた、ということなんです。2012年だけですけどね、唯一、福田さんと同じくらいの行数が生まれたので、ここをちょっと読ませていただきます。(2012年を朗読)

年譜というのは大人っていうものと子供っていうもの、いつのまにか分けてしまう、そういう残酷なものだと思います。福田さんの年譜はそうなっていない。(なにか福田さんがささやく。)いや、そういうことなんですよ。福田さんは88年から書かれていて、もうふつうの年譜なら大人のはずですが、子供のままなんじゃないかな。子供の状態が、刻まれている、そんな気がするんです。

 
福田:たしかに、子供の頃の年譜も書いたら、ここに書いてあることと同じような記述が続くと思います…。

ところで、これは年表だから、ふつうの時間の流れに添って書いたけど、ほんとうは作品の時間の流れは一方向ではないですよね。過去と未来を行ったり来たりしている。でもまさに、この話をする時間は今、無いみたい。

 
福永:ぼくがね、うまく話を運べなかったところがあって、ほんとはこれから話がはじまるといいんですけどね。福田さんのトークは今日はこれで終わるんですが、このあとも同じように一時間、この場所にいますから(福永注、このアーティストトークのシリーズは、トークのあとに、お客さんに飲み物がふるまわれるといった、お茶の時間が一時間ほどあってゆるやかに終わるかたちになっていた)、個人的におしゃべりして、それを各自、みなさんごとのトークの終わりにしてもらえたらと思います。

 
質問:(配られた年表にある)「言葉が小さい」、というのがどういうことか聞きたかった。それと「2010年以降にはじめた事のすべてが、ひとまず終了する。」とあるのはどういうことか聞かせてください。

 
福田:実は前に一度、福永さんと京都でトークをしているんです。そのとき、どうして福田さんの略歴の文字はこんなに小さいの?って訊かれて、そう答えたんです。

 
福永:言葉って、大きさがないし、読みにくさ、読みやすさしかないと思っていたんですが、「言葉って小さいでしょ」って福田さんがさも当たり前のように言うので驚きました。

 
福田:粒子みたいに小さい。

 
福永:言葉は紙に書くしかない、宙で浮いているものではない。空間をつくるのではないですね。ぼくらはそこで止まっちゃうんだけど福田さんは、回文の夢を見ると年譜に書いています。今年のところにも回文の「文字が宙に浮かぶ夢を見る」って書いてあって、これはどういうことかまったく想像できないんだけど、もしかしたら、ぼくが見たかった夢かもしれない。

 
福田:もう一つの質問にお答えすると、今回の展示ってやっぱり2010年からの一連のことなんです。私の3年、というのがあって、終了するかもしれないし、継続するかもしれないものだけれど、終了することになったよっていうことです。

 
福永:「2010年以降にはじめた事のすべてが、ひとまず終了する。」というのは最後の行ですが、まるで遺書のような、これで私が死ぬかのような、終わっていくという感じがしたんですけど、同時に、何かが続くという明るさのある言葉にも聞こえてきて、不思議だなぁって思ってるんです。

 
福田:言葉に限らず、相反することが作品には起こる。「ある」とか「無い」とか、そういうことが常に一人の人間の中にある。それと、これは「年譜」だから、最後はまるで死んだみたいに書かれているのかもしれない。

 
福永:でも、ひとまず死ぬ、なんて人はこの世にいないんで、「終了する」という終わりを求めながらも、「ひとまず」という言葉を忘れない、そこはとても大事なところだと思いますけどね。

 
福田:両方の願いがあると思います、同じくらい強烈に。この言葉については、これから考えないと分からない。つい数日前に出てきた言葉なので、これから私も考えます。

 
福永:今日は本当にありがとうございました。この一時間のなかでやりきれなかったこともありますが、「ひとまず」終わるということでお疲れ様でした。

(「福田尚代と福永信の小さな一時間」/6月1日、14時-15時/ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションにて)

 
 
秘密の湖  浜口陽三 池内晶子 福田尚代 三宅砂織

会期 2013年5月18日-8月11日

休館日 月曜日(7月15日は開館)、7月16日(火)、7月14日(日)の15時以降

開館時間 11時-17時(最終入館16時30分 土日祝は10時開館)

会場 ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション

料金 大人600円 大学・高校生400円 中学生以下無料

 
なお、7月28日(日)には三宅砂織さんと飯沢耕太郎さんの対談「光のデッサン」がある。参加費は入館料のみ。定員60名。電話にて申込み。詳しくはウェブサイトを参照のこと。