「岡﨑乾二郎の認識 — 抽象の力——現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」
文:福永 信
2017.04.25
福永信
「岡﨑乾二郎の認識 — 抽象の力——現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」が始まった。この展覧会はすごい。あちこちにリンクが張ってあり、油断禁物だ。第一次世界大戦前後から現代に至る、錯綜した時間を、えんやこら現在に引き寄せる。豊田市美術館のコレクションを中心に、岡﨑乾二郎が、他の美術館からも作品を借り出し、一部自身のコレクションも混ぜながら「抽象芸術」の歴史の再検討を命がけで試みる。
岡﨑のツイッターにも写真があがっているが、田中敦子、ヨーゼフ・ボイス、イミ・クネーベル、高松次郎など、しょっぱなから著名な作品が観客にガンをつけてくる。だが彼らはチンピラに過ぎず、このフロアのボスは、フリードリヒ・フレーベルであり、マリア・モンテッソーリであり、ブルーノ・タウトであり、ルドルフ・シュタイナーだ。陣取るように、4つのテーブルがあって(岡﨑の自作だろう)、その上に、フレーベルの立方体の積み木、豆または小石の粒、モンテッソーリの100の鎖、円分割不規則パズル、幾何たんす、ブルーノ・タウトのガラスの建築の積み木やシュタイナーの蜜ろう粘土などが並ぶ。どれもカラフルな「教育遊具」だ。岡﨑(の手)が、これらで「遊ぶ」映像が会場に流れている(岡﨑の初期の8ミリ映画「回想のヴィトゲンシュタイン」の一場面を思わせる)。どれもが、単純な組み合わせで、無数の楽しさを引き出すものばかり。その「楽しさ」は、テーブルの向こう側の各種名作群にも当てはまる。われわれ観客は、テーブルの小さな遊具越しに、子供の低い目線で、会場全体を見ている自分に気づくだろう。
人間は歴史を単純化するところがある。まるで数人しか世界にいないみたいに、歴史は語られやすい。現代の人間が、不当に歴史上の人物を薄っぺらにしているのだ。岡﨑によるこの展覧会は、そんな歴史というジャンルによってぺちゃんこにされたアーティストたちを、復元する作業といっていい。「教育遊具」を改めて手にすることによって、「人間よ、100年前からやり直すべし!」と言っているかのようだ。岡﨑がコレクションから仕分ける、作品間の緊密な連携によるリンクが束になって向かう先は、抽象芸術の歴史の再起動である。
見るのに時間がかかる展覧会である。通常、豊田市美が企画展を行う部屋を駆使して、これまでの「常識」をどっこいしょと覆す試み、それがこの展覧会である。作品や資料が(その中にはカラーコピーすら紛れこむ。しかし、そんなぺらぺらのカラーコピーにすら託して、岡﨑が伝えてたいことがあるのだ)、これでもかと並ぶ。新しい「証拠」を突きつけられ、静止していた美術史が動き出す。立ち読みする気軽さで展覧会を見ることに慣れたわれわれ現代人の目には、何も見えないかもしれない。サッサと歩くと何のことかサッパリかもしれない。しかし、立ち読みばかりが読書じゃない。一人、自分のペースで、誰も気にしないで、ゆっくりと見る。岡﨑の書く解説文が、むずかしく思えても、負けるもんかと諦めないで頑張ってみる(岡﨑も負けず嫌いだ。きみの気持ちをきっとわかってくれる)。恥ずかしがらずに、何度も展示室を行ったり来たりする。閉館時間が来ても、ちょっと粘ってみる。そして、とうとう、全部を見られなくても、また来よう、そう思えばいい。なぜなら、この展覧会は、一方通行ではなく、時代を異にする作品が相互に交流し、ヒトダマみたいにあちこちに飛び交い、ユーモアがはみ出すような展覧会だからだ(実際、岡﨑の描いた展覧会の図面は、はみ出していたという)。
