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昭和の終わり、平成の終わり
浅田 彰

2019.05.01
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「一九八九年一月七日の朝、赤坂プリンスホテルの上層階に泊まっていた私は、何台ものヘリコプターの音で目が覚めた。カーテンを開け、TVをつけると、窓の下を行く黒塗りの車の映像がモニターにも映し出される。それは、裕仁の訃報をうけて皇居に向かう明仁の車だったのである。

ちょうどこの日に発売された「文學界」に私と柄谷行人の対談が掲載されており、そこでわれわれは裕仁の病気とともに異様な「自粛」ムードに包まれた日本を「土人の国」と呼んでいた(実は「土人」というのは北一輝の言葉の引用なのだが)。そういう異様なムードは裕仁の死によってとりあえず終わるだろう。だが、そういうムードを生み出す土壌はそのまま残るだろう。その後の経過を見ると、あの日の予感は正しかったと言わざるを得ない。二十一世紀にもなろうというのに、この国はまだ共和制にすらなっていないのだ。」

 
これは『文藝春秋』2000年2月特別号の「各界著名人285人が体験した20世紀衝撃の一日」と題するアンケート特集に掲載された私の文章だが、平成の終わりを迎えたいまも私の感想は基本的に変わらない――反動化の速度が私の予感を超えていたことは認めておかねばならないとして。

少し注釈を施しておこう。まず、赤坂プリンスホテル(丹下健三設計の新館)は現在では建て替えられて東京ガーデンテラス紀尾井町になっているが、「赤坂御用地」から青山通り・三宅坂・内堀通りを経て皇居半蔵門に向かうルートに沿っていて、私の部屋はそこを行く車を見下ろす位置にあった。

次に、ここで触れた『文學界』1989年2月号での柄谷行人との対談「昭和精神史を検証する」(柄谷行人『ダイアローグⅣ』[第三文明社]所収)で「土人の国」という言葉を使っているのは、正確には「われわれ」ではなく私である。ただ、対談の現場では、天皇は憲法で規定された「国家の機関」であって国体論者が神輿にのせて担ぐ「土人部落の土偶」のごときものではない、という北一輝の言葉(『国体論及び純正社会主義』)について両者で語り合っており、慌ただしい編集の過程でその部分がカットされたため、「土人」がこの右翼イデオローグの言葉の引用であることがわかりにくくなったという事情がある。とはいえ、私自身の言葉ととられてもまったくかまわないことは改めて確認しておこう。

もうひとつ、『文學界』の同じ号には、柄谷行人の盟友だった中上健次と岡野弘彦の対談「天皇裕仁のロゴス」が掲載され、われわれの対談とは逆に、天皇の言葉こそが日本文学を支えるものだ、という議論が展開されており、左右両極が並んだ形となって話題を呼んだ。実のところ、被差別部落出身であることを公表して作家活動を行っていた中上健次には、一般社会の上に排除された天皇と下に排除された被差別部落民が背中合わせの存在だという神話的構図に惹かれがちなところがあった。たとえば『日輪の翼』(1984年)では、作家が「路地」と呼ぶ被差別部落が再開発のために地上げされ、追い出された老婆らを若者らが日本各地の霊場に連れて行ったあげく最後に東京の皇居前広場にたどりつく。そこで嬉々として清掃奉仕をする老婆らをおいて、若者らは新宿歌舞伎町でホストになるのだが、彼らが老婆らを見る目はあくまでも優しい。私は、ノーマルな日常社会の上にある聖なるものと下にある賎なるものの通底という神話的構図を批判しつつも、私なら直ちに否定してしまうそうした構図を中上健次が複雑なニュアンスをこめて扱っていることをいかにも彼らしいと思っていた。いずれにせよ、すでに海外に出ることが多くなっていた柄谷行人と中上健次は、「日本の外に出れば天皇をめぐる神話的構図など意味を持たない、ただマイノリティの横の連帯(アソシエーション)あるのみだ」という線で再び一致することになるのだが、それは少し後の話である。

