文化時評29:名和晃平とダミアン・ジャレの「Mirage [transitory]」@THEATER 010
生と死、対称性の破れ
文:清水 穣
2024.11.01
何年か前、名和晃平が大学および大学院時代に(90年代末から2000年にかけて)撮影した写真作品を見たことがある1。そこには、かけがえのない一つのもの(物、者)と出会って、その存在感を、あるいはそれを失った喪失感を作品にしたいという若き作家の志向が表れていた。
しかし2003年、キリンアートアワード奨励賞を獲得した「PixCell」は、「かけがえのない一つの存在」に憧れる青いナルシシズムとは全く無縁の作品であった。かつて河原温は、溢れんばかりの制作のアイディア2のすべてを捨てて「TODAY」のシリーズに移行したが、同じように、名和晃平は「世界に一つだけの」「かけがえのない存在」への志向を切り捨てたからこそ名和晃平になった。
名和作品は、首尾一貫して、素材の性質から導き出されるコンセプトとプロセスで成立している。「PixCell」のコンセプトは、任意の物体を、画像を取り込むレンズでありかつ大小のピクセルに見立てたビーズで被覆することで、実在するものがデジタル・ピクセルとして一元化され、現実から切り離されて希薄に流通する時代の相を示すことであった。その後も、物質の性質や物理法則に微調整を加えながら、それを作品に応用する方法論は一貫している。ある種のインクが垂れ落ちる重力を調整すれば、ストライプのペインティングになり、ある種の樹脂の発泡力によって、殻状のオブジェが形成される。この制作の本質は、作品生成のプロセスにあって、中身は基本的に入れ換え可能であり、特定の意味を宿してはならない。鹿の「PixCell」も蝶の「PixCell」も等価である。 物性から生じる様々な造形的要素を作品へと転化するプロセスの出発点には、人間と無関係に存在する、永遠の自然原理があるだけだ。その様々な造形的要素の中から、作家が最後に、美として見立てられるものを選び出すわけである。作品は、作家のちっぽけな主観や意思や観念からきっぱりと切れたところで、自然の理によって生成される。自然の理は人間的な意味に関わらないから、作品もまた、基本的に意味とは無縁であり、それらしきものがあったとしても後付けに過ぎない。名和の作品は潔くて美しい。そして(しかし、ではない)それは反復される自然現象として、無意味で虚しい。
ところが、2013年、あいちトリエンナーレで発表された、刻々と形を変えるインスタレーションは、名和が、再びあの「かけがえのない」「一回性」に向かったことを表していた。その志向を感知したダミアン・ジャレが名和に声を掛ける。無意味と空虚の充填は、舞台芸術とのコラボレーションという形で遂行された 3。名和は、自らの方法論の延長線上で「かけがえのない一回性」を回復したのである。
一般に、規則正しい直線や円で作られた造形は人工、不規則な曲線で出来た造形は自然とイメージされている。だから自然の中に、まるで人が作り出したような規則的な造形が見つかると観光スポットとなる(フィンガルの洞窟の六角形の柱状節理など)。しかしミクロやマクロなレベルで自然にはあらゆる造形が属している。人為と自然の違いは、人間が直線と曲線、規則と不規則を区別するのに対して、自然にはそのような区別がないことである。
ところで人間の身体は、人間の支配下にあるとともに、自然の理(重力などの物理法則、生理的・医学的プロセス)の下にある。身体は、そして身体を用いた舞踏芸術は、人間と自然のあいだの闘争(敵対ではない)の場をなしているのである。踊る身体の自由は、身体という自然との競合、交渉、そして宥和の結果にほかならない。ジャレが名和に優れたパートナーを見出したのも当然であろう。名和の造形は、素材の物性から直接導かれている点で、自然の世界、全方向カオスの対称性の世界に属している。人間と自然のあいだの闘争としての舞踏は、舞踏(ジャレ)と造形(名和)のあいだの闘争でもあり、さらに本作品の見紛うことなき主題である、生と死のあいだの闘争としてのエロスへとつながっている。