ラスト近く、坂田一男の作品まで来たとき、われわれの靴紐が、はらりと、ほどけるだろう。行きつ戻りつ、会場内を歩きまわり続けているから当然だが、実際にほどけてなくても、ほどけていると見なしうる。たぶん長谷川三郎、恩地孝四郎の版画を目にしたあたりから、われわれの不可視の靴紐はほどけはじめていた。そう、従来の美術史ならさっさと通過してしまいそうな、地味な坂田一男の作品の前で、われわれは、立ち止まる必要があるのだ。そして靴紐を結び直す。再び、歩き出すためにそうするのである。複数の版木が1枚の世界を構成する長谷川、恩地の版画を見たその目で見ると、坂田の絵は、カラフルな、フレーベルらの「教育遊具」が置かれたテーブルみたいに見えてくる。あるいは分厚い本、立ち読み不能な、何日も読むのにかかる本を何冊も読んでいるような気持ちになる。そんなふうに「思わせる」のはほとんど岡﨑乾二郎の「力」である。坂田一男、岡﨑乾二郎、長谷川三郎、恩地孝四郎。この一、二、三、四のフォーメーションは重要だ。
岡﨑乾二郎は、これまでも、重要な展覧会を企画してきた。近年では武蔵野美術大学美術館・図書館での「ET IN ARCADIA EGO 墓は語るか 彫刻と呼ばれる隠された場所」や東京都現代美術館での「はじまるよ、びじゅつかん」などがある。この「抽象の力」展は通常の企画展の展示室を使用しているとすでにいったが、岡﨑が単独でキュレーションした展覧会では最大規模である。今回の展示のために冊子も制作され、来月には刊行されるという。特設サイトも順次充実するらしいので、ちょくちょくチェックしてほしい(長文の論考が公開される)。また、5月14日(日)には岡﨑の講演会も予定されている。彼の魅力的な語りをまだ聞いたことがない人は、ぜひ、この機会に豊田市美術館へ出かけよう。美術、建築、デザインのみならず、夏目漱石や横光利一など文学も、岡﨑の綴る「抽象芸術の系譜」に連なっている。小説家や批評家もこの展覧会を見逃すことはできないだろう。本展は、今、望みうる最高の展覧会なのだ。
最後にこれを述べないわけにはいかないが、会場の構成も素晴らしい。何しろ彼は実作者、アーティストである(この「抽象芸術の系譜」に彼自身連なるわけだ。なんというアクロバット!)。どこに何を展示するか、そのセンスが飛び抜けている。空間を把握する「力」をわれわれは目の当たりにするだろう。例えば、村山知義の「コンストルクチオン」は、東京国立近代美術館の常設展示のときよりも、若干、下に展示されている。そんな操作だけで、この作品に岡﨑が見る「ちょうど電話の交換台のように世界中のどこかに通じているインタフェース」、操縦席のような場所が際立ってくる。あるいはまた、さっきのフレーベルらの「教育遊具」がいろいろ置かれたテーブルだが、その場で見ているときは気づかないが、実は、4つのテーブルの大きさが違う。上から見下ろしたときに、それはわかる。わざとそうセッティングしているのである。つまり、こういうことだ。子供の頃(おもちゃの近くにいる頃)は、時間の長さは計測できない。子供にとって大事なのは、夢中になっているか、どうか、だ。短時間で飽きたとしてもその時間の豊かさがある。長い短いは子供には関係ない。大きさ、長さが関係してくるのは、大人になってからだ(おもちゃから距離を置くようになってからだ)。この美術館が、上から見下ろせるようにもなっていることをうまく利用している一例だ。キュレーター志望者諸君も、絶対見た方がいい。
ふくなが・しん
1972年、東京生まれ。小説家。著書に『アクロバット前夜』(リトルモア)、『コップとコッペパンとペン』(河出書房新社)、『星座から見た地球』(新潮社)、『三姉妹とその友達』(講談社)、『星座と文学』(メディア総合研究所)。共著に『あっぷあっぷ』(講談社)、編著に『こんにちは美術』(岩崎書店)がある。編者を務めた『小説の家』(新潮社)が最新刊。
REALKYOTOでブログ執筆中。http://realkyoto.jp/blogs/fukunaga_shin/
〈展覧会情報〉
「岡﨑乾二郎の認識 — 抽象の力——現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」
