増えもしないし、減りもしないが、変化している(マーティン・クリード『Work No. 1020(バレエ)』レビュー)
文:福永 信
2016.11.21
福永信
武田鉄矢のステージをだいぶ前のことだが大阪で見たことがあり、感銘を受けた。『母に捧げるバラード』という題で、前半が自伝を元にした芝居、彼がボーカルをつとめる海援隊のトーク&ライブが後半にあるという2部構成だった。驚いたのは武田鉄矢自身が本人役と母親役の2役を演じることである。後半の海援隊のライブでもその母親をテーマにした歌が歌われた。海援隊の他の2人は芝居などなかったかのように彼の後ろで演奏していた印象がある。マーティン・クリードのステージを見ながらまったく無関係な日本のこの有名な俳優兼歌手のことを思い出したのは、なぜだろう。たしかにマーティン・クリードも武田鉄矢も、照れくさそうな苦笑いを浮かべながらアドリブに聞こえもする(しかしおそらく何度も繰り返してきただろう)セリフを漏らし会場の笑いを誘うのだが、それ以外、断じて2人は似通ってなどいないはずなのだが。
開演前の客入れの状態からステージの上にダンサーや通訳者、バンドメンバーを「そろえて」おき、マーティン・クリード本人も落ち着きなくウロウロしている。客がまだそろっていない、次々と集まってくる状態と対比して見せているわけである。ステージ上の彼らは、ストレッチしたり、談笑したりしているのだが、すでに彼ならではの世界が始まっているということがわかる。
いよいよ開演し、マーティン・クリードが、「準備というのはウンザリするもの。なぜなら将来を準備するのは不可能だから。でも僕はここにいる。約束したから」とかなんとかトークしているうちにあれよあれよと幕が引かれ、ダンサーやバンドメンバーは舞台の向こうに隠れてしまう。ステージの前面に残されたのは作者である彼自身と通訳者のみ。すでに開演しているわけで、当然、観客はすべて「そろった」状態になっており、つまり今度はさっきと逆、ステージ上が「そろってない」という事態になったのだった。ちょっとした操作で環境を激変させるのは彼の得意技、しかも、それが劇的ではないためその「変化」に気づかぬ人もいる。そのことも含め、マーティン・クリード作品をわれわれはすでに味わっていることになる。
「僕はいつわりたくない。いつわりたくないんです。正直でいたいと思っています。いつわっている気持ちが嫌いだから。でも僕は人に好かれようとして、正直でいられてないかも。なぜなら正直にしていたら嫌われるかもしれないから。僕は何も隠したくない」というような、彼の言うこんなセリフはもしかしたら、武田鉄矢も似たようなことを言いかねないような気がするがそんなことを思う間もなく「僕は何も隠したくない」というセリフと呼応するように幕は上がり、隠れていたものが再び眼前に現れ、つまり時間が巻き戻ったようにダンサーたちとバンドのメンバーが、そこにいる。
ダンサーが、マーティン・クリードの身振りを真似し始める。トークしながら、前屈み、時々ため息混じり、マイク持ってウロウロ、そんな彼の身振りを無言で真似するのである。するともう1人のダンサーが、そのダンサーの横でその真似を真似し、さらにもう1人がそれを真似て、というようにダンサー全員が同じ身振りを、少しずつ遅れながら反復する。その間、マーティン・クリードは周囲にまるで頓着しない。そもそも幕が開いてからというもの、いや、開演前からずっと、彼はダンサーのことを無視してしゃべり続けている、まるでダンサーたちは幽霊か何かのように。おもむろにギターを手にし、バンドが演奏し始めると、次々とダンサーは去っていく。
時間の進行の中で儚く消えていく作者の身振り。それをなんとかこの世に引き止め、延命させようと力を合わせるようなダンサーたちの身振りの連携。この見事な数分間のシーンを見れば、もうここで終わってもいいくらい。
しかしここからが本領発揮というか、ほとんど「第2部」のコンサートが始まったといっていい。上述のような極小の「ダンス作品」らしさは急激にしぼみ、バンドの演奏を背景に持ち歌を14曲歌ってマーティンは帰って行った。むろん歌の合間にもダンスは入り込んでくるし、歌詞の隙間に通訳がバンバン投げる訳詞も痛快だが、彼の美術作品のファンとしては「第1部」だけを胸に秘め、あとは見なかったことにして、イスに深く腰掛け直し、歌ありトークありの海援隊的なトーク&ライブを楽しむ。バンドは「ダンス」などなかったかのように彼の後ろで演奏し続けているような印象だ。彼のファンとしてはこの作家らしい「第1部」が見られたのだからそれで十分だし、「余った時間」でコンサートを楽しむ、そのこともまさに、この作家らしさではないかと思う。見る者は、何も受け取らず、しかも何も手放さず、拍手をした後、立ち上がって、会場の外へ出る。会場の外は1時間30分ほど前の世界とほとんど何も変化してないだろう。しかしさっきまでマーティン・クリードの『Work No.1020(バレエ)』の観客だった者らの表情はいつもと少し、変化しているはずだ。ニヤニヤ、笑ってるだろう。それは彼の言う「目に見えない感情」ってやつの正体の一端だろう。ところで、僕が見たのは初回だったけどそのときアンコールで歌われたのは「母に贈る歌」だった。やっぱりマーティン・クリードと武田鉄矢は案外気が合うのかもしれない。
画像全て
マーティン・クリード『Work No. 1020(バレエ)』
2016 京都府立府民ホール“アルティ”
撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局
ふくなが・しん
1972年、東京生まれ。小説家。著書に『アクロバット前夜』(リトルモア)、『コップとコッペパンとペン』(河出書房新社)、『星座から見た地球』(新潮社)、『三姉妹とその友達』(講談社)、『星座と文学』(メディア総合研究所)。共著に『あっぷあっぷ』(講談社)、編著に『こんにちは美術』(岩崎書店)がある。編者を務めた『小説の家』(新潮社)が最新刊。
REALKYOTOでブログ執筆中。http://realkyoto.jp/blogs/fukunaga_shin/
※マーティン・クリード『Work No. 1020(バレエ)』は、2016年10月29日・30日に、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 ならびに京都市立芸術大学の招聘により、京都府立府民ホール“ アルティ”で開催されました。
(2016年11月30日公開)