田中功起著『質問する 2009-2013その1』
福永 信
2013.09.24
稀勢の里が所属する鳴戸部屋は、親方の方針で出稽古をほとんどしなかったという。出稽古とは、自分の部屋だけで稽古をするのではなくて、ほかの部屋の力士と稽古をすることであるが、先場所の解説者、たしか舞の海だったと思うが、彼がいうことには、この出稽古、良い面もあるが、同時に、自分の手の内を見られてしまう欠点もある。もちろんそんな「手の内」を気にするような弱さがあっては、はるかなる高みへとのぼりつめることは期待できないが、しかし、対戦相手となるかもしれぬ相手に、文字通り裸の自分をさらけ出してしまうことではあるだろう。親方が亡くなって、新しい体制になったこともあるだろうが、稀勢の里が出稽古に積極的なのは、それが緊張感のある稽古の場を経験できるからだと思う。今日の稀勢の里はほぼ一方的に押されてしまって、九日目にして二敗となり、悪い癖が出たといわねばならないが、今場所の優勝、綱取りを諦めずにぜひがんばってほしいと思う。さて、ところで、田中功起が美術批評家(土屋誠一、沢山遼、林卓行)、キュレーター(成相肇、保坂健二朗、片岡真実、西川美穂子)、アーティスト(冨井大裕)といった、美術という同じジャンルにいながらもそれぞれ異なる場所でコツコツ仕事をしている友人らのところに出稽古に行ったその記録、それがこの本である。土屋と田中から始まって、成相と田中、保坂と田中、冨井と田中、沢山と田中、林と田中、片岡と田中、西川と田中、この順番と組み合わせで、がっぷり四つに組んで、じっくりと議論を進めていったその記録集なのである。
もっとも、ほんとに相撲をしたわけではなくて、田中功起から問いかけ、ゲストである彼らがお返事を出してそれに答える、またそれに対して田中が返信する、といった往復メール書簡という形式で書かれた本である。2009年から今年まで、「ART iT」のウェブサイト上という土俵で、作るとは何か、見るとは何か、展覧会とはいったいどんな場所なのか、それが往復メール書簡のテーマになって書き継がれた。これらのやりとりが、ほんとの意味で稽古になっているのは、くりかえし、くりかえし、おんなじことを、問いかけ、答え、言葉にしようとしているからである。田中は、執拗に、作るとは何か、見るとは何のことか、展覧会とはいったいどんな場所のことなのだろうか、と問う。彼女らも、それに答え、あるいは逆に田中に問いかける。
執筆者は全員がいい大人であり、それぞれが気心の知れた友人、同業者、仕事仲間でもあるからだと思うが、非常に友好的、丁寧な言葉遣いですすむ。つまり、あんまり文章そのものからはおどろきは感じない。が、しかし、田中から質問を受けたゲストがそれぞれ、微妙にカチンときているのが見えるようなときが、わずかではあるが、ある。読者は、この機微を読み流してはならない。そこに、美術にかかわって仕事をしている人間として、ここだけはゆずれない、という思いが込められているからだ。作るとはなにか、見るとはなにか、展覧会とは一体なにか。田中がお行儀よく書いているふうで(書いているのだが)、じつは遠慮なく相手を逆なでするような言葉で突いている瞬間が何度かあるのは、両者ともに真剣勝負だからなのである。また3・11の震災をはさんだメール(沢山遼の回)には、これまで真剣だったはずの問いかけが、どこかへふっ飛んでしまうような印象がある。あれ、俺達いったい何を書いてるんだろう、という戸惑いが訪れたのではないかと思う。しかし、二人は、作るとはなにか、見るとはなにか、展覧会とはなにかという問いを手放すことはしなかった。むしろ、さらに強い問いかけとなって書き手の手に力がこもり、それは読者にも伝わってくる。どこからが作ることで、どこまでが見ることなのか、その境界線はどこか。経験するとは、しないとは、その線引きはどうなるのか。読みながら、固定された土俵などどこにもないのだと気づかされる。
