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芸術論の新たな転回 01 星野 太(1)
(Interview series by 池田剛介)
それでもなお、レトリックを――星野 太『崇高の修辞学』をめぐって1

2017.05.07
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インタビュー:星野太
聞き手:池田剛介


昨今の政治・社会状況の変化を受けてか、これまでのものとは視点を異にする言説が登場してきている。反知性主義がはびこり、「ポストトゥルース」などという新語が造られる時代には、どのような思考や態度が必要とされるのだろうか。現代の芸術や言説空間に新たな風を運ぶ書き手に話を聞くインタビューシリーズ。初回には、カント以来の「美学的崇高」ではない、もうひとつの「崇高」についての刺激的な書物を上梓した哲学者・美学者を迎えた。

右:星野太/左:池田剛介(Photo: Kanamori Yuko)


池田 マルセル・デュシャンの《泉》が1917年の作品なので、今年はちょうどその100年後にあたります。周知のようにこれは、男性用便器に署名を書きつけて展示するというもので、20世紀美術に最も影響を与えた作品のひとつと言えるかと思います。いま世界各地で展開されている現代美術も、おおよそその延長線上にあると言えるでしょうが、ここから決定的に新しいものが出てきているという感じがしない。

そうした20世紀的な問題の袋小路という点は芸術や美学、哲学といった人文系の領域に限ったことではなく、政治状況とも関わっているように感じられます。近代が作り上げてきた普遍主義や進歩主義、その果てにある相対主義も含めて、これらがことごとく折り返し地点に差し掛かっている。特にリベラリズムを引っ張ってきた欧米から崩れてきています。イギリスでは国民投票によってEUからの離脱が決まり、アメリカではドナルド・トランプが大統領となりました。その他ヨーロッパ各国でも、グローバル経済や移民問題による鬱屈を背景にして極右政党が台頭してきている。この傾向を押し留めることはおそらく不可能でしょう。これまで基本的に寛容主義、多文化主義の論陣でやってきた左派的な言説も、大きな変容が求められる状況かと思います。

こうした大きな政治状況にも現れているわけですが、芸術の分野では近代が積み上げてきた問題の限界がなかなか突破できない、あるいは未だに20世紀的な問題圏の中にいるように思う。ごく端的に言うと、そろそろ21世紀が来てほしい(笑)。とりわけ芸術の分野での理論と実践との分断を感じていて、これらを架橋しながら新たな言説の空間を開いていく必要があるだろうと。しかし「新しい」と言ったときに、じゃあこの5年10年の状況がどうだとか、いま何が流行っているといった話をしても、結局すぐに消費のサイクルの中で消えていってしまう。消費の波の中でいま新しいとされているものは、まったく同じ論理によってすぐに古いものになってしまう。そういう次元の議論ではなく、より根本的に近代そのものを再考する、あるいは古代にまで遡って、いまここにある足場を徹底的に検討しつつ、その先にあるビジョンを開いていく、今回のシリーズを通じてそういったことができればと考えています。

 
ポストトゥルース時代と修辞学

池田 今回上梓された『崇高の修辞学』は、そうした議論を展開する上での重要な布石となるだろうと考え、ぜひ星野さんに第1回目に来ていただきたいと思いました。これは非常に緻密な議論に基づく本格的な研究書であることは間違いないのですが、同時に、先に触れたような現在の政治状況ともすごくリンクするところもある。演説や弁論あるいは誇張など、レトリックの問題が大きな主題となっていますが、これらの問題は現在の情報環境とセットになって大きな影響力を持ち始めています。普遍的な価値や真実といったものの価値が失墜し、妄想めいた信念が乱立し情報環境の中で増幅されていく、ポストトゥルース時代とも交差しうる問題提起でもあると思います。こうした現代の状況との接点からお話を始めていただくのはいかがでしょうか。

星野 はい。『崇高の修辞学』の元になった博士論文はすでに2014年に完成しているので、これが2017年に出たのは偶然といえば偶然です。ただ、2017年が歴史的にどういう年として記録されるかと言えば、やはりトランプが合衆国の大統領になった年だということになるでしょう。池田さんもおっしゃったポストトゥルースと言われる時代状況と、自分がこの本で書いたこととは、確かに奇妙にリンクしているところがあると思います。