2017年4月22日[土]-2017年6月11日[日] 豊田市美術館
「岡﨑乾二郎の認識 — 抽象の力——現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」が始まった。この展覧会はすごい。あちこちにリンクが張ってあり、油断禁物だ。第一次世界大戦前後から現代に至る、錯綜した時間を、えんやこら現在に引き寄せる。豊田市美術館のコレクションを中心に、岡﨑乾二郎が、他の美術館からも作品を借り出し、一部自身のコレクションも混ぜながら「抽象芸術」の歴史の再検討を命がけで試みる。
岡﨑のツイッターにも写真があがっているが、田中敦子、ヨーゼフ・ボイス、イミ・クネーベル、高松次郎など、しょっぱなから著名な作品が観客にガンをつけてくる。だが彼らはチンピラに過ぎず、このフロアのボスは、フリードリヒ・フレーベルであり、マリア・モンテッソーリであり、ブルーノ・タウトであり、ルドルフ・シュタイナーだ。陣取るように、4つのテーブルがあって(岡﨑の自作だろう)、その上に、フレーベルの立方体の積み木、豆または小石の粒、モンテッソーリの100の鎖、円分割不規則パズル、幾何たんす、ブルーノ・タウトのガラスの建築の積み木やシュタイナーの蜜ろう粘土などが並ぶ。どれもカラフルな「教育遊具」だ。岡﨑(の手)が、これらで「遊ぶ」映像が会場に流れている(岡﨑の初期の8ミリ映画「回想のヴィトゲンシュタイン」の一場面を思わせる)。どれもが、単純な組み合わせで、無数の楽しさを引き出すものばかり。その「楽しさ」は、テーブルの向こう側の各種名作群にも当てはまる。われわれ観客は、テーブルの小さな遊具越しに、子供の低い目線で、会場全体を見ている自分に気づくだろう。
人間は歴史を単純化するところがある。まるで数人しか世界にいないみたいに、歴史は語られやすい。現代の人間が、不当に歴史上の人物を薄っぺらにしているのだ。岡﨑によるこの展覧会は、そんな歴史というジャンルによってぺちゃんこにされたアーティストたちを、復元する作業といっていい。「教育遊具」を改めて手にすることによって、「人間よ、100年前からやり直すべし!」と言っているかのようだ。岡﨑がコレクションから仕分ける、作品間の緊密な連携によるリンクが束になって向かう先は、抽象芸術の歴史の再起動である。
見るのに時間がかかる展覧会である。通常、豊田市美が企画展を行う部屋を駆使して、これまでの「常識」をどっこいしょと覆す試み、それがこの展覧会である。作品や資料が(その中にはカラーコピーすら紛れこむ。しかし、そんなぺらぺらのカラーコピーにすら託して、岡﨑が伝えてたいことがあるのだ)、これでもかと並ぶ。新しい「証拠」を突きつけられ、静止していた美術史が動き出す。立ち読みする気軽さで展覧会を見ることに慣れたわれわれ現代人の目には、何も見えないかもしれない。サッサと歩くと何のことかサッパリかもしれない。しかし、立ち読みばかりが読書じゃない。一人、自分のペースで、誰も気にしないで、ゆっくりと見る。岡﨑の書く解説文が、むずかしく思えても、負けるもんかと諦めないで頑張ってみる(岡﨑も負けず嫌いだ。きみの気持ちをきっとわかってくれる)。恥ずかしがらずに、何度も展示室を行ったり来たりする。閉館時間が来ても、ちょっと粘ってみる。そして、とうとう、全部を見られなくても、また来よう、そう思えばいい。なぜなら、この展覧会は、一方通行ではなく、時代を異にする作品が相互に交流し、ヒトダマみたいにあちこちに飛び交い、ユーモアがはみ出すような展覧会だからだ(実際、岡﨑の描いた展覧会の図面は、はみ出していたという)。
