堂島リバービエンナーレ2013『Little Water』展 展評
親密さから構築される普遍的世界観——リトルはリトルなのか?
文:片岡真実
2013.08.05
片岡真実
現代美術の熱心なコレクターとして知られるルディ・ツェンは、台湾ディズニーのCEOを勤めた後、早期退職してからは、自称無職、あるいはフルタイム・アートコレクターである。したがって、彼のアートへの関わり方とその情報量は半端ではない。直接作家に会い、スタジオ訪問もしながら、作品購入を通して作家とギャラリストの双方を支援している。数年前からは台北のアートフェアに時期をあわせ、市内のデザイン系家具のショールームを会場に展覧会の企画もしてきた。じつにフットワーク軽く、行動力があり、決断も早く、しかもきめ細かい心配りのできる人柄で、大きな組織を取りまとめていたことが容易に想像される。
実際、「水」という極めて普遍的で多義的な物質を「リトル・ウォーター」展のテーマに選びながら、そこに参加している作家は、キュレーターとして企画をしたルディ本人と親しい友人関係にある作家が少なくない。それは作品を購入するという行為を介して構築された、制作者の思考や価値観への共感と、そこから派生したパーソナルでインティメイトな(親密な)関係性だ。そうした関係性から構築された世界観に、どんな普遍性を見ることができるのか。ミクロコスモスとマクロコスモスが一体化したようなこうした概念はじつに興味深い。本展の企画の初期段階に、ルディと何度かメールのやりとりをした際、テーマについて意見を求められたが、彼が既にインティメイトな関係性を構築し、信頼関係で結ばれている作家たちの作品のなかで、相互に見いだせる具体的な関係性を列記してみてはどうかと勧めた。彼が収集してきた作品群には、すでにルディ自身の価値観や審美眼が反映されているはずであり、それが企画のひとつの基盤を成すだろうと思われたからである。
結果的に彼が選んだ「リトル・ウォーター」というテーマは、展覧会に通底する詩的な抽象性、静謐な空間構成と照明演出、一貫した作品の審美性などに興味深く投影されていた。限られた空間を繊細に使い分けながら、ルディの思想的、空間的配慮が行き届いた親密さが構築する世界観である。展評を書くには、本人も参加作家の何人かも作品も知りすぎているゆえに、完全に客観的あるいは批評的視点を持つことは困難だが、その部分を差し引いたとしても、選ばれた作品群が彼の思考を視覚化、空間化するためのものではなく、企画者自身による作品への共感が、より普遍的なものとして空間に投影されているように思われた。
実際、「リトル・ウォーター」の「小さい」という価値観は、第1回横浜トリエンナーレのテーマ「ビッグ・ウェイブ」とも、収縮しつつある国で未だに成長戦略を唱えるアベノミクスとも逆行する概念だ。ただ、ルディのいう「リトル・ウォーター」は単なる物理的な大小の問題でも、大に兼ねられる小でもない。逆に、重森三玲が設計した東福寺方丈庭園で、天空の北斗七星が枯山水に投影されているように、箱庭のようなミクロコスモスが森羅万象を象徴しているという概念なのだ。そのことは、篠田太郎の《GINGA》で、墨汁を混ぜた黒い水面に天井から落ちる水滴の波紋が、星空を象徴していることにも通じている。あるいは、花粉、蜜蝋、米、牛乳など、生命の根源や成長のための栄養素が凝縮された素材を彫刻作品に採用してきたヴォルフガング・ライプの作品にも同様の普遍性を見ることができる。とくに《ミルクストーン》(1975)は、当初医者を目指していたライプが、インド哲学などに触れたことで、具体的に人間の生命を救う仕事から、その根源を思考するアーティストに転向した最初の作品だ。それはライプが医師の仕事を通してまさしくやりたかったことと同じだという。小さな矩形の大理石のうえに、毎日、新しい牛乳が表面張力ギリギリまで注がれ、一日の終わりには拭き取る行為が繰り返される。あたかも親密な茶室空間で客に茶が振る舞われる儀式のように、生命の根源を連想させる《ミルクストーン》が客を展覧会の入口で迎え入れる。それはまた恒久的な物質としての彫刻ではなく、同じ水が二度と流れない川のように、流動的、非固定的な彫刻でもある。
