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Re: 明るい部屋――高谷史郎『明るい部屋』展
石谷 治寛

2014.03.16
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ところで、年始のご挨拶に書かれていた高谷史郎『明るい部屋』展のご感想を興味深く読ませて頂きました。実は年始に東京に行くことがあって1月4日に高谷展を見て大変感銘を受けました。高谷さんの作品は隠された意味が何もないということで、一見地味で退屈な印象も受けますが、日本の作家でもっともラディカルな試みを達成しているのではないかと確信した次第です。山口での坂本龍一教授とのコラボレーションを私は未見ですし、今回の主題となっている「明るい部屋」の舞台バージョンすら機会を逸してしまったので、たいしたことは申しづらいのですが、いくつかの同時代の現代アーティストの表現と比べても、あるいはインスタレーションの方法としても際立っているという印象を受けました。誤読もあるメモ書きになりますが、若干の推敲を付け加えて、いただいたメールへの応答として書いたものを、ブログに公開しておきます。(私信を公開するという身振り自体も「明るい部屋」という作品について語るのに相応しいあり方なのではないかと考えております)。

《Topograph / La camber claire》《Performance: La chamber claire》
まずは全体の構成について。作品に展示されている白黒の写真群も含めて、展示作品の多くが舞台のためのコンセプトやスチールになっているということが特質すべきだと思いました。インスタレーションのためのインスタレーションになっていないと言えます。それによって個展や回顧展という形式とは異なって、舞台のための補足的な展示という位置づけになっていることは、舞台を見ていない者からするとやや不親切だという印象もありますが、逆に舞台の抜粋のビデオも含めて、展示自体が別のかたちでの舞台や参加演劇という形式になっているようで興味深かったです。それによって再現表象というモデルとは異なった、根本的に生きた空間が現れてくるように思います。この点に関しては、近代的な舞台はどうしても「暗箱」にならざるを得ないし、ギャラリーという空間自体も近代的な暗箱モデルにしたがって、現実の写しを再提示する空間だと考えるとするならば、ギャラリーを「明るい部屋」のモデル(片目でレンズを介して媒介的なイメージを見て、もう片方の目では、直接的なイメージを同時に見る)を模造するためには、必然的な方法だと思いました。

《Camera Lucida》

バルトの書籍の写真をカメラ・ルシダで見るという作品や写真は、ややペダンティックな感じもしましたが、バルトの言う「プンクトゥム」は、実はその写真を注意深く見ても何も見えてこないということが逆説的に体感されるのだろうかという疑問符を頭に浮かべながら鑑賞していました。この問題については、あまりにも手垢のついた当のテクストをもう一度読み直して考えて見なければなりませんが… ところで、このシリーズの比較項としては、言うまでもなく米田知子のシリーズ(《Between Visible and Invisible》)を思い出さざるを得ません。米田の作品が、知識人によって書かれたテクストと眼鏡や視点の「いまここ」性を通して、逆説的に集合的な歴史の不在と現前を主題にしていました(個人的にはとても傑出した作品だと思います)。バルトの「プンクトゥム」は私の図式的理解では、歴史的な記録写真(スタディウム)にその意味とは離れて、きわめて個人的な主観性や私的な関心(プンクトゥム)が現れることを述べており、米田の作品は、その意味で、バルトの観点に深く関わる作品だと思っています。しかし、高谷の作品が興味深いことは、米田と違ってバルトの視点を再現するのではなく、リテラルにカメラ・ルシダの装置を使って「明るい部屋」という隠喩を反復することによって、逆にバルトの固有名とともに意識されざるを得ない「プンクトゥム」という概念それ自体を無名化してしまうような装置にしていることだと思いました。いわゆる「作者の死」というポストモダン的言説が、バルトやフーコーといった「フレンチ・セオリー」固有の名に帰されてしまうという矛盾を、もう一度無名化して眺めてみること。そうしたトリッキーな戦略が、ある程度の名前のある写真家の作品などの引用も通して実現されているのですから、事態はきわめて複雑で曰く言いがたいものです。ともかく、この時、撮られた写真や、それを視る鑑賞者の主体性よりも、レンズ自体に像が張りついているような感じが鮮烈でした。主体と表象のあいだのレンズという不可視の媒介物自体が可視化されるという感じです。これは、柄谷行人氏がカタログで強調しているように鏡の自意識的(近代的)なモデルとは根本的に異なるものでしょう。また米田の作品の場合、レンズそのものより、眼鏡のフレームといった枠構造が重要でしたが、高谷の場合、レンズには額縁がないことから、近代的鏡モデル(歴史的遠近法)における枠構造とも異なる、二十一世紀の「明るい部屋」(これは非歴史的や反記憶であることを必ずしも意味しません)が現われてくるように思いました。

