インタビュー:中村高寛(『禅と骨』監督・構成・プロデューサー)
聞き手:福嶋真砂代
聞き手:福嶋真砂代
「人の生を撮ること、死を撮ることはなんなのか」を考え続けて、濃密な撮影ができたと思う
『骨と禅』を監督(構成・共同プロデュース)した中村貴寛さんにインタビューした。『ヨコハマメリー』以来、11年ぶりとなる新作は、横浜生まれの青い目の禅僧(京都、天龍寺)、ヘンリ・ミトワの型破りな生涯を、ドラマやアニメーションも取り入れ、これまた型破りなスタイルで描いたドキュメンタリー。中村トオルのハードボイルドな語り、ジャジーな音楽、野宮真貴がカバーする昭和歌謡が流れ、数々のインタビューも興味深く、まるで謎解きミステリーのように、戦前から現代まで、日米にまたがる壮大な ”ミトワ家サーガ ” が紐解かれる。林海象(『私立探偵・濱マイク』監督)プロデュースとくれば横浜ノワール感もたっぷり、ドラマパートに永瀬正敏(濱マイクではない)も粋に登場し、他に緒川たまき、利重剛、佐野史郎ら豪華俳優陣が彩る。ヘンリ・ミトワ役にウエンツ瑛士、ヘンリの母には余貴美子。そのキャスティングへの熱い思い、ミトワさんを撮ることになった驚きのきっかけや、8年の撮影期間の間に経験した「死にたくなるような」エピソードなど、たっぷりネタバラシをしてくれました。「これは僕のセルフドキュメンタリーでもある」と語り、この映画でヘンリ・ミトワが「依り代」になったと言う。その真意とは……? ディープでマニアックな世界の終わりに、コモエスタ八重樫x横山剣(CRAZY KEN BAND)「骨まで愛して」が流れる頃、味わう不思議な達成感。中村監督の気持ちにどっぷりシンクロしていたのかもしれない。
■ドキュメンタリー映画の中でも稀な映画かもしれません
―― なんと表現していいかわからないくらいユニークな人物を撮られましたが、とても苦労されたのではないかと思いました。まさか死にたくなったりしませんでしたか?
もう何回も死にたくなりました(笑)。例えば「毎回、これが遺作だ、死ぬ気で撮ってる」とか言うけど、今回は本当に死ぬ気でやろうと思って撮っていました。―― そもそもヘンリ・ミトワさんを撮ることになったきっかけは何だったのでしょうか。
ドキュメンタリー映画を撮るとき、よく問われる「内的必然性」。つまり、なぜそれを撮らなければならないかいうことが重要になります。仮に必然性があり、自分のテーマに合致していたとしても、それを繰り返し反芻するわけです。「本当にこの人物を撮らなければいけないのか?」と、自分の内的必然性と向き合って、映画を撮っていくのです。でもこの映画の場合はちょっと違っていて、被写体の方から「撮って」と言われて撮り始めることになったんです。ドキュメンタリー映画の中でも稀な映画かもしれません。この「なぜ撮ることになったのか」という理由も含めて、映画の中にすべて入れこもうと思って、レイヤーをいくつも重ねて作ってあるんです。―― とても気になるシーンがあって、「撮りましょう」と監督が言うと、「撮りましょうじゃなくて、撮らせて下さいでしょう」とミトワさんが返すという押し問答、そんな驚きのやりとりがオープンにされていて、そこから「あれあれ?」って展開が俄然おもしろくなって、両者の本音を聞いてしまったという、見てはいけないものを見てしまった感覚でした。
普通はああいうところは明かさないものですし、対象者とあそこまでぶつかることはなないでしょう。多くのドキュメンタリーの作り手というのは、「撮らしてもらってる」みたいな意識ってあるんですね。ある尊敬する対象者にキャメラを向けるとき、「撮らせて下さい」とお願いして撮るということが多いと思うんです。僕もテレビドキュメンタリーを多く撮ってきて、そういうスタンスで撮ったこともあります。ドキュメンタリーというのは対象者のいい部分だけを撮るのではなくて、弱い部分も撮らなければいけないときもあります。そうすると対象者は往々にして気分を害するので、なんでそんなところを撮るんだ!と揉めたりすることもあるんです。ゆえに僕の映画を撮るときのスタンスとしては、つねに対等のスタンスでまず撮りたい、「撮る側」と「撮られる側」の間に上下関係はない、ということをまず相手側に伝えて、納得してもらったうえでキャメラを回します。―― 毎回、そういうことは話し合われるのですか、それとも今回は特に……?
