文化時評1:磯谷博史『動詞を見つける Find Your Verb』@小海町高原美術館
「いま・ここ」の壊乱 ― 磯谷博史のコラージュ
文:清水 穣
2022.05.22
批評家・清水穣氏による連載を始めます。題名通り、この時代の文化的な事象全般を対象とする批評です。記事の公開は原則的に月1回。お楽しみください。(編集部)
① 画面を覆う断片的な矩形(キューブ)は何なのか?
②「なぜ分析的キュビスムには色彩がなく、おおよそ土肌色(アンバー)で覆われているのか?」1
③ 「なぜ彼らは実際の対象物を文字通り、解体し、再構築したような彫刻、レリーフを作らなければいけなかったのか?」2 分析的キュビスムを、3次元の視覚体験を2次元平面に畳み込むことと見なせば、その作品は、ハンス・ホフマン流の「小平面facet plane」、すなわち多数のアングルから撮影されたフィルムを、多数枚重ねたものである。つまり分析的キュビスムの画面は、多数の投影面=レイヤーの寄せ集めと見なせる。カメラ・オブスクラの時代から、投影面=レイヤーのデフォルトは矩形であるから、自ずと、画面は矩形で覆われる(→①)。 このとき3次元の視覚体験は、写真(当時の基本は白黒写真)という遠近法装置に変換され、それぞれの視点からの投影面は、画面を構成するユニットとして、線と濃淡だけに限定された。色彩のヴァルールによる空間の凹凸は、そのユニット自体を歪めかねないので、別の変数としてとりあえず除外されたと考えられる(→②)。 周知のように、建築史家のコーリン・ロウはこうしたレイヤーの寄せ集めのなかに、2つの様態、「文字通りの透明性」と「現象としての透明性」を区別した。前者は重なり合うレイヤーの上下関係が分かり、画面全体が透明なレイヤーの積層(「写真的空間photographic space」)として現れる状態である。後者は、レイヤーの上下関係が入り乱れ、矛盾し合うレイヤー群が同時存在するその結果として、多重性としての透明性が導出される。ここでは、レイヤーという基底面への還元ではなく、レイヤーの上下関係を掻き乱すプロセスとしてのコラージュが作動している。 ウィリアム・ルービンが指摘したように3、コンストラクションは、コラージュの副産物ではなく、コラージュに先立ち、それを生み出した母型である。それは「文字通りの透明性」から本来のゴールである「現象としての透明性」へと、コラージュを完成させる契機として導入されたと考えられる(→③)。 コラージュは、異物の追加 → 基底面(=レイヤー)の出現という操作を繰りかえすとともに、それを更新し続ける、言い換えれば、先行する基底面を裏切り続ける、本質的に終わりのないプロセスである。つまり、コラージュには空間だけでなく、時間もまた ―そのリニアな流れが乱された形で― 畳み込まれている。 「レイヤー」を「フレーム」と言い換えれば、コラージュは次元に依存しない。3次元のコラージュとしての抽象彫刻は、様々な断片を組み合わせ、断片同士の単なる総和を超える新しいフレームを出現させようとするが、その際、フレームの更新プロセスを担うのは、作品の周りを動き回る観客である。また、「フレーム」を映像のフレームで読み替えれば、同時代の実験映像が「コラージュ」の直系であることは明らかだ。ハンス・リヒターの「Rhythmus 21」(1921)は、まさに画面のフレームが更新され続けるだけの作品である。しかし両者は、コラージュの時間性を、物理的なリニアリティ(観客の動き、上映)に沿って表現する点で、ロウの用語を援用すれば「文字通りの」時間のコラージュであると言わねばならないだろう。他方で、エティエンヌ=ジュール・マレーやエドワード・マイブリッジの連続写真にインスパイアされた、マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体No.2」(1912)では、多数のフレームに分割された運動が、1つの画面に畳み込まれている。デュシャンは、彫刻や動画の「文字通り」性を克服しようとしたのだろうが、実際の作品では、分割されたフレームが連続写真的に左上から右下へと優雅にずれながら重なりあっており、「現象としての」時間のコラージュ ―矛盾し合う時間の並存― とは言い難い。 ——————————–
(注)
1 岡﨑乾二郎『抽象の力』(亜紀書房、2018年)12頁
2 同
