文化時評31:田中真吾個展「ツァラトゥストラ」@2kw Gallery
「今こそ来たれ、火よ!」 1
文:清水 穣
2024.12.21
陶芸作家の鯉江良二(1938-2020)にとって、陶芸の本質は炎で焼くことであった。自然の土を炎で焼けば、人為となり、人為は炎で焼き滅ぼされて自然に還る。プロメテウスがもたらした「火」は文化の始原であると同時に、「火」は自然への回帰、元素への還元をもたらす(「土は土に、灰は灰に」)。陶芸は、この人為と自然の循環の芸術であり、両者の対立を超える。モダニズムを貫く「あるがままの倫理」が、つまるところ人為と自然、作為とあるがまま、システムとその外部…等々のあいだの弁証法であるのに対して、「焼く」という行為は、自然を焼けば人為、人為を焼けば自然というように、二極をそのまま互換的なものとしてつなげてしまう。それは単純で深い認識であった。
田中真吾は一貫して火で焼く行為を表現の中心としてきた。田中を世に知らしめたシグニチャー的な作品、「trans」は、白い幾何学的立体の一部を焼いて、それが折り畳まれた紙のレイヤーで出来ていたことを曝露する。人為を焼いて自然に還すところにレイヤーが現れる、と。田中にとって火とは、人為を焼くこと(人為→自然の方向)が、そのまま表現(レイヤー構成の出現)となる技法であった。
さて、現実の世界は、100%の「人為」でも100%の「自然」でもなく、両項の中間地帯とみなせる。それは、自然に戻りきれていない人為=「廃材」と、人為になりきれていない自然=「素材」の世界である。ここから、「trans」に続くシリーズ、「re:trans」そして「transtructure」は、「廃材」を作品の「素材」として焼くことで、レイヤーの「コラージュ」を表現する。「re:trans」も「transtructure」も、廃材を寄せ集めた一種のコンストラクションで、その部分部分が黒く焼かれている。廃材、色面、焦げの巧みな配分から、レイヤーが発生する。このときコラージュとは、レイヤーを重ねるプロセスのことであり、その際、重なり合うレイヤーの上下関係が一義的に決定できないこと、すなわち、すべてのレイヤーの基底面を認知させないことが要である。最初は、廃材や焦げ跡の生々しさが勝っていたが、徐々に作家の技術が向上して、洗練されたコラージュ・ワークへと変化した。が、その反面、焦げ跡はただの黒い縁取りへと変化し、「火で焼く」意味がなくなる嫌いがあった。そこで「transtructure」は、単純なstructure(フレーム型やグリッド)を強調し、その構造が火で焼かれて崩れたという側面を取り戻すシリーズであった。
巧みで美しいレイヤー・コラージュを手放さず、しかし、木造住宅の燃え残りを連想させるほどに(!)強すぎる物質感を回避し、それでも、根本的なコンセプトである「火」とのつながりを保ち続けること ― 田中作品の多様な展開は、すべてこの問題に対する部分的な解答とみなせる。
ツァラトゥストラ」)。こうして描いては消し、描いては消しのプロセスから、塗りつぶしと拭き取りの複雑なシュプールが交差する画面が生まれ、全体として帯状の平面が複雑に重なり合うシリーズ「transitional stroke」が誕生した。本展は、色彩をモノクロームに限定したうえで、これをさらに展開したものである。その展開は、全部の作品ではなかったにせよ2、美しく成功していた。
問題は、それが特別新しい表現ではないことである。「表面につけられる最初の一筆がその物理的な平面性を破壊する」(C・グリーンバーグ)。それは、その最初のひと塗りによって、それと支持体面の間にレイヤーが発生し、支持体の物理的平面を、「画面」という視覚平面へと変容させるからである。レイヤーは絵画を支える基底面であり、面Aに、それと異質な要素Bが加えられたとき、AとBのあいだに発生する。それゆえ「それは厳密に絵画としての、つまり厳密に視覚的な三次元性なのである2」。さらにジャクソン・ポロックの「カットアウト」が示したように、「最初の一筆」が「最初の一消し」であっても、レイヤーは発生する。 レイヤー・コラージュのために、「描く」と「消す」の両方を用いるのは、実にオーソドックスな方法なのだ。もともと絵画において「描く」と「消す」は、まっさらな支持体面を露出させる(塗りつけた絵の具を完全に消去する)のでない限り、上塗りする、白で塗りつぶす、拭き取るといった行為のなかで渾然一体となっている。つまり、それはごく通常の描画行為なのである。筆を使った例ならデ・クーニングの晩年の抽象画、ヘラやスキージを使った例ならゲルハルト・リヒターの抽象絵画など、巨匠たちの例にも事欠かない。 無論、絵画において全く新しい表現などあるはずはないから、巨匠たちの前例は、田中作品の歴史的参照点と見なしておけばよい。付け加えれば、水平・垂直の帯が現れては消える画面は、ハンス・リヒターの実験映像(Rhythmus 21 [1921])など)にもつながっているだろう。 より本質的な問題は、「transitional stroke」のシリーズの技法 ―相反する要素「描く」「消す」の競演― が、つまるところ「絵を描く」という行為の言い換えにすぎない以上、それは「火」というコンセプトの読み替えとしては単純に過ぎたということである。技法が先行すると、芸術はすぐに洗練されたマニエリスムに堕す。なるほど本展は、作家が上述の問題に対して出した真摯な解答の一つであり、展覧会としても成功していた。しかし、この成功は危うい。それを焼き払え(!)とは言わないが、今こそ火と向き合うべきであろう。 ——————————–
(注)
1 Friedrich Hölderlin, Der Ister, 第1行「Jetzt komme, Feuer!」。 2 リボン状の平面だけで画面が埋め尽くされた作品は成功していたが、それ以外の何らかの構成(柱状の線、ぼかした描画)が登場すると、それによる画面構成が、軽やかなレイヤーコラージュを阻害していた。 3 クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」。『グリーンバーグ批評選集』(藤枝晃雄編訳、剄草書房2005年)p.70。 ——————————–
しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
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田中真吾「ツァラトゥストラ」は、2kw Galleryで、2024年11月30日―12月22日まで開催中。
田中真吾は一貫して火で焼く行為を表現の中心としてきた。田中を世に知らしめたシグニチャー的な作品、「trans」は、白い幾何学的立体の一部を焼いて、それが折り畳まれた紙のレイヤーで出来ていたことを曝露する。人為を焼いて自然に還すところにレイヤーが現れる、と。田中にとって火とは、人為を焼くこと(人為→自然の方向)が、そのまま表現(レイヤー構成の出現)となる技法であった。
さて、現実の世界は、100%の「人為」でも100%の「自然」でもなく、両項の中間地帯とみなせる。それは、自然に戻りきれていない人為=「廃材」と、人為になりきれていない自然=「素材」の世界である。ここから、「trans」に続くシリーズ、「re:trans」そして「transtructure」は、「廃材」を作品の「素材」として焼くことで、レイヤーの「コラージュ」を表現する。「re:trans」も「transtructure」も、廃材を寄せ集めた一種のコンストラクションで、その部分部分が黒く焼かれている。廃材、色面、焦げの巧みな配分から、レイヤーが発生する。このときコラージュとは、レイヤーを重ねるプロセスのことであり、その際、重なり合うレイヤーの上下関係が一義的に決定できないこと、すなわち、すべてのレイヤーの基底面を認知させないことが要である。最初は、廃材や焦げ跡の生々しさが勝っていたが、徐々に作家の技術が向上して、洗練されたコラージュ・ワークへと変化した。が、その反面、焦げ跡はただの黒い縁取りへと変化し、「火で焼く」意味がなくなる嫌いがあった。そこで「transtructure」は、単純なstructure(フレーム型やグリッド)を強調し、その構造が火で焼かれて崩れたという側面を取り戻すシリーズであった。
巧みで美しいレイヤー・コラージュを手放さず、しかし、木造住宅の燃え残りを連想させるほどに(!)強すぎる物質感を回避し、それでも、根本的なコンセプトである「火」とのつながりを保ち続けること ― 田中作品の多様な展開は、すべてこの問題に対する部分的な解答とみなせる。
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まず作家は、「火」のコンセプトを、「対立する2項をそのまま互換的につなげる術」と読み替えて、その2項を「描く」と「消す」に設定した。拝火教の教祖ツァラトゥストラ(ゾロアスター)を、世界最古の二元論(善と悪)の創始者と見なし、二元論の超克、すなわち「描く」と「消す」の共存を抹消線で表した(「問題は、それが特別新しい表現ではないことである。「表面につけられる最初の一筆がその物理的な平面性を破壊する」(C・グリーンバーグ)。それは、その最初のひと塗りによって、それと支持体面の間にレイヤーが発生し、支持体の物理的平面を、「画面」という視覚平面へと変容させるからである。レイヤーは絵画を支える基底面であり、面Aに、それと異質な要素Bが加えられたとき、AとBのあいだに発生する。それゆえ「それは厳密に絵画としての、つまり厳密に視覚的な三次元性なのである2」。さらにジャクソン・ポロックの「カットアウト」が示したように、「最初の一筆」が「最初の一消し」であっても、レイヤーは発生する。 レイヤー・コラージュのために、「描く」と「消す」の両方を用いるのは、実にオーソドックスな方法なのだ。もともと絵画において「描く」と「消す」は、まっさらな支持体面を露出させる(塗りつけた絵の具を完全に消去する)のでない限り、上塗りする、白で塗りつぶす、拭き取るといった行為のなかで渾然一体となっている。つまり、それはごく通常の描画行為なのである。筆を使った例ならデ・クーニングの晩年の抽象画、ヘラやスキージを使った例ならゲルハルト・リヒターの抽象絵画など、巨匠たちの例にも事欠かない。 無論、絵画において全く新しい表現などあるはずはないから、巨匠たちの前例は、田中作品の歴史的参照点と見なしておけばよい。付け加えれば、水平・垂直の帯が現れては消える画面は、ハンス・リヒターの実験映像(Rhythmus 21 [1921])など)にもつながっているだろう。 より本質的な問題は、「transitional stroke」のシリーズの技法 ―相反する要素「描く」「消す」の競演― が、つまるところ「絵を描く」という行為の言い換えにすぎない以上、それは「火」というコンセプトの読み替えとしては単純に過ぎたということである。技法が先行すると、芸術はすぐに洗練されたマニエリスムに堕す。なるほど本展は、作家が上述の問題に対して出した真摯な解答の一つであり、展覧会としても成功していた。しかし、この成功は危うい。それを焼き払え(!)とは言わないが、今こそ火と向き合うべきであろう。 ——————————–
(注)
1 Friedrich Hölderlin, Der Ister, 第1行「Jetzt komme, Feuer!」。 2 リボン状の平面だけで画面が埋め尽くされた作品は成功していたが、それ以外の何らかの構成(柱状の線、ぼかした描画)が登場すると、それによる画面構成が、軽やかなレイヤーコラージュを阻害していた。 3 クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」。『グリーンバーグ批評選集』(藤枝晃雄編訳、剄草書房2005年)p.70。 ——————————–
しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
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田中真吾「