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REALKYOTO LIVE アート&デザインとメディアをめぐる会話 PART 1
浅田 彰・片岡真実・椿昇・宮永愛子(司会:小崎哲哉)

2013.04.21
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浅田 彰(批評家/京都造形芸術大学大学院大学院長)
片岡真実(森美術館チーフ・キュレーター)
椿 昇(アーティスト/京都造形芸術大学美術工芸学科長)
宮永愛子(アーティスト/京都造形芸術大学大学院客員教授)
司会:小崎哲哉(『REALKYOTO』編集長)
(※肩書きはいずれも当時):

2013年2月23日(土)から3月3日(日)にかけて、京都造形芸術大学の卒業・修了制作展が行われた。その最終日に、アートとメディア、それぞれの分野の第一線で活動する5人によるトークライブが開催された。言説がアートシーンやデザインシーンに及ぼす影響とは? そして、欧米起源の現代アートやデザインを日本で制作・発表することの意味とは?

(構成:編集部/写真:小泉 創)

 

左より、小崎(司会)、浅田、片岡、宮永、椿の各氏。photo by 小泉 創


PART 1

小崎 まずは卒業制作の講評、感想をゲストの皆さんに伺い、その後、アート&デザインとメディアをめぐる状況について話していきたいと思います。

●作品・表現を社会に開く
片岡 私は去年のトークショウにも呼んでいただき、卒業作品について講評させていただきました。良いところから言うと、去年と同じく染色テキスタイルコースは非常に質が高くて、学科としてもまとまっていると思いました。しっかりとひとつのプロダクトになっている。空間演出デザイン学科もそうですけれども、目的を持って、もしくはクライアントを想定してつくられているようですね。一方、自分をより掘り下げることや、社会に向かう姿勢はまだ弱いように感じました。自分を中心にした友人や家族、近所というすごく小さい世界との関わりで終わっている。それをどのように相対化するのか。自分から世界を見るのではなく、世界の側から自分を見るという違う見方もできるのではないか。社会へのコミットメントや広がりを、もっと意識するとより良いのではないかと思いました。

宮永 陶芸や染色部門といったいわゆる工芸の要素が強い分野を専攻している人は、技術や歴史などを掘り下げていくことが作品のレベルを上げ、様々な可能性を広げていくことにつながります。そうすると工芸だけの領域に留まらず、現代美術の分野にもパっと飛躍できることもある。今回はそのあたりをうまく捉えている作品もあれば、そのあたりのことがまだわからなくて、もったいないことになっていると感じる作品も一部見受けられました。

椿 今回の卒展、僕が考えるレベルから言えばまだ「better」の手前、55%ぐらいの完成度です。僕の中では75%ぐらいがギャラリーなど社会に出していけるレベル、85%ならばもう十分アーティストとして活動していけると思っていますが、そのレベルには達していない。その原因は明らかに言語で、批評性がまったくない作品がまだまだ多いんです。この結果から、主担当の先生だけに任せておけないと考え、来年度の4回生全員に、ポートフォリオを持って僕と話し合う機会を設けることにしました。コンセプトや何を目指しているのかなど、作品についてのディスカッションを全員と行おうと思っています。僕は学科長として適当には監修できません。例えば、3行の文章が書けない学生が実際にいたんですが、この学生には日記を書かせるところから指導しました。言葉でイメージをつくりだすことからトレーニングしなあかんのですね。その内に、1冊の本に出会ってそこから世界が見え始め、ビジュアルが出てくるようになった。自分の中に何かを求め続けても、それはずっとからっぽのままなんです。だから教員が、「こんな本があるから読んでみなさい」「こんなテキストもある」とナビゲートしなくてはいけない。技術を教える人はいっぱいいるけれど、その作品の中にある世界観を練り込むプロセスを教える人がいない。フィロソフィーを教える人がいないということはとてもアンバランスな状況で、やはりそのアンバランスさが学生にのしかかっていると感じます。来年の卒業制作展では、学生の作品キャプションに指導教官の名前を入れたいですね。

photo by 小泉 創


小崎 京都造形芸術大学の卒展の非常にユニークな点として、卒表制作作品の販売を行っていることが挙げられると思います。これを提案したのは椿さんですよね。その意図とは?

