KYOTOGRAPHIEと場所の力
小崎 哲哉
2018.04.22
街なかの、ホワイトキューブ以外の場所を展示会場とする展覧会は両刃の剣である。長所は、作品とともに当の会場や、会場が位置する街や地域を鑑賞できること。近年の地域おこし的な国際展は、おおむねこの戦術を採用している。いわゆるアートツーリズムだ。
短所は、会場のオーラが強すぎて作品が太刀打ちできない場合があること。あるいは、まったくのミスマッチに終わってしまい、会場の雰囲気と作品の味が互いに損なわれてしまう可能性があること。単純に「アート+観光」という「足し算」が成立・機能すると思い込んでいる能天気な主催者や作家も少なくないけれど、安直な発想が「引き算」を生む可能性があることは、もっと認識されてよい。「アートと工芸」や「コンテンポラリーと伝統」を組み合わせるという発想も、同様の危険を孕んでいる。
*
さて、今年6回目を数えたKYOTOGRAPHIEは、ご存じの通り京都の街なかで展示を行う。年によって異なるが、会場は毎回十数ヶ所。古都ならではと言える歴史的な建造物が多いと思って、分類が難しいが数え上げてみた(全6回を通算。述べ89会場)。
寺社と城:8会場(9%)
日本建築:28会場(31%)
近代建築:14会場(16%)
現代建築:37会場(42%)
その他 :2会場(2%)
建仁寺塔頭の両足院や二条城など「寺社と城」はいいとして、「日本建築」は寺社と城以外の、時代を問わず和風の建物をここでは指す。「近代建築」は戦前に建てられた、あるいはそれを修復した洋風の建物。「現代建築」は戦後に建てられた洋風の建物。美術館やギャラリーも、いずれかに分類した。「その他」は京都市役所前広場(2015年)と京都市中央市場 関連10・11号棟 南壁面(2018年)である。
ご覧の通り、歴史的な建造物が多いというのは僕の思い込みで、現代建築が4割以上を占める。特に今年は、全15会場の内9ヶ所が現代建築だ。といっても、中には近代産業遺産と呼びたくなるほどの「場所の力」を備えた会場があった。今回初めて使用される「京都新聞ビル 印刷工場跡」と「三三九(旧氷工場)」そして「三三九(旧貯氷庫)」である。
*
京都新聞本社新館(現社屋)は1974年竣工。地階2階分を印刷工場として、2015年11月末まで稼働させていた。かつては連日、大型輪転機が新聞紙を刷り出していた空間は、天井高10メートル弱、総面積1000平米。中に入るとインクの匂いがまだ鼻をつく。ローレン・グリーンフィールドの『Generation Wealth』は、そのおよそ半分を使って展示されていた(展示デザインはmisoの小西啓睦)。
米国を中心に、カネ、ブランド、セレブ信仰にどっぷりと浸った人々の暮らしぶりを、四半世紀にわたって追った写真シリーズである。ニューリッチらを捉えたバックライトの巨大画面が、広大な空間に拮抗していた。報道写真とは一線を画するものだが(単なる報道写真家では富裕層の私生活には踏み込めないだろう)、新聞社の元印刷工場という展示会場は、1%リッチと経済格差が生み出す政治・社会問題を想起させるのに一役買っていた。
旧氷工場と旧貯氷庫は京都市中央卸売市場に隣接する(三三九[さざんがきゅう]は現在の所有者である食品販売会社の社名)。同市場は1927年に開設された日本で初めての中央卸売市場だが、そこで使われる氷を製造・供給していたという。建物は築50年くらいだそうで、コンクリートの壁面にはひびが入り、鉄管などの金属には錆が浮き出ている。
旧氷工場の展示はアルベルト・ガルシア・アリックスの『Irreductibles』(「飽くなき人々」と訳されていたが、原題は「還元・縮小・単純化できない、何かに帰すことができない」との意)。自身を含むバイク乗りを中心に、社会からはみ出して生きている(としか思えない)人々をモノクロで写している。被写体の不敵な面構えが、時が止まったかのような廃墟感が漂う会場によく似合う。とはいえ、この写真であれば展示場所を選ばないだろう。
場所と作品の組み合わせが最もうまく行っていたのはギデオン・メンデルの『Drowning World』。「溺れる世界」というタイトルが示すとおり、英国、インド、ハイチ、パキスタン、オーストラリア、タイ、ナイジェリア、ドイツ、フィリピン、ブラジル、バングラデシュ、米国などの洪水被害に遭った場所を訪ね、被災した人々を下半身が水に浸かった状態で写した作品だ。旧貯氷庫は旧氷工場に勝るとも劣らない殺伐とした雰囲気で、それ自体が水害に遭ったかのようにも思える場所だった。