今回はより自覚的にやりました。前作の『ヨコハマメリー』のときも、そこまで明確ではないながらも、対象者の人たちと共犯関係を作っていきました。撮らしてもらうというよりは、一緒に悩み考えながら作っていったのですが、それは撮る以前に長い時間のつきあいがあった上でできたことです。仮にテレビドキュメンタリーの場合、リサーチをして、企画書を作って、それがテレビ局に通って完成するまで、ある程度スケジュールが決められてしまい、完成したら「はい、さようなら」という世界なんです。その後、対象者と関係を続けていくディレクターもいるのかもしれませんが、私は年賀状のやり取りがせいぜいです。テレビは早いサイクルで次からへ次へと追われていくので、対象者に対して思いがあったとしても、放送が終わると頭が切り替わってしまうし、切り替えないと次に進めないわけです。実をいうと、最近テレビドキュメンタリーを撮っていないのは、そういうのが嫌になったのもあります。僕が撮るからには、映画が完成した後も、対象者の人生の最期までちゃんとつきあえるのかどうか? それを自分の中の基準にしてきました。逆にそこまでの覚悟を持って撮り始めるので、「僕とあなたは対等でやりましょう」と言えるのだと思います。「いまは映画を撮っているけれど、互いの人生が続く限りは関係が続くのです」ということを前提で話をしています。まあ向こうに嫌だと言われたらおしまいですが(笑)―― ミトワさんともそういう話をした上で撮っていて、それでもあのような状態になったのですか?
映画の企画者の松永賢治さんも出演し、この映画の成り立ちについて話しています。というのも、さっき話したように、そもそも内的必然性から始まっていない映画なので、「なぜ僕がこの映画を撮ることになったのか?」ということも映画の中に入れようと思ったのです。本作がなぜ成り立ったかということさえ、中のレイヤーに入れ込んで、監督の私も登場人物の1人だという映画内映画の構造にしています。そもそも、松永さんが2011年1月に京都から深夜バスで横浜までやってきて、朝8時頃に桜木町駅前のカフェで会い、「ミトワさんが撮ってほしいと言っている。ドキュメンタリーを撮ることを了承してくれたので、つきましては、中村さんに撮ってもらいたいと言ってるからお願いできますか」と直談判されたときに、その熱意におされて始まった映画なので、結果的にこういう構造になったのは必然だったのかもしません。■映画を撮るにあたって出したふたつの条件
―― ミトワさんから中村監督にご指名があったんですね。
ミトワさんとは2008年に出会ってから3年間くらい、彼が撮りたかった映画に関して、私が相談相手として定期的に会って話を聞いていました。―― 『赤い靴』に関する映画のことで、ですね。
ミトワさんがスポンサー探しに上京した際に、京都へ帰る前に東京駅に僕が呼び出されていました。喫茶店でお茶を飲みながら、「今日は誰々さんに会ってきた、お金出してくれるかな」、「いや、その人は出さないでしょう」、「俺のドキュメンタリーを撮るっていう監督がいるんだけど、この監督知ってる?」、「有名人ですよ、その人。その人の方が絶対僕よりいいですよ」という話や、同じハマっ子なので横浜の地元話で盛り上がったりという関係を続けていました。その積み重ねがあった上で、松永さんが横浜まで依頼に来られたので、僕は条件をふたつ出しました。ひとつは、林海象さんにプロデュースしてもらうこと。もともと海象さんからミトワさんを紹介されたのがきっかけでしたし、僕は京都に土地勘がないので、京都でバックアップしてくれる人が必要不可欠でした。もうひとつは、最初の関係性を明確にしておきたかったので、ミトワさんが直接、僕に「お願いします」と言うこと。このふたつがOKだったら僕は撮ってもいいですよ、と言いました。ただそこに「内的必然性」はほぼゼロで、わざわざ松永さんがミトワさんのために横浜までやって来たりするのを見て、「男同士のうるわしい友情だなあ」なんてほだされちゃって……。―― やさしい。
