文化時評20:「道を外した書」展(Study:大阪関西国際芸術祭関連行事)@ICHION CONTEMPORARY B2展評
通過地点
文:清水 穣
2024.01.19
開催中の『Study:⼤阪関⻄国際芸術祭 vol.3』のなかに、「道を外した書」と題された展覧会(沓名美和キュレーション)があって、ひときわ注目を集めていた。それは「ART SHODO CONTEMPORARY」に所属する4人の作家 ―ハシグチリンタロウ、グウナカヤマ、日野公彦、山本尚志― の作品に、井上有一の書を加えたグループ展である。ART SHODO CONTEMPORARYは天作会、すなわち「井上有一に捧ぐ 書の解放」を謳ったグループ(2004年〜)を母体として、6年前に山本尚志が立ち上げた、現代美術としての書/書としての現代美術の運動である(前身の「ミライショドウ」2017年を経て、2018年に「ART SHODO」として始動、2023年に「ART SHODO CONTEMPORARY」と改名)。
すでに1950年代、書と現代美術は初めて出会い、その東西文化交流の中に最初の「Art Shodo」が垣間見られたと言えなくもない。が、この最初の「Art Shodo」は、結局のところ、洋の東西で短いエピソードに終わった。それは一方で、当時の欧米作家たちの意識的・無意識的にコロニアルな眼差しのなかで、敗戦国日本の書は、もう一つのエキゾチックな抽象画にほかならず、したがって彼らの書の理解も網膜的レベルに留まったからであり、また他方で、日本人書家の「抽象」理解も、抽象を生み出した西洋絵画史を踏まえることのない一時の流行にすぎなかったからである。抽象書は、交流という名のすれ違いの後でも書かれ続けたが、狭い書壇の外へ出ることはなかった。行書や草書の読めない現代の一般観客には、ストロークの勢いや、墨の濃淡、線の粗密と集中と拡散、上下左右への動きといった視覚言語に訴える書のほうが通じやすい。つまり抽象書のほうがハードルが低いはずだが、それが普及することはなく、書は狭い書壇と学校書道の中で既得権益を貪るだけの長い空白期を迎えた。
21世紀になって井上有一が国際的に認知されるにつれ、現代美術と書は再び接近し始め、ポスト有一(有一を踏まえ、有一を超える)の書のあり方が模索されるようになった。なかでもART SHODOは、近年の躍進著しく、それがキュレーターの目に止まって、さらに有一作品を数多く所有するオークションハウスという地の利を得て本展覧会に至ったのだろう。ポスト有一の書の現在が、そこにははっきりと認められた。 井上有一は(展示された有一作品は全6点:「鳥」「貧」「夢」「圓」「放哉句 へちま〜」「柿本人麻呂歌 なるかみの〜」)、一時期抽象書に手を染めたが、有名な「愚徹」(1956年)において文字書へと回帰する。有一を踏まえるとは、まず書とは文字であることの認識である。そのうえで有一の全作品は、1)書が文字であるとはどういうことか(文字とは何か、すなわち書という芸術の本質とは何か)、2)視覚的な美(筆致や墨の美)について、3)読めるか読めないか(メッセージ性のありか)について、4)一字書というフォーマットについて、ART SHODOの作家たちにそれぞれ態度の決定を迫っている。
グウナカヤマの書は「読めない文字」である。ナカヤマは自らの感性に従って新しい文字、言わばグウ文字を一つ一つ生み出し、その独特で拙い形の面白さで評価されてきた。グウ文字は意味をはらんでいるが、未知の外国語の文字や、文字か絵か判別できない記号(神代文字、ナスカの地上絵など)のように、読めない。グウナカヤマの書は、形象が意味を帯びることの奇跡を主題としている。つまり、ある図形が絵であるときと文字であるときの差異が問題なのである。
グウ文字は最初、漢字を先例として、具体的な形象(花など)に類似した記号として生み出され、やがて、形のない感情や概念の記号となって展開してきたが、一字書のフォーマットの中で動いていた。最近では、一つの形象はそれだけで意味をもつのではなく、別の形象との関係において意味を獲得するという理解に達し、かつての抽象書の負の遺産である「一字書」の呪いから抜け出ようと、複数のグウ文字を連ねた表現に踏み出しているが、未だ成功作を見ない。一番の問題はグウ文字のなかに混じりこんだ既存の記号(X印など)が、異質な記号作用を発生させて、そこだけグウ文字の世界が解れてしまうからである。その欠点は本展でも直っていない。優れた展示空間に助けられた感が否めなかった。
残る2人の書は、万人に読める書であり、それゆえに受容のハードルは高い。日野公彦の書は、井上有一のコンテ書を継ぐもので、個人的な社会的関与の芸術でもある。グローバルな資本主義に覆われた現代社会に、持たざる者の居場所はない。作家は、そんな社会を端的に反映している文字群を街で採取し、線描でスケルトン状に表現する。そこに現れるのは、逃げ場も居場所もない現代人のつぶやきであり、少し哀しい心象風景である。SNSには決して発表されず、発言に至る以前に押し殺されてしまうような、寡黙なメッセージとしての書、そこでは、いわゆる墨美は放棄されているが、紙の色と文字の色の選択、粗密のある線描表現、広告媒体に使用される巨大なシートを利用した展示方法には、独自の美意識が現れている。
字数も尽きてきたので、最後にART SHODOの盟主、山本尚志について一言1。山本の書の基本は「物にその物の名前を書く」ことである。ある対象を表す自作のピクトグラムに、その対象の名称を書くのだが、ピクトグラムは意図的に曖昧なので、名を書く行為はしばしば命名でもある。命名としての書は、レディメイドの世界 ―それは言語のことでもある― を自分の固有名において生き直すことに通じている。
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(注)