メンデルはプレス内覧の際に「このような場所を提供され、非常にうれしい。私の作品に新たなレイヤーが加わった」と語った。そのレイヤーとはしかし、洪水被害を連想させる廃墟のようないまの雰囲気ではなく、北極圏の解けゆく氷を想起させる貯氷庫という過去を指しているにちがいない。現代における洪水は、その多くが地球温暖化に起因しているからだ。さらには、世界各地から食材を集めて分配する、市場という場所をも指していたのかもしれない。資本主義下の先進国に生きる我々の、飽くことを知らない欲望こそが生態系を歪め、大量生産・大量消費のエンジンをフル稼働させ、膨大な量の化石燃料を費やしているからだ。
*
各作家の主題にはこれ以上踏み込まない。考えてみたいのは作品と展示会場の関係である。上に挙げた3作家の作品はいずれも場所の恩恵を受けたが、受け方はそれぞれ異なる。旧印刷工場のグリーンフィールドと旧貯氷庫のメンデルは、展示会場の歴史から新たなレイヤーを獲得していた。ガルシア・アリックスの受けた恩恵は、旧氷工場の雰囲気だけで歴史はほぼ関係ない。言うなれば前2者は「掛け算」の恩恵、後者は「足し算」の恩恵に浴したのだと思う。前2者は、社会的な主題を有していたからこそ歴史と響き合うことができたという言い方もできるだろう。
3月末に上梓した『現代アートとは何か』に詳しく記したが、優れた現代アーティストはイリヤ・カバコフが言うところの「トータル・インスタレーション」を志向する。展示を行うのであれば写真家も例外ではない。ホワイトキューブのギャラリーでも、トータル・インスタレーションはもちろん可能だ。冒頭に記したとおり、場所のオーラに屈するくらいなら、ニュートラルな空間で、作品自体が持つ力だけで勝負するほうがいい。
今回のKYOTOGRAPHIEで言えば、震災後に建造された、いや、いまも建造されつつある東北の防潮堤を写した小野規の『COASTAL MOTIFS』。堀川御池ギャラリー2階での展示は、展示壁の白がコンクリートの灰白色と微妙なコントラストを成し、計算の行き届いた照明やフレームと相俟って、防潮堤の近くに生え出ずる植物の緑を引き立てる、さらには防潮堤によって不可視にされた海の青を想像させる役割を果たしていた。人工と自然がせめぎ合う様を主題とすることの多い作家の、面目躍如と呼ぶべき展示だったと思う。
話を戻すと、旧印刷工場、旧氷工場、旧貯氷庫は、これまで一般に公開されたことがなかった。そんな場所をアートファンに見せてくれたのはKYOTOGRAPHIEの手柄である。だがそれよりも、ホワイトキューブであろうが廃墟のような空間であろうが、素晴らしいトータル・インスタレーションをつくってくれる作家をこそ評価したい。アートツーリズムは楽しいけれど、それだけしか褒めるところがなかったら本末転倒だ。
※コラテラルイベントのKG+でも、よく出来たトータル・インスタレーションがあった。すべてを観たわけではないが、いまのところ、山田学の『光、解き放たれ』(五条坂京焼登り窯)とカルロス・ゴンザレスの『Contemplation』(元・淳風小学校1F育成室)が印象に残っている。
KYOTOGRAPHIE 2018とKG+ 2018は、5月13日(日)まで京都市内で開催中。
https://www.kyotographie.jp/ http://www.kyotographie.jp/kgplus/
短所は、会場のオーラが強すぎて作品が太刀打ちできない場合があること。あるいは、まったくのミスマッチに終わってしまい、会場の雰囲気と作品の味が互いに損なわれてしまう可能性があること。単純に「アート+観光」という「足し算」が成立・機能すると思い込んでいる能天気な主催者や作家も少なくないけれど、安直な発想が「引き算」を生む可能性があることは、もっと認識されてよい。「アートと工芸」や「コンテンポラリーと伝統」を組み合わせるという発想も、同様の危険を孕んでいる。
