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文化時評14: 木村友紀「COL SPORCAR SI TROVA」@アート・バーゼル・アンリミテッド
撮らない写真、建てない建築(後編)
文:清水 穣

2023.07.18
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Yuki Kimura, "COL SPORCAR SI TROVA," installation view at Unlimited, Art Basel, Jun 15–18, 2023.
Courtesy of Galerie Chantal Crousel and Taka Ishii Gallery / Photo: Jiayun Deng
「COL SPORCAR SI TROVA」は、ヴィンケルマン流のギリシア崇拝・イデア崇拝の美学に対抗する、ピラネージのモットーとして知られる言葉(直訳は「汚すことで見つかる」)で、銅版画のパレットの縁に書かれているから「適当に筆を動かしていれば、(求める形が)見つかる」という意味だと思っていたが、定番の英訳では「By messing about, one discovers」となるようで、無目的、無意味、無駄…なことをしていると発見がある、という意味に取れる。アンリミテッドの会場を、何を求めるわけでもなくブラブラしていると、いつしか――柵も区切りもないので――木村のインスタレーションに入り込み、台座から台座へとうろうろしているうちに、発見がある、と。

デュッセルドルフ展の小冊子『COL SPORCAR SI TROVA』101頁より

そのインスタレーションは迷路ではない。そこに入り込んだあなたはやがて、5本の白い大理石(のように描かれた)台座には銀色の球が載っていること、それらが一列に並んでインスタレーションに軸線を与えていることに気がつくだろう。さらに、軸線の一方から見ると5つの球は大→小の順に遠ざかっていくが、反対から見ると遠ざかるべき球がすべて同じサイズに見える。なるほど、遠近法を利用した錯視空間で有名なローマのパラッツォ・スパーダと同じ原理だな、と。球形の鏡には魚眼レンズのように周りの風景が映り込むが、その比率はすべて同じなので、大きい球に大きな空間が、小さい球に小さな空間が映り込むわけではない。4本のジンのボトルセット(大サイズ)が置かれた黒大理石(同上)の台座と、全く同じ4本のジンのセット(小サイズ)が置かれた台座がある。どうやら「サイズ」が問題らしい、と。拡大と縮小? さらに、これら2つの台座が、球鏡の軸線を挟んで線対称の位置にあることに気づいたとたんに、インスタレーションの全体が、その軸線を対角線とする正方形のフィールドとしてたち現れるだろう。その他の台座の上にも、サイズ大〜小までの同じグラス、皿、貝殻、ペン立てが置かれている。トロンプルイユ、ガラス、貝殻、ペン…フランドルの静物画? マトリョーシカ? 白と黒? …とりあえず写真を撮っておこう、とスマホを向けたあなたを驚きが襲う。フレームに収めてしまうと、それまで経験してきたサイズの違いが消えてしまうのだ。

Yuki Kimura, “COL SPORCAR SI TROVA,” installation view at Unlimited, Art Basel, Jun 15–18, 2023.
Courtesy of Galerie Chantal Crousel and Taka Ishii Gallery / Photo: Jiayun Deng

すべてのメディアは、それがメディア——あいだに挟まる媒介物——であるかぎり、「モノ」としての物理的抵抗をもっている。芸術家の手と眼がそれぞれのメディアを血肉化してその抵抗を克服し、自由自在な表現を実現するわけであるが、それは使う人間が慣れただけの話であって、モノとしてのメディアには関係しない。つまりそれぞれのメディアには、人の眼や手の馴化を逃れ、「自由自在」の幻想を突き崩す特異点が必ず含まれている。それはメディアが「モノ」としての他者性を取り戻す地点である。

写真にとって「サイズ」はそのような特異点であり、「等身大」は写真に固有の眩暈である。カメラ・オブスクラの時代(フランドルの静物画とトロンプルイユの時代!)から、写真映像は、現実を平面上へ投影し定着したメディアとして慣れ親しまれている。だが、その写像を通じて、現実の存在物がかならず持つ固有の「サイズ」は失われて相対化する。それゆえに、レンズの両側を等号で結ぶ「等身大」は、写真にとって一種の盲点なのである。本体とその像が同一化させられることによって、写真は言わば平面から身を引きはがし、かけがえのない1つの存在の複数の分身であるという、写真本来の他者性を取り戻すのだ。

Yuki Kimura Stripe, 2022, wall painting, black and white 263mm stripes, 450 x 3445 x 950 cm
Installation view Kunstverein für die Rheinlande und Westfalen, Düsseldorf, 2022.
Courtesy of Kunstverein für die Rheinlande und Westfalen, Düsseldorf and Taka Ishii Gallery / Photo: Cedric Mussano

木村のオブジェはすべて現実の存在物であるから、すべて「等身大」である。しかしそれが最小から最大までいくつもの異なるサイズで出現し、あるいは異なるサイズなのに同じ大きさで現れる(銀の球)ために、固有の「サイズ」が揺らいで、まるで写真の中のような状況が出現する。「サイズ」の次元を持たず「等身大」を盲点とする写真の本質を表現するために、写真を撮る必要はないのだ。反対に言えば、写真の中でなくても、サイズの次元が消えるという写真的状況は発生するわけである。サイズの次元の曖昧さは、空間把握の曖昧さに通じているだろう。デュッセルドルフでは、ギャラリー空間を白黒の横縞に塗り分けて(ウォールペインティング「Stripe」[2022])、所与の壁や梁を無化するとともに、展示空間をさらにはっきりと区切って閉ざしていた。平場のアンリミテッドでは、台座の配置とオブジェの大小の照応関係から、展示空間は事後的に発生していた。

Yuki Kimura “Reception,” installation views at Taka Ishii Gallery Tokyo, Aug 3 – Sep 7, 2019.
Courtesy of Taka Ishii Gallery / Photos: Yasushi Ichikawa

そういえば、サイズの変更によって空間を変化させる行為は、2019年の個展「Reception」(タカ・イシイギャラリー、2019年8月3日〜9月7日)でも見られた。ギャラリーのレセプション用のテーブルに対して、全く同じ作りの75%、50%、25%の縮小版を展示することで、観客の空間受容に干渉するのである。つまり、木村の「サイズ」をめぐるインスタレーションは、撮らない写真であるのみならず、建てない建築でもある。

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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授