3 William Rubin Picasso and Braque. Pioneering Cubism (New York: The Museum of Modern Art, 1989) 35. また、河本真理『切断の時代 20世紀におけるコラージュの美学と歴史』(ブリュッケ、2007年)142頁参照
まず、磯谷作品の空間的コラージュでは、画面、地面、壁面、水面、鏡面、ピントの面、影が落ちる面…等々、あらゆる種類のレイヤーが転倒される結果、重力がほぼ感じられない。20世紀のコラージュが現実世界の対象を「分析」したならば、21世紀のコラージュの対象は映像世界である。非物質的に浮遊する画像は、インスタレーションを通じて、「いま・ここ」の現実と結びつけられる。作品の床置き、再生フェルトシートと陶器のボールが、それぞれとりあえずの「上下」、「下層(壁でも床でもありうる)」、そして重力下での静止点を演じるからだ。が、その演技は、むしろ「いま・ここ」の方向感覚を揺らがせる。
そこに、時間的コラージュが加わる。写真インスタレーションのその写真には、現在のインスタレーションの未来の状態が写されている。が、眼前の光景と、写された未来の状態は、異なるアングルから撮影されているので、時間の差が空間の差と連動して、「いま・ここ」は引き裂かれる。「事のもつれ」では、写真の中で落下する写真が、目の前の写真であるから、未来と現在は無限の鏡合わせのように反復しあい、そのなかに「いま・ここ」は飲み込まれる。磯谷の作品とは、コラージュがもつ、「いま・ここ」という安定した視座を壊乱する力の様々な展開型なのだ。それはコンクリート打ち放しとガラスに還元された安藤忠雄の建築、すなわち純粋な「いま・ここ」へと収斂する建築とは好対照であった。
しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
※磯谷博史『動詞を見つける Find Your Verb』は、小海町高原美術館で2022年6月19日(日)まで開催中。
小海町高原美術館ウェブサイト
https://www.koumi-museum.com/ 磯谷博史ウェブサイト
https://www.whoisisoya.com/
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分析的キュビスムの絵画についての3つの疑問:① 画面を覆う断片的な矩形(キューブ)は何なのか?
②「なぜ分析的キュビスムには色彩がなく、おおよそ土肌色(アンバー)で覆われているのか?」1
③ 「なぜ彼らは実際の対象物を文字通り、解体し、再構築したような彫刻、レリーフを作らなければいけなかったのか?」2 分析的キュビスムを、3次元の視覚体験を2次元平面に畳み込むことと見なせば、その作品は、ハンス・ホフマン流の「小平面facet plane」、すなわち多数のアングルから撮影されたフィルムを、多数枚重ねたものである。つまり分析的キュビスムの画面は、多数の投影面=レイヤーの寄せ集めと見なせる。カメラ・オブスクラの時代から、投影面=レイヤーのデフォルトは矩形であるから、自ずと、画面は矩形で覆われる(→①)。 このとき3次元の視覚体験は、写真(当時の基本は白黒写真)という遠近法装置に変換され、それぞれの視点からの投影面は、画面を構成するユニットとして、線と濃淡だけに限定された。色彩のヴァルールによる空間の凹凸は、そのユニット自体を歪めかねないので、別の変数としてとりあえず除外されたと考えられる(→②)。 周知のように、建築史家のコーリン・ロウはこうしたレイヤーの寄せ集めのなかに、2つの様態、「文字通りの透明性」と「現象としての透明性」を区別した。前者は重なり合うレイヤーの上下関係が分かり、画面全体が透明なレイヤーの積層(「写真的空間photographic space」)として現れる状態である。後者は、レイヤーの上下関係が入り乱れ、矛盾し合うレイヤー群が同時存在するその結果として、多重性としての透明性が導出される。ここでは、レイヤーという基底面への還元ではなく、レイヤーの上下関係を掻き乱すプロセスとしてのコラージュが作動している。 ウィリアム・ルービンが指摘したように3、コンストラクションは、コラージュの副産物ではなく、コラージュに先立ち、それを生み出した母型である。それは「文字通りの透明性」から本来のゴールである「現象としての透明性」へと、コラージュを完成させる契機として導入されたと考えられる(→③)。 コラージュは、異物の追加 → 基底面(=レイヤー)の出現という操作を繰りかえすとともに、それを更新し続ける、言い換えれば、先行する基底面を裏切り続ける、本質的に終わりのないプロセスである。