Global Art Talk 015 スーザン・ノリー「可能な世界」
文:石井潤一郎
石井潤一郎
「世界は、かつてなかったような状況にあります。アーティストとして、ただそれを傍観するのではなく記録すること、それは同時代に生きるアーティストに課せられた使命であるとも思います」
2019年5月20日、京都造形芸術大学(KUAD)で行われたトークにおいて、シドニーを拠点に活動するアーティスト、スーザン・ノリーはそう語った。
2018年、KUADに新設された修士課程グローバルゼミでは、前期の三ヶ月、後期の三ヶ月、それぞれの月に一名、海外からのゲスト講師を迎え、二週間の特別集中授業を行っている。
一学年五名という少人数チームでは、パリ、シンガポール、ニューヨーク、カリフォルニアといった文化背景の異なる現代アートのプロフェッショナルたちと、短期間だが濃密な時間を共有し、自身の創作を国際的なアートの文脈に乗せることができるように訓練してゆく。ひとりの教授に長期間師事することで、方法論のゆるやかな形式的細分化が進む今日においては、あるいは画期的な教育システムと呼べるかもしれない。
ゲスト講師は到着すると、まずKUADと東山アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)が共同で行っている「グローバル・アート・トーク(GAT)」というトーク・イベントに参加する。これは一般公開されており、申し込めば誰でも無料で聴講することができる。
トーク・ゲストとしては15人目となり、グローバルゼミ二年目、最初のゲスト講師となるのが、横浜、シドニー、モントリオールなど、世界的なビエンナーレで活躍するスーザン・ノリーである。
「真実を知るためにリスクを恐れないこと、そして対話と交渉を続けること、それはわたしの作品の中心にあります」
ノリーはそう語る。ところで、「真実」とは一体どこにどのようにあるものだろうか。
2006年5月、インドネシアのジャワ島の五ヶ所から、泥の塊りが噴き上がった。「シドアルジョの泥火山(Lumpur Sidoarjo)」、通称「ルーシー(Lusi)」と呼ばれる災害である。泥の噴出は現在でも収まっておらず、学術誌『マリン・アンド・ペトロリアム・ジオロジー』1によれば、2017年6月の時点で16万平方キロメートルの土地が泥沼に沈み、13人が死亡、およそ6万人が自宅を捨てることを余儀なくされた2。
当時、現場で天然ガスの掘削を行っていたラピンド・ブランタス社は、泥の噴出は現場から270キロ離れたジョグジャカルタで2日前に起きた、マグニチュード6.3の地震が原因であると主張した。現地住民には援助金を約束したが、2016年の時点でも未払いがあるという3。
企業が問題を「援助金」で解決しようとする一方、現地には、これはガスの採掘によって引き起こされた人災であるとして、抵抗運動を続ける人々がいた。
ブランタス社は当時の国家福祉担当調整相のアブリザル・バクリ(現ゴルカル党最高顧問)の親族が株式を保有している。大統領ユドヨノ(任期 2004 – 2014)の後ろ盾を得ていたバクリの存在に萎縮したメディアは誠実な報道を行わない4。 抵抗を続ける人々はそう主張する。混乱を極める状況の中、ジャワ島を訪れたノリーは、長期間現地に滞在して現状を取材・撮影する。
「わたしの作品は厳密には『ドキュメンタリー』ではありません。しかし、『真実』を伝えるために『ドキュメンタリー的な手法』を取ります。そしてここでいう『真実』には、わたしが実際に目撃したものに加え、感じたこと、つまり『主観』も含まれています」
「実際に自分の目で、オイルの搾取によって引き起こされたジャワ島での人災を目撃してから、人類や文明に対する視線がますます重要になったように思います」
災害に関する先進的な技術研究を知るために、ノリーは日本の宇宙センターJAXAがある種子島へと渡った。
2006年1月、ルーシー災害に遡ること四ヶ月前、JAXAでは大型の人工衛星『だいち』が打ち上げられていた。「陸域観測技術衛星」とも呼ばれ、地域観測、地図作成、資源調査などへの貢献が期待される『だいち』は、地球環境、地表の観測を任務としており、地震や火山噴火などによる自然災害の状況把握、またその予測データの収集も行う5。そして「災害の兆し」を検知できるのであれば、災害が起きた際にはそれが自然災害なのか人為的な事故によるものなのか、その判断を下すこともできる。インドネシアの泥火山から始まった取材は海を越え、ノリーの「真実」へと向かう欲求は、やがて京都大学防災研究所・桜島火山活動研究センター長、井口正人の出会いにつながった。
1 『More than ten years of Lusi: A review of facts, coincidences, and past and future studies』
By Stephen A.Miller / Adriano Mazzini, Marine and Petroleum Geology (Jun. 2017)
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S026481721730226X#!
