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文化時評13: 木村友紀「COL SPORCAR SI TROVA」@アート・バーゼル・アンリミテッド
撮らない写真、建てない建築(前編)
文:清水 穣

2023.07.04
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Yuki Kimura, COL SPORCAR SI TROVA, installation view at Unlimited, Art Basel, Jun 15 – 18, 2023.
Courtesy of Galerie Chantal Crousel and Taka Ishii Gallery / Photo: Jiayun Deng
木村友紀が今年2023年のアート・バーゼルの「アンリミテッド」に選ばれて出展している。出展作は、去年デュッセルドルフのクンストフェラインで開催された展覧会「COL SPORCAR SI TROVA」(カトリン・ベンテレのキュレーション、2022年5月14日〜8月21日)を、クンストフェラインとは全く異なる、バーゼルの巨大な会場で再現したものである。白い壁で囲んだ個展仕様の空間ではなく、平場の会場に、直方体の、そしてトロンプルイユの技法で丹念に描かれた白と黒の大理石模様の台座が11本、間隔を開けて置かれ、それぞれの台座の上には、同型でサイズの異なるレディメイドのオブジェ(最小、小、中、大、最大の5サイズの球形の鏡、アワビの殻、大小のジンのボトルセット、ワイングラス、ガラスの皿、ゴム製のペン立て)が載っている。周囲の「社会的関与」の作品が、いかにも親切な説明文によってその内容を伝え、会場に合わせたその巨大なスペクタクルもサービス満点であったのとは正反対に、謎めいたレディメイドのオブジェが、なんの説明もなく粛々と会場に散らばっているだけの木村作品の凛とした様子は、「アートとは本来こういうものだったはずだ」という思いをあらためて抱かせるとともに、すでに「社会的関与」と「関係性の芸術」が、観客の理解や共感に媚びるあまり、仰々しい演出へと堕落して、その終局を迎えていることを、逆照していた。木村作品が「社会的」でないわけではない。「社会的関与」と「社会的関係」が最初から言説によって与えられ、観客がそれを、まるで学校の生徒のように学ぶ(そしてスペクタクルな演出を消費する)だけの「アート」は、アートの名に値しないというだけの話である。

Yuki Kimura, COL SPORCAR SI TROVA, installation view at Unlimited, Art Basel, Jun 15 – 18, 2023.
Courtesy of Galerie Chantal Crousel and Taka Ishii Gallery / Photo: Jiayun Deng

本作「COL SPORCAR SI TROVA」は、2017年のアート・バーゼルにタカ・イシイギャラリーから出展された「Table Matematica」(2016)からの流れの作品である。これは、様々なサイズで発売されているドイツのリキュールのボトルがテーブルの上に並べてあるだけの、なんともあっけらかんとした作品だった。ブースを訪れた少なからぬ客はこの作品に出会って、同じボトルのサイズのバリエーションに軽く驚くとともに、「?」を脳裏に浮かべたまま、なぜか立ち去り難いのであった。作家がキュレーターのカトリン・ベンテレと知り合ったのは、この作品がきっかけだというから、ヨーロッパには、ローカル=グローバルな問題の「リサーチ」を発表する社会学レポートや、長回しばかり使って人の時間を奪う「ドキュメンタリー」を良しとしない批評的感性が、ちゃんと機能していると言えよう。

黒いテーブルの上に、極小から極大までじつに様々なサイズの「イエーガーマイスター」(ドイツの伝統的なリキュール)のボトルが並んでいる。35%のリキュールを飲んでビールをチェイサーにするエンドレスな美味しさの果てはアル中、という芳しからぬイメージもある。
Yuki Kimura, Table Matematica, 2016, granite, chrome plated legs, Jägermeister bottles, 105.7 x 80 x 240 cm
Courtesy of CCA Wattis Institute for Contemporary Arts and Taka Ishii Gallery / Photos: Johnna Arnold

渡独以前の木村友紀は、ファウンド・フォト(「見出された」自作写真も含まれる)に基づくインスタレーションで知られる作家であった。それは、映像の記憶の空間的展開であり、空間が共鳴室となって、ある写真(1枚あるいは複数枚)から、それと響き合う様々なイメージやオブジェが拡がっていった。ただし、その場合の「記憶」は懐かしい思い出ではない。それは、例えば過去10年間パソコンを乗り換えながら保存し続けてきたハードディスク上の全てのデータである。10年間に何を保存したかなど忘れ果てているわけだが、ためしに「Richter」で全文サーチをかければ、覚えがあったりなかったりする文章のかけら、「Richter」に関わるメールや人名や画像、「Berichterstattung」までがヒットして、一連のネットワークを形成するだろう。ハードディスク上の「Richter」の代わりに、我々の脳内に潜在する記憶の中から特定の映像(「アルプス」など)をサーチできたとして、そこに浮上するネットワークを、とりあえずは木村のインスタレーションと見なせる。

だが問題は、「Richter」がつねに文字列「Richter」であるのに対して、アルプスの写真が脳内でつねに「アルプス」であるとは限らないことである。写真がどのように記憶されるかを我々は予め知り得ない。そこには少なくとも、被写体のレベル(何が写っているか)、物質のレベル(印画紙の触感、縁の欠け、セピア色)、情報のレベル(撮影場所の歴史など)の3つがあり、しかもそれらは混濁した状態で記憶されている。映像の記憶を展開する木村の方法は、混濁した状態に対し、言わば特定の音叉=作品を当てて共鳴させることで一つ一つの記憶素を聴き出し、抽出して再構成することだ。記憶が浮上するのは、共鳴の後である。つまり映像の記憶は過去への遡行ではない。用いる「音叉」によっては記憶の内実は全く異なるだろう。

Yuki Kimura, Year 1940 was a leap year starting on Monday, installation views at Taka Ishii Gallery, Oct 10 – Nov 7, 2009.
Courtesy of Taka Ishii Gallery / Photos: Yasushi Ichikawa

記憶素の再構成とはコラージュに他ならない。デジタル写真のコラージュとは、デジタル技術によって写真を自由自在に組み合わせることではない。一枚の写真を、混濁した諸要素のコラージュと見なすことである。遡れば、2009年の個展「1940年は月曜日から始まる閏年」(タカ・イシイギャラリー、2009年10月10日〜11月7日)には、写真を一切使わないで記憶素を横断する、オブジェのコラージュがあった。再現性を放棄したからこそ、映像の「記憶」へ最も過激に切り込んでいたこれらの作品群に、「Table Matematica」の前身を見ることができる。

(続く)

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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授