さて、今年6回目を数えたKYOTOGRAPHIEは、ご存じの通り京都の街なかで展示を行う。年によって異なるが、会場は毎回十数ヶ所。古都ならではと言える歴史的な建造物が多いと思って、分類が難しいが数え上げてみた(全6回を通算。述べ89会場)。
寺社と城:8会場(9%)
日本建築:28会場(31%)
近代建築:14会場(16%)
現代建築:37会場(42%)
その他 :2会場(2%)
建仁寺塔頭の両足院や二条城など「寺社と城」はいいとして、「日本建築」は寺社と城以外の、時代を問わず和風の建物をここでは指す。「近代建築」は戦前に建てられた、あるいはそれを修復した洋風の建物。「現代建築」は戦後に建てられた洋風の建物。美術館やギャラリーも、いずれかに分類した。「その他」は京都市役所前広場(2015年)と京都市中央市場 関連10・11号棟 南壁面(2018年)である。
ご覧の通り、歴史的な建造物が多いというのは僕の思い込みで、現代建築が4割以上を占める。特に今年は、全15会場の内9ヶ所が現代建築だ。といっても、中には近代産業遺産と呼びたくなるほどの「場所の力」を備えた会場があった。今回初めて使用される「京都新聞ビル 印刷工場跡」と「三三九(旧氷工場)」そして「三三九(旧貯氷庫)」である。
京都新聞本社新館(現社屋)は1974年竣工。地階2階分を印刷工場として、2015年11月末まで稼働させていた。かつては連日、大型輪転機が新聞紙を刷り出していた空間は、天井高10メートル弱、総面積1000平米。中に入るとインクの匂いがまだ鼻をつく。ローレン・グリーンフィールドの『Generation Wealth』は、そのおよそ半分を使って展示されていた(展示デザインはmisoの小西啓睦)。
米国を中心に、カネ、ブランド、セレブ信仰にどっぷりと浸った人々の暮らしぶりを、四半世紀にわたって追った写真シリーズである。ニューリッチらを捉えたバックライトの巨大画面が、広大な空間に拮抗していた。報道写真とは一線を画するものだが(単なる報道写真家では富裕層の私生活には踏み込めないだろう)、新聞社の元印刷工場という展示会場は、1%リッチと経済格差が生み出す政治・社会問題を想起させるのに一役買っていた。
旧氷工場と旧貯氷庫は京都市中央卸売市場に隣接する(三三九[さざんがきゅう]は現在の所有者である食品販売会社の社名)。同市場は1927年に開設された日本で初めての中央卸売市場だが、そこで使われる氷を製造・供給していたという。建物は築50年くらいだそうで、コンクリートの壁面にはひびが入り、鉄管などの金属には錆が浮き出ている。
旧氷工場の展示はアルベルト・ガルシア・アリックスの『Irreductibles』(「飽くなき人々」と訳されていたが、原題は「還元・縮小・単純化できない、何かに帰すことができない」との意)。自身を含むバイク乗りを中心に、社会からはみ出して生きている(としか思えない)人々をモノクロで写している。被写体の不敵な面構えが、時が止まったかのような廃墟感が漂う会場によく似合う。とはいえ、この写真であれば展示場所を選ばないだろう。
場所と作品の組み合わせが最もうまく行っていたのはギデオン・メンデルの『Drowning World』。「溺れる世界」というタイトルが示すとおり、英国、インド、ハイチ、パキスタン、オーストラリア、タイ、ナイジェリア、ドイツ、フィリピン、ブラジル、バングラデシュ、米国などの洪水被害に遭った場所を訪ね、被災した人々を下半身が水に浸かった状態で写した作品だ。旧貯氷庫は旧氷工場に勝るとも劣らない殺伐とした雰囲気で、それ自体が水害に遭ったかのようにも思える場所だった。
メンデルはプレス内覧の際に「このような場所を提供され、非常にうれしい。私の作品に新たなレイヤーが加わった」と語った。そのレイヤーとはしかし、洪水被害を連想させる廃墟のようないまの雰囲気ではなく、北極圏の解けゆく氷を想起させる貯氷庫という過去を指しているにちがいない。現代における洪水は、その多くが地球温暖化に起因しているからだ。さらには、世界各地から食材を集めて分配する、市場という場所をも指していたのかもしれない。資本主義下の先進国に生きる我々の、飽くことを知らない欲望こそが生態系を歪め、大量生産・大量消費のエンジンをフル稼働させ、膨大な量の化石燃料を費やしているからだ。
Gideon Mendel Drowning World from Run Riot on Vimeo.
