あいちトリエンナーレ開幕
小崎 哲哉
2013.08.14
某月某日
あいちトリエンナーレ2013開幕。おかげさまで内覧会は大好評だった。
トリエンナーレで僕は「パフォーミングアーツ統括プロデューサー」を務めている。内容から言えば、主な仕事はプロデュースというよりも演目の編成で、15の演目の半分はサミュエル・ベケットの作品と、ベケットに着想した、あるいはベケットに影響を受けていると思われる作品を中心に選んだ。五十嵐太郎芸術監督によるトリエンナーレのテーマは「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか: 場所、記憶、そして復活」である。「われわれはどこに立っているのか」という命題を考えるのに、ベケット作品以上にふさわしい劇作家(にして詩人にして小説家)はいないだろう。少なくとも僕はそう思う。
パフォーミングアーツ部門で先陣を切ったのは、ままごとの『日本の大人』。作・演出の柴幸男は「トリエンナーレのテーマにある『場所、記憶、そして復活』は全部入れたつもりですが、ベケットはどうかなあ」と語っていた。ベケット・フェスティバルではないのだから、あらゆる演目がベケット的である必要はもちろんない。ところが実際に観てみると、「大人になるのを拒否した小学26年生」という主要登場人物の設定が、womb(子宮)からtomb(墓場)の間で宙吊りにされているベケットの作中人物を思わせ、ベケット的世界と近似する、あるいはポジネガの関係にあるように思えてとても面白かった。絵日記帳を模し、舞台上を左右にスライドする大道具にも感嘆。
オープニングでは、やなぎみわによる『案内嬢パフォーマンス』もすばらしかった。愛知芸術文化センター2階の広々とした空間に、揃いの制服に身を包んだ10人の案内嬢が登場。トリエンナーレについての紹介を始めるが、気が付くとそれが、1945年8月9日にラジオ・トウキョウが海外向けに放送したラジオドラマ『新型爆弾』に変わっている。3日前に米軍が行った広島への原爆投下を非難する内容で、史実に基づきつつ虚実を綯い交ぜにするというやなぎお得意の手法だが、初演を行った内覧日は、まさに放送日にして長崎への2発目の投下が行われた8月9日当日。さらにそれが、いつの間にかベケットの『ゴドーを待ちながら』に変わってゆく。アートと舞台芸術を両輪とする、そして今年は「揺れる大地」をテーマとする、さらにはパフォーミングアーツ部門においてベケットを主軸とするトリエンナーレの幕開けにふさわしい、あざやかにして見事な作品だった。
パフォーミングアーツ部門において、全会期を通じて観られる(すなわちビジュアルアートと同様に「展示」される)2つのインスタレーション(ペーター・ヴェルツ+ウィリアム・フォーサイスの「whenever on on on nohow on | airdrawing」と向井山朋子+ジャン・カルマンによる「FALLING」)については、REALTOKYOの連載コラムに書くつもりだ。今回、全体に作家選択はなかなか良いが(半ば自画自賛 ^^;)、ビジュアルアートにおいては、特に愛知県美術館の宮本佳明、名古屋市美術館のアルフレッド・ジャー、納屋橋会場の名和晃平の各作品が必見だと思う。会場別にいえば、百貨店の計3フロアに4作家のみを配した岡崎(康生会場)のシビコ、やはり作家数を絞り、建築家の青木淳が構成した名古屋市美が、各作家間・作品間のコントラストを強調し、成功していると思う。
宮本は、トリエンナーレの主会場である愛知芸術文化センターが、ちょうど原子炉建屋を内包できる大きさであることを発見。「福島第一さかえ原発」という、刺激的にして挑発的なシミュレーション作品を発表した。ジャーは、被災地の中学校に残された黒板を名古屋に運び込み、原爆詩人の栗原貞子が書いた「生ましめんかな」という一節を愛知の中学生に書かせた。名和は、真っ暗な空間内に、白い泡が床から噴出し、形を変えてゆくインスタレーションを制作。ハワイ島のブラックサンドビーチのような床は不安定で、「揺れる大地」から新しい地形が次々に生成されるようにも見えて壮観だ。
いずれもが、「場所、記憶、そして復活」を強く示唆する。名古屋市内の長者町会場の全部、岡崎市内の康生会場の一部は未見だが、いうまでもなく近々すべてを観るつもりだ。パフォーミングアーツの公演は、今後、8月の後半の週末に計2演目、9月は毎週末に計6演目、10月は計3演目が行われる。「whenever on on on nohow on | airdrawing」と「FALLING」も含め、ぜひご覧いただきたい。