それはやはり、この本がレトリックの問題を扱っていることが大きいでしょう。レトリックの問題、すなわち修辞や弁論の技術を論じたロンギノスの著作から本書は議論を立ち起こしています。具体的には冒頭の第一章に関わってくるところですが、僕の本では、真理と詐術をアプリオリな仕方で区別することはできないというテーゼを出しています。これは、ともすると、先ほども言及があったような相対主義のようなものとして理解される危険があると思うんです。つまり、20世紀後半に台頭した相対主義や、絶対的な真理は不在であり、そこにはパースペクティブがあるだけだという極端な遠近法主義(パースペクティビズム)として、自分のテーゼも理解されかねないところがある。

しかし、本書が目指したのはそのような方向性ではない。むしろ『崇高の修辞学』で集中的に論じているのは、ギリシア語のテクネー、つまり技術の問題です。本書の第一章で論じているテクネーというのは、いわゆる真理を歪めるための小細工ではなく、そもそも真理が真理として現れ出ることを可能にするような働きのことだからです。

具体的に、この本で扱っている事例を引き合いに出しておきます。例えばロンギノスの『崇高論』では、転置法という比喩が論じられています。これは現代で言うところの倒置法とほぼ同じものですが、言ってみればこれは我々が普段使っている統辞法とは異なる規則に従っているわけですね。それは、いわゆる普通の文法からは外れた言い回しである。しかしロンギノスによれば、この転置法というテクネーを用いることによってこそ、ホメロスは『オデュッセイア』や『イーリアス』において、登場人物の怒りや動転をより正確に表現することができた。つまりこれは、テクネー(テクニック)によって物事の正しい姿が露わにされる、という議論であるわけです。

この例だけを取っても、本書が提示している真理と詐術の分別不可能性というテーゼが、決して相対主義に向かうものではないことがわかると思います。むしろテクネーの次元というのは、それこそ今日の話でいえば「アート」に関わっている。

『崇高の修辞学』星野太=著 2017年 月曜社


 
修辞学と表現

池田 アートという言葉がラテン語のアルスに由来していて、これはそもそもギリシア語のテクネーの訳語だったと言われますね。その意味でも、この本の議論はアートの問題ともつながっている。教科書的に言うとソクラテスがソフィストを批判するというのが哲学の起源と見なされているところがあります。詭弁を使って人々を誘導する存在としてソフィストは位置づけられていて、それを批判しつつ真理を追求する哲学者としてソクラテスがいる、と。近代以降の哲学もその延長線上で組み立てられる。例えばベルナール・スティグレールなども、プラトンまで遡りつつ真理と対置されてきた技術というものに新たな光を当てています。

同時に面白いと思うのは、星野さんの議論の中で技術というものは危ういものとも近づきかねない諸刃の剣として議論されているように見える点です。詐術や誇張、あるいは情動の感染みたいな問題まで含めた意味での技術というものを扱われています。

星野 そうですね。もう少し技術という問題に即して言うと、この本は『崇高の修辞学』というタイトルで、表向きは崇高についての本だということになっている。ただ、実際に読んでいただくとわかると思うのですが、タイトルに含まれているふたつの単語の内、全体を通じて強調されているのは明らかに修辞学のほうです。つまり一方で、本書の学術的な目的というのは、従来の美学的な崇高とは異なる「言葉と崇高」の系譜をロンギノスにまで遡って提示するという点にあります。本書ではそれを「修辞学的崇高」と名づけることで、ふだん我々が崇高と呼んでいるのは、イマヌエル・カント由来の「美学的崇高」にほかならないということを示そうとした。博論の要旨としてはその通りです。しかし序文を読んでいただければわかる通り、他方で本書は明らかに修辞学の再考という部分に強調点を置いている。