このように、『文學界』の二つの対談がその号の主要記事だったのに対し、『文藝春秋』の短文は大勢のアンケート回答と並ぶもので、雑誌全体の中ではほとんど目立たないものだった。ところが、直接私のもとに届いた抗議(「天皇陛下を呼び捨てにするとは何事か!」といった類の)や脅迫は、後者に対するものの方がはるかに多かったのだ。同じ文藝春秋社の雑誌とはいえ、文芸誌の『文學界』と一般誌の『文藝春秋』では読者層の幅がまったく違うので驚くには当たらないのかもしれないが、1989年から2000年までの間に右傾化が一段と進んだのではないかという直感的な印象を抱いたことはあらためて書き記しておこう。では、2019年のいま同じような文章が発表されていたらどうだったか。「明仁」「徳仁」といった呼び捨ては避けるようにという編集・校閲担当者からの要請があって、それを拒否すれば同じような文章は掲載されないかもしれないと「邪推」するが、そもそも私に執筆依頼が来ないので無用の心配と言うべきだろう。

そこで、この場を借りて原則を確認しておけば、私はもちろん天皇制も元号も廃止すべきだと考えている。理由はきわめて単純で、近代民主主義国家はすべての国民が生まれつき平等であるという原則に基づいているのだから、ある一族のメンバーが世襲で元首に――あるいは元首でないにせよ「象徴」になるというのはおかしい。むろん、世界には民主主義国家でありながら立憲君主制を残している国も多いが、君主の名の下に行った戦争の結果として国が危うくなるほどの敗北を喫した場合は、第一次世界大戦後のドイツのように君主が退位し君主制から共和制に替わるのが当たり前だろう。そのときのドイツ以上の壊滅的敗北を喫した第二次世界大戦後の日本でも、天皇制廃止を求める声は左翼を中心にかなりの広がりを見せたし、右翼の側でも天皇制の存続(「国体の護持」)のためにこそ昭和天皇は戦争の責任をとって退位すべきだという議論があった。それが実現しなかった原因はいろいろあるが、最大の要因はアメリカを中心とする占領軍の意向だろう。日本に負けるおそれはまったく感じていなかったものの、日本軍の自殺攻撃に最後まで悩まされたアメリカは、敗戦後の日本の徹底的な武装解除のため戦争放棄・戦力不保持を定めた「平和憲法」を押し付ける(そして、ジョン・ダワーの表現を借りるなら、「敗北を抱きしめた」日本国民は押し付けられた「平和憲法」をも「抱きしめる」ことになる)と同時に、日本国民を宥めるため、また来るべき冷戦において日本が社会主義圏に接近するのを防ぐために、連合国のいくつかの反対にもかかわらず、昭和天皇と天皇制を温存することにした(この深慮遠謀に比べ、イラク戦争のとき独裁者サダム・フセイン大統領を倒せばイラク国民から解放者として歓迎されるだろうと思い込み、結果、占領後も自爆テロに悩まされることになった現在のアメリカの知的劣化は、目を覆うべきものだ)。つまり、「平和憲法」がアメリカに押し付けられたものだと言うのなら、「昭和天皇退位なしの天皇制存続」もまたアメリカに押し付けられたものだと言うべきなのだ。とはいえ、自由民主党が、戦争放棄・戦力不保持を定めた憲法9条の「改正」を狙っている中で、天皇制廃止のための改憲(1章の削除と書き換え)を提起するのは藪蛇であり、政治的に愚かであろう。したがって、原理的・長期的には日本も天皇制を廃止して共和国(アメリカやフランスより、さしずめドイツやイタリアのような大統領制にすれば、良かれ悪しかれ現状とそう変わらないのではないか)になるべきだけれど、実際的・短期的には9条改憲を阻止するため護憲の立場を取った方がいいというのが、私が高校時代にたどり着いた「大人の妥協」だった。しかし、明らかに9条に違反する自衛隊が国外でもさまざまな活動を展開するところまで来た現在、こうした妥協的護憲主義は限界に来ていると言うべきだろう。だとすれば、1章改憲と天皇制廃止をあらためて議題とする必要があるというのが、現在の私の意見である。