僕のところに海象さんから電話があり、「中村くん、やろう。俺がプロデュースは引き受けるから。いますぐ撮ろう。ミトワさんの年齢も年齢だから、すぐにキャメラを回そう」となったのが、2011年の2月後半くらいです。あともうひとつの条件に関しては、3月に京都に行く予定だったのですが、東北の大震災があって行けず、その2週間後くらいに京都に行ってミトワさんと会い、僕に「お願いします」と言いました。その時点ではちゃんとした映画として完成するのか? 本当に勝算はありませんでした。でも、もし仮にドキュメンタリーがうまくいったら、これでミトワさんが有名になって『赤い靴』の映画化に興味を持ってくれる人、スポンサ―もあらわれるかもしれない、という思惑もあったんです。実は私の前作『ヨコハマメリー』のときにも、実現しなかったのですが、映画公開時に劇映画化のオファーがいくつかあったんです。そういう前例もあるから、『赤い靴』の映画化に出資しようという奇特な人もいるかもしれない。ホップ、ステップ、ジャンプの、僕は踏み台の「ステップ」でいいですから、ミトワさんの最後の夢にかけましょう!というのではじまった映画なんです。―― ちょっとびっくりです。
ほぼ同情からはじまったと言ってもいいくらい。だから映画の中で、あれくらい言えたんでしょうね。「撮ってくださいと言ったのはあなたです。あなたがそんなこと言う権利ないでしょ」くらいに(笑)。とはいえ、いまだに恥ずかしいのは、僕は本当に怒ってるので、スクリーンで改めて冷静に観ると「俺って怒るとこういう声色なんだ」なんて思って、すごい嫌です(笑)。■ドキュメンタリー映画制作の現実、「依り代」となったミトワさん
―― そうは言いながらも、中村監督が映画にかけるものと、ミトワさんの映画への執念と言えるくらいの情熱と、なにか絡み合うように、映画に強く写されていました。
(映画製作における)経験の違いはあるのかもしれないですが、僕がミトワさんと年間つきあう中で、とてもシンパシーを感じる瞬間がありました。というのは、『ヨコハマメリー』以降、「次の作品はぜひうちから」とか「この金額だったらすぐに出せますよ」などと、オファーをいっぱいもらいました。「企画があったらぜひうちに!」とラブコールを送ってくれた会社に企画を持っていくと、「いや~ドキュメンタリーっていうのは難しいからねえ。まだ撮影してないんでしょ? 撮影してないとどうなるかわかんないしね」と言われる。劇映画だったら、人気俳優がキャスティングされて、漫画原作などで企画が組まれたりしますよね。ところがドキュメンタリーはそうはいかない。前作の後、ドキュメンタリーでもちゃんと商業(映画の)ベースに乗せられるのではないかと考えていたのですが、練りに練った企画を出しても、動いても動いても、全然周りが乗ってくれない。途中から「なんで俺はこんなにみんなにすがっているんだろう?」と自己嫌悪に陥るようになりました。『ヨコハマメリー』では僕とキャメラマン、デジタルビデオカメラ1台から始めたのに、スポンサー営業をしてかすりもせずに、なんだか窮屈なことになっちゃったなと思ったんです。そんな時、ミトワさんが「スポンサー周りしても全然お金が出ない」と言いながらも、それでも「撮りたいんだ」と動きまわる姿をみているうちに、映画ってそういうものだなと思ったんです。いくら技術があって、経験を重ねていたとしても、本当に大切なものとはこういうところにあるのかなと。最初は僕だって見よう見まねで映画を撮り始めたわけだし、それが原点だったのに、仕事としてルーティンでやっていると、いつの間にか忘れていくんです。忘れないと仕事として割り切ってやれないんですけどね。そういうことも含めて、僕がちょうど撮れなかった時期とも重なって、ミトワさんに共感し、感情移入したところが、この映画にはとても出ていると思います。「自分にとっての映画とは何か、ドキュメンタリーとは何か、そもそも人を撮ること、人にカメラを向けることとは何なのか」ということを、常に自問自答しながら撮っていました。そういう意味では、ミトワさんは僕の想いを伝えるための「依り代」になってくれたのかもしれません。■「最後まで撮ってくれ」の意味とは……?
