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光を遮るもの 『鷹野隆大 毎日写真1999-2021』展評
文:清水 穣

2021.07.22
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《2021.04.11.Ps.#03》2021年(「Sun Light Project」より)
写真はすべて©️Ryudai Takano, Courtesy of Yumiko Chiba Associates
長い間、鷹野隆大は私にとって遠い存在であった。
 まず、『In My Room』(2005年)や『男の乗り方』(2009年)に代表される鷹野隆大の初期作品は、その意図も計算も理解出来るが、興味を引かなかった。男の性が主題のようでありながら、そこに「ゲイ」も「エロス」も見いだせなかったからである。それなら、鷹野写真に無いものとしての両者は、写真とどのような関係にあるだろうか。

《赤い革のコートを着ている》2002年(「イン・マイ・ルーム」シリーズより)
写真はすべて©️Ryudai Takano, Courtesy of Yumiko Chiba Associates

厚い胸板の曲線、シャツの下の逞しい骨格を、目で追う。「ゲイ」とは表層のエロスを見逃さない人々である。しかし、見たい、触りたい…という欲望の暴風雨に煽られてエロスの中心に達すると、台風の目のようにエロスは凪いでしまう。エロスは己を与えると同時に破壊し去る(*1)。その誘惑には終わりがなく、それを享受したければその直前で踏みとどまらねばならない。

*1 ジャン・ジュネ『泥棒日記』、朝吹三吉訳、新潮文庫、308頁。

優れた「ゲイ」アートには「中心を外す」この奇妙なバランスが常に見られる。例えばヴィルヘルム・フォン・グレーデン、マイナー・ホワイト、ドゥエイン・マイケルズ、ジョージ・プラット・ラインスの、繊細で傷つきやすく、ときに欲望が透けてかなりイタい作品群を思い浮かべよう。反対に、いわゆるエロティック・アート(トム・オブ・フィンランド、田亀源五郎)や、美しいメール・ヌードの男性美(ブルース・ウェーバー、ハーブ・リッツ)が退屈なのは、そのバランスを放棄するからである。欲望の中心を目指して、筋肉と美男子ばかり追求してもエロスは現れない。

さらに、ゲイ的なエロスに固有のこの遠心力は、表層的な感覚を通じて次々と異なる対象へ飛躍する力としても現れる。

朗々たる響きは少しもなかったけれども、マリオの声は、その手のように大きくて太かった、クレルの顔に、その声はぺったりと貼りついた。それは土塊、シャベル一杯分の土塊をも動かすことができそうな、胼胝のできた手のような、荒けずりの声であった(*2)

*2 ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』、澁澤龍彦訳、新潮社全集2巻、27頁。

荒けずりの声(聴覚)から、胼胝のできた逞しい手(触覚)へ飛ぶ。例えばヘルベルト・トビアス、ロバート・メイプルソープ、ヴォルフガング・ティルマンスをゲイ・フォトグラフィーと呼ぶとき、その表現の核にある特質は、ある表層の質感を等号として被写体から被写体へ飛び移る、この遠心力である。

中心を外すバランスと、表層的エロスによる飛躍。上に挙げたリストに、鷹野隆大の名前が連なることはないだろう。鷹野の主題は「ジェンダー」をめぐる政治であり、だから被写体は、原理的には、アイデンティティ・ポリティクスの標本として提示され、事実、彼らの姿勢のすべて ―コントラポスト、少し開けた口、オランピア、オダリスク― は、定形にほかならない、と。他方で、アプロプリエイトされた形式性をもたない、「ジェンダー系」以外の作品には、技術的にも審美的にも、特に見どころは見つからない、と。

《Kikuo (1999.09.17.Lbw.#11)》1999年(「ヨコたわるラフ」シリーズより)

エドゥアール・マネ《オランピア》1863年(エドゥアール・マネ – Unknown source)

ドミニク・アングル《グランド・オダリスク》1814年(ドミニク・アングル – wartburg.edu)

