無人劇と無観客無配信ライブ
小崎 哲哉
THEATRE E9 KYOTOの芸術監督で演出家のあごうさとしが、『無人劇』と題するパフォーマンスを上演する。あごうは何度か「無人劇」を発表してきたが、今回の作品はこれまでのものと決定的に異なる。以前は出演者がいない、いわば「無俳優劇」だった。今回は、出演者、スタッフ、会場の受付、さらには観客も不在という、完全な無人劇である。
あごうの幾度かに及ぶ試みは、ピーター・ブルックの演劇観への挑戦と捉えてもよいだろう。先ごろ95歳を迎えた現代の劇聖は、名著『なにもない空間』を以下のように書き起こしている。
どこでもいい、なにもない空間――それを指して、わたしは裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる――演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。(高橋康也・喜志哲雄訳)ブルックの舞台(伝統的な演劇)には出演者がいる。観客もいる。というより、いなくてはならない。だが、あごうの舞台には両者がいない。以前の「無俳優劇」には出演者がいず、観客だけがいた。ただし、どのケースでも上演を行う以上、スタッフや受付はともかく、空間(舞台)は存在する。図式的には以下のようになる。
出演者 | 空 間 | 観 客 | |
---|---|---|---|
伝統的な演劇 | ○ | ○ | ○ |
「無俳優劇」 | × | ○ | ○ |
「無人劇」 | × | ○ | × |
現代アートにおいては、展示物が何もないイヴ・クラインの『空虚』展(1958年)や、それを踏まえたであろう、オーディオガイドで作品説明を聞きながら展示物のない美術館内を歩かされるリクリット・ティラヴァニの『A Retrospective (tomorrow is another fine day)』(ある回顧展 [明日もやっぱり晴れの日]。2004年)があった。マーティン・クリードは、展示室の照明が5秒ごとに明滅する「作品番号227、ライトが点いたり消えたり」で、2001年のターナー賞を受賞した。ライアン・ガンダーは、2012年のドクメンタ13で、フリデチアヌム美術館のメイン展示室を空っぽにして、そこを吹き抜ける「風」を作品化してみせた。
どの場合も、舞台芸術における出演者に相当する展示作品が、存在しないか極限近くまで縮減されている。展示室自体、空間自体(の変容)を体験するインスタレーションとも捉えうるけれど、いずれにせよ観客も空間も存在する。その意味では「無俳優劇」に近い。
危機的状況への切実な反応
同様の舞台芸術作品はほかにもありそうだが、すぐには思い浮かばない。ジャンル違いだが想い出したのは、3月5日に音楽家の山本精一が、自らが運営する大阪・難波のライブスペースBearsで行った「『コロナ調伏撲滅祈念』 山本精一 絶叫無観客無配信ライブ」である。「無観客配信ライブ」ではない。誰も会場には入れず、配信も行われない。だから本人とスタッフ以外は誰も聴けない。未確認だが、スタッフもいなかったかもしれない。
コンセプトとして徹底しているのは、もちろん「無人劇」だ。「無観客無配信ライブ」にはパフォーマー(山本)がいる。「無人劇」にはいない。空間を排除するのが不可能である以上、「無人劇」は究極的にミニマルである。
出演者 | 空 間 | 観 客 | |
---|---|---|---|
伝統的な演劇 | ○ | ○ | ○ |
「無俳優劇」 | × | ○ | ○ |
「無人劇」 | × | ○ | × |
「無観客無配信ライブ」 | ○ | ○ | × |
あごうのコンセプトには拍手を贈りたい。けれども、個人的には山本の試みが素敵だと思う。『無人劇』はTHEATRE E9 KYOTOで上演されるが、ほかの場所にいる観客が上演時間に想像するのは、ブラックボックスの劇場内部である。僕は可動席がある状態もない状態も見たことがあるが、想像してもあまり面白くない。けれども、山本の「無観客無配信ライブ」は、どんな楽器を使ったか、エレキギターかアコースティックか、どんな楽曲でどんな歌詞だったか、どのような「絶叫」だったかなどなど、公演がとっくの昔に終わってしまったいまでさえ、あれやこれや想像をたくましくすることができる。
ふたりがこうしたことを思いついたのは、もちろんCOVID-19(新型コロナウイルス)による危機的状況に反応したからだろう。冒頭に書いたように、あごうはTHEATRE E9 KYOTOの芸術監督である。山本はBearsのオーナーであり、他のライブハウスやコンサートにも出演する音楽家である。相次ぐ上演キャンセル問題は、コンセプチュアルな表現の創出とはまったく別の次元で、生々しく切実である。
『無人劇』が「無観客無配信ライブ」よりも勝る点がひとつあって、それは公演が有料であることだ。前売り一般3000円、学生1000円。しょーもない「な〜んちゃって演劇」よりもはるかに刺激的であり、したがって3000円は安いと思う。また、現代アートはすべからくコンセプチュアルアートであるべきであり、そうであるなら、観客が購入すべきは物理的な作品ではなく、不可視で非実在的なコンセプトである。だから僕は、3000円を払ってチケットを予約した。公演がキャンセルとなって払い戻しされたりしたら、さらにコンセプチュアルで面白い気も……いや、冗談ですよ。