誤解を避けるために付け加えれば、天皇制への批判と天皇への批判は別だ。平成天皇(という呼称の方が明仁よりわかりやすいのでここではこの呼称を採用する。徳仁についても同様。ただこれはあくまで便宜上の判断で、「平成天皇・令和天皇というのは死後につけられる諡号だから生前に使うべきではない」という形式主義にまでは付き合わない)が、自然災害のたび被災者を慰問するとともに、父・昭和天皇の名で戦われた戦争の犠牲者(外国人も含む)のため、沖縄のひめゆりの塔(皇太子時代に昭和天皇の名代として初めて訪れ、過激派から火炎瓶を投げつけられたが動じなかった)からサイパンのバンザイ・クリフにいたる激戦地をめぐって「慰霊の旅」を続けてきたことは、国内外の多くの人々が高く評価するところであり、その点では私も例外ではない。実際、平成天皇の平和主義はかなり徹底したものだ。2013年の天皇誕生日の談話を引くと:

「80年の道のりを振り返って、特に印象に残っている出来事という質問ですが、やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した 時には中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国のほかに新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校 の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです。

戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。」

「アメリカに押し付けられた平和憲法の改正」を安倍晋三政権(2012年に第二次安部内閣成立)が強く志向する中でこのような発言をする意図は明らかだろう。これが一般国民の言葉であれば、まったく問題はない。だが、立憲君主制の下で政治への介入を禁じられている天皇が、ここまで強く改憲反対を匂わせるのは、問題なしとしないという意見もあり得るだろう(平成天皇を「アメリカ人教師ヴァイニング夫人に洗脳された平和主義者・民主主義者」として忌み嫌う右翼でなくとも)。9条改憲を阻止するのに少しでも役立つなら歓迎すべきだという護憲派もいるかもしれないが、それはあくまで国民の議論を通じてなされるべきことであり、天皇の平和主義に期待すべきではない。実際、仮に右翼に親近感をもつ天皇が現れて好戦的な発言をしたなら、いったいどうするのか。

もうひとつの誤解を避けるためにさらに付け加えれば、天皇制廃止といっても、フランス革命のようなことを考えているわけではもちろんない(たとえば1918年にドイツ皇帝の座を降りたヴィルヘルム2世は1941年に死ぬまでオランダで暮らした――ドイツ国内の帝政復古派を支援し続けた往生際の悪さは褒められたものではないけれど)。天皇家が、ある種の宗教的・文化的伝統の保持者として存続する(それこそいわゆる「人間国宝」として)というシナリオも、考えられなくはない。(ちなみに、ナショナリストとして「美しい国」を目指すと言いながら天皇家の伝統を蔑ろにする安倍政権に対し、アイロニカルに天皇主義者を演じてみせる磯崎新によれば、平成天皇の即位式と大嘗祭をはじめて東京で行ったことがすでに伝統の破壊なのだが、譲位のあと上皇が赤坂の元・東宮御所に戻るというのも順序が逆なので、さしずめ幕府の専横に抗議して退位した後水尾上皇の例に倣って京都の仙洞御所を改築し、さらには修学院離宮に代えて沖縄北部の美しい岬にある奥間レスト・センターをアメリカ軍から返還させ海洋生物研究施設を併設した沖縄離宮をつくる手もある、という[「連載・デミウルゴス 第2〜3回 見取り図(2〜3)」、『現代思想』2019年5~6月号]。なお、敗戦で昭和天皇の退位が検討されたときは、京都の仁和寺が隠居所として想定されていた――ということは出家して法皇になるシナリオだったのだろうか。)