この『質問する』という本は、思いがけない大胆な結末を迎える。作ることについて、見ることについて、展覧会について考えてきたこの往復メール書簡は最後、東京都現代美術館の西川美穂子の回で、展覧会という場所そのものに参入していくからである。『MOTアニュアル2012 Making Situations,Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる』展の出品作のひとつになってしまうのだ。田中功起は自分が参加するそのグループ展の出品作のひとつとして、この往復公開メール書簡を「出品」するのである。この往復メール書簡という試みは稽古なんかじゃない、本番だった(本番になってしまった)わけだ。ものすごく田中功起らしいアイデアだと思うし、なんというか、うらやましい気持ちになった。こういうこと、ぼくは好きだ。というのは、この「オチ」は、本人もきっと最初は想像してなかっただろうから。それまで思いついてなかったアイデアが、ある瞬間に、思いつき、しかも、それを実現するのに、時間はかかるが、お金はかからない。これまでと同じことを続けていながら、同じことではない。大げさではないが、実は大きな変化がそこに見ることができる。後から考えると、これ以上の終わり方は想像できないだろうような結末。そしてどうしてもこれが終わったあとの展開も考えてしまいたくなるような、終わり。偶然と必然の合わせ技。
ところで現在、ヴェネチアビエンナーレ日本館で『抽象的に話すこと――不確かなものの共有とコレクティブ・アクト』という田中功起展が開催中である(11月24日まで)。東京国立近代美術館の蔵屋美香のキュレーションで、二人の協同によってこの個展は実現し、特別表彰を受賞した(二人の公開トークが7月下旬に同志社大であって、そのときのレポートは小崎哲哉がブログで書いている)。タイトルは論文みたいだが(小崎によれば実際の展示もテキストが多かったというが)、ヴェネチアで展示されている映像作品のすべては特設ウェブサイトで見ることができる。ぼくは「A Piano Played by 5 Pianists at Once(First Attempt)」から見たが、「ちょっとだけ、見ておくか」のつもりが、けっきょく全部見てしまった。フシギな魅力がそこにはある。上記の作品は、5人のピアニスト(音楽学校の学生)が1台のピアノに並んで腰かけて、鍵盤に手を(指を?)出して、即興で、ひとつの曲を弾く、弾こうとする、そのプロセスを映像で撮っている。さきのトークで本人が言っていたことだけれども、映像は複数のカメラで撮っているが、かならずカメラ(とその撮影者)が映り込む。撮影しているのは、田中ではない。この空間のどこかにいるのだろうと思えるが、姿が見えない(作品によっては、ちらっと見えるときもある。蔵屋の姿も遠くに見えるときがある)。ピアノの演奏者達のほかにも、この場所には、人がいる、存在している、ということが、映り込んでいるわけだ。通行止めをしてロケをしているのではなくスタジオのセットで撮影しているのでもない、ぼくらが今、この映像を見ている場所と地続きであることを(時間的にも空間的にも、遠く離れてはいても)、ちゃんと忘れさせず、撮っているということである。
ヴェネチアの作品については、この『質問する』のなかでも触れられているし、また巻末の蔵屋美香との対談でも語られている(この対談は、蔵屋によるちょっとした田中功起論になっている)。往復メール書簡を書いているどこかの時点で、田中の頭にこれらの作品のアイデアが浮かんだ、その瞬間があった。そのことを思い浮かべながら、つまりは作者自身が変化していくのを感じながら読むのも、本書を今、読むことの楽しみのひとつになるだろうと思う。ちょうど京都国立近代美術館でやっている『映画をめぐる美術 マルセル・ブロータースから始める』展に(これも論文みたいなタイトルだ。こちらの展示ではテキストは会場入り口のみで、ほとんどなかったが。なぜだろう?)田中功起が参加しており、ヴェネチアビエンナーレの出品作のひとつ「A Poem Written by 5 Poets at Once(First Attempt)」などが出品されているが、これは非常にいい機会だ。ちょうど『質問する』で、本や写真やウェブなど間接的に作品を見ること、知ること、人の話として聞くこと、それらと、直接その場所に足を運んで作品を見ることは、ほんとにちがうことなのだろうか、という議論があったが(林卓行の回)、このヴェネチアのサイトと京都国立近代美術館での展示で、読者であるぼくらも自分の経験として、深く考察することができるからである。