2 『Why This Massive Mud Volcano Turned Deadly』By Sarah Gibbens, National Geographic (Oct. 2017)
https://news.nationalgeographic.com/2017/10/mud-volcano-lusi-indonesia-video-spd/
日本語版『村をのみ込む泥噴出、止まらない原因を解明』訳=高野夏美, ナショナルジオグラフィック (Oct. 2017)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/102300406/
3 『泥噴出から10年 シドアルジョ、観光地にも』 文=毛利春香, じゃかるた新聞 (Jun. 2016)
https://www.jakartashimbun.com/free/detail/30151.html
4 『泥火山の噴出は天災?それとも人災? 泥に埋もれた村』文=アンドルー・マーシャル (Jan. 2008)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0801/feature01/mud.shtml
『特集:インドネシアの荒ぶる神 火山と生きる』ナショナル ジオグラフィック・マガジン 2008年1月号
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0801/feature01/index.shtml
5 『陸域観測技術衛星「だいち」(ALOS)』JAXA (2006. Jan) : http://www.jaxa.jp/projects/sat/alos/index_j.html
「ルーシーは『泥火山』といいますが、本来泥火山というのは地下の粘土が地下水やガスなどとともに上昇し、地表に噴出するという地理的な自然現象です。ジャワ島のルーシーの場合は完全な事故です。天然ガスを掘っていて地下水と原油、ガスが混じり合って出てきてしまった訳ですが、最悪だったのは同時に地盤沈下が起こったことでした。つまり水が溢れてきたから家が沈んだのではなく、地盤が沈下したから家が沈んだのです」
GAT内で特別に企画されたノリーとの対談で井口はそう語った。人間の科学は、すでに地下の様子を仔細に観測することを可能にしており、火山の噴火は、およそ24時間前までには探知できるのだという。
「しかし、集まったデータをどう処理するのか、そこには人間の判断があります。例えば、日本とインドネシアは共に同じプレートの上に位置しており、地震の発生の過程がよく似ているのですが、『防災』という観点から東日本大震災を考えるとき、わたしは今でも、日本はもっとスマトラ島沖の大地震(2004年)に学んでいなければならなかった、と考えるのです」
科学的観測、災害の予測と適切な判断、そこにスムーズな連携が確立していれば、人類はもっと自然災害から身を守ることができるのかもしれない。わたしたちは24時間前の警報から、即時に身を守る態勢を整えられるだろうか。高度な科学技術が日常的にそばに——ポケットの中にさえ——ある今日、そこでは何かしら、わたしたち個々人の意識を底辺から押し上げる、根本的な意識改革が必要であるようにも感じられる。
ノリーは語る。
「『可能な未来』を描くこと。その点においてアーティストの仕事は、科学者のそれと近くなるのかもしれません」
アートを通して世界を知ること。アートを通して知見を深めること。あるいはそれは、アートを通して意識を改革することと同義なのかもしれない。
今日、情報伝達テクノロジーの爆発的な発達によって、わたしたちの知覚は拡張された。世界を目撃する「眼」の精度はますます上がり、空間的な意味での視界は広がった。大昔には「近づかなければ」見えなかったものも、「ここ」で手に取るように見ることができる。遠い外国の雑踏も、望むならば月の表面さえも。そうして機械によって拡張されたわたしたちの「眼」は、「最初の目」では見えないミクロの世界やマクロの世界を可視化している。
ところで、ほんの百年前からは想像もつかなかったこのわたしたちの視力は、はたして十分に「観察」することに役立っているだろうか。空間ではない遠い時間的な未来に馳せる、「想像力」という名の「視力」は、はたして今日のわたしたちに、どのくらい備わっているのだろうか。
画面に映し出されるスープとグラス。次の瞬間には無表情な男の顔。
小さな棺の中に横たわる少女。次の瞬間には無表情な男の顔。
ソファに横たわる女性。次の瞬間には無表情な男の顔。