椿 まず大前提として、ただ作品を売るということのために行っているわけではありません。制作した学生自身が作品に値段を付け、販売することを経験することで、社会に出て経済の原理の中でアーティストとして活動していくための習慣を付けるためなんです。学生の作品のキャプションにはコンセプトと値段が表示されている。そのため、学生は自分の作品の横に立って、作品のコンセプトやなぜこの値段であるのかということを、来場者にしっかりと説明するようになる。値段を付けることによって、自分の作品を社会に出すことに真正面から向き合う責任が生まれるんです。

浅田 アート系には、「作品とは自己表現だ」という古い神話がまだ残っている。そういう矮小な「自己」を外へ開くために椿さんも僕も努力しているわけだけれど、まだ十分じゃないと思いますね。他方、デザイン系ははじめから社会に開かれている。情報デザイン学科の富永省吾さんの「COOL JAPAN PUREBL∞D」は、インタラクティブなセッティングでアニメーションを上映する野心的な作品で、「学外の企業を束ねてつくったものだから、どこまでが自分の作品かわからない」という声もあるようだけれど、そういう多様な要素を自分のパースペクティブで組み合わせて作品をつくりあげた力は高く評価できるでしょう。ぼくは「クール・ジャパン」に批判的だけれど、経済産業省版の「クール・ジャパン」に自分の考える純血種の「クール・ジャパン」で対抗しようという野心も買います。また、堀井拓也さんの考案した、はぎれを出さずに衣服をつくるシステムも、たんに市場に媚びるのではない、アクチュアルな問題意識のうかがえる提案でした。アートの領域でも、たんに自分の夢を表現してみたというだけではなく、自分の作品を現代の地平において解体し再編集していくことができれば、飛躍につながるでしょう。

小崎 僕は今回、ミシンを使った作品が面白いと思いました。FabLabや3Dプリンターの時代にあって、ミシンはいまやプリンターのひとつであり、そういった新しいテクノロジーの特性を活かしてつくられている作品が多かったように思います。他方、絵画、彫刻といったオールドメディアは、すでにいろんなことがやりつくされている。だからこそ、高いハードルを超えて真に歴史を作っていくのが素晴らしいアーティストであるわけで、アートの分野の学生にはそういった志は強く持ち続けてほしいですね。プレゼンテーションについては、中にはそれが上手く行っていないケースもあったように思います。宮永さんは作品に非常に詩情あふれるタイトルを付けていて、コンセプトも自分の言葉で明快に語ったり綴ったりされていますが、作品を言語化するということに関してどう思われますか。

宮永 私は絵を描くのが苦手で、言葉でイメージを探していく方法を採っています。タイトルやコンセプトは作品の本質に近づく糸口を置くような気持ちで書いています。大切なことは自分からの距離で言語化することでしょうか。違うと読んでいる方にもすぐ伝わりますしね。ものづくりには、言葉で表現できないものをつくっている部分もあるのだから、何でも明快に話せなくてもいい。誰かが作品を批評してくれる、個人として言語化はとても大切なことだと思っています。言語がみんなに共通するものとしてある以上は、言葉や文字として聞いてみたい、読んでみたいという思いはありますね。それにしても、いまの造形大は私の学生のころと全然違う。この特質に乗れない学生もいるだろうな。でもね、それでいいのですよ。その感覚も大切です。みんながこの波に乗っちゃったら怖いことになるだろうとも感じるんです。

photo by 小泉 創


椿 さっきみたいな言い方をすると「みんながこの波に乗ってしまったら怖い」と取られちゃうかもしれないけど、実は、いちばんプロモートしたいのはとてもナイーブな作品なんです。言語化するとすごくハードなフレームが出来るけれど、実際には作品の奥にあるエモーショナルな部分や、作家の人となりの力が作品を輝かせる。だから、その力を持っている子はベラベラしゃべる必要はない。作品の中でしゃべっている。そういう学生を育てているので、大丈夫です。

