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永久往還の技と動力——森村泰昌の「人間浄瑠璃」
文:やなぎみわ

2022.03.24
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森村泰昌・桐竹勘十郎創作公演 人間浄瑠璃「新・鏡映綺譚」(以下すべて)
撮影:福永一夫 画像提供:森村桐竹人間浄瑠璃プロジェクト実行委員会
「人間浄瑠璃」は、まさに八面六臂の森村泰昌を堪能できる出し物であった。森村が床本を書き、総合ディレクターをつとめ、そして極めつけは浄瑠璃人形として出演している。

「人間浄瑠璃」を鑑賞しながら、私は、1990年代の半ばに手に入れた小さな森村作品を思い出していた。それは森村氏と、そっくりの森村人形が、向かい合っているのを横から撮影したポラロイドで、写真の中心には二人が向かい合った距離の空白がある。あれから何十年、何度この距離の往還を見せてもらったことだろう。
 さらに、もうひとつ思い出したのが、当時、森村が連載していた小説の中に登場した「身体の裏表がひっくり返ってしまう女優」である。「癖になりそう!」と言いながら彼女の身体は何度も何度もひっくり返る。
 今もまた、熱のこもった三味線と浄瑠璃語りにのせて、人間と人形、此岸と彼岸、森村の表裏ひっくり返りの舞台が始まった。

舞台上にしつらえられた大きな火炎鏡が、クライマックスで旋回する。これは茅の輪くぐりのような巨大な枠で、人形ではなく人間に合わせた寸法の大道具である。その鏡の、こちらとあちらの両側を同時に見せるのは、小説や写真映像ならともかく、ライブの舞台で実現するとなると、大仕掛けを駆使することになる。道具の重量、質感、人力なりモーターなり、それを動かす動力と制御、「力わざ」の熱が、一気に舞台を駆け巡る。舞台に出ているもの全てが体温を持って身体性を帯びてくる。そこで醸し出されるのが、妖しくも懐かしい、観客を酔わせる市井の大衆芸能の匂いなのである。

「人間浄瑠璃」ではヒロインのお京が魔性に変化(へんげ)するが、その魔性を森村泰昌本人が、「人形振り」で演じている。これが、なかなか見事である。登場人物が人形のような身振りで踊る「人形振り」というのは、歌舞伎や日舞の特殊な演出法のひとつで、古く元禄に役者と浄瑠璃との融合から始まったと言われる。興味深いのは、役者が「人形振り」を演じるシーンで、それは人が異常なほどに興奮した状態に陥った時、例えば、恋に狂って大火をおこした娘の事件に材を取った「櫓のお七」など、激情に衝き動かされる状態を、わざわざ、ぎこちない人形の動作で表現する。
 もちろん「物狂い」の振り付けすべてが「人形振り」ではないが、リアリズムを乗り越えようとして「人形」に至る。何かに動かされて、ただの器となった身体を見せることで、魂と身体は別々だと判る。人間を模したはずの人形を、人間が模すという反転は、まさに森村の役どころとして、ぴったりである。
 鶴澤清介の作曲とその三味線、竹本織太夫の義太夫、桐竹勘十郎の人形遣い、歌舞音曲の熱演が、この反転の奇跡を引き起す。身体を器にして人が己の領域を越える、という手法を、森村は彼ら古典芸能の達人の技に見出したのだろう。
 古典芸能の歌舞音曲は、まちがいなく呪術に通じているからだ。

神楽、踊り念仏、能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃、どの芸能も、宗教と芸能が未分化な時代の名残りを留め、人が人を越える技を内包している。それは型として継承されているがゆえに見えにくいことも多い。そこへ森村が、自身の身体でもって、飛び込んでいく。神仏など遥か遠い対象物に、飛び込んで一体化し、血肉を与えるのは芸能者の技である。しかし「一体化」だけではなく、「飛び込みの過程」を、いつも丁寧に御開帳してくれるのが森村泰昌である。

メタ的な手法を越え、絵画の中で絵画とは何かを問い、人形浄瑠璃の中で人形とは何かを問う。
 飛び込んでは戻る茅の輪くぐりの往還を、果てしなく繰り返しながら、その円環は同じ場所にとどまらない。無限に空間を広げていく三次元の螺旋のように、ぶれず恐れず、豊穣で長い道程には感嘆するばかりだが、演劇、さらには伝統芸能と、果敢に挑む新境地で、森村世界が実体化していくには、舞台に精通するスペシャリストの力は必須である。
 あごうさとしは、森村の一人芝居「にっぽん、チャチャチャ!」からすでに5作品、舞台演出を担い、実現に導いてきた。劇場ではないイレギュラーな場所に、舞台空間を作り上げ、そこに集う他領域の人々を連帯させることは容易ではない。特に異分野の協働は齟齬を生みやすく、良きクリエーションが出来るのは、伝統の技芸を担う人々が、率先して創意工夫してくれる現場でこそである。本番では、人形の数や、美術館内に組まれた仮設舞台の規模とは裏腹に、多人数が、観客には見えぬ闇の中でひしめき合うことになり、人形遣い、後見、舞台スタッフ、彼らの安全確保をはかりつつ、最大限に機能させるなど、森村劇場を回した演出家の貢献は大きい。うってかわって人間浄瑠璃の翌週に上演がスタートした『森村泰昌:ワタシの迷宮劇場』(京都市京セラ美術館)の会場内での「無人劇」は、録音を中心にした、あごうの得意とする、オートマタ的な自動舞台。こちらは人形、人間、というマテリアルが一切ない分、森村が物語る声、映像、照明だけによって誰もいない4畳半の畳の部屋を、生々しく血肉化させていく、やはり呪術的な作品であった。

「人間が人間の境界を無くした瞬間がエクスタシーで、離れていくと別のアイデンティティが得られる、それを往復しているのが人間が生きるということ」。鷲田清一氏とロボット工学者の石黒浩氏が対談『生きるってなんやろか?』で語っているように、人間が人間の領域を拡張したり、人外の域に至ろうとしたりする願いは、文学や音楽、美術、芸術の中では実現することは多い。作家の意図ではなく、気がつけばそうなっていた場合もある。音楽や演劇、映像など、時間軸を持った表現はいうまでもなく、絵画でももちろん、それは起こる。和歌では、上の句で恋に懊悩しているかと思えば、下の句では月を見上げて一気に則天去私の境地に至ったりする。

作家によっては秘するところでもある境界を越えるエクスタシー、往還の忘我を、森村は、かなり初期の作品から他者に見える形で表現してきた。それは時に立体的であり、重層的であり、驚くべき豊かな手練手管によって作品化される。境界を越えていってまた自我に戻る。決して「往ったきり」にはならない、必ず戻ってくる強靭な円環システム。森村はそこに、たえず動力を与えてぐるぐる回し、セルフポートレートを制作し続けているのだ。


やなぎ・みわ
美術作家/演出家

森村泰昌・桐竹勘十郎創作公演 人間浄瑠璃「新・鏡映綺譚」は、2022年2月26・27日に⼤阪中之島美術館1階ホールで上演された。本レビューは、27日(日)16:00〜の公演に基づいて執筆されている。

[訂正とお詫び]:2022年4月5日、6つ目の段落にある「恋に狂って大火をおこす『櫓のお七』」を訂正し、「恋に狂って大火をおこした娘の事件に材を取った『櫓のお七』」としました。「櫓のお七」の主人公は半鐘を鳴らすだけで放火はしていません。編集部の確認が不十分だったことをお詫びします。