不生不滅の自然は生も死も区別しない世界であるから、死すべき者の観念である「生」と「死」(どちらも一回性の徴を帯びている)を知らない。それに対して『Mirage [transitory]』の舞台は、明快に2種類の対称性で構成されていた。対称軸を持つ線対称(ラストに屹立する巨大な裂け目[ヴァギナ?]、男女が身体を絡め重ねながら踊る、複雑な対称形の姿態)と、中心点の周りの点対称(複数のペアに分かれての格闘(?)の踊り、舞台前景にあいた穴の周りでの、上半身と腕による、イソギンチャクのような、奇跡的な群舞)である。本作品において、ジャレは、人間の世界、対称性の破れた後の世界で、男と女、生と死、光と闇の対称性のダンスを構成する。ダンサーたちは、暗い舞台上で身体に付けた鱗粉を煌めかせながら、ラオコーンの彫像のように悶え、ヒンドゥー教のシヴァとパールヴァティのように絡まり合いながら踊り続け、やがて一体となった主役の男女の前の穴から、二重螺旋(遺伝子?)がホログラムのように立ち上る。人間の対称性のあいだで演じられた闘争は、生殖を通じて未来へとつながっていく、と。それも大いなる自然に対しては蜃気楼にすぎない、のか? ……全体に、よくまとまった公演だったが、人間の対称性(男女、生死…)のパフォーマンスに終始して、それと自然の対称性とのあいだの闘争まで達していなかった。同じことだが、舞台美術も視覚的効果(銀粉ショー?)に限定されていて、『Planet [wanderer]』で見られたような、物質の本性を利用する名和の才能がいまひとつ発揮されていない気がした。本公演がいまだ「transitory」なバージョンであるせいかも知れないが。 フェルッチョ・ブゾーニは「音楽とは鳴り響く大気sonorous airだ」と述べた。音楽や舞踏など舞台芸術の本質とは、同一性に帰着することのない一回性ではないか。名和晃平の芸術が、舞台芸術と出会うことで、そのような一回性に向けて開かれたことを、遅ればせながら、歓迎したい。
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(注)
1 名和晃平「Wandering」2021年6月5日(土)〜7月3日(土)、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム
2 On Kawara, 1964. Paris-New York Drawings, Kunstmuseum St.Gallen, 1997にドキュメントされている。
3 ジャレとのコラボレーションの最初となった『Vessel』の原型は、骨盤や子宮にインスパイアされた学生時代の造形に遡るという。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
ダミアン・ジャレ×名和晃平「Mirage [transitory]」は、福岡・博多のTHEATER 010で、2024年9月27日から10月6日まで上演された。本稿は9月27日の公演を観て書かれている。
名和作品は、首尾一貫して、素材の性質から導き出されるコンセプトとプロセスで成立している。「PixCell」のコンセプトは、任意の物体を、画像を取り込むレンズでありかつ大小のピクセルに見立てたビーズで被覆することで、実在するものがデジタル・ピクセルとして一元化され、現実から切り離されて希薄に流通する時代の相を示すことであった。その後も、物質の性質や物理法則に微調整を加えながら、それを作品に応用する方法論は一貫している。ある種のインクが垂れ落ちる重力を調整すれば、ストライプのペインティングになり、ある種の樹脂の発泡力によって、殻状のオブジェが形成される。この制作の本質は、作品生成のプロセスにあって、中身は基本的に入れ換え可能であり、特定の意味を宿してはならない。鹿の「PixCell」も蝶の「PixCell」も等価である。 物性から生じる様々な造形的要素を作品へと転化するプロセスの出発点には、人間と無関係に存在する、永遠の自然原理があるだけだ。その様々な造形的要素の中から、作家が最後に、美として見立てられるものを選び出すわけである。作品は、作家のちっぽけな主観や意思や観念からきっぱりと切れたところで、自然の理によって生成される。自然の理は人間的な意味に関わらないから、作品もまた、基本的に意味とは無縁であり、それらしきものがあったとしても後付けに過ぎない。名和の作品は潔くて美しい。そして(しかし、ではない)それは反復される自然現象として、無意味で虚しい。
ところが、2013年、あいちトリエンナーレで発表された、刻々と形を変えるインスタレーションは、名和が、再びあの「かけがえのない」「一回性」に向かったことを表していた。その志向を感知したダミアン・ジャレが名和に声を掛ける。無意味と空虚の充填は、舞台芸術とのコラボレーションという形で遂行された 3。名和は、自らの方法論の延長線上で「かけがえのない一回性」を回復したのである。