浅田 それは一種の対になっていて、村上隆さんのようにあざといまでの戦略を立てて作品を発表する人もいれば、奈良美智さんのように黙って好きなものを描き続ける人もいる。それはそれでいいでしょう。ただ、「あなたの夢を大切に」と言う人は、人格的にはいい人かもしれないけど、教師としては無責任きわまりない。「何でおまえの夢なんかに興味を持たなきゃいけないんだ」と言う人非人のほうが、逆に夢をどう外に向かって開いていくのかという問いを投げかけているので、それをきっかけに飛躍することもできるはずです。その意味で椿さんや僕は人非人なんだけれど、それは実は親切すぎるほど親切な教師だということなんですね。

photo by 小泉 創


 
●文脈付けと批評の必要性
小崎 言語化といえば、片岡さんは、自分の展覧会の企画意図などを図録などに書くと同時に、レビューや批評を寄せられる立場でもあります。その一方、批評家として他の人がキュレーションした展覧会について書くこともある。それぞれの立場から、表現と言説の関係をどのように捉えていますか。

片岡 いま私が切実に感じているのは「文脈化の必要性」です。現在、インターネットを通じて、欧米の美術だけではなく、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ地域の作品を観ることができるようになりました。そこで問題になってくるのが、例えば1990年代以降のエジプトの作家の作品を、20世紀の欧米の美術史を参照しても文脈が見えてこない。そこでキュレーターは、作品に視覚的に現れていない付加的な情報を、カタログなり展示の解説なりによってどのように観る人に届けるのか考えなければならなくなっています。例えば森美術館では、これまでアイ・ウェイウェイやイ・ブルや会田誠らの個展を開催してきました。彼らの作品には、きわめて複雑な歴史的、政治的、社会的なレイヤーが込められています。だから批評や言語化という以前に、文脈化の必要性が非常に重要だと思うんです。

photo by 小泉 創


浅田 作品の意味を一定の文脈の中で明確化する、あるいは別の文脈の中で捉え直すのは、キュレーター、そして批評家の仕事であると同時に、本当はアーティストもそれを考えるべきなんですね。手の内をすべて明かす必要はないけれど、何の文脈もなしに「自分の夢を表現した」と言われてもどうしようもない。タイトルの付け方ひとつでも、どういう文脈で何を考えて作品を制作したか、観る人に伝えられるはずです。

 他方、いま批評の言葉が非常に弱体化してしまっている、これは大問題でしょう。近代の日本は、創作と同時に批評も盛んで、両者が緊張感を持って展開してきた。ところが、特に過去25年ぐらいで、批評の言葉がものすごく弱まった。文学でも、文芸批評を読むより、書店の店員が書いたPOPやamazonのカスタマーレビュー(顧客の評価)が売れ行きを左右するようになった。既存の文脈や新しい文脈の中で作品の意味を評価する批評ではなくて、「市場ではこれが旬ですよ」という情報ばかりになっちゃったんですね。いったん情報コラムや買い物のヒントにまで退化してしまった批評を、もう一度別の形で立ち上げてゆく必要があると思います。

 その点で、インターネットでグローバルに情報が行き交うようになったのはいいことだし、それを活用しない手はない。ただ、例えばTwitterの文字数で批評は無理で、単純化された情報ばかりが飛び交い、またそれが異常に増幅されかねないところが問題でしょう。ここは森美術館の会田誠展について話す場ではありませんが、例えばそこに女性差別や障碍者差別を見て批判する声はもちろんあっていいし、会田誠がそういう声に丁寧に対応しているのは大したものだとして、本当はそのレベルでやっていると批評にはならない、むしろ会田誠というアーティストが「変態である私」を自虐的にさらけ出す中でそういう表現が出てきているので、マジョリティの側に安住しながら女性なり障碍者なりを差別するような態度の対極にあるということからして、きちんと論じていくべきでしょう。そういう意味でもやはり批評が重要だと思うんです。