―― 撮影期間は2011年から、長い時間をかけて撮られていたのですね。
撮影が始まってちょうど1年後くらいにミトワさんが亡くなって、そこからどういう映画にするか悩みました。病床のミトワさんに「映画を仕上げてくれ」と託されたことが大きかったです。一度、危篤になったとき、夜の10時頃、次女の静さんから電話がかかってきて、横浜から京都にキャメラマン(中澤健介)と駆けつけてあのシーンを撮ったんです。この映画を託された時点で、自分がやらないと完成しないですし、生死を彷徨っているミトワさんから頼まれたらね……。―― 中村監督は看取ってはいないんですね。
「映画仕上げてや」、その他にも「俺の最後まで撮ってくれ」と言われたんです。それでそのままキャメラマンと2、3ヶ月病院に通いました。2、3日かと思っていたら、復活しはじめて……。僕は急にキャンセルできない仕事もあったので、新幹線で横浜と往復していて、キャメラマンがひとりで病室で撮るみたいな状況もありました。ミトワさんが唸っている姿だけを撮って帰ってきて、夜それをふたりでラッシュ(映像チェック)するとブルーな気分になるんです。翌日も翌々日もずっとそのことの繰り返しで、「俺たちは人としてこんなことしてていいんだろうか」と逡巡しながらやっていました。3ヶ月くらい同じことを続けていたら、精神的にまいってしまい、キャメラマンとも些細なことでよく喧嘩になりました……。―― 「死にたくなった」ポイントのひとつですね。
いま冷静になればそういうことは考えもしないですが、そのときはナチュラルハイになっていたので、「救急車のシーンがあって、それから入院っていう流れのほうがシーンのつながりがいいよね」ということを考えはじめて、1日くらいずっと救急車の出待ちをしたことがあるんです。夕方になって「そもそも救急車が出てくるということは、誰かが倒れたということだよね。それを待っている僕たちって人としてどうなのか」と自己嫌悪に陥って、その場を後にしたり……。本当に馬鹿ですよね。3ヶ月間、「人の生を撮ること、死を撮ることはなんなのか」を考え続けて、どうしようもない失敗も多かったですが濃密な撮影ができたと思います。■「骨まで」撮るということ
―― 病気とかではなく、老衰だったのですね。
最後は呼吸不全でした。僕らは「最期まで撮ってくれ」と言われたけど、でも具体的にどこまでかは言われてないんです。だけど、「最期まで」っていうからには「最期まで撮らなければ」というふうに、僕の想いがどんどんエスカレートしていったんです。とても有り難かったのは、「(父が)最期まで撮ってくれって言ってるんだから」ってご家族が応援してくれて、それもあってキャメラを回す覚悟ができました。―― ご家族も映画を撮ることに協力的だったわけですね。
ミトワさんが亡くなる前後ぐらいから、「父の映画を残すということは(家族の)使命」、のような感じになっていたんです。―― 途中からは、思いっきり”家族映画”になっていました。
そうですね。これはネタバレになってしまうのですが、ミトワさんが亡くなって、どうやってこの映画を終わらせたらいいか悩みました。お通夜と告別式の後、「ミトワさんは、結局何を残した人なんだろう。器用な人でいろんなことをやってきたけれど、この人は何を残した人なんだろうか?」って、スタッフ全員で話し合ったことがあるんです。そのときに答えはでなかったのですが……。でも告別式で家族のパンショットを撮ったとき、奥さんのサチコさん、長女の京子さん、次女の静さんがいて、そして京子さん、静さんの子供たち、孫たちも並んでいました。そのときに、ミトワさんは生の営みというか、一人の人間として次世代に繋いだ人だなと思いました。それは誰もがやってる当たり前のことかもしれないけど、日系人強制収容所も経験して、自分の生存を脅かされそうになりながら激動の20世紀をサバイブしてきたけど、そこだけは確実にやってきた人なんだと。そう思ったときに、「家族を撮りたい、家族を通して、ミトワさんとは何だったのかを、もう一回見つめていきたい」と考えました。そこから映画のスタイルがガラッと変わりました。あえて変えたというか、そうしないとこの映画のゴールは見つけ出せないのではないか、まだ確信はなかったけれど、それしか道はないなと思ったんです。それともうひとつ、実を言うと、ミトワさんが亡くなったときにすごい虚脱感に襲われて、「本当に俺はこの映画を作っていいんだろうか? 最期まで撮ったけど、そういうことをやっていいのか」と悩みました。自分の肉親を失ったとき以上の空白というか、虚無感がすごかったんです。おこがましい話ですけど、ミトワさんの家族と一緒に、その空白を埋めていけないかなと思いました。いわゆるグリーフワーク(喪の仕事)と言われるもので、僕も疑似家族のようになっていて、後半パートはあの家族と一緒に「喪の仕事」ができないかなという意識で作っていました。■「モンティ・パイソン」みたいなことがやりたい