別の角度から言うと、天皇制廃止は、むしろ、皇族解放(奴隷解放や被差別部落解放にならって言えば)――皇族に一般人並みの人権を与えることに他ならない。端的な例を挙げるなら、キャリア外交官として活躍していた小和田雅子が皇太子(後の令和天皇)と結婚して皇室に入って以来、長らく「適応障害」に苦しんできたことはよく知られている――というか、病名を含むプライヴァシーまで全国民の眼に晒されるということ自体、重要な地位にある公人でなければ普通は考えられないことだ。秋篠宮(新たに皇嗣となった)の長女の結婚問題にしても同様である。いや、時代が時代だけに比較にならないほどの覚悟をもって皇室に嫁いだ正田美智子さえ、感嘆すべき忍耐をもって、皇太子、そして天皇となった夫を総じて見事に支えてきたものの、「平民」からの入内に拒否感をもつ守旧派から長年バッシングを受けたと言われ、1963年に流産のあと3か月ほど一人で静養することを余儀無くされるとか、1993年から翌年にかけて精神的苦痛から声が出せなくなるとか、幾度かの深刻な危機を乗り越えてきたことを忘れてはならない。彼女らを含む皇族にも、一般人と同じ自由とプライヴァシーが与えられるべきなのだ。(新たな皇后に関しては、ストレスが増しても精神状態が悪化しないよう祈るばかりだが、それにしても「皇室外交」の最初の国賓がドナルド・トランプというのだから、運が悪いと言うほかはない。)

さてここで元号の話に移るなら、元号ももちろん使い続けたい人は使い続ければいいが、公的には西暦で統一するのが現実的・効率的であることは明白だろう。そもそも元号は皇帝が空間のみならず時間をも支配することを示す中国の制度の模倣であり、近代民主主義国家にはそぐわない。むろんイエス・キリストの生誕を紀元とする西暦が普遍的だというわけではないが(しかもそれは不正確で、歴史学者によればイエスは紀元前6~4年生まれらしい)、事実上の標準(de facto standard)として世界中で使われているのだから、その便宜を優先すべきだろう。実際、「昭和X年生まれの人はいま何歳か」「平成Y年に10年計画を立てたが、その目標年は令和何年か」などと考えるとき、ほとんどの人が元号を西暦に換算して考えているのではないか。それにしても煩雑な話ではあり、とくに法律や公文書、予算や契約書などで元号を使い続けるのは、透明性の観点からも問題がある。外交文書についてもそうなので、たとえば1965年ではなく昭和40年の日韓基本条約といっても世界では通用しない。(ついでに言えば、北朝鮮は1997年から金日成の生年を起源とする主体[チュチェ]歴を採用しており、2019年は主体108年である。明治政府が、記紀の記載を文字通りにとって、神武天皇の即位を西暦紀元前660年と定め、それを紀元とする皇紀をつくったのを思わせないだろうか。1940年は皇紀2600年にあたり、それを祝って東京でオリンピックと万国博覧会が同時開催されるはずだったが、戦争のため中止された。2019年は皇紀2679年にあたる。)その意味で、河野太郎外務大臣が外交文書の日付の西暦表記を徹底させると述べたのは当然だ――と思っていたら、自由民主党からの反発で、国内で使う文書は元号表記を維持する、と直ちにトーンダウンしたのだから、呆れるほかはない。

