AIRと私②
アトリエとしての札幌 ―「水の波紋95」より【後編】
文: 柴田尚

(前回のアトリエとしての札幌 ―「水の波紋95」より【前編】に続く。*最下欄に関連動画リンクあり)
初めてのレジデント
「水の波紋95」において、総合監督のヤン・フートは、3名のアーティストを札幌に招いた。
アントワン・プリュム(ルクセンブルグ)、エイブリー・プレイスマン(オランダ)、ジェフリー・ウィズニュースキー(USA)である。(図1参照)
彼らは、真夏に札幌で滞在制作し、秋に東京の「水の波紋95」で展示した(札幌では制作した作品をアトリエで公開するプレ展やワークショップを実施)。前回でも述べたが、再度理っておくと、当時、「水の波紋95」ではアーティスト・イン・レジデンスという言葉は使われてなかったし、彼らも二〜三週間と短い滞在期間であったためレジデントとは呼ばれていなかった。今、振り返ってみて、「あれはショートスティのアーティスト・イン・レジデンスだったのではないか」とも思えるくらいの感じなのだが、かなり濃厚な制作サポート体験であったことを強く記憶している。今思うと彼らは、自分が直接滞在制作をアテンドした最初のレジデントだったのではないかと思えるのだ。
アトリエ探し
さて、初めて本格的に複数の外国人作家の滞在制作を受入れることになったわれわれ「北の大地21―アートフロンティア」の事務局にとって、最初の関門はアトリエ(近年、日本では英語でスタジオと呼ぶことの方が多いと思うが、ここでは当時の感覚でアトリエと呼ぶことにする)探しだった。
前回の号で、展示会場の東京よりも地方の不動産物件の方が安い・・・とは言ったものの、札幌でも個人のアトリエを持つアーティストなどほとんどいなかった。
しかし、幸いにも事務局のあるサッポロファクトリーの真向かいに、理想的な空間を発見する。岩佐ビルである。かつて開拓使通りと呼ばれていた北三条通に面するこの戦後に建てられて、増改築してきた古いビルの魅力は天井が高いことだった。たまたま一階に天井4m、56坪という元ラムネ工場でその後写真スタジオだったこの空間は、アトリエとしては贅沢で申し分のないロフト的な美しい空間だった。(この空間は、後に1年間だけだが、当時自分が勤めていた現代アートの企画画廊「リーセントギャラリー」として使われ、その後は劇場に変わり現在に至っている。同じビル内には、後にカイカイキキのアニメーションスタジオが入ったこともある魅力的な高天井の古ビルである。)
滞在制作の記録
下記は、1995年当時の北海道の美術批評フリーペーパー、『美術ペン』で発表した「ポロメンタ日記」として記録したものから抜粋し、今回のために編集し直したものである。初期の滞在制作の受け入れがどのような状態で準備され実行されたか、札幌の事例であるが、その一端が伺えると思う。
◎1995年7月11日
「とうとうこの日が来てしまった。」
事務局長の西村英樹(『ファクトリーマガジン』編集長)さんを 私のジープに乗せ、我々は新千歳空港に向かっていた。今日は、オランダからエイブリー・プレイスマンというアーティストが到着するのだ。若干、二十七歳、褐色の大男としかわからない。プロフィールはあるが、作品資料もほとんどない。 いったい、ヤン・フートは、北海道からどんな作品を作らせようとしているのだろう。英語も満足に話せない我々は、うまくコミュニケーションできるかどうかと緊張気味。
果たして、彼は一九〇センチはあろうかという大きな男であった。オランダ人の父とカリブの母の混血だという。エンジのジャージにジーンズ、そしてサンダル。このラフな出で立ちなら、私のオンボロジープにぴったりだ。音楽好きで頭がよく、大きな体のわりには、どこか繊細な感じがする。彼は北海道の素材からなんと昆布を選ぶという。早速、西村さんの知り合いからニメーター五十センチ(高級!)の茅部産昆布五十キログラムを手配した。アトリエ兼、展示場所は彼のアイデアを聞き、天井が高い空間が好ましいとのことで、三条通に面した札幌ではもっとも古いオフィスビルの一つ、岩佐ビルの元フォトスタジオが選ばれた。(図2)