―― 正直に言うと、ヘンリ・ミトワを追うドキュメンタリーのはずなのに、冒頭に「赤い靴」が出てきてちょっとびっくりしたのですが、ミトワさんの存在自体に驚嘆しながら謎が解明されていく過程が、ミステリーのようでした。
またネタバラシをすると、冒頭の序章パートは「モンティ・パイソン」をやろうとしたんです。「横浜で赤い靴の話があります」、その後に「ところ変わって、京都では……」みたいなことで、編集マンとは「どう語るのか?」という話法に関して、時間をかけてディスカッションして、作り込んでいきました。ドキュメンタリー映画って基本的には時系列を崩さずに、オーソドックスな話法でやるのがいちばん見やすいのだけど、「素材主義」と言われるような「素材をただ見せていく」ような方法論から脱却したかったんです。ドキュメンタリー映画も”映画”なので、映画の話法としてできるものを作りたいなと。構成に関しては、通常のドキュメンタリー映画だとクランクアップ後に構成を考えることが多いのですが、今回はミトワさんが亡くなった時くらいからすでに作り始めました。「こうなったらおもしろくなるんじゃないか、こういうシーンがあったらこのシーンは成立するだろう」ということを撮影しながら考えて練っていきました。振り返って構成表を見るとおもしろいのは、2013年の時点で「ドラマ・母を捨てた息子」というのを決めてたんです。また『ヨコハマメリー』と同じ編集マン(白石一博)だったので、今回はその進化系をやろうと、私が作った構成をもとに、編集も精密細工のように作り込んでいきました。■念じて叶った、余貴美子、ウエンツ瑛士のキャスティング
―― では、ドラマパートのキャスティングはそのあたりで決めたんですか?
もしドラマパートを撮るとしたら、ウエンツ瑛士さんと余貴美子さんでやろうと、まだミトワさんが生きていた時から決めてました。―― すでにお二人は監督の頭の中にあったのですね。
もうミトワさんの若い頃のパスポートの写真みたら「あ、ウエンツさんだ!」と思ったのがキッカケです。その後、ウエンツさんの経歴を調べてみると、ドイツ系アメリカ人のお父さんと日本人のお母さんとの間の子供であることなど時代も世代も違いますが、その境遇が似てるなと。その時に、ウエンツさんともに「役を一緒に考えていく。当時のミトワさんの感情を探していくこと」ならば、通常のドラマ手法ではなくて、ドキュメンタリー畑の私でも勝算があると思ったのです。勿論、ウエンツさんのインタビューを読んだり、これまでの出演映画を見たり、映画『タイガーマスク』のウエンツさんを観て、「ちゃんと」と言っては失礼ですけど、ちゃんとスクリーン映えする方で、映画にでられる人だと思ったんです。またお母さんの写真を見せてもらうと、似てるわけじゃないんだけど、余貴美子さんが浮かんできました。余さんも私と同じハマッ子で、以前、地元のパーティでお会いする機会があったんです。映画やテレビの中の余さんではなくて、実際にお会いした余さんを見て、ミトワさんのお母さんと余さんが自分の中でつながった気がしました。なのでドラマを撮るなら、ウエンツさんと余さんだと勝手に思っていました。ちょっとしたストーカーみたいなもんです(笑)。周りの人からは「(オファーしても)無理だよ」と言われましたが、僕の中では「出演してくれる!」と、完全に思い込んでいました。だから最初にお会いしたとき、心の中で「ようやく会えたね」と思いました(笑)。―― ウェンツさんにとっても新境地で、ミトワさんを演じるのは挑戦だったのではと思いました。現場はどうだったんですか。