あいちトリエンナーレ2013開幕。おかげさまで内覧会は大好評だった。
トリエンナーレで僕は「パフォーミングアーツ統括プロデューサー」を務めている。内容から言えば、主な仕事はプロデュースというよりも演目の編成で、15の演目の半分はサミュエル・ベケットの作品と、ベケットに着想した、あるいはベケットに影響を受けていると思われる作品を中心に選んだ。五十嵐太郎芸術監督によるトリエンナーレのテーマは「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか: 場所、記憶、そして復活」である。「われわれはどこに立っているのか」という命題を考えるのに、ベケット作品以上にふさわしい劇作家(にして詩人にして小説家)はいないだろう。少なくとも僕はそう思う。
パフォーミングアーツ部門で先陣を切ったのは、ままごとの『日本の大人』。作・演出の柴幸男は「トリエンナーレのテーマにある『場所、記憶、そして復活』は全部入れたつもりですが、ベケットはどうかなあ」と語っていた。ベケット・フェスティバルではないのだから、あらゆる演目がベケット的である必要はもちろんない。ところが実際に観てみると、「大人になるのを拒否した小学26年生」という主要登場人物の設定が、womb(子宮)からtomb(墓場)の間で宙吊りにされているベケットの作中人物を思わせ、ベケット的世界と近似する、あるいはポジネガの関係にあるように思えてとても面白かった。絵日記帳を模し、舞台上を左右にスライドする大道具にも感嘆。
オープニングでは、やなぎみわによる『案内嬢パフォーマンス』もすばらしかった。愛知芸術文化センター2階の広々とした空間に、揃いの制服に身を包んだ10人の案内嬢が登場。トリエンナーレについての紹介を始めるが、気が付くとそれが、1945年8月9日にラジオ・トウキョウが海外向けに放送したラジオドラマ『新型爆弾』に変わっている。3日前に米軍が行った広島への原爆投下を非難する内容で、史実に基づきつつ虚実を綯い交ぜにするというやなぎお得意の手法だが、初演を行った内覧日は、まさに放送日にして長崎への2発目の投下が行われた8月9日当日。さらにそれが、いつの間にかベケットの『ゴドーを待ちながら』に変わってゆく。アートと舞台芸術を両輪とする、そして今年は「揺れる大地」をテーマとする、さらにはパフォーミングアーツ部門においてベケットを主軸とするトリエンナーレの幕開けにふさわしい、あざやかにして見事な作品だった。
パフォーミングアーツ部門において、全会期を通じて観られる(すなわちビジュアルアートと同様に「展示」される)2つのインスタレーション(ペーター・ヴェルツ+ウィリアム・フォーサイスの「whenever on on on nohow on | airdrawing」と向井山朋子+ジャン・カルマンによる「FALLING」)については、REALTOKYOの連載コラムに書くつもりだ。今回、全体に作家選択はなかなか良いが(半ば自画自賛 ^^;)、ビジュアルアートにおいては、特に愛知県美術館の宮本佳明、名古屋市美術館のアルフレッド・ジャー、納屋橋会場の名和晃平の各作品が必見だと思う。会場別にいえば、百貨店の計3フロアに4作家のみを配した岡崎(康生会場)のシビコ、やはり作家数を絞り、建築家の青木淳が構成した名古屋市美が、各作家間・作品間のコントラストを強調し、成功していると思う。
宮本は、トリエンナーレの主会場である愛知芸術文化センターが、ちょうど原子炉建屋を内包できる大きさであることを発見。「福島第一さかえ原発」という、刺激的にして挑発的なシミュレーション作品を発表した。ジャーは、被災地の中学校に残された黒板を名古屋に運び込み、原爆詩人の栗原貞子が書いた「生ましめんかな」という一節を愛知の中学生に書かせた。名和は、真っ暗な空間内に、白い泡が床から噴出し、形を変えてゆくインスタレーションを制作。ハワイ島のブラックサンドビーチのような床は不安定で、「揺れる大地」から新しい地形が次々に生成されるようにも見えて壮観だ。
いずれもが、「場所、記憶、そして復活」を強く示唆する。名古屋市内の長者町会場の全部、岡崎市内の康生会場の一部は未見だが、いうまでもなく近々すべてを観るつもりだ。パフォーミングアーツの公演は、今後、8月の後半の週末に計2演目、9月は毎週末に計6演目、10月は計3演目が行われる。「whenever on on on nohow on | airdrawing」と「FALLING」も含め、ぜひご覧いただきたい。