田中功起という作家の作品をよりよく理解するためだけ、というには、この本は、あまりにも贅沢で、もったいない。ぼくらが美術館に展覧会を見に行くときにいつもカバンに突っ込んでおくといいんじゃないかなと思う。展覧会を見ると、作品は持って帰れないからいつも手ぶらだが、頭の中にはいろいろ詰まっている。それをそのまま時間と共に忘れるのはもったいない。この本を開いて、自分も対話に参加する気持ちで読む、すると、見終わった、と思った展覧会に終わりはなかった、ということに気付かされるにちがいない。本を開くといつでも再生される言葉がここにはある。この本は、すべての展覧会に対応するカタログといえると思う。
田中功起『質問する 2009-2013 その1』 (アートイット)
土屋誠一、成相肇、保坂健二朗、冨井大裕、沢山遼、林卓行、片岡真実、西川美穂子との公開往復メール書簡集。蔵屋美香との語りおろし対談も収録。森大志郎装丁。2013年7月10日初版刊行 1900円(税別)。360ページ。意外に安い。
『映画をめぐる美術 マルセル・ブロータースから始める』
会場 京都国立近代美術館
会期 2013年9月7日(土)-10月27日(日)
開館時間 午前9時30分-午後5時(金曜日、10月26日[土]は午後8時まで開館) 入館は閉館の30分前まで。だが、時間の余裕をたっぷりみて行った方がいいと思う。金曜日がオススメだ。
休館日 月曜日(ただし、祝日は開館し、翌火曜日は休館)
料金 一般 850円 大学生450円 意外に安い。
ちなみに、会場に入ってすぐ、マルセル・ブロータースの部屋は、16ミリ映写機6台で彼の映像作品がカタカタ上映され続けているが、この部屋を見るためだけでも展覧会を訪れる価値はある。中でも「雨(テクストのためのプロジェクト)」(1969年/2分)は、傑作コントで思わず立ち止まってしまうだろう。男が、野外で、小さな箱の上に筆記用具をならべて、背をかがめるようにして、書き物をしているが、雨が降って、書いているどころではない。が、男は、知らぬ存ぜぬというふうに気にせず書き続ける。何度ペンにインクをつけなおしても文字は流れるが(当たり前だ)男は書き続ける。しかし雨もだまってない。文字は書かれるそばから消えてすべてを洗い流していく……。これはほとんど田中功起のライバルみたいな作品であり(たとえば出品作の「犬にオブジェを見せる」など)、かすかにだがこの「グループ展」で、作品間の交流が感じられた(『質問する』の西川との回で、「グループ展」とは何か、というのが議論になっていた)。とはいえ、やはり、それにしても、このグループ展には説明が少なすぎる。というか、ほとんどない。「映画をめぐる美術」とは何か、「マルセル・ブロータースから始める」とはどういうことか、意味深なタイトルを掲げている以上、入口のまえがきだけで終わるのではなく、言葉でもう少し、説明を加えるべきではないかと思う(そうでなければ作品を並べているだけにも見えてしまう)。ぼくは初日の土曜日に見に行ったのだが(たのしみにしていた)、ほんとは配布される解説プリントがあって、間に合わなかっただけなのか。あるいは、カタログで理解をすればいいということなのかもしれないが、それではいくらなんでも……。あれ。なんかグチになって終わっちゃったな。こんなことを書くなんて、最初は思ってなかったのにな。
もっとも、ほんとに相撲をしたわけではなくて、田中功起から問いかけ、ゲストである彼らがお返事を出してそれに答える、またそれに対して田中が返信する、といった往復メール書簡という形式で書かれた本である。2009年から今年まで、「ART iT」のウェブサイト上という土俵で、作るとは何か、見るとは何か、展覧会とはいったいどんな場所なのか、それが往復メール書簡のテーマになって書き継がれた。これらのやりとりが、ほんとの意味で稽古になっているのは、くりかえし、くりかえし、おんなじことを、問いかけ、答え、言葉にしようとしているからである。田中は、執拗に、作るとは何か、見るとは何のことか、展覧会とはいったいどんな場所のことなのだろうか、と問う。彼女らも、それに答え、あるいは逆に田中に問いかける。