つまり、コラージュには空間だけでなく、時間もまた ―そのリニアな流れが乱された形で― 畳み込まれている。 「レイヤー」を「フレーム」と言い換えれば、コラージュは次元に依存しない。3次元のコラージュとしての抽象彫刻は、様々な断片を組み合わせ、断片同士の単なる総和を超える新しいフレームを出現させようとするが、その際、フレームの更新プロセスを担うのは、作品の周りを動き回る観客である。また、「フレーム」を映像のフレームで読み替えれば、同時代の実験映像が「コラージュ」の直系であることは明らかだ。ハンス・リヒターの「Rhythmus 21」(1921)は、まさに画面のフレームが更新され続けるだけの作品である。しかし両者は、コラージュの時間性を、物理的なリニアリティ(観客の動き、上映)に沿って表現する点で、ロウの用語を援用すれば「文字通りの」時間のコラージュであると言わねばならないだろう。他方で、エティエンヌ=ジュール・マレーやエドワード・マイブリッジの連続写真にインスパイアされた、マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体No.2」(1912)では、多数のフレームに分割された運動が、1つの画面に畳み込まれている。デュシャンは、彫刻や動画の「文字通り」性を克服しようとしたのだろうが、実際の作品では、分割されたフレームが連続写真的に左上から右下へと優雅にずれながら重なりあっており、「現象としての」時間のコラージュ ―矛盾し合う時間の並存― とは言い難い。 ——————————–
(注)
1 岡﨑乾二郎『抽象の力』(亜紀書房、2018年)12頁
2 同
3 William Rubin Picasso and Braque. Pioneering Cubism (New York: The Museum of Modern Art, 1989) 35. また、河本真理『切断の時代 20世紀におけるコラージュの美学と歴史』(ブリュッケ、2007年)142頁参照
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以上、コラージュとはつねに、空間のコラージュであるとともに時間のコラージュであって、それを構成するレイヤー/フレームは、一義的な秩序には従わない。磯谷博史は、矛盾し合う時空間の同時存在としてのコラージュを、洗練された手付きで21世紀に蘇らせる。この本質を、作家初の回顧展となる本展は明確にそして豊かに展開していた。まず、磯谷作品の空間的コラージュでは、画面、地面、壁面、水面、鏡面、ピントの面、影が落ちる面…等々、あらゆる種類のレイヤーが転倒される結果、重力がほぼ感じられない。20世紀のコラージュが現実世界の対象を「分析」したならば、21世紀のコラージュの対象は映像世界である。非物質的に浮遊する画像は、インスタレーションを通じて、「いま・ここ」の現実と結びつけられる。作品の床置き、再生フェルトシートと陶器のボールが、それぞれとりあえずの「上下」、「下層(壁でも床でもありうる)」、そして重力下での静止点を演じるからだ。が、その演技は、むしろ「いま・ここ」の方向感覚を揺らがせる。
そこに、時間的コラージュが加わる。写真インスタレーションのその写真には、現在のインスタレーションの未来の状態が写されている。が、眼前の光景と、写された未来の状態は、異なるアングルから撮影されているので、時間の差が空間の差と連動して、「いま・ここ」は引き裂かれる。「事のもつれ」では、写真の中で落下する写真が、目の前の写真であるから、未来と現在は無限の鏡合わせのように反復しあい、そのなかに「いま・ここ」は飲み込まれる。磯谷の作品とは、コラージュがもつ、「いま・ここ」という安定した視座を壊乱する力の様々な展開型なのだ。それはコンクリート打ち放しとガラスに還元された安藤忠雄の建築、すなわち純粋な「いま・ここ」へと収斂する建築とは好対照であった。
しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
※磯谷博史『動詞を見つける Find Your Verb』は、小海町高原美術館で2022年6月19日(日)まで開催中。
小海町高原美術館ウェブサイト
https://www.koumi-museum.com/ 磯谷博史ウェブサイト
https://www.whoisisoya.com/