小さいからこそ多様なニーズに対応
ところで、宮田亮平文化庁長官の声明が失笑と憤激を買っている。具体的な財政支援策を提示しない声明は「ポエム」と呼ばれても仕方がない。東京藝大の学長まで務めたこの人物は、あいちトリエンナーレの補助金不交付問題では、国会でいつ決裁したかを問われ、「私は決裁はしておりません」と答えて、自ら「お飾り」に過ぎないことを図らずも吐露している。
文化芸術基本法は「国は、前条の基本理念(以下「基本理念」という。)にのっとり、文化芸術に関する施策を総合的に策定し、及び実施する責務を有する」と定めている。「基本理念」には「文化芸術に関する施策の推進に当たっては、多様な文化芸術の保護及び発展が図られなければならない」と記されている(原文のカンマを読点に変えた)。ここでいう「国」は文化庁であり、文部科学省であり、安倍晋三内閣である。いま現在、この国の「多様な文化芸術の保護及び発展」はまったく図られていない。つまり、宮田長官、萩生田光一文科相、安倍首相は法が定める責務を果たしていない。全員即刻辞任すべきだろう。
ドイツ連邦政府は、3月23日に、文化・創造・メディア領域を含む小規模事業者やフリーランスの人々に、総額500億ユーロに上る財政的支援を行うと発表。モニカ・グリュッタース文化大臣は「文化領域は特に自営業者の割合が高く、自営の方々はいま、生活面で問題を抱えています」と状況を把握していることを示した。その上で、「連邦政府は文化産業とクリエイティブ領域の重要性を完全に理解」しており「支援はできるだけ速やかに、かつできるだけ非官僚的に行います」と付け加えた。さらに「芸術家は不可欠であるばかりでなく、生きる上で重要なのです」と述べ、国際的にも称賛された(『ニューズウィーク日本版』は「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」と訳しているが「生命維持に必要」は意訳しすぎだと思う)。
約2週間前に配信された政府のプレスリリースは「(グリュッタース文化相は)政府の支援を受けている文化施設に対し、ローベルト・コッホ研究所の報告を指針とするように推奨した。また、そうすることで、大規模なイベント、特に閉ざされた空間で開催されるものは、中止するべきであり、他方、小規模な催事は、個々の条件を鑑みて、実行に十分な責任が負えるかどうかを、各自で判断することになるとした」と記している。この推奨が、医学的・疫学的に正しいかどうかは完全にはわからない。だが、開催中止の基準を一応は定めたということで、イベント主催者には役立ったことだろう。日本政府とは大違いである(ローベルト・コッホ研究所の報告には、感染のリスクを軽減するための対策など、一般的ではあるが具体的な情報が掲載されている)。
イベントを中止すると、チケット収入が得られないばかりか、当てにしていた助成金が得られなかったり、会場やレンタル機材などのキャンセル料が発生したりする。その時点までの経費はどぶに捨てたことになるし、場合によっては出演者やスタッフへの謝礼や違約金を支払う必要も生じるかもしれない。主催者は大いに不安を感じるわけだが、文化相はその点も抜かりなかった。「芸術家と文化施設の方々は、安心していただきたい。私は、文化・クリエィティブ・メディア業界の方々の生活状況や創作環境を十分に顧慮し、皆さんを見殺しにするようなことはいたしません! われわれは皆さんのご不安をしっかり見ておりますし、文化産業とクリエイティブ領域において、財政支援や債務猶予に関する問題が起こるようであれば、個々の必要に対して対応してまいります」(粂川麻里生訳)と表明し、文化関係者とフリーランスの人々を安心させたのだ。経済的に成功している国ゆえの度量とはいえ、文化行政トップの振る舞いとして完璧である。
日本政府も、さっさと文化芸術基本法が定める責務を果たしてもらいたいが、気になるのは右翼ポピュリスト政治家の動きである。あいちトリエンナーレのときにはびこった、公金の使い方に関する暴論がこういうときに出かねないからだ。公金はマジョリティにのみ使われるべきものではない。納税者は多様であり、だから公金はできる限り多様なニーズに応えなければならない。自分の価値観に合わないものを排除するなど論外である。
小劇場や小さなライブハウスは、小さいからこそ多様なニーズに応えている。アーティスト個々人も同様だ。グリュッタース文化相が述べた「芸術家は不可欠であるばかりでなく、生きる上で重要なのです」という言葉は美しいが、実は誰にとっても重要な表現など存在しない。あごうさとしは好きだが山本精一が嫌いな人も、その逆の人もいるだろう。ここで「芸術家」と訳した原語は「Künstlerinnen und Künstler」と複数形である(英語に訳すと「Female artists and (male) artists」)。これは「すべての多様な表現者」と受け取るべきである。