 『REALKYOTO』編集長の小崎さんは、『ART iT』のファウンディングエディターであり、現在も続く『REALTOKYO』のファウンディングエディターでもある。いずれも日本語と英語のバイリンガルメディアです。それだけではなく、ネットでは中国語や韓国語なども使ったマルチリンガルな展開もやりやすいでしょう。誰もが下手な英語を話すのがグローバル(資本主義)化だとすれば、個々の言語や文化が固有性を保ちつつ相互に翻訳されるのが本当の国際化・民際化なので、『REALKYOTO』もそういう方向を目指すのが望ましい。「東アジアのアートマーケットでいまこれが旬ですよ」という情報をグローバルマーケットに発信するだけではなく、例えば東アジアの文脈――それ自体多様性を持った複数の文脈の中で議論を重ね、そこで発見された意味を世界に発信していければ、大きな意味があるはずです。『REALKYOTO』はまだごく小さなメディアで、どこまで行けるかわかりませんが、東アジアのアート&デザインをめぐる情報交換と議論の場になり、それを世界とつなげる交換台になれればいいと思いますね。

小崎 確かにマルチリンガルを目指したいところですが、それにはどうしてもお金がかかりますね。

浅田 ただ、すべてが完全に訳される必要はない。例えば中国の人は中国語、韓国の人は朝鮮語で書いて、それが部分的に英訳されているだけでも、ずいぶん役に立つでしょう。最低限の情報は英語で伝達するとして、様々な言語で書かれた深みのある批評もその気になって読もうと思えば読める。そういうサイトになったら面白いんじゃないか、と。

 
PART2に続く

 
浅田 彰(あさだ・あきら)
1957年、神戸市生まれ。京都造形芸術大学大学院長を経て、2013年4月より同大大学院学術研究センター所長。同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。著書に『構造と力』『逃走論』『ヘルメスの音楽』『映画の世紀末』、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』『20世紀文化の臨界』など。『REALKYOTO』のブログでも様々な領域の表現行為を取り上げている。

片岡真実(かたおか・まみ)
森美術館チーフ・キュレーター。民間シンクタンクで官民の文化芸術プロジェクトに関する調査研究を行った後、東京オペラシティアートギャラリー・チーフキュレーターを経て、2003年より森美術館勤務。『六本木クロッシング2004』『小沢剛展』『アイ・ウェイウェイ展』『ネイチャー・センス展』『会田誠展』などを手がける。ヘイワード・ギャラリーでの勤務や光州ビエンナーレ2012の共同芸術監督など、国際的な経験も豊富。

椿 昇(つばき・のぼる)
1953年、京都市生まれ。アーティスト/京都造形芸術大学美術工芸学科長。89年に『アゲインスト・ネイチャー ―80年代の日本美術』展に、93年にヴェネツィア・ビエンナーレ・アペルト部門に出展。2001年には横浜トリエンナーレで、情報哲学者の室井尚とともに巨大なバッタのバルーンを展示して話題となる。03年に水戸芸術館で、09年に京都国立近代美術館で、12年に霧島アートの森で、それぞれ大規模個展を開催。

宮永愛子(みやなが・あいこ)
1974年、京都市生まれ。アーティスト/京都造形芸術大学大学院客員教授。2009年に第3回shiseido art egg賞を受賞し、資生堂ギャラリーで個展『地中からはなつ島』を開催。11年、五島記念文化賞美術新人賞を受賞。12年には国立国際美術館で大規模個展『なかそら-空中空-』を行い、それを機に作品集『空中空(なかそら)』も刊行した。釜山ビエンナーレ2008やパリ日本文化会館での二人展など、国際的にも活躍する。

小崎哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。ウェブマガジン『REALTOKYO』『REALKYOTO』発行人兼編集長。カルチャー雑誌『03 TOKYO Calling』、CD-ROMブック『マルチメディア歌舞伎』、写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。京都造形芸術大学客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。
 

(2013年4月21日公開)