1 詳細は、清水穣「名を与える 山本尚志の書」参照。山本尚志作品集『うごく木』(アートダイバー、2024年2月出版予定)所収。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授 「道を外した書」展は、ICHION CONTEMPORARY B2で、2024年1月31日まで開催中。
21世紀になって井上有一が国際的に認知されるにつれ、現代美術と書は再び接近し始め、ポスト有一(有一を踏まえ、有一を超える)の書のあり方が模索されるようになった。なかでもART SHODOは、近年の躍進著しく、それがキュレーターの目に止まって、さらに有一作品を数多く所有するオークションハウスという地の利を得て本展覧会に至ったのだろう。ポスト有一の書の現在が、そこにははっきりと認められた。 井上有一は(展示された有一作品は全6点:「鳥」「貧」「夢」「圓」「放哉句 へちま〜」「柿本人麻呂歌 なるかみの〜」)、一時期抽象書に手を染めたが、有名な「愚徹」(1956年)において文字書へと回帰する。有一を踏まえるとは、まず書とは文字であることの認識である。そのうえで有一の全作品は、1)書が文字であるとはどういうことか(文字とは何か、すなわち書という芸術の本質とは何か)、2)視覚的な美(筆致や墨の美)について、3)読めるか読めないか(メッセージ性のありか)について、4)一字書というフォーマットについて、ART SHODOの作家たちにそれぞれ態度の決定を迫っている。
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さて、4人の作品は、端的に読める書と読めない書に分かれる。墨を含ませたタオルで英語(と思しき単語)を書きなぐるハシグチリンタロウの作品は、読めたり読めなかったりする文字書であり、ドローイングでもある。文字書の方は、一見グラフィティのような、パンクな雄叫びの書である。先に述べたように現代人にとって書は専ら見るものであるから、そこから生まれる、通俗に堕しかねない弱さを、Amazonの段ボール箱を用いた独特なインスタレーションが補っている。リンタロウの書は、グローバル資本主義が各国の過疎地域にこそ深く浸透し、地域社会がグローバル企業に根底から依存している(Amazonを始めとするネット通販によって、地元商店がことごとく廃業に追い込まれシャッターストリートが広がる)という危機を、独自の近未来救世主譚によって覆そうとする「社会的関与の芸術」でもあるからだ。リンタロウの書の視覚的なわかりやすさ(それ自体は批判されるべきものではない)は、インスタレーションに表現された社会批判的なコンセプトに支えられてこそ、空回りしないで済む。逆に言えば、書画の躍動感とコンセプトが釣り合ってこそ作品として成立するわけだが、たいていコンセプトが視覚効果に負けている。それが今後の課題だろう。グウナカヤマの書は「読めない文字」である。ナカヤマは自らの感性に従って新しい文字、言わばグウ文字を一つ一つ生み出し、その独特で拙い形の面白さで評価されてきた。グウ文字は意味をはらんでいるが、未知の外国語の文字や、文字か絵か判別できない記号(神代文字、ナスカの地上絵など)のように、読めない。グウナカヤマの書は、形象が意味を帯びることの奇跡を主題としている。つまり、ある図形が絵であるときと文字であるときの差異が問題なのである。
グウ文字は最初、漢字を先例として、具体的な形象(花など)に類似した記号として生み出され、やがて、形のない感情や概念の記号となって展開してきたが、一字書のフォーマットの中で動いていた。最近では、一つの形象はそれだけで意味をもつのではなく、別の形象との関係において意味を獲得するという理解に達し、かつての抽象書の負の遺産である「一字書」の呪いから抜け出ようと、複数のグウ文字を連ねた表現に踏み出しているが、未だ成功作を見ない。一番の問題はグウ文字のなかに混じりこんだ既存の記号(X印など)が、異質な記号作用を発生させて、そこだけグウ文字の世界が解れてしまうからである。その欠点は本展でも直っていない。優れた展示空間に助けられた感が否めなかった。
残る2人の書は、万人に読める書であり、それゆえに受容のハードルは高い。日野公彦の書は、井上有一のコンテ書を継ぐもので、個人的な社会的関与の芸術でもある。グローバルな資本主義に覆われた現代社会に、持たざる者の居場所はない。作家は、そんな社会を端的に反映している文字群を街で採取し、線描でスケルトン状に表現する。そこに現れるのは、逃げ場も居場所もない現代人のつぶやきであり、少し哀しい心象風景である。SNSには決して発表されず、発言に至る以前に押し殺されてしまうような、寡黙なメッセージとしての書、そこでは、いわゆる墨美は放棄されているが、紙の色と文字の色の選択、粗密のある線描表現、広告媒体に使用される巨大なシートを利用した展示方法には、独自の美意識が現れている。
字数も尽きてきたので、最後にART SHODOの盟主、山本尚志について一言1。山本の書の基本は「物にその物の名前を書く」ことである。ある対象を表す自作のピクトグラムに、その対象の名称を書くのだが、ピクトグラムは意図的に曖昧なので、名を書く行為はしばしば命名でもある。命名としての書は、レディメイドの世界 ―それは言語のことでもある― を自分の固有名において生き直すことに通じている。
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(注)
1 詳細は、清水穣「名を与える 山本尚志の書」参照。山本尚志作品集『うごく木』(アートダイバー、2024年2月出版予定)所収。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授 「道を外した書」展は、ICHION CONTEMPORARY B2で、2024年1月31日まで開催中。