Directed by Josie Swantek / Edited by Chris Tuss / Cinematography by Dave Adams and Gideon Mendel各作家の主題にはこれ以上踏み込まない。考えてみたいのは作品と展示会場の関係である。上に挙げた3作家の作品はいずれも場所の恩恵を受けたが、受け方はそれぞれ異なる。旧印刷工場のグリーンフィールドと旧貯氷庫のメンデルは、展示会場の歴史から新たなレイヤーを獲得していた。ガルシア・アリックスの受けた恩恵は、旧氷工場の雰囲気だけで歴史はほぼ関係ない。言うなれば前2者は「掛け算」の恩恵、後者は「足し算」の恩恵に浴したのだと思う。前2者は、社会的な主題を有していたからこそ歴史と響き合うことができたという言い方もできるだろう。
3月末に上梓した『現代アートとは何か』に詳しく記したが、優れた現代アーティストはイリヤ・カバコフが言うところの「トータル・インスタレーション」を志向する。展示を行うのであれば写真家も例外ではない。ホワイトキューブのギャラリーでも、トータル・インスタレーションはもちろん可能だ。冒頭に記したとおり、場所のオーラに屈するくらいなら、ニュートラルな空間で、作品自体が持つ力だけで勝負するほうがいい。
今回のKYOTOGRAPHIEで言えば、震災後に建造された、いや、いまも建造されつつある東北の防潮堤を写した小野規の『COASTAL MOTIFS』。堀川御池ギャラリー2階での展示は、展示壁の白がコンクリートの灰白色と微妙なコントラストを成し、計算の行き届いた照明やフレームと相俟って、防潮堤の近くに生え出ずる植物の緑を引き立てる、さらには防潮堤によって不可視にされた海の青を想像させる役割を果たしていた。人工と自然がせめぎ合う様を主題とすることの多い作家の、面目躍如と呼ぶべき展示だったと思う。
話を戻すと、旧印刷工場、旧氷工場、旧貯氷庫は、これまで一般に公開されたことがなかった。そんな場所をアートファンに見せてくれたのはKYOTOGRAPHIEの手柄である。だがそれよりも、ホワイトキューブであろうが廃墟のような空間であろうが、素晴らしいトータル・インスタレーションをつくってくれる作家をこそ評価したい。アートツーリズムは楽しいけれど、それだけしか褒めるところがなかったら本末転倒だ。
※コラテラルイベントのKG+でも、よく出来たトータル・インスタレーションがあった。すべてを観たわけではないが、いまのところ、山田学の『光、解き放たれ』(五条坂京焼登り窯)とカルロス・ゴンザレスの『Contemplation』(元・淳風小学校1F育成室)が印象に残っている。
KYOTOGRAPHIE 2018とKG+ 2018は、5月13日(日)まで京都市内で開催中。
https://www.kyotographie.jp/ http://www.kyotographie.jp/kgplus/