《mirror type k2》
その観点で、プリズムの円柱作品はとりわけ感動的でした。分光や屈折という現象そのものが表されているということもさることながら、それを通してなにかが見られるという空間になっていないということが驚きです。たまたま、二〇一三年は、プリズムを使った別の日本の作家の作品を見ることができました。ひとつは、杉本博司のアルル国際写真展での教会の空間を使った展示です。この作品も、最後の晩餐の白黒写真や、分光された色彩を使ってエルメスのためにデザインされたスカーフを展示して、写真や光学装置とその表象のシステムについて考察するものでしたが、擬似的な超越性(プリズムを通して眺めると、中央のイエスの姿が隠れ、分光のオーラになる、色彩で彩られた法衣は聖性を帯びる)に訴えていました。あるいは東京都現代美術館での吉岡徳仁の《虹の教会》も、マチスのロザリオ礼拝堂とは言わないにせよ、バーネット・ニューマンのような垂直のジップの裂け目の崇高性に訴えるものでした。しかし、杉本のエルメスにしろ、吉岡の結晶的なオブジェにしろ、デザインを崇高なアウラによって超越的なものに見せかけるというフェティシズムを満足させるものに過ぎない(杉本の場合にはイロニーがあるにせよ)とも言えます(とはいっても、だからこそ、吉岡がイッセイ・ミヤケとのコラボレーションでデザインした時計『オー』シリーズはなかなかしゃれていたし、リーズナブルなので買ってしまい、今手首につけてこの文章をタイプしています)。高谷のプリズムは展示空間をカメラとして提示する役割も果たしていると同時に、レンズ(屈折装置)そのものに注意を向け、それらの媒介物そのものを現前させるという意味でもきわめて批評的なものでした。また、視点を変えると、プリズムの角がうっすらとした線で浮かびあがってくるのが美しい。こうした尖端が「プンクトゥム」という、密かに鋭く心搔き乱されるような感じともどこか通じるようなものがあるような気がします。

《Chrono》《frost frames》

空の様子を撮影したものは、最も古典的なカメラ・オブスクラの装置を思わせるものでした。天井のレンズから室内の丸テーブルに動く映像を映し出したものを、現代の写真やプラズマディスプレイを使って再現したものになっています。非常に単純な着想のものでしたが、レンズの扱いや正方形の液晶画面にしろ、完璧に仕上げられていて驚くべきものだという印象がありました。展示室、奥の一連の作品は、「暗箱」、高速でモンタージュされるイメージ、パノラマという、人は動く風景をどのように機械を介して知覚するのかというその限度を再現するようで刺激的です。全体が一眼レフのように構成されているように思えるというのは同意しますが、むしろ現在デジタルカメラで主流になっているミラーレス一眼(内部に鏡がなく、ファインダーがついていてもデジタル的に処理されている)の機構を思わせるといった方がいいかもしれません。ファインダーより、液晶モニタでの視点が重要になる時代を象徴しているかのようです。