そうですよね。現場でウエンツさんは台本をほぼ見ずに、台詞を全部覚えてきてくれました。最初に「全然役作りしなくていいです。そのままで来てくれたらいから」と伝えました。ひとつひとつのシーンで「ここ(のミトワさんの感情、想い)はどうなんですか?」と、ミトワさんの自伝も読み込んで、ミトワさんに関する写真資料も見てくれた上で質問をしてくれました。ウエンツさんなりの演技プランを作ってきてくれたので、すごく話がしやすかったです。僕はもともとドラマの監督じゃないというのもあって、「噛んでもいいし、間違ってもいいし、なんでもいいです」というスタンスだったんです。その場に、現場の中にただ居てくれたらいいと。例えばセリフ以外のことを話しても「そういうふうにウエンツさんは思ったんだ」と思っていました。それこそミトワさんに対するのと同じように、どっちが上とか下ではなく、対等の関係。ミトワさんを撮っているときに、「この人はこういう表情をするんだ」とか「こういう言い方するんだ」と発見しながら、撮っていました。それがドキュメンタリーの醍醐味だと思うんです。こちらが想定していない言葉が出てくる瞬間にゾクッときたりするんですね。ウエンツさんはこういう表情するかなと思って書いた台本でも、「あ、こんな表情するんだ、おもしろいなあ、ここでこういう目線のやり取りをするんだ、なるほどね」とイメージを覆されることがありました。カット割りして撮ってはいますけど、ある程度「投げた」というか、一緒に考えながら作っていくということをやっていました。■やっぱりドキュメンタリーはおもしろい!
―― もしかして、次の映画はドラマということもありますか?
『ヨコハマメリー』のときから「ドラマ撮らないんですか?」って聞かれることはあったんです。そもそも僕はドキュメンタリーが専門なんて一言も言ったことなくて、昔はドラマの助監督をやってましたから。でも『ヨコハマメリー』を撮ったら、いつのまにかドキュメンタリーの仕事しか来なくなったというだけなんです。肩書きも「ドキュメンタリー監督」と一度も書いたことはなくて、いまも抗って「映画監督」と書いたりします(笑)。―― そこには何の縛りもないのですね。
何の縛りもないのですが、今回撮っていて、やっぱりドキュメンタリーはおもしろいと強く思いました。ドキュメンタリーは映画表現において、いちばん挑戦も冒険もできるジャンルだなって。ドキュメンタリーが持つ映像の力は、一度取り憑かれるとなかなか抜け出せいない「魔力」があります。 ただやっぱり「出会い」なので、ミトワさんがいなかったら、あるいはあのご家族がいなかったら、こういう映画にはならなかったと思います。ウエンツさんが僕に「監督がミトワさんになってる」って言ってたんですが、お互い乗り移って、僕がミトワさんに乗り移り、ミトワさんが亡くなってからは、ミトワさんが僕に乗り移って撮ってような気もします。それこそ出会いだし、次も作れるかと言ったら、自信はないです。次が何かというのは、また10年で考えます、いやでも3年後に完成したら、狼少年ですよね(笑)。なかむら・たかゆき
1997年、松竹大船撮影所よりキャリアをスタート、助監督として数々のドラマ作品に携わる。99年、中国・北京電影学院に留学し、映画演出、ドキュメンタリー理論などを学ぶ。06年に映画『ヨコハマメリー』で監督デビュー。横浜文化賞芸術奨励賞、文化庁記録映画部門優秀賞、ヨコハマ映画祭新人監督賞・審査員特別賞、藤本賞新人賞など11個の賞を受賞した。またNHKハイビジョン特集『終わりなきファイト“伝説のボクサー”カシアス内藤』(10年)などテレビドキュメンタリーも多数手掛けている。
ふくしま・まさよ
航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』、『お隣が宇宙、同僚がロケット。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』執筆。REALTOKYO CINEMAブログ主宰。
〈インフォメーション〉
『禅と骨』
2016年 / 127分 / HD 16:9 / 5.1ch 配給:トランスフォーマー
(劇場情報)
9/2(土)より、 ポレポレ東中野、キネカ大森、横浜ニューテアトルほか全国順次公開
11/4(土)より、京都シネマ、第七藝術劇場、元町映画館
この記事は『REALTOKYO CINEMA』より転載したものです。
(2017年10月29日公開)