文化時評30:金沢21世紀美術館市民ギャラリーA「漆表現の現在 2024 -漆へのまなざし-」
漆芸の行方
文:清水 穣
2024.11.19
現代工芸・モダン工芸と称されつつも、まったく現代美術とは異なる世界でありつづけてきた日本工芸が、近年、加速度的に現代美術の世界に同化吸収されつつある。その過程で、吸収される側の問題(膿?)も、吸収する側の問題(拝金主義)も露呈しているが、まず指摘すべきは、日本の工芸と欧米の工芸のあいだに横たわる認識の齟齬とでも呼ぶべきものであろう。
日本工芸はモダニズムを2回、まず能動的に、次に受動的に受容したと言える。1つは本質的受容としての、昭和初期の民藝運動である。民藝運動は、モダニズムの骨格をなす「対立する二項で構成された社会のシステム」vs.「その外部」、すなわち「(A vs. B) VS. C」という大きな二元論に基づいて、左項の社会システムから一方的に投影される「外部」「C」という3番目のもの(「奇数の美」)を追求する運動である。無事是貴人、作為を排したありのままの芸術、あるがままの日常の重要性、作者の主観から自由になった制作としての「天工」…等々。もう1つは敗戦後の現代美術受容であるが、これはシュルレアリスムのオブジェ、ピカソ、ミロ、アンフォルメル、イサム・ノグチ、ポップアート、ミニマリズム…といった様々な意匠に刺激されて生じた、いわゆるモダン工芸である。そして、大きな構図で言えば、前者を伝統工芸、後者を現代工芸として、棲み分ける者たちと二足の草鞋を履く者たちが、工芸界を形成してきた。が、前者は伝統工芸ではなかったし、表面的模倣に過ぎない後者は現代美術にはなりえなかった。日本工芸は、世界の現代美術界と接続するべくもなかったわけである。
欧米において、クラフトは文字通り様々な技術の力にほかならない。技術はすなわち手段であって、絵画や彫刻のようなジャンルを形成しない。画家は、版画を作りたければ摺り師に頼み、陶芸をしたければ陶芸家に頼むのである。実際、現代の多くのアーティストはその作品制作を発注に頼っているし、同じ1つのイデアを、大理石で、ブロンズで、また真鍮で…表現する作家も珍しくない(ブランクーシの「空間の中の鳥」など)。これを言い換えれば、独立したジャンルを形成するための本質は、技術ではない。技術とは素材加工の技術であり、つまり芸術の本質は素材にはなくイデアにある、ということである。 芸術の本質は技術にはない ― これは一般に日本芸術の預かり知らぬ認識である。「芸術の本質は、技術の果てに現れる」からだ。熟練のピアニストがたどり着く融通無礙な演奏のごときもの(濱田庄司の「15秒プラス60年」)が、日本芸術の理想なのである。したがって日本では、陶芸、漆芸、木工、染色、版画、金工…等々、技術の一つ一つが、絵画や彫刻のようなジャンルとしての地位を主張する。つまり、日本の1つの芸術のイデアは、その技法の本質を問い、ひいてはその対象となる素材の本質を問うことと切り離せない。漆とはなにか、その技法の本質とはどこにあるのかを問わない漆芸は芸術ではない、漆でなくても ―たとえばFRPでも― 構わない単なる制作手段にすぎない、と。 以上の考察を踏まえて、22名の展示作家の作品を眺めれば、さすがに伝統漆芸の居場所はなく、そしてどの作品も真剣勝負の秀作ではあったが、戦後の悪しき「モダン工芸」の生き残り(というより死に損ない:アンフォルメルな、雲や波の流線型をした、つやつやの漆オブジェ、現代美術で見飽きるほど頻出するマン・レイの赤い唇の漆版…等々)から、現代漆芸の最前線まで、目眩のするようなグラデーションがそこにはあった。