《Toposcan》
おっしゃるように、「Toposcan」は驚くべきものでした。現れてくるカラーバーは、見方によっては、ソニーのデジカメなどでパノラマ撮影をしようと、自分の体を動かしながら360度パンをしようとするが、失敗して間違った映像が出来上がってくる感覚(あるいは画像をスキャナで取り込もうとして、イメージを動かしてしまったときの感覚)に似ていなくもないのですが、むしろ撮影や映像の処理は、デジカメのパノラマ撮影の処理をリバースエンジニアリングするかのような非常に手の込んだものだという印象を受けました。バーコードのような動く色彩は、筆触分割という近代絵画の技法を現在のデジタル技術で仕上げたようなアナクロニックな要素もありますが、むしろパノラマ的な空間把握を行う人間の知覚はこのように部分的な情報処理を繰り返しながら、多様な色彩の変化を心地いいものにして感じているはずだと思わざるを得ないものです。水の動きは豊かなグラデーションがゆらめき、森のイメージは暗闇のなかに、ときおり白や黄色の色彩がきらめくように。
この色彩の現れで思い出したのは、近年のゲルハルト・リヒターの試みです。リヒターもまた、映画の時代における断片的な映像のモンタージュ(「アトラス」)という観点から近年移行して、一見シームレスに包括的な空間を構成しながら、そこに不可視な光学的な操作や歪曲が意識されるような「パノラマ」という観点をデジタル時代のメタファーとして再度持ち出しているように思えます。近年のガラス板を幾数も配置するインスタレーションは、これまでのグレイ絵画の鏡を思わせる構造から発展して、照度が異なり微妙に異なる反射屈折像がずれながら重ね合わされることで、暗箱モデルを乗り越えようとするものになっています。リヒターの場合、さらに水平方向への絵筆のブラッシュ・ストロークが、テレビの走査線やデジタル動画映像のインターレース処理のメタファーになっているような印象があり、現代の映像のあり方に拮抗する創造の可能性を模索しているように思えますが、絵画という媒体による再現という限界ゆえ、主観的な表現性が付着してきます(そうした逆説がリヒターを巨匠として世界的に重要な画家たらしめているでしょう)。高谷作品の場合、リヒターによる媒体の複層性以上に、印象派の振動する視点、クールベやセザンヌのような物質性など、近代絵画史自体が包括されているような感動がありました。(後でお伺いして知ったのですが、ロケーションとしてアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イエーツと縁の深い場所が選ばれているのですね。その意味で「エピファニー」という風景に対する近代的感覚を現代的に再現されている最初の直感は間違っていなかったのでしょう。ジャック・バトラー・イェーツのフォービスム的で「意識の流れ」に結びついた色彩感覚に近いといえるかもしれません。個人的にはアイルランドの西側の街スライゴーに訪れたときの感動を思い出します。ちなみにリヒターの場合、西欧東側のファシズム的なハイマートの美学のアイロニカルなシミュラクルだとするならば、アルプス以西からノルマンディへと向かうクールベ以来のフランスの「独立派的な」自然感情の趣味とは異なるでしょう)。

高谷作品で、特に重要なのは、①360度の視点が、②8枚の液晶スクリーンによって手前の壁面に広がり(この広がりはおそらく椅子に腰掛けると人間の視野角と同じくらいの広がりになる90度から120度くらいでしょうか?)、③さらにプログラミングによってカメラのパンニングが模造されて光学装置の視野角にまで限定されそれ以外の部分の周縁野が静止画(準写真的)と色彩(準絵画的)な知覚に分解される、という構造になっていて、視野角(視点)が三重化されていることが特徴的だと思いました。このパノラマ撮影は、さまざまな光学デジタル処理によって、集中的な知覚と分散的な知覚、頭部ないしカメラ装置の回転という時間的な空間の配列が一挙に目前で展開するような装置になっています。セザンヌやその影響を受けた抽象画の知覚論でも重要なことですが、写真がつくりだす一瞬を切り取った知覚を超えて、視野角外で展開する背後の空間知覚や触知的な全体的空間把握を、いまここであたかも現前しているかのように表すという無理難題になんとか応えようとすることが近代絵画の冒険であったとするならば、まさしく高谷さんの作品はいまその最前衛にいるのではないかという直感が強くあります。さらに、両眼視の視野角の問題は、動物と異なる人間の視覚の本性を表しています。目から後頭葉での視覚データ処理、前頭葉での統合という、感覚データ処理自体が、デジタルの計算プロセスや空間的なインスタレーションの配置によって模造されているという印象もありました(安易な脳科学モデルとの類似は避けるべきですし、作品の魅力はそれを超えていると思いますが)。機械の知覚と非主観的だけれども人間中心主義的という他ない知覚(視野角)のあり方が微妙に均衡しているところが、この作品の限りない魅力や暖かさや、やさしさにつながっていると考えました。

見当違いも多くあると思いますが、大変刺激的で感動的な展覧会だったので、メモ書き的な感想としてご返信します。

また、3月に渡辺守章氏とのコラボレーションを予定しているとのこと、高谷氏のますますの活躍を楽しみにしております。

どうかお体の方ご自愛ください。遅ればせながら新年の挨拶にかえて。

1月17日 石谷治寛