スープとグラス——無表情な男——棺の中に横たわる少女——無表情な男——ソファに横たわる女性——無表情な男。ソファの女性は、最後に一瞬だけ微笑んだだろうか。1920年代初頭にソヴィエト連邦の映画理論家、レフ・クレショフ(1899–1970)によって行なわれた映像実験、クレショフ・エフェクトである6。
それぞれ数秒ほど映し出される映像同士には、本来なんの関係もない。しかし、実験に参加した被験者たちは、スープの後の男性の顔に「食欲」を、棺の少女の後の男性の顔に「哀悼」を、ソファの女性の後の男性の顔に「欲望」を、それぞれ「見て取った」と報告した。
繰り返される無表情な男性の顔はすべて同じ映像である。すなわち、ここから導き出される仮説は「鑑賞者は、繋ぎ合わせられた複数のイメージを見た場合、直前のイメージからの影響を受けてそこに新しい意味を作り出す」。映像理論の基礎「モンタージュ理論」である。
20世紀初頭、ソヴィエト連邦はいち早く映画を国有産業と定め、1919年、世界で初めての映画学校を設立した7。 教授として招聘されたクレショフは、同校で「映画実験工房」という一連のワークショプを運営し、認知心理学の研究・実験を行った。
人間の脳には前後の映像を関連づけて、整合性を保とうとする性質がある。認知心理学を効果的に映画に取り込んだのが、『戦艦ポチョムキン』(1925)で知られるセルゲイ・エイゼンシュテイン(1898 – 1948)である。今日あまりにも有名なこの無声映画において、エイゼンシュテインは巧みに鑑賞者の「印象」を導き、のちの映画産業にも多大な影響を及ぼした。
全ソヴィエト国立映画大学(VGIK / 現在は「全ロシア映画大学」)でエイゼンシュテインと同じくクレショフの実験工房に参加し、しかし後にエイゼンシュテインと論争を繰り広げたのが、ジガ・ヴェルトフ(1896 – 1954)である。
エイゼンシュテインと共に「ロシア・アヴァンギャルド」の映画作家に数えられるヴェルトフは、当時最先端であった撮影技法を駆使し、先鋭的なドキュメンタリー作品を制作する。代表作である『カメラを持った男』(1929)において、カメラを人間の視覚の拡張「キノ・グラース」(映画眼)と定義したヴェルトフの「未加工」の社会主義リアリズムは、それまでのドキュメンタリー・フィルムのあり方を一変させた。しかし、カメラを肉眼よりも完璧なものである、としたヴェルトフの方法論は、エイゼンシュテインの「モンタージュ」と対立し、のちに「どちらがより革命的であるか」という激しい議論へと発展したのである。
6 『Kuleshov Effect』: https://www.youtube.com/watch?time_continue=45&v=ZwMRtWNEQRo
7 Gerasimov Institute of Cinematography : http://www.vgik.info/
スーザン・ノリーがグローバルゼミで指揮したプロジェクトは、オンラインでヴィデオを鑑賞し、後にディベートを行うことを中心としていた。ノリーが構成するラインナップは、フランス哲学の講義から災害・政治のニュース、初期アヴァンギャルドの記録映像からアーティストへのインタヴュー、科学者のプレゼンテーション、ドキュメンタリー、実験映画と複眼的・多岐に渡っていた。例えば……
「針の上で何人の天使が踊れますか?」
……というのは、中世スコラ学派の神学者の間で、よく交わされた議論なのだという。2019年1月、ヒト・シュタイエルは、ベルリン、Haus der Kulturen der Welt(世界文化の家=HKW)での長期プロジェクト「The New Alphabet」のオープニングにおいて、この命題を取り上げた8。
イメージのグローバルな流通に興味を持ち、先端メディアやテクノロジーを題材に作品を制作しているのがヒト・シュタイエルである。シュタイエルは続ける。
「ではここで問題です。針の上で何人の人工知能(AI)が踊れますか?」
わたしたちは「人工知能(A.I)」の主体を物質的に知覚することができないので、外殻をもったモノの議論に置き換えることはできない。では次の問題……
「天使に影はありますか?」
通常、絵画の中に天使の影は描かれていない。すなわち、天使に影はない。ところで主体が見えないにも関わらず「画布に描かれた天使」とは、一体何を意味しているのだろうか。
人工知能に物質的な「影」はない。しかし、わたしたちの生活の中には、明らかにその影が響いている。そして、「それ」をもって存在の証明とすることができるのであれば、画布に描かれた天使とは、天使そのものではなく、むしろ天使の存在を証明する「影」であるとは言えないだろうか。