そもそも、元号の法的根拠である元号法は、戦後の法体系に元号が規定されておらず(1947年にできた新しい皇室典範には旧皇室典範にあった元号に関する条文がなかった)、昭和天皇在位50周年記念式典の行われた1976年頃から、昭和の後の元号がどうなるのか憂慮するようになった右翼が全国的に運動を展開(1978年には「元号法制化実現国民会議」結成)、その圧力もあって1979年に制定された、意外に新しい法律である(国旗国歌法はさらに新しく1999年制定)。その成果をうけて1981年には「日本を守る国民会議」が結成され、歴史教科書の「自虐史観」批判などへと戦線を拡大していく。その「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」(1974年からあった右翼宗教組織)が合併して、1997年に「日本会議」が設立されるのである。それが「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍政権の強力な後ろ盾であることは言を俟たない。このように、元号や国歌・国旗が昔から変わらず受け継がれてきたかに見える、それは昭和末期に危機感を募らせた右翼が法制化やそのための全国運動を通じて作り出してきたイデオロギー的幻想であり、まさしく「戦後レジームからの脱却」の一環であったことを、この機会にもういちど思い出してみることは、天皇の代替わりと改元を「善用」する数少ない方法のひとつなのではないか。(実は、右翼がもうひとつの危機と考えたのが、皇位継承資格をもつ皇族の減少であり、小泉純一郎政権は継承資格者を男系の男子に限る皇室典範を改正して女性天皇を認める方向に動いていたが、2006年、秋篠宮家に悠仁親王が誕生した(右翼伝統主義者の一部はそれを皇室の意志の表れとして歓迎した)ため立ち消えとなった。結果、現時点での継承資格者は、皇嗣となった秋篠宮文仁とその息子の悠仁、そして83歳の常陸宮正仁[上皇の弟]の三人だけである。)

 
最後に「令和」という新元号について言えば、安倍首相が史上初めて中国の古典ではなく日本の古典である万葉集を典拠とする元号を選んだと胸を張っているのには、さまざまな意味で違和感を禁じ得ない。確かに元号法では元号は政令で定めることになっているが、もし天皇制を尊重するのなら、内閣官房長官が元号を発表するだけという前回の方式を踏襲すべきなので、首相が前に出てきて「元号に込めた思い」(マス・メディアのつけた見出しであって首相自身の言葉ではないかもしれないが、実際はまさにこの通りだ)を語るなどというのは世が世なら「不敬の極み」と言われただろう。

面白いのは、そこで出典である万葉集のことを少しでも調べてみれば、首相のナショナリスティックな「思い」とは逆に、日本文化がどれほど中国の深い影響下に形成されたかがあらためてわかるということだ。問題の個所は万葉集第5巻の「梅花の歌三十二首」序であり、漢文で書かれている(歌は漢字を意味抜きに使った万葉仮名)。日本の大陸に向けた窓口である大宰府の長官(太宰帥=だざいのそち)を務めていた大伴旅人が、中国から入ってきた花である梅を愛でる宴を催し、そこで皆の詠んだ歌に、詩に序をつけるという唐の流行を真似て、おそらくは自ら序を書いた。『文選』に含まれる張衡の「帰田賦」、あるいは王義之の「蘭亭序」を下敷きにしたとされる(「令和」の考案者と言われる中西進は後者を強調している)。いや、大伴旅人の傍らで共にこうした新しい文芸の波を起こした山上憶良にいたっては百済からの渡来人だ(百済滅亡とともに日本に渡って天智天皇・天武天皇の侍医を務めた父に伴われて来た)というのが中西説なのだ(ただし、この説には反対意見もある)。もうひとつ、首相は万葉集が後の勅撰和歌集とは違ってありとあらゆる階層の人々の歌を含んだまさしく国民的な歌集であると強調するが、明治以後に普及したこの通念も最近の研究ではおおむね否定されているようだ。(近代につくられた万葉集像の批判に関しては品田悦一『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』[新曜社]に詳しい。著者は「令和」発表直後にも一文を草しているが、この文章の原型は新聞に投稿されたにもかかわらず掲載されなかったらしい。東京大学教授を務める専門家のタイムリーな投稿を載せなかったのは、「国民こぞっての奉祝ムード」に水を差して批判されるのを恐れたからだとしか思えない――というのは私の「邪推」だろうか。)