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さて、ビッグバン理論において、宇宙生成時、物質と反物質が対消滅してすべてが無に帰してしまわずに、宇宙に物質が残された理由(宇宙が「ない」のではなく「ある」原因)として「対称性の破れ」が言われるが、これは誤解を招きやすい用語である。原初の対称性とは、空間内の全視点から全方向的に対称性が成立していることであって、完全なカオスとでも言うべき状態である。その対称性は、原初の最高度のエネルギーによって支えられている。それが破れて、低度のエネルギー状態へ移行すること、つまり対称性が特定の視点から見た方向だけに限られる状態に移行することを「対称性の破れ」という。線対称と点対称は、「対称性の破れ」のあとの人間的造形なのだ。一般に、規則正しい直線や円で作られた造形は人工、不規則な曲線で出来た造形は自然とイメージされている。だから自然の中に、まるで人が作り出したような規則的な造形が見つかると観光スポットとなる(フィンガルの洞窟の六角形の柱状節理など)。しかしミクロやマクロなレベルで自然にはあらゆる造形が属している。人為と自然の違いは、人間が直線と曲線、規則と不規則を区別するのに対して、自然にはそのような区別がないことである。
ところで人間の身体は、人間の支配下にあるとともに、自然の理(重力などの物理法則、生理的・医学的プロセス)の下にある。身体は、そして身体を用いた舞踏芸術は、人間と自然のあいだの闘争(敵対ではない)の場をなしているのである。踊る身体の自由は、身体という自然との競合、交渉、そして宥和の結果にほかならない。ジャレが名和に優れたパートナーを見出したのも当然であろう。名和の造形は、素材の物性から直接導かれている点で、自然の世界、全方向カオスの対称性の世界に属している。人間と自然のあいだの闘争としての舞踏は、舞踏(ジャレ)と造形(名和)のあいだの闘争でもあり、さらに本作品の見紛うことなき主題である、生と死のあいだの闘争としてのエロスへとつながっている。
不生不滅の自然は生も死も区別しない世界であるから、死すべき者の観念である「生」と「死」(どちらも一回性の徴を帯びている)を知らない。それに対して『Mirage [transitory]』の舞台は、明快に2種類の対称性で構成されていた。対称軸を持つ線対称(ラストに屹立する巨大な裂け目[ヴァギナ?]、男女が身体を絡め重ねながら踊る、複雑な対称形の姿態)と、中心点の周りの点対称(複数のペアに分かれての格闘(?)の踊り、舞台前景にあいた穴の周りでの、上半身と腕による、イソギンチャクのような、奇跡的な群舞)である。本作品において、ジャレは、人間の世界、対称性の破れた後の世界で、男と女、生と死、光と闇の対称性のダンスを構成する。ダンサーたちは、暗い舞台上で身体に付けた鱗粉を煌めかせながら、ラオコーンの彫像のように悶え、ヒンドゥー教のシヴァとパールヴァティのように絡まり合いながら踊り続け、やがて一体となった主役の男女の前の穴から、二重螺旋(遺伝子?)がホログラムのように立ち上る。人間の対称性のあいだで演じられた闘争は、生殖を通じて未来へとつながっていく、と。それも大いなる自然に対しては蜃気楼にすぎない、のか? ……全体に、よくまとまった公演だったが、人間の対称性(男女、生死…)のパフォーマンスに終始して、それと自然の対称性とのあいだの闘争まで達していなかった。同じことだが、舞台美術も視覚的効果(銀粉ショー?)に限定されていて、『Planet [wanderer]』で見られたような、物質の本性を利用する名和の才能がいまひとつ発揮されていない気がした。本公演がいまだ「transitory」なバージョンであるせいかも知れないが。 フェルッチョ・ブゾーニは「音楽とは鳴り響く大気sonorous airだ」と述べた。音楽や舞踏など舞台芸術の本質とは、同一性に帰着することのない一回性ではないか。名和晃平の芸術が、舞台芸術と出会うことで、そのような一回性に向けて開かれたことを、遅ればせながら、歓迎したい。
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(注)
1 名和晃平「Wandering」2021年6月5日(土)〜7月3日(土)、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム
2 On Kawara, 1964. Paris-New York Drawings, Kunstmuseum St.Gallen, 1997にドキュメントされている。
3 ジャレとのコラボレーションの最初となった『Vessel』の原型は、骨盤や子宮にインスパイアされた学生時代の造形に遡るという。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
ダミアン・ジャレ×名和晃平「Mirage [transitory]」は、福岡・博多のTHEATER 010で、2024年9月27日から10月6日まで上演された。本稿は9月27日の公演を観て書かれている。