執筆者は全員がいい大人であり、それぞれが気心の知れた友人、同業者、仕事仲間でもあるからだと思うが、非常に友好的、丁寧な言葉遣いですすむ。つまり、あんまり文章そのものからはおどろきは感じない。が、しかし、田中から質問を受けたゲストがそれぞれ、微妙にカチンときているのが見えるようなときが、わずかではあるが、ある。読者は、この機微を読み流してはならない。そこに、美術にかかわって仕事をしている人間として、ここだけはゆずれない、という思いが込められているからだ。作るとはなにか、見るとはなにか、展覧会とは一体なにか。田中がお行儀よく書いているふうで(書いているのだが)、じつは遠慮なく相手を逆なでするような言葉で突いている瞬間が何度かあるのは、両者ともに真剣勝負だからなのである。また3・11の震災をはさんだメール(沢山遼の回)には、これまで真剣だったはずの問いかけが、どこかへふっ飛んでしまうような印象がある。あれ、俺達いったい何を書いてるんだろう、という戸惑いが訪れたのではないかと思う。しかし、二人は、作るとはなにか、見るとはなにか、展覧会とはなにかという問いを手放すことはしなかった。むしろ、さらに強い問いかけとなって書き手の手に力がこもり、それは読者にも伝わってくる。どこからが作ることで、どこまでが見ることなのか、その境界線はどこか。経験するとは、しないとは、その線引きはどうなるのか。読みながら、固定された土俵などどこにもないのだと気づかされる。
この『質問する』という本は、思いがけない大胆な結末を迎える。作ることについて、見ることについて、展覧会について考えてきたこの往復メール書簡は最後、東京都現代美術館の西川美穂子の回で、展覧会という場所そのものに参入していくからである。『MOTアニュアル2012 Making Situations,Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる』展の出品作のひとつになってしまうのだ。田中功起は自分が参加するそのグループ展の出品作のひとつとして、この往復公開メール書簡を「出品」するのである。この往復メール書簡という試みは稽古なんかじゃない、本番だった(本番になってしまった)わけだ。ものすごく田中功起らしいアイデアだと思うし、なんというか、うらやましい気持ちになった。こういうこと、ぼくは好きだ。というのは、この「オチ」は、本人もきっと最初は想像してなかっただろうから。それまで思いついてなかったアイデアが、ある瞬間に、思いつき、しかも、それを実現するのに、時間はかかるが、お金はかからない。これまでと同じことを続けていながら、同じことではない。大げさではないが、実は大きな変化がそこに見ることができる。後から考えると、これ以上の終わり方は想像できないだろうような結末。そしてどうしてもこれが終わったあとの展開も考えてしまいたくなるような、終わり。偶然と必然の合わせ技。
ところで現在、ヴェネチアビエンナーレ日本館で『抽象的に話すこと――不確かなものの共有とコレクティブ・アクト』という田中功起展が開催中である(11月24日まで)。東京国立近代美術館の蔵屋美香のキュレーションで、二人の協同によってこの個展は実現し、特別表彰を受賞した(二人の公開トークが7月下旬に同志社大であって、そのときのレポートは小崎哲哉がブログで書いている)。タイトルは論文みたいだが(小崎によれば実際の展示もテキストが多かったというが)、ヴェネチアで展示されている映像作品のすべては特設ウェブサイトで見ることができる。ぼくは「A Piano Played by 5 Pianists at Once(First Attempt)」から見たが、「ちょっとだけ、見ておくか」のつもりが、けっきょく全部見てしまった。フシギな魅力がそこにはある。上記の作品は、5人のピアニスト(音楽学校の学生)が1台のピアノに並んで腰かけて、鍵盤に手を(指を?)出して、即興で、ひとつの曲を弾く、弾こうとする、そのプロセスを映像で撮っている。さきのトークで本人が言っていたことだけれども、映像は複数のカメラで撮っているが、かならずカメラ(とその撮影者)が映り込む。撮影しているのは、田中ではない。この空間のどこかにいるのだろうと思えるが、姿が見えない(作品によっては、ちらっと見えるときもある。蔵屋の姿も遠くに見えるときがある)。ピアノの演奏者達のほかにも、この場所には、人がいる、存在している、ということが、映り込んでいるわけだ。通行止めをしてロケをしているのではなくスタジオのセットで撮影しているのでもない、ぼくらが今、この映像を見ている場所と地続きであることを(時間的にも空間的にも、遠く離れてはいても)、ちゃんと忘れさせず、撮っているということである。
