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AIRアーティスト・イン・レジデンスとは何か?(2):
― 彫刻シンポジウムのこと
文: 村田達彦

2024.06.04
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国際木彫シンポジウムin デイルメンデレ2000のポスター
(1999年8月トルコ・イズミットでの大地震が発生した翌年のシンポジウムの再開の呼びかけ)

遊工房レジデンスの始まりは、1988年、トルコからの建築家と彫刻家夫妻の滞在であった。滞在中に彼らから聞いた現地のレジデンス事情はとても新鮮であった。「アーティスト・イン・レジデンス」とは、アーティストが滞在している状況を表わす言葉でしかなく、例えば、活動スペース・入れ物としての「スタジオと滞在施設」を意味したり、「芸術祭プログラム」などの芸術イベントでの滞在制作のことであったり、石の産地での石彫シンポジウムの「プログラム」の名称として使われたりする。アーティストの実活動の実態と、その活動資金の出所の組み合わせで、多様な存在がある現実を知ることになった。

彼らの帰国後、翌年1989年にイスタンブールへの訪問機会が訪れ、現地、そして欧州での活動の実態を身近に知る貴重な機会となった。と共に、この調査の副産物として、現地での彫刻シンポジウムへの参加機会を頂くことにもなった。イスタンブールのアジア側に位置するマルマラ海の沿岸にある町「デイルメンデレ」での木彫シンポジウムへの招聘が私のパートナーの彫刻家に届いた。このシンポジウムは、国立芸術大学と地元の町との共催で1993年から始まり、翌年より国際シンポジウムとなり、この先も継続させ、街の中心の緑とマルマラ海沿岸に彫刻公園を整備していく計画であった。[*1]

開催案内カタログ・表紙

成果発表歓迎会次第

1994年7月から8月の1カ月半、トルコ、インド、フィンランドそして日本の彫刻家が寝食を共にして木彫の滞在制作がはじまった。以下パートナーのつぶやき。

「子育て、家事、中高の美術教師などで制作からは遠ざかっていた時期であり、自宅で開いていた子供の絵画教室はそれなりに盛況であったが、大人を対象とした本格的な教室やアーティストとの活動に気持ちが向き始めた時期でもあった。同世代のトルコの建築と彫刻の教授夫妻と知り合う事によって、トルコでの彫刻シンポジウム参加のチャンスが1994年、唐突にやってきた。
毎日が刺激的で滞在の日々はめくるめく、過ぎ去った。しかし寂しさや不安が無かったわけでは無い。今のようにPCもスマホも一般的には普及していない時代だ。日本から遠く離れて、一人ぽつんと初めての海外にいる身には、毎日のように届く家族からのFaxは心の支えであったのも事実だ。とは言え、ここでの体験は、大きな刺激となり、人々の情、自身の言語能力不足、場と機会の大切さをしみじみと感じ、これからを考える契機となった。と同時に、この機会を一回の体験に終わらせることなく、次に日本のアーティストに繋げることが責務だと想った。特に同僚や後輩に…。実際にその後、派遣は連綿と続き、記憶しているだけでも10人以上の日本人彫刻家がデイルメンデレでお世話になり、トルコからの彫刻家受入れにも努力した。特に神奈川県藤野町(現相模原市緑区)で地元アーティストが企画運営に尽力していた野外アート展「フィールドワーク・イン・藤野」には、受入れ協力もして頂き、活動のお手伝いをするようになった」

ヒロコ制作サイトにて photo by Fert Ozsen

この木彫シンポジウムへの継続派遣と共に、大理石や御影石など石の産地での石彫シンポジウムや、大学キャンパス内での創作シンポジウムなどとの交流も広がっていった。また、国際色豊かなシンポジウムへの参加作家を通し、2国間に限らずその活動機会が相互に広がっていくのも愉快な現象である。異文化での多様な人種からなる作家同士の交流が際限なく広がる様相だ・・・。日本からトルコへの参加機会と共に、国内でのシンポジウムへの海外作家の受入にも注力するよう努めてきた。Give & Take、呼ばれたら呼び返そう、体験機会の創出、交流・交換の継続、そしてもっと若手に機会を「若い者には旅を」・・・。

そうこうしているうちに、1994年の木彫シンポジウムに参加のフィンランド作家から、自身の地元・オウルでの真冬の「ボスニア・アイス・スケープ・シンポジウム1996」への招聘が入って来た。(この氷の祭典の報告は別の機会に)

トルコ・デイルメンデレでは、忘れられない出来事がある。パートナーからの追伸。

「忘れられない出来事とは、1999年のトルコ・イズミットの大地震だ。[*2]
8月17日明け方、正に震源に近い町は、第7回シンポジウムが終わった後の大震災に見舞われた。海岸際に整備されてきた完成間近の彫刻公園が、作品もろともマルマラ海の藻屑と消え、宿舎だったホテルは崩壊、町役場も半壊した。この時、私達は、すぐ日本在住のトルコの友人や関係者と募金集めに奔走した。後にデイルメンデレ町は、その義援金を資金として文化交流館を建てた。
この話には不思議な後日談がある。かなり時が経過してからのこと、マルマラ海に沈んだと思われていた日本人アーティストの一作品が、イスタンブール街中の骨董屋の店先で発見されたのだ・・・」

[*1] 28th International Degirmendere Zuhtu Muridoglu Wooden Sculpture Symposium
[*2] 1999 İzmit earthquake

1998年の整備の進む彫刻公園 photo by Ikuo Nakayama

1999年の震災後1か月後の彫刻公園 photo by Ikuo Nakayama


村田達彦(むらた・たつひこ)
30年の技術者としての生活の後、1988年より、創作・展示・滞在のできるアーティストのための創作館・遊工房アートスペースをパートナである村田弘子と共同で東京に設立。2010年から、マイクロな存在の独自の運営をしているアーティスト主導の世界にあるAIRプログラムを「マイクロレジデンス」と名付け、その顕在化、AIRの社会装置としての役割についての調査・研究を国内外のネットワークを通し推進している。
2015年からは、レジデンス活動と美大との連携による、Y-AIR, AIR for young(AIR活動機会をもっと若手作家へ!)の実践も展開している。遊工房アートスペース・共同代表。Res Artis名誉理事。