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KYOTOEXPERIMENTの青柳いづみ
福永 信

2017.10.17
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青柳いづみは、金氏徹平「tower(THEATER)」の上演時間80分強のほとんどに出演した。一人芝居のチャプター1と、チャプター3の「レクチャー」、コンタクトゴンゾ&和田晋侍パート(チャプター4)では特別出演的に「足」だけ、チャプター5の岡田利規パートの前半、そして出演者全員による歌と演奏のチャプター6である。

上記のすべてが、異なる役と言っていい。セリフがあるのは、チャプター1、3、5であるが、チャプター1の一人芝居では子供とその両親の3役を演じる。チャプター2では1968年生まれの男性の建築家/大学准教授が、原広司の建築理論について語るその「語り」のコピーである。チャプター5の岡田パートではタワーに向かって診断結果を告げる医師の役である(これも一人芝居と言える)。つまり、子供、親、大学准教授、医師など、年齢も性別も様々であるが、それらを一つの作品の中で演じ分けていたわけである。

このように役柄も異なるが、「動き」も全部違う。

チャプター1は福永の演出担当パートである。タワーの穴からどさりと青柳いづみが出てきて、それからずっと舞台の上で、寝転がったままだ。時折立ち上がるがまたすぐに寝転がる。上半身を起こして、あぐらをかくような格好になってもそのまま固定されずに前のめりになり、今度はうつ伏せに寝る。目はつぶったままである。

「極端な寝相の悪さを」と福永は青柳に稽古の時に言った。そして様々な寝相のバリエーションを稽古場でやってもらい、それらが本番に全部活かされている。作品の冒頭、チャプター1であることは事前にわかっていたから、「舞台の地ならし」という意味も込めてゴロゴロ舞台中を寝転がってもらったのである。

青柳いづみが寝転がりながら言うのは、子供とその父、そして母のセリフである。「極端な寝言を」と福永は稽古の時に青柳に言った。青柳は寝転がりながら父とおしゃべりした、そんな夢の中の出来事を語る。チャプター1の最後では目を覚まして立ち上がるが(その時、初めて目を開く)、そこで子供と母の会話に切り替わる。この時は「異様な独り言で」とお願いした。母と子、二人の「会話」だがあくまで独り言であり、本当はそこに母親はいない。青柳が「寝言」と「独り言」をちゃんと表現していることに福永は、自分が注文しておきながら大層驚いた。

タワーの穴の一つからどさりと出てきた時から、青柳の手には伸縮性の布が握られていて、長く、どんなに舞台上を移動してもずっと穴と繋がったままだ。当初、崇仁小学校での稽古の時は、タオルケットのような大きさのものを使っていた。が、ロームシアターでの稽古(本番2日前)にその「穴から出きらないくらい長い布」に変更した。稽古を見ていて、最初は昼寝の時に使うような普通のタオルケットをイメージしてそれっぽいものを使用していたのだが、「なんだかこれだけハンパにリアルだな」と思ったのである。稽古の時に何度かコンタクトゴンゾの「空中戦」を見ていたからかもしれない。コンタクトゴンゾの「空中戦」というのは、タワーの上部の穴から垂れたワイヤーによって吊られ、タワーの壁を「床」に見立てる、もしくは無重力感を演出するものだ。福永は、彼らのそんな吊られた姿につられて青柳にも宇宙飛行士の命綱のような「長いもの」で体とタワーを繋いでおきたくなったのかもしれない。小学校の体育館での稽古の現場で、様々なアーティスト達に影響を受けながら、あれこれ演出内容を考えたものである。実際にやってみると、臍の緒で繋がれた姿のようにも見えたのがフシギであった。

青柳いづみがチャプター1で演じるのは、子供、父、母の3名と言ったが、その「子供」の年齢は、曖昧にしてある。性別もはっきりしていない。しかし、小学6年あたりと思えるようになってはいる。ただ、青柳いづみは、はるかにそれよりも下の子供のようにセリフを言った。幼稚園とかそれくらいの「子供」の声でセリフを、稽古の初日から言っていたのである。台本のセリフがそうなっているとも言えるが、このチャプター1は、台本全体が夢の世界の出来事(極端な寝言の世界)のようにできているからほんとの「年齢」はわかりにくいのである。「4、5歳あたりの子供の頃を夢に見ている小学6年生くらいの子供の夢」とも言い得るのである。実際、青柳が目を開けてから言うセリフは、小学校6年か、それくらいの年齢の子供の「声」で演じている。最初からこのパートは完成度が高く、演出未経験の福永は全然緊張することがなかった。現場で考えることができたのも、青柳に導かれたからだ。金氏徹平もまた、最初の稽古の時から「何か《喋るもの》がタワーの穴から出てきた感じが出ている」と演技に満足していた。

ところで、青柳いづみは、チャプター1ではほとんど寝転がっていたわけが、チャプター3の「レクチャー」では椅子に座っている。チャプター4のゴンゾ&和田パートではタワーから足だけ出してぶらぶらさせていて、地面についていない。チャプター5の岡田パートでは立っていて、時に歩き、タワーを見上げ、座るということがなかった。そして最後のチャプター6では最後に、直接床に座り、ギターを抱えて歌う。示しあわせたわけではないが、このバラバラさは、ほとんどある種の統一感さえ感じさせる。「偶然」というには出来すぎている。金氏マジックというべきかもしれない。

オオルタイチは、そのチャプター6の合奏合唱パートのリーダーである。和田晋侍のバンド、巨人ゆえにデカイの歌「たてもの」をアレンジして、オオルタイチは、そして登場人物達は、タワーと共に、演奏し、合唱する。作品の最後を締めくくるのに相応しい奇跡的に美しいパートであるが、この時、青柳いづみは、別行動をする。オオルタイチを徐々に「彫刻」にするのである。つまり彼女はここでは「寡黙な彫刻家」を演じているわけであるが、「たてもの」の歌が終わると、オオルタイチのギターを別の「もの」と取り替えて、手に入れたその「本物」のギターを手に、床に座り、演奏し、一人、歌う、ワンフレーズだけ繰り返しながら。福永はその歌を聴きながら思い出した、彼女は稽古の時、いつだったか、「自分は金氏徹平だから」と言っていた。

その歌の短い繰り返しは、壊れたレコードのようでもあり、「気に入っているから歌ってるんだよ」のようでもあり、母親の子守唄のようでも、母親の子守唄を真似している子供のようでもあり…チャプター1の子供の声、父の声、母の声に重なっていく。

青柳いづみの声で始まり、彼女の歌で終わる。音楽家らしい見事なラストだった。そんなラストを優しく抱き込みながら、この金氏徹平の「tower(THEATER)」は、彼女の歌が終わった後も、動き続けていた。こんな痛快な舞台は見たことがないが、だからだろうか、福永は、福永はというのは私のことだが、全2日間の公演が終わった晩にものすごい悪夢を見て起きてびっくりしたが、気分は爽快だった。