*図2.アトリエ内のエイブリー・プレイスマンの作品。素材の昆布は、天然昆布出汁は人工調味料に変わってきたと聞いて、思いついたとのこと。時代劇の籠のように持ち運べるようになっていて、持ち手がオランダの国旗になっている。(1995年 筆者撮影)
◎1995年7月19日
エイブリーの到着から八日遅れて残りの二人の作家が到着した。一人は、アントワン・プロムというルクセンブルグ人。 人なつこい笑顔で日本製のおもちゃを使って作品を作るという。障害者の施設で働いているそうで、たいへんな子ども好き、実は奥さんが臨月で、今にも産まれそうなのだという。毎日ルクセンブルグに電話をかけているので、「テレホン・チェッカ ―」というあだ名を付けられた。作家がどのくらい人生をかけて来日し、滞在制作していたかが伺える。
もう一人は、ジェフリー・ウズニュースキーというポーランド系アメリカ人。体格がよくヤンチャ坊主といった感じ。到着してすぐにバッグからウイスキーを取り出し、ラッパ飲みをしていた。彼は、なんと北海道の廃船を使って作品を作りたいという。はたしてどうなることやら。
◎1995年7月28日
三人の中でもっとも素材の手配が難航したのがジェフリーだった。彼は、最初に訪れた石狩の廃船置き場に強い感動とインスピレーションを覚え、廃船を素材にしたいと言う。しかし、河川敷きということもあり、国や町など複雑な管理下に置かれていて、とても短期間に交渉できそうもなかった。それから一週間経ってまだ、廃船は入手できていなかった。まったく作品製作にとりかかれない状態だ。
我々はこの日、三度目の廃船捜しに日本海の海岸線を浜益 [*1] に向かって走っていた。しかし、捜すと言っても確実な当てなどないのだ。ジェフリーが、あせってかなりいら立っていたので、精神衛生面を考慮しての行動だった。
幻の舟を求め、浜益役場の職員さんの案内で磯舟がたくさんあるという雄冬(おふゆ) [*2] に向けて更に北上する。そこは、今までで一番磯舟の多い浜だった。しかし、現役の舟は皆グラスファイバー製なのだ。彼は絶対に最初に見た木造の舟でなければダメだと言う。東京のBMVのショールームに展示するため、古い乗り物としての木造の素材に意味があるようだった。
ふと、草むらの中に置き去りにされていた舟を見つけた。走り寄ってその舟を取り囲む。確かに磯舟の廃船だ。そして、間違いなく木造だ。運良く会えた持ち主に聞くと、お祖父様の形見の船だと言う。われわれの思いを告げたところ、快く無償でその舟を提供してくれることになった。
我々は、ついに幻の船を捜し当てたのだ。
30年前のことを今、改めて回想してみる。浜辺でこの船を見た時は、他の船と比べると小型だったのだが、実際には7メートルもあった。雄冬から札幌までの運搬(約100kmの距離)や展示会場である東京への発送、またアトリエへの運び込みを考えると切断するしかなかった。
持ち主に許可を得て、ご先祖の形見の船を三つに切断して運び込み、作品化することになった。

図3. 青山のBMVショールームに展示されたジェフリー・ウズニュースキーの作品。北海道の木製磯舟の廃船に塩ビパイプやパラソルが組み合わさっている。散乱するゴルフボールは、札幌で初めて見た打ちっぱなし場からか。解放的なアウトドアスポーツであるゴルフを巨大な鳥籠のように人工的に仕切られた場所で練習している日本人に驚いたという。(1995年 筆者撮影)
日常と非日常の交流
見知らぬ土地から来た外国人との生活と創作は、地方都市で最先端の文化に飢えながら暮らすわれわれにとって、日常と非日常が交錯した刺激的な時間をもたらした。