そもそも、国学的伝統からすれば、純日本的な国風文化は、奈良時代の万葉集ではなく、平安時代になって編まれた最初の勅撰和歌集である古今集から出発するということになるだろう。漢才ゆえに右大臣まで上り詰めた菅原道真(母は大伴氏)を大宰員外帥(大宰府長官代理;道真の悲劇は、彼が唐末の混乱を見て遣唐使派遣を中止したため、それまではいわば外務省・防衛省の最重要出先機関でもあったのがただの九州行政庁になってしまった大宰府に、自らが左遷されたことだ)に左遷し憤死させた左大臣・藤原時平が編ませたと言われるこの和歌集では、旅人や道真の愛した梅よりも桜が、しかも、無風状態で完璧な形を見せる花ではなく、それがはらはらと散ってゆくさまが、より重要なテーマとなる。それを国風文化の起点としたのが、「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ後世の国学者・本居宣長であり、その伝統をさらに捻じ曲げて、特別攻撃(特攻)という名の自殺攻撃に向かう若い兵士らに「桜のように潔く散る」大和魂を求めたのが戦中の右翼軍国主義者たちだった… といったきわめて初歩的な知識もない首相とその周辺が、漢意(からごころ)に満ちた万葉集の一文を典拠とする元号を選んでくれたがために、日本文化がもともと中国や朝鮮との交流の中で形成されたハイブリッドかつ重層的なものだということがあらためて確認できる。皮肉な話ではある。

…というあたりでひとまず筆を置き、我が家の近くにある道真を祀った北野天満宮で展示されているという昔の万葉集の版本(といっても江戸時代のもの)を見て来ることにしよう。

それにしても、昭和の終わり・平成の始まりが昭和天皇の死の影を強く帯びていたのに対し、平成の終わり・令和の始まりは政府とマス・メディアの煽り立てる「奉祝ムード」の中で歴史健忘症をますます激化させているように見える。昭和天皇から歴史の重荷を受け継いだ平成天皇が譲位したからといって、歴史の記憶が薄れるに任せていいはずはないのだが…

 
(付記)
韓流ドラマの「王さま」

韓流ブームのおかげで韓国の歴史ドラマが日本でもよく見られるようになった。そこで気になるのは、日本語の吹き替えや字幕で「王さま」という言葉が使われることだ。日本のドラマなら「陛下」と言うべきところで、「天皇さま」「王さま」という呼びかけはあり得ない(子供向けの紙芝居でもないかぎり)。

実はここには東アジア世界における皇帝と王の違いが関係している。中華帝国の皇帝は様々な王国の王の上に立つ東アジア世界の支配者だった(皇帝の息子も王と呼ばれた)。ローマ帝国の皇帝(英語ならEmperor)が様々な王(英語ならKing)の上に立つ地中海世界の支配者だったのと同じことだ。したがって、皇帝の尊称である「陛下(英語なら Your Majesty)」と王の尊称である「殿下(英語なら Your Royal Highness)」(そして大臣らの尊称である「閣下」[英語なら Your Excellency])は厳格に使い分けられた(実は「陛下」も「殿下」も「閣下」も元は玉座や玉座の置かれたパヴィリオンの階段の下にいる取り次ぎ役のことで、皇帝や王や大臣に直接呼びかけるのは憚られるため取り次ぎ役に呼びかける呼称から来ている)。このシステムを知ってか知らずか、聖徳太子(厩戸皇子)が607年に遣隋使・小野妹子に託したとされる国書には「日出ずる処の天子より日没する処の天子に書を致す。恙なしや」と書かれていた。世界の東の果ての島国の王が、世界の中心に君臨する中国の皇帝に同格で呼びかけたわけで、隋の煬帝が激怒したというのも無理はない。これは隋書の記述だが、日本書紀には同じ国書を「東天皇敬白西皇帝」云々と紹介している。「天皇」号が確立されるのはこの事件より少し後、天武天皇・持統天皇の頃とされているが(日本書紀もその時代に書かれた)、いずれにせよ日本では天皇を皇帝と同格と考えて「陛下」と呼ぶようになった。しかし、中国に隣接する朝鮮国王にそんな非常識は許されない。中国皇帝「陛下」と区別して、朝鮮国王は「殿下」と呼ばれたのである(正確に言えば、高麗の一時期までは「陛下(ペハ)」と呼んでいたが、元の支配下に入って「殿下(チョナ)」に格下げされ、以後それが定着する)。
さて、日本では、天皇・皇后を「陛下」と呼ぶ一方、皇太子・皇太子妃や親王・内親王・王らも「殿下」と呼んでいたのだが、少なくとも昭和後期からマス・メディアは「殿下」を「さま」に変えることが多くなった(ささやかな民主化と言うべきか)。そこで、韓流ドラマで王が「殿下(チョナ)」と呼ばれている、それも「王さま」と訳すことになったのだろう。日本語としては何とも座りが悪いので「殿下」に戻してほしいところだが、そうなると「なぜ陛下ではないのか」と問われるのを避けたいのかもしれない。