紙幅に余裕もないので、とくに目を引いた4人について寸評する。白子勝之は、10年以上前から注目してきた作家である1。その漆芸の興味深い点は、出発点が線描であることだ。彼は「面」に基づく漆の多層性・二重性ではなく、ただひとつ超越化という本質に絞って表現する。フリーハンドの線描(2次元:精神)が、素材(MDF)から彫り出されて立体となり(3次元:物質)、その一部に漆が施される(非物質化)。総漆(全体的な非物質化)の極小の線描立体は、壁に影を落とす実体(3次元)でもあり、影という形で線描性(2次元)をも伴っている。漆の超越化作用の前後にまたがる両義的な作品群はひときわ個性を発揮していた。
市川陽子もまた、線と面の間で漆芸を展開している。皮や竹の紐を編み上げた柔らかな立体の、網目の面に漆が施されている。これはいわば印伝のネガではないだろうか。動く曲面上の漆は、安定した多層性に基づく従来の漆のイメージを軽やかに裏切っている。
漆の滴が、表面張力で細かい玉になって糸にびっしりと並ぶ、漆のビーズで注目された森田志宝にも、漆を線や点として、そしてその二重性において表現する志向が見られる。残念なのは、漆の糸のインスタレーションが、例えば塩田千春の赤い糸のような既視感満載の演出に近づくことで、髪の毛のような糸には、要らぬジェンダー性まで付随してくる。漆そのものを造形化する表現はもっと自由であってよい。
染谷聡は加飾としての漆を追求してきた作家だが、だからこそ作品の造形に必然性を欠く恨みがあった。今回、古道具の漆器を加飾の舞台として選んだことで、支持体にとらわれず浮遊するコラージュとしての加飾の側面がうまく出ていた。それはシュルレアリスムのデペイズマンにも通じる。丸善にレモンを置くように、任意の表面に漆で加飾を施すのだ。 ——————————–
(注)
1 清水穣「植物の刹那と漆の永遠」(「月評」第23回)、『BT美術手帖』2010年7月号;「漆の花 Flowers of Japan」(「批評のフィールドワーク」第39回)、『ART iT』2013年8月。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
「漆表現の現在 2024 -漆へのまなざし-」は、金沢21世紀美術館市民ギャラリーAで、2024年10月23日から11月3日まで開催された。
欧米において、クラフトは文字通り様々な技術の力にほかならない。技術はすなわち手段であって、絵画や彫刻のようなジャンルを形成しない。画家は、版画を作りたければ摺り師に頼み、陶芸をしたければ陶芸家に頼むのである。実際、現代の多くのアーティストはその作品制作を発注に頼っているし、同じ1つのイデアを、大理石で、ブロンズで、また真鍮で…表現する作家も珍しくない(ブランクーシの「空間の中の鳥」など)。これを言い換えれば、独立したジャンルを形成するための本質は、技術ではない。技術とは素材加工の技術であり、つまり芸術の本質は素材にはなくイデアにある、ということである。 芸術の本質は技術にはない ― これは一般に日本芸術の預かり知らぬ認識である。「芸術の本質は、技術の果てに現れる」からだ。熟練のピアニストがたどり着く融通無礙な演奏のごときもの(濱田庄司の「15秒プラス60年」)が、日本芸術の理想なのである。したがって日本では、陶芸、漆芸、木工、染色、版画、金工…等々、技術の一つ一つが、絵画や彫刻のようなジャンルとしての地位を主張する。つまり、日本の1つの芸術のイデアは、その技法の本質を問い、ひいてはその対象となる素材の本質を問うことと切り離せない。漆とはなにか、その技法の本質とはどこにあるのかを問わない漆芸は芸術ではない、漆でなくても ―たとえばFRPでも― 構わない単なる制作手段にすぎない、と。 以上の考察を踏まえて、22名の展示作家の作品を眺めれば、さすがに伝統漆芸の居場所はなく、そしてどの作品も真剣勝負の秀作ではあったが、戦後の悪しき「モダン工芸」の生き残り(というより死に損ない:アンフォルメルな、雲や波の流線型をした、つやつやの漆オブジェ、現代美術で見飽きるほど頻出するマン・レイの赤い唇の漆版…等々)から、現代漆芸の最前線まで、目眩のするようなグラデーションがそこにはあった。