ヤン・フートは「水の波紋95」の準備期間、札幌における最初の出会いから約半年間に何度か、時にはプライベートでも来道したりもしていた。忙しすぎる仕事の息抜きだったのか、母国ベルギーから知り合いを呼び寄せ、わざわざレンタカーを借り、自らハンドルを握り、北海道各地をドライブしたりしていた [*3]。「どうだった?」と聞いたところ、「途中で道を聞こうとしたら、みんな逃げる!なぜだ!」と叫んだのを聞いて、みなで大笑いした記憶がある。当時の北海道の田舎町では、まだまだ外国人は珍しく、英語で話しかけられると逃げてしまう光景が想像される。今日、例えば令和4年の統計によると、北海道の在留外国人数は、過去最高になっているようである。しかし、外国人へのコンプレックスや、文化の多様性に対する閉鎖的なコミュニティは、30年前ほどではないかもしれないが、以前として残っている様な気がする [*4] 。
ヤン・フートやレジデント達とわれわれ札幌の事務局メンバーとは、居酒屋で何度か酒も飲んだ。よく行く激安な居酒屋では、大広間にカラオケセットが置いてあったのだが、天下の「ドクメンタ」のキュレーターが、畳の上の卓袱台に上がって、マイク片手にしゃがれた声で下手くそな「ラブミーテンダー」を絶唱している・・・・その光景を眺めるのは、来日したレジデントとわれわれ地元のサポーターだけ。日常の中で出会う非日常。生活と創作が結びついた滞在制作の魅力のひとつでもあるその光景は、自分にとって生涯忘れられない記憶となって今も強く記憶に残っている。

*図4.右から「北の大地21-アートフロンティア」事務局長の西村英樹、ヤン・フート、地元大学生のボランティア、河西史絵(河西史絵提供 撮影者不明)
(次号へ続く)
『AIRと私アトリエとしての札幌 ―「水の波紋95」より【前編】』
[*1] 浜益村。札幌から約80km離れた石狩支庁最北部に位置する日本海側の村。
[*2] 札幌から約100km離れた北海道にある日本海側の漁師まち。北海道浜益区と増毛町に跨る地区名。
[*3] アレクサンダー・ファレンホルツ、 マーカス・ハルトマン共著の『アートはままだ始まったばかりだ – ヤン・フートドクメンタ9への道』(用美社)を読むと、1992年の「ドクメンタⅨ」の準備の際、会場となるドイツを自らハンドルを握り、猛スピードで疾走する様子が出てくる。ドライブはフートにとって重要な気分転換の方法だったのだろう。
[*4] 北海道のホームページ「北海道内の在住外国人に関する現状について」(2025年6月11日閲覧)
*下記、2022年に収録されたプロジェクトの裏側の情報も伺える関連動画。図4.の学生、ボランディアで事務局に参加し、作品がヤン・フートの目に止まった地元大学生、河西史絵の奇跡のエピソードも。
SHIBATAIWA #6 ヤン・フートと「水の波紋」談義前篇(2025年6月11日閲覧)
SHIBATAIWA #7 ヤン・フートと「水の波紋」談義後篇
(2025年6月11日閲覧)
柴田尚(しばた・ひさし)
NPO S-AIR代表
AIR NETWORK JAPAN 会長
北海道教育大学岩見沢校 アートプロジェクト研究室教授
札幌アーティスト・イン・レジデンス(現S-AIR)実行委員会時代から現在までの26年間に37カ国106組以上の滞在製作・調査に関わる。また、14カ国へ日本人作家24組を滞在制作派遣している。2014年度より、北海道教育大学岩見沢校教授(アートプロジェクト研究室)となる。また、2012年レズ・アルティス総会2012東京大会実行委員ほか、日本各地のAIR組織のネットワーク「AIR NETWORK JAPAN」の活動にも取り組んでいる。その他、様々なアートプロジェクトやアートスペースの立ち上げにも関わる。
共著に「指定管理者制度で何が変わるのか」(水曜社)「廃校を活用した芸術文化施設による地域文化振興の基本調査」(共同文化社)「アーティスト・イン・レジデンス-まち・人・アートをつなぐポテンシャル」(美学出版)がある。
代表を務めるNPO法人S-AIR は、2008年国際交流基金地球市民賞受賞。