ヴェネチアの作品については、この『質問する』のなかでも触れられているし、また巻末の蔵屋美香との対談でも語られている(この対談は、蔵屋によるちょっとした田中功起論になっている)。往復メール書簡を書いているどこかの時点で、田中の頭にこれらの作品のアイデアが浮かんだ、その瞬間があった。そのことを思い浮かべながら、つまりは作者自身が変化していくのを感じながら読むのも、本書を今、読むことの楽しみのひとつになるだろうと思う。ちょうど京都国立近代美術館でやっている『映画をめぐる美術 マルセル・ブロータースから始める』展に(これも論文みたいなタイトルだ。こちらの展示ではテキストは会場入り口のみで、ほとんどなかったが。なぜだろう?)田中功起が参加しており、ヴェネチアビエンナーレの出品作のひとつ「A Poem Written by 5 Poets at Once(First Attempt)」などが出品されているが、これは非常にいい機会だ。ちょうど『質問する』で、本や写真やウェブなど間接的に作品を見ること、知ること、人の話として聞くこと、それらと、直接その場所に足を運んで作品を見ることは、ほんとにちがうことなのだろうか、という議論があったが(林卓行の回)、このヴェネチアのサイトと京都国立近代美術館での展示で、読者であるぼくらも自分の経験として、深く考察することができるからである。
田中功起という作家の作品をよりよく理解するためだけ、というには、この本は、あまりにも贅沢で、もったいない。ぼくらが美術館に展覧会を見に行くときにいつもカバンに突っ込んでおくといいんじゃないかなと思う。展覧会を見ると、作品は持って帰れないからいつも手ぶらだが、頭の中にはいろいろ詰まっている。それをそのまま時間と共に忘れるのはもったいない。この本を開いて、自分も対話に参加する気持ちで読む、すると、見終わった、と思った展覧会に終わりはなかった、ということに気付かされるにちがいない。本を開くといつでも再生される言葉がここにはある。この本は、すべての展覧会に対応するカタログといえると思う。
田中功起『質問する 2009-2013 その1』 (アートイット)
土屋誠一、成相肇、保坂健二朗、冨井大裕、沢山遼、林卓行、片岡真実、西川美穂子との公開往復メール書簡集。蔵屋美香との語りおろし対談も収録。森大志郎装丁。2013年7月10日初版刊行 1900円(税別)。360ページ。意外に安い。
『映画をめぐる美術 マルセル・ブロータースから始める』
会場 京都国立近代美術館
会期 2013年9月7日(土)-10月27日(日)
開館時間 午前9時30分-午後5時(金曜日、10月26日[土]は午後8時まで開館) 入館は閉館の30分前まで。だが、時間の余裕をたっぷりみて行った方がいいと思う。金曜日がオススメだ。
休館日 月曜日(ただし、祝日は開館し、翌火曜日は休館)
料金 一般 850円 大学生450円 意外に安い。
ちなみに、会場に入ってすぐ、マルセル・ブロータースの部屋は、16ミリ映写機6台で彼の映像作品がカタカタ上映され続けているが、この部屋を見るためだけでも展覧会を訪れる価値はある。中でも「雨(テクストのためのプロジェクト)」(1969年/2分)は、傑作コントで思わず立ち止まってしまうだろう。男が、野外で、小さな箱の上に筆記用具をならべて、背をかがめるようにして、書き物をしているが、雨が降って、書いているどころではない。が、男は、知らぬ存ぜぬというふうに気にせず書き続ける。何度ペンにインクをつけなおしても文字は流れるが(当たり前だ)男は書き続ける。しかし雨もだまってない。文字は書かれるそばから消えてすべてを洗い流していく……。これはほとんど田中功起のライバルみたいな作品であり(たとえば出品作の「犬にオブジェを見せる」など)、かすかにだがこの「グループ展」で、作品間の交流が感じられた(『質問する』の西川との回で、「グループ展」とは何か、というのが議論になっていた)。とはいえ、やはり、それにしても、このグループ展には説明が少なすぎる。というか、ほとんどない。「映画をめぐる美術」とは何か、「マルセル・ブロータースから始める」とはどういうことか、意味深なタイトルを掲げている以上、入口のまえがきだけで終わるのではなく、言葉でもう少し、説明を加えるべきではないかと思う(そうでなければ作品を並べているだけにも見えてしまう)。ぼくは初日の土曜日に見に行ったのだが(たのしみにしていた)、ほんとは配布される解説プリントがあって、間に合わなかっただけなのか。あるいは、カタログで理解をすればいいということなのかもしれないが、それではいくらなんでも……。あれ。なんかグチになって終わっちゃったな。こんなことを書くなんて、最初は思ってなかったのにな。