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古来、フィジカルな世俗的物質を、メタフィジカルな超越的存在(呪物、祭具、芸術品)へと変換するための最も直接的な技法は、研磨であった。物質は、広い意味での「鏡」(光を反射し、像を映すもの)に変化したとき、俗界を超越するわけである。鹿苑寺金閣の最上層が、全面金箔で、床全面に黒漆を施した、輝く極楽浄土となっていることは知られていよう。この例に従えば、漆の最も基本的な本質は、研磨に代わる、もう一つの超越化(漆黒の中への、より深く没入的な非物質化、映像化)である。その際、磨き上げるのではなく、上から層を塗り重ねるという行為から、レイヤーの意識が生じる。漆のもう一つの本質はこの多層性であり、ここから一般に多層から研ぎ出す技法 ―螺鈿や沈金、津軽塗、香川塗の蒟醤(きんま)、あるいは根来― が展開する。さらにこの多層性の延長線上で、漆は、コーティングでありながら支持体(コーティングされる側)でもあるという二重性をも獲得する。乾漆技法、堆朱・堆黒は言うまでもないが、柔らかな皮の上に施される印伝のような技法も、装飾であり実体でもあるという漆の二重性に拠るだろう。漆とはなにか、その技法の本質とはどこにあるのかを問うとは、物質と精神(イデア)のあいだで、漆の超越化・非物質化作用を問うことであり、その多層性と二重性を問題とすることなのである。紙幅に余裕もないので、とくに目を引いた4人について寸評する。白子勝之は、10年以上前から注目してきた作家である1。その漆芸の興味深い点は、出発点が線描であることだ。彼は「面」に基づく漆の多層性・二重性ではなく、ただひとつ超越化という本質に絞って表現する。フリーハンドの線描(2次元:精神)が、素材(MDF)から彫り出されて立体となり(3次元:物質)、その一部に漆が施される(非物質化)。総漆(全体的な非物質化)の極小の線描立体は、壁に影を落とす実体(3次元)でもあり、影という形で線描性(2次元)をも伴っている。漆の超越化作用の前後にまたがる両義的な作品群はひときわ個性を発揮していた。
市川陽子もまた、線と面の間で漆芸を展開している。皮や竹の紐を編み上げた柔らかな立体の、網目の面に漆が施されている。これはいわば印伝のネガではないだろうか。動く曲面上の漆は、安定した多層性に基づく従来の漆のイメージを軽やかに裏切っている。
漆の滴が、表面張力で細かい玉になって糸にびっしりと並ぶ、漆のビーズで注目された森田志宝にも、漆を線や点として、そしてその二重性において表現する志向が見られる。残念なのは、漆の糸のインスタレーションが、例えば塩田千春の赤い糸のような既視感満載の演出に近づくことで、髪の毛のような糸には、要らぬジェンダー性まで付随してくる。漆そのものを造形化する表現はもっと自由であってよい。
染谷聡は加飾としての漆を追求してきた作家だが、だからこそ作品の造形に必然性を欠く恨みがあった。今回、古道具の漆器を加飾の舞台として選んだことで、支持体にとらわれず浮遊するコラージュとしての加飾の側面がうまく出ていた。それはシュルレアリスムのデペイズマンにも通じる。丸善にレモンを置くように、任意の表面に漆で加飾を施すのだ。 ——————————–
(注)
1 清水穣「植物の刹那と漆の永遠」(「月評」第23回)、『BT美術手帖』2010年7月号;「漆の花 Flowers of Japan」(「批評のフィールドワーク」第39回)、『ART iT』2013年8月。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
「漆表現の現在 2024 -漆へのまなざし-」は、金沢21世紀美術館市民ギャラリーAで、2024年10月23日から11月3日まで開催された。