いや、鷹野隆大の才能は「何も見どころがない」点にあるのかもしれない、と肝を冷やすように気がついたのは、『カスババ』(2011年)がきっかけであった。奇しくも本展の重心は、『カスババ』以降の展開 ―毎日写真からモノクロの影のシリーズ、フォトグラムやソルトプリントの新作まで― に置かれている。モダンな風景写真が、「誰でもない者の視角」=カメラアイに、写真家の視点と鑑賞者の視点が重なり合うことで成立するアブソープティヴなモードに基づいていたのに対して、スティーヴン・ショアを始めとするポストモダンの風景写真は、撮影された世界の側から遠近法的構図によって逆析出される、もう一つの視点を意識させ、たんに「誰でもない者の視角」に重なることとは異なる、写真の見方を提示している(*3)。鷹野隆大の『カスババ』全体は、このようなオルタナティヴな主体性(視点)の出現が阻まれた場所を写し出しており、そこに作家は不快感を覚えたのであった。

*3 詳細は、清水穣「「カスババ」分析 — アブソープションとシアトリカリティの主題によるヴァリエーション」を参照。
鷹野隆大『カスババ』(大和プレス、2011年)所収。

《2003.01.21.#17》2003年(「カスババ」シリーズより)

《2006.03.06.#b04》2006年(「カスババ」シリーズより)

「カスババ」を分析したとき、ショア的な主体性(世界から見つめ返されて発生する主体性)を求める作家が、それをことごとく失墜させてしまう日本の風景に苛立ちを感じていると思われた。しかし翌年の個展「モノクロ写真」以降の展開を見ると、事実は正反対である。作家が不快感を覚えたのは、自分が求めていたことが目の前で勝手に実現していることに対してである。つまり「カスババ」とは、鷹野にとって、一種の写真の零度の追求であり、それは、主体も視点もない世界の写像である。主体と視点から、つまり遠近法の集中点とレンズの焦点から、写真を解放したとき、「影」が現れた。

《2011.11.25.bw.#a27》2011年(「Photo-Graph」シリーズより)

《2012.03.14.#a26》2012年(「毎日写真」より)

《2013.12.04.#a37》2013年(「毎日写真」より)

《2014.03.24.#b25》2014年(「毎日写真」より)

《2015.04.06.bw#36》2015年

《2016.01.29.#b18》2016年(「毎日写真」より)

写真の最も基本的な原理は、小さな穴を通過した光が倒立像を結ぶという、ピンホール現象である。対象から発せられた光が小さな穴を通過して結像する、その穴のサイズがいわばピクセルとなって像を形成する。穴が小さければ=ピクセルが小さければ、緻密な画像となり、穴が大きければ=ピクセルが大きければ、ぼやけた画像となる。ピンホールカメラの像の「ピント」は、光の点の密度次第である。また、光は到着した面に結像するので、像は穴と正対する面のみならず、左右の壁、床や天井にも出現する。さらに、自然現象に区切りはないから、穴が小さくても(はっきり結像)大きくても(ぼんやり結像)、等しくピンホール現象は発生する。つまりその穴が窓の大きさでも、戸口の大きさでも、像が極大にぼやけるせいで人間の眼に「像」として見えないだけで、実際には部屋の外界の倒立像が出現している。光を通す入口をもつ空間の内部は、つねに外界の像で充満しているのだ。

《2019.12.29.P.#02(距離と時間)》2019年(「Red Room Project」より)

遠近法は、空間を満たしているという意味で立体的と言えるこれらの像を、光の入射口と正対するひとつの平面に集約する概念であった。ピンホールにはレンズがはめ込まれ、その焦点距離に合わせて、スクリーンが仕立てられた。カメラ・オブスクラは、ロラン・バルトの言う「屈折光学的芸術」(*4)を支える装置でもあった。

*4 「ディドロ、ブレヒト、エイゼンシュテイン」『第三の意味』(沢崎浩平訳、みすず書房、新装版1998年)144頁。

「カスババ」の探求とは、写真から、主体も視点も焦点も引くことだったのである。それを通じて、写真家は「屈折光学的」な、平面としての写真の外へ出たのだと言えるだろう。影のシリーズ以降の作品には、すでに上下左右の区別がない。世界とは、開口部が極大のカメラ=部屋にほかならず、そこは極大にぼけた光の像で充満している。鷹野にとって写真とは、そこにひとつの存在が影を落とすことである。影の部分では世界の像が見えない。あえてそう呼ぶならば、それが鷹野隆大の写真における「主体」であろう。写真家とは、光を遮り、世界に影を落とす者である。

《2021.04.11.Ps.#03》2021年(「Sun Light Project」より)

しみず・みのる
批評家。同志社大学教授。

※『鷹野隆大 毎日写真1999-2021』展は、2021年9月23日まで国立国際美術館で開催中。