金氏徹平『tower (THEATER)』
文:細馬宏通
2017.11.10
細馬宏通
上演20分前に客席に入ると、すでに幕は上げられた状態で、舞台には木板を継ぎ合わせて作られた6mの巨大な塔が立っている。底部より上部がやや肥大した六面体のように見えるが、六面、というのはあくまで正面から推測した形であり裏がどうなってるかはわからない。天井にはドラムセットらしきものが見え、壁面には暗い孔があちこちに空いている。塔は早くも活動をしているらしく、ある孔は白煙を上げており、また別の孔は垂れ下がった鎖を静かに上下させており、別の孔は独白でもするようにスポンジ状の球やキューブを吐き出している。
塔のたたずまいは、どこか剽軽であり、楽しげな仕掛けが隠されていそうにも見える。しかし、しばらく眺めているうちに、これはいわゆる「おもちゃ箱」とは少し様子が違うなと思い出した。あちこちの孔から漏らされるモノは派手なものではなく、そのタイミングは必ずしも、大向こうの受けを得るように志向されていない。そもそも何かをはっきりと志向しているように見えるほどには、それぞれの孔の動きは統制されていない。
やがて孔のひとつから、ごうごうと掃除機のような音がして、空気を送り込まれた風船が膨れてばちんと割れて、しばらくしてから孔から人が出てきて、劇が始まった。始まったのだが、この人、青柳いづみの演じる「人」は、どうも塔のたたずまいに似合わぬ動作をする。すっくと重力に抗して立っている塔とは対照的に、周りをはいつくばったり寝転がったりで、ぐにゃぐにゃと姿勢を崩しては重力に負けるようにテキストを語る。劇の途中、孔のひとつから緑色のゲルがだらだらと吐き出されたのだが、彼女はそのゲルがひとがたになったような感じだった。おもしろいことに、彼女がぐにゃぐにゃ動けば動くほど、木製の塔の動かなさの方が気になってくる。
やがて、塔の周りで作業員姿の人々が動き回り、塔に空いた孔の動きも活発化し、孔から孔へと布めいたものがするすると移動したり、急に鳥のおもちゃのようなものが現れたりし始める。これはいわゆる「演奏」なのだろうか。孔は冒頭に比べると、あちこちで有機的な関係を結ぼうとしているようにも見えるのだが、塔全体としての活動があるわけではなく、あくまでいくつかの焦点に分かたれたままだ。これは統一体と見るべきなのか、ばらばらなものの居場所と見るべきなのか。単数以上複数未満。気がつくと、再び舞台には青柳いづみが登場して、多孔形に関するテキストをもっともらしく語ってまわるので、塔の統一性はますますあいまいになる。
そのうちシートに載ったドラムが舞台に現れ、それを長身の和田晋侍が叩き始めたのだが、塔の周りで激しい動きを繰り広げるcontact Gonzoは、彼らの格闘を煽るかのように鳴っているドラムを、ドラマーごとひっくり返そうとし始める(このときの和田晋侍のパフォーマンスはcontact Gonzoと渡り合ってすさまじかった)。contact Gonzoはさらに塔によじ登り、その身体運動によって塔の壁面を浮かび上がらせるようにワイヤーアクションを繰り広げたのだが、これらの運動を経て、ようやく塔は、人を支え人になぞられるだけの、全体としての輪郭を持っているように見えてくる。この激しい格闘の場面が終わると、セラピストに扮した青柳いづみがみたび登場して、落ち着いた調子で塔に対して診断を告げる(この部分は岡田利規による脚本と演出だった)。セラピーを経ると、今度は塔は巨大なとぼけたキャラクターじみてくる。
これらのチャプターとは別に、わたしが特にいいなと思ったのは、迫鉄平がごくゆっくりと塔の吐き出した異物をワイパーで集めていく時間だった。迫はほとんど演劇的な身振りを見せず、淡々と時間をかけてちらかった異物たちをかき集めていったのだが、彼が塔の周りをうろうろしながら行うその欲のない作業によって、かき集められた異物は単に散らかったゴミというよりは塔によって生じた排泄物であるかのように見えてきたのである。いや、異物だけではない。この清掃の時間を通して、塔自体も、新陳代謝を行い排泄物を排するだけの有機性を帯びだしていた。
分野の異なる作家やパフォーマーたちが集っているのだが、それぞれの塔への対し方が異なるおかげで、あるときは塔の垂直性が、あるときはその孔だらけの柔らかさが、またあるときは壁のかたさが、塔のアニマシー(有生性)が強調される。共存するはずのない性格がその都度現れる。
かくして塔は、人との関係性の変化に応じてそのつど印象を変えるのだが、そのことで逆に、この塔の取り付く島のなさ、どんなにこの塔を手なづけるべく人々が活動しようと、結局この塔は特定の誰かと親密になるような存在ではないことが明らかになってくる。塔をめぐって繰り広げられるできごとは、劇というよりはそれぞれ塔の批評のようだ。いや、正確には、塔の周囲で人々が動くことによって、その動きは次第に批評めき、その批評が重なるにつれて塔はより批評から自由になり、作品らしくなっていく。その意味で、この「tower (THEATER)」は、塔を「tower」という作品たらしめる時間だったと言えるかもしれない。
最後は出演者による「たてもの」の合唱。もともとは和田晋侍のバンド「巨人ゆえにデカイ」のレパートリーなのだが、「たてものよ たてものよ」と呼びかけるその歌詞は、まるでこの「tower (THEATER)」のためにあつらえたかのようで、オオルタイチの美しいアレンジもすばらしく、すっかり魅入られてしまった。
終演後、この「たてもの」を収録したCDを売っていたので買い求めた。一日目の演奏を収録して急遽作成したものだという。帰ってからさっそくCDをプレイヤーに入れたのだが、うんともすんとも言わない。おかしいなと思って試しにパソコンで読み込んでみたら、音源ファイルが一つ画面に表示された。そうか、これは、音楽CDではなく、音源ファイルの入ったデータCDだ。ファイルをクリックすると、ようやく「たてもの」が流れ始める。ききながら、自分の手に入れたのが、音の出る円盤ではなく、何か奇妙な「いれもの」になったような気がしてくる。
ほそま・ひろみち
1960年生まれ。人間行動学者。滋賀県立大学人間文化学部教授。会話やジェスチャーの分析、19世紀以降のメディア研究を行うほか、ネットワーク論、メディア論にも関心を寄せる。著書に『二つの「この世界の片隅に」』『介護するからだ』『うたのしくみ』『浅草十二階』『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』『絵はがきの時代』など。音楽ユニット「かえる目」では作詞作曲、ボーカル、ギターを担当する。
※『tower (THEATER)』は、2017年10月14日と15日に、ロームシアター京都 サウスホールで世界初演されました(主催:KYOTO EXPERIMENT)。
(2017年11月11日公開)