「天使」は、あるいは「人工知能」はどこにいるのかという問いは、「真実」はどこにあるのかという問いに近い。わたしたちが、実生活に揺らめく「人工知能の影」を見つめることによって、その主体を推し量ることができるのだとすれば、現実を隅々まで目撃(ドキュメント)しようとするアートの「眼」とは、あるいはプラトンの洞窟に、「真実」の淡い影を揺らす力なのかもしれない。
8 『Stop Making Sense — The Language of Broken Glass』Hito Steyerl, HKW (2019)
https://www.hkw.de/en/app/mediathek/video/69577
ジャワ島でのリサーチをもとにしたスーザン・ノリーの作品『HAVOC』は、2007年、第52回ヴェネツィア・ビエンナーレにて公開された。
会場はみっつの部屋で構成される。ジャワ島の伝統的な「哀悼歌」が流れる第一の部屋では、蒸気に霞むルーシーが、巨大スクリーンの中で黙々と泥を吹き上げている。——地球、地表、わたしたちが這いつくばるように生命を営む、圧倒的な規模の——大地9。
続く第二の部屋では、上下に並列された10のイメージが、泥の災害と共に生きる現地の人々の生活を伝えている10。 ——「ヴィデオ(アート)」がますます活性化する今日、100年の時を経た「エイゼンシュテイン」と「ヴェルトフ」は、奇妙な和解を遂げたのかもしれない。ここでは冷徹な「キノ・グラース」に切り取られた日常の風景が、隣接するイメージに乱反射しながら、現地の空気を再現している。無意識に整合性を求めるわたしたちの脳は、断絶した視覚情報(時系列ではなく、複眼的に並置されたイメージ)を縫合しながら、そこに新しい意味を求め、つまり複合的な「モンタージュ」現象を引き起こす。
やがて至る第三の部屋には、大きく映し出された、子ヤギを抱えて火口を見下ろすひとりの男。そしてその裏側のスクリーンには、馬に跨り、ルーシーへと観光客を案内するガイドたち11。「マジカル・リアリズム」のようなその風景に、わたしたちは一体、何を「紡ぎ・視る」のだろうか。
「集められたデータをどう処理するか、そこには人間の判断があります」
洞窟には科学者の声が響いている。それは今や「キノ・グラース」によって切り取られた「影」の間に、どのような「モンタージュ」を構築するのか、という問いに聴こえる。
個々のアート作品は、ものごとの「イデア(ひな型)」ではないかもしれない。しかし、それらはイデアを映す影、すなわち今現在、世界のどこかで起こっている紛れもない「事実」の記録なのである。アートを通して世界を知ること。アートを通して知見を深めること。わたしたちは、画布に描かれた天使の像を通してその主体に想いを巡らせるように、同時代のアーティストが映し出す万物の「影」を通して「視る」ことによって、「真実」というその主体に、少し近づくことができるのではないだろうか。
9 『HAVOC』 © Susan Norrie 2006 – 2007, Room One : https://vimeo.com/164069567
10 『HAVOC』 © Susan Norrie 2006 – 2007, Room Two: https://vimeo.com/163974200
11 『HAVOC』 © Susan Norrie 2006 – 2007, Room Three : https://vimeo.com/346765225
いしい・じゅんいちろう
1975年福岡生まれ。美術作家 / 京都造形大芸術大学修士課程グローバルゼミ在籍。2004年よりアジアから中東、ヨーロッパを中心に、20カ国以上で作品を制作・発表。国際展「10th International ISTANBUL BIENNIAL : Nightcomers(トルコ ’07)」「4th / 5th TashkentAle(ウズベキスタン / ’08 / ’10)」「2nd Moscow Biennale for Young Art(ロシア ’10)」「ARTISTERIUM IV / VI(グルジア / ’11 / ’13)」参加他、個展、グループ展多数。京都在住。
http://junichiroishii.com
*GLOBAL ART TALK 015 スーザン・ノリー「可能な世界」(主催:京都造形芸術大学大学院、東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS))は、2019年5月20日 京都造形芸術大学にて行われました。
(2019年8月25日公開)