一方で、シェイクスピアの『マクベス』から引用された水の両義性も興味深い観点だ。スコットランド王ダンカンを殺害した際、付着した血におびえるマクベスに対し、「少しの水(リトル・ウォーター)があれば、証拠なんか消えるわ」と言う妻の台詞に、本展タイトルは由来している。ただし、マクベス夫人は手に付いた血の臭いが強迫観念に繋がり、精神を病む。このことは、福島第一原発で未解決の汚染水処理問題、工場排水を川や海に流してきた高度経済成長時代の日本企業など、大きな海が何でも受け入れてくれると思ってきた人間の愚かさと、それが完全には浄化されない現実との両義性を連想させる。蔡佳葳(ツァイ・チャーウェイ)の《蘭嶼》は、まさしくこうした人間の身勝手な水への依存が、特定の地域に限定されたものでないことを物語る。台湾の先住民が住む島に核廃棄物の“一時”保存場が建てられ、それはそのまま恒久的に汚水を流し続けているのだ。モノクロームにも見える写真は月明かりで撮影されたもので、そこで捉えられた水の流れに手描きの梵字(般若心経)が重ねられている。
この「水」という壮大なテーマに挑んだ展覧会は、見た者の思考や意識を極めて大きな概念へと拡張させる。そして、作家との親密な関係性から構築された思考も、より大きな世界観へとわれわれを誘っている。ルディはこの思考と実践の遊戯を堪能したようで、どうやら今後もキュレーター業を続けていきたいらしい。筆者はむしろフルタイム・コレクターになってみたいが・・・。
かたおか・まみ 森美術館チーフ・キュレーター
現代美術の熱心なコレクターとして知られるルディ・ツェンは、台湾ディズニーのCEOを勤めた後、早期退職してからは、自称無職、あるいはフルタイム・アートコレクターである。したがって、彼のアートへの関わり方とその情報量は半端ではない。直接作家に会い、スタジオ訪問もしながら、作品購入を通して作家とギャラリストの双方を支援している。数年前からは台北のアートフェアに時期をあわせ、市内のデザイン系家具のショールームを会場に展覧会の企画もしてきた。じつにフットワーク軽く、行動力があり、決断も早く、しかもきめ細かい心配りのできる人柄で、大きな組織を取りまとめていたことが容易に想像される。
実際、「水」という極めて普遍的で多義的な物質を「リトル・ウォーター」展のテーマに選びながら、そこに参加している作家は、キュレーターとして企画をしたルディ本人と親しい友人関係にある作家が少なくない。それは作品を購入するという行為を介して構築された、制作者の思考や価値観への共感と、そこから派生したパーソナルでインティメイトな(親密な)関係性だ。そうした関係性から構築された世界観に、どんな普遍性を見ることができるのか。ミクロコスモスとマクロコスモスが一体化したようなこうした概念はじつに興味深い。本展の企画の初期段階に、ルディと何度かメールのやりとりをした際、テーマについて意見を求められたが、彼が既にインティメイトな関係性を構築し、信頼関係で結ばれている作家たちの作品のなかで、相互に見いだせる具体的な関係性を列記してみてはどうかと勧めた。彼が収集してきた作品群には、すでにルディ自身の価値観や審美眼が反映されているはずであり、それが企画のひとつの基盤を成すだろうと思われたからである。