付け加えておけば、同じ構造はもう一段下にもある。たとえば、イギリスの正式名称は「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」であるが(ちなみに、グレート・ブリテンは「大ブリテン島」を「小ブリテン」つまりブルターニュと区別する地理用語に過ぎないのに、「British Empire(ブリテン帝国)」も「大英帝国」と訳してしまい、それに対抗して「大日本帝国」を名乗った[むろん最初に「大唐」という中華帝国の名がモデルとしてあったのだが]というのが、戦前の日本の滑稽な思い上がりである)、グレート・ブリテンもイングランド、ウェールズ、スコットランドの三つに分かれる。連合王国の皇太子はプリンス・オヴ・ウェールズを名乗るが、これは皇太子(クラウン・プリンス)であると同時にウェールズ公(普通ならDuke)であることを示す。公爵をはじめとするさまざまな貴族たちの上に君臨するのが国王であり、国王の子や孫は公爵などの位をもつというわけである。ちなみに、現在のプリンス・オヴ・ウェールズであるチャールズの妻カミラはコーンウォール公爵夫人(亡きダイアナに遠慮してかプリンセス・オヴ・ウェールズの称号は使っていない)、チャールズの弟のアンドルー王子とエドワード王子はそれぞれヨーク公とウェセックス伯、チャールズの息子のウィリアム王子とヘンリー(ハリー)王子はそれぞれケンブリッジ公とサセックス公である。
話がそれたついでに最後に付け加えれば、「クール・ジャパン」というまったくクールでない日本文化宣伝キャンペーンは、「クール・ブリタニア」というイギリスのキャンペーンの模倣だが、それは「Rule, Britannia!(統べよ、ブリタニア!)」という帝国主義賛歌の一節の語呂合わせである。これはジェームス・トムソンの詩にトマス・アーンが作曲した曲(1745年初演)で、ベートーヴェンがナポレオン戦争を描いた戦争交響曲『ウェリントンの勝利』(1813年初演)にもイギリス軍を代表する音楽として引用されているが、帝国主義の時代になってさらに有名になった。いまも毎年夏にBBCが放送するプロムナード・コンサート(BBC Proms)のクライマックスで演奏され、ユニオン・ジャックに身を包んだ愛国者たちが「Rule, Britannia! Britannia, rule the waves (統べよ、ブリタニア! ブリタニアよ、大海原を統治せよ)」と声を合わせてがなり立てる光景が見られる。毎年あのおぞましい光景を見ていれば、イギリス人が国民投票でEU離脱という愚劣な選択をしたと聞いても驚くことはなかったろう。その語呂合わせの「クール・ブリタニア」を真似て「クール・ジャパン」キャンペーンを張る。「British Empire」を「大英帝国」と誤訳し、それに張り合って「大日本帝国」を名乗った頃から、まったく進歩していない。