ラスト近く、坂田一男の作品まで来たとき、われわれの靴紐が、はらりと、ほどけるだろう。行きつ戻りつ、会場内を歩きまわり続けているから当然だが、実際にほどけてなくても、ほどけていると見なしうる。たぶん長谷川三郎、恩地孝四郎の版画を目にしたあたりから、われわれの不可視の靴紐はほどけはじめていた。そう、従来の美術史ならさっさと通過してしまいそうな、地味な坂田一男の作品の前で、われわれは、立ち止まる必要があるのだ。そして靴紐を結び直す。再び、歩き出すためにそうするのである。複数の版木が1枚の世界を構成する長谷川、恩地の版画を見たその目で見ると、坂田の絵は、カラフルな、フレーベルらの「教育遊具」が置かれたテーブルみたいに見えてくる。あるいは分厚い本、立ち読み不能な、何日も読むのにかかる本を何冊も読んでいるような気持ちになる。そんなふうに「思わせる」のはほとんど岡﨑乾二郎の「力」である。坂田一男、岡﨑乾二郎、長谷川三郎、恩地孝四郎。この一、二、三、四のフォーメーションは重要だ。
岡﨑乾二郎は、これまでも、重要な展覧会を企画してきた。近年では武蔵野美術大学美術館・図書館での「ET IN ARCADIA EGO 墓は語るか 彫刻と呼ばれる隠された場所」や東京都現代美術館での「はじまるよ、びじゅつかん」などがある。この「抽象の力」展は通常の企画展の展示室を使用しているとすでにいったが、岡﨑が単独でキュレーションした展覧会では最大規模である。今回の展示のために冊子も制作され、来月には刊行されるという。特設サイトも順次充実するらしいので、ちょくちょくチェックしてほしい(長文の論考が公開される)。また、5月14日(日)には岡﨑の講演会も予定されている。彼の魅力的な語りをまだ聞いたことがない人は、ぜひ、この機会に豊田市美術館へ出かけよう。美術、建築、デザインのみならず、夏目漱石や横光利一など文学も、岡﨑の綴る「抽象芸術の系譜」に連なっている。小説家や批評家もこの展覧会を見逃すことはできないだろう。本展は、今、望みうる最高の展覧会なのだ。
最後にこれを述べないわけにはいかないが、会場の構成も素晴らしい。何しろ彼は実作者、アーティストである(この「抽象芸術の系譜」に彼自身連なるわけだ。なんというアクロバット!)。どこに何を展示するか、そのセンスが飛び抜けている。空間を把握する「力」をわれわれは目の当たりにするだろう。例えば、村山知義の「コンストルクチオン」は、東京国立近代美術館の常設展示のときよりも、若干、下に展示されている。そんな操作だけで、この作品に岡﨑が見る「ちょうど電話の交換台のように世界中のどこかに通じているインタフェース」、操縦席のような場所が際立ってくる。あるいはまた、さっきのフレーベルらの「教育遊具」がいろいろ置かれたテーブルだが、その場で見ているときは気づかないが、実は、4つのテーブルの大きさが違う。上から見下ろしたときに、それはわかる。わざとそうセッティングしているのである。つまり、こういうことだ。子供の頃(おもちゃの近くにいる頃)は、時間の長さは計測できない。子供にとって大事なのは、夢中になっているか、どうか、だ。短時間で飽きたとしてもその時間の豊かさがある。長い短いは子供には関係ない。大きさ、長さが関係してくるのは、大人になってからだ(おもちゃから距離を置くようになってからだ)。この美術館が、上から見下ろせるようにもなっていることをうまく利用している一例だ。キュレーター志望者諸君も、絶対見た方がいい。
ふくなが・しん
1972年、東京生まれ。小説家。著書に『アクロバット前夜』(リトルモア)、『コップとコッペパンとペン』(河出書房新社)、『星座から見た地球』(新潮社)、『三姉妹とその友達』(講談社)、『星座と文学』(メディア総合研究所)。共著に『あっぷあっぷ』(講談社)、編著に『こんにちは美術』(岩崎書店)がある。編者を務めた『小説の家』(新潮社)が最新刊。
REALKYOTOでブログ執筆中。http://realkyoto.jp/blogs/fukunaga_shin/
画像提供:豊田市美術館/撮影:青木兼治
〈展覧会情報〉
「岡﨑乾二郎の認識 — 抽象の力——現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」
2017年4月22日[土]-2017年6月11日[日] 豊田市美術館
(2017年4月29日公開)