結果的に彼が選んだ「リトル・ウォーター」というテーマは、展覧会に通底する詩的な抽象性、静謐な空間構成と照明演出、一貫した作品の審美性などに興味深く投影されていた。限られた空間を繊細に使い分けながら、ルディの思想的、空間的配慮が行き届いた親密さが構築する世界観である。展評を書くには、本人も参加作家の何人かも作品も知りすぎているゆえに、完全に客観的あるいは批評的視点を持つことは困難だが、その部分を差し引いたとしても、選ばれた作品群が彼の思考を視覚化、空間化するためのものではなく、企画者自身による作品への共感が、より普遍的なものとして空間に投影されているように思われた。
実際、「リトル・ウォーター」の「小さい」という価値観は、第1回横浜トリエンナーレのテーマ「ビッグ・ウェイブ」とも、収縮しつつある国で未だに成長戦略を唱えるアベノミクスとも逆行する概念だ。ただ、ルディのいう「リトル・ウォーター」は単なる物理的な大小の問題でも、大に兼ねられる小でもない。逆に、重森三玲が設計した東福寺方丈庭園で、天空の北斗七星が枯山水に投影されているように、箱庭のようなミクロコスモスが森羅万象を象徴しているという概念なのだ。そのことは、篠田太郎の《GINGA》で、墨汁を混ぜた黒い水面に天井から落ちる水滴の波紋が、星空を象徴していることにも通じている。あるいは、花粉、蜜蝋、米、牛乳など、生命の根源や成長のための栄養素が凝縮された素材を彫刻作品に採用してきたヴォルフガング・ライプの作品にも同様の普遍性を見ることができる。とくに《ミルクストーン》(1975)は、当初医者を目指していたライプが、インド哲学などに触れたことで、具体的に人間の生命を救う仕事から、その根源を思考するアーティストに転向した最初の作品だ。それはライプが医師の仕事を通してまさしくやりたかったことと同じだという。小さな矩形の大理石のうえに、毎日、新しい牛乳が表面張力ギリギリまで注がれ、一日の終わりには拭き取る行為が繰り返される。あたかも親密な茶室空間で客に茶が振る舞われる儀式のように、生命の根源を連想させる《ミルクストーン》が客を展覧会の入口で迎え入れる。それはまた恒久的な物質としての彫刻ではなく、同じ水が二度と流れない川のように、流動的、非固定的な彫刻でもある。
一方で、シェイクスピアの『マクベス』から引用された水の両義性も興味深い観点だ。スコットランド王ダンカンを殺害した際、付着した血におびえるマクベスに対し、「少しの水(リトル・ウォーター)があれば、証拠なんか消えるわ」と言う妻の台詞に、本展タイトルは由来している。ただし、マクベス夫人は手に付いた血の臭いが強迫観念に繋がり、精神を病む。このことは、福島第一原発で未解決の汚染水処理問題、工場排水を川や海に流してきた高度経済成長時代の日本企業など、大きな海が何でも受け入れてくれると思ってきた人間の愚かさと、それが完全には浄化されない現実との両義性を連想させる。蔡佳葳(ツァイ・チャーウェイ)の《蘭嶼》は、まさしくこうした人間の身勝手な水への依存が、特定の地域に限定されたものでないことを物語る。台湾の先住民が住む島に核廃棄物の“一時”保存場が建てられ、それはそのまま恒久的に汚水を流し続けているのだ。モノクロームにも見える写真は月明かりで撮影されたもので、そこで捉えられた水の流れに手描きの梵字(般若心経)が重ねられている。
この「水」という壮大なテーマに挑んだ展覧会は、見た者の思考や意識を極めて大きな概念へと拡張させる。そして、作家との親密な関係性から構築された思考も、より大きな世界観へとわれわれを誘っている。ルディはこの思考と実践の遊戯を堪能したようで、どうやら今後もキュレーター業を続けていきたいらしい。筆者はむしろフルタイム・コレクターになってみたいが・・・。
かたおか・まみ 森美術館チーフ・キュレーター
(2013年8月5日公開)