その動機は、池田さんが整理して下さったように、「哲学」対「修辞学」や「哲学者」対「修辞家」のような、哲学の影としての修辞学について考えてみかったからです。プラトンの修辞学批判は有名ですが、その後の哲学史においても、修辞学はつねに批判の対象とされてきました。本書の第六章で論じているカントも、当時そこそこの影響力を持っていた通俗哲学者たちを「幻視(Vision)の哲学者」という言い方によって批判している。これはプラトンによるソフィスト批判と基本的に同型のものです。つまり「幻視の哲学者」たちは、論証の努力をせずに大胆な言葉遣いを用いることによって、もっぱら周囲の人々に自らの考えを信じ込ませることに腐心している。その様子をカントは、「大胆さとは、なんと伝染しやすいものであることか」と皮肉っています。

このように、ソフィストや修辞家というのは哲学者によって絶えず批判を向けられてきた存在ではあるのですが、ある意味で彼らは、哲学が自らを自己規定する際に不可欠な存在でもあったと思うんですね。そこで、本書のカントを論じた章では、むしろカントの中にも内なる修辞家がいる、ということを示そうとした。カントの著作は様々な哲学書の中でも最も修辞から縁遠いものであるというイメージがあるし、実際にカントも『判断力批判』(1790)【熊野純彦訳、作品社、2015年】の中で、修辞学を「陰険な技術」と呼んで批判している。しかし実はカントもまた、自らの議論の非常に決定的な所で修辞的なテクニックを使っていることは明らかです。具体的に言うと、『判断力批判』の後に書かれた「哲学に最近あらわれた尊大な語調について」(1796)という論文で、カントは以上のような「幻視の哲学者」たちへの批判を行なっている。その議論の中では「理性の声」と「神託の声」という重要な区別にも話が及ぶわけですが、カントはこれを「たんに思弁的な区別に過ぎない」としてやり過ごしてしまう(笑)。

これはあくまでも一例ですが、論理的に議論を展開する(とされる)哲学にも、もちろん何かしらの修辞的な力は備わっているわけですね。哲学は、自らを哲学として自己規定するために修辞的な技術を排除してきたけれども、そもそも哲学が言語を用いた営みであり、言語が様々な修辞によって織り成されるものである以上、哲学から修辞が完全に排除されることなどありえない。おそらく、こういう話になると前期(ルートヴィヒ・)ウィトゲンシュタインのことなどが連想されるかと思いますが、たとえ『論理哲学論考』(1921)【丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、2015年】のようにすべてを簡潔な命題によって記述したところで、そこにも必ず何がしかのレトリックは働いている。同書末尾の「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という命題が有名な箴言になってしまっていることなどは、その何よりの証拠でしょう。これは現代の英米哲学でも同じですね。現代のいわゆる分析哲学の論文では、それぞれの書き手に固有の特徴的なレトリックは排除されているようにも見える。けれど、それは特徴的なレトリックが希薄であるという一種のレトリックを行使しているわけです。

拙著では、そのような意味での「修辞性」を問題にしました。つまり、詩や散文のような「文学的」エクリチュールにのみ関わるような修辞性ではなく、言葉が言葉である以上、そこに避けがたく混入してしまうような修辞性です。これは言語に固有の問題だと思われるかもしれないけれど、かつてロラン・バルトが「イメージの修辞学」と言ったように、映画においても撮影や編集など大小様々なテクニックがその背後では機能しているわけですよね(バルトは当時のCMなどを分析対象としていたわけですが)。そのように考えてみると、レトリックの問題は言語に限らず、平面であれ立体であれ映像であれ、芸術一般にも深く関わってくる問題だと言える。

池田 平たく言えば、表現の次元。

星野 そう、表現性ですね。そのような意味で、本書の議論をアートの話に広げていく可能性は十分にあると思います。

池田 バルトで言うと『神話作用』(1957)【篠沢秀夫訳、現代思潮新社、1967年】の中で修辞学に関連してプロレスについて語ったりしてますね。プロレスにおいては、ボクシングのような勝ち負けの結果に向かう目的論的な持続ではなく、むしろ各瞬間の静止画的な身振りが重要であり、その身振りに修辞学的誇張が宿る。しかしチョッピングは誇張のやり過ぎだ、とか(笑)。バルトは崇高というよりは明らかに美の人だとは思いますけれど。

星野 そうですね。バルトについてもう少し言っておくと、僕の本でも何度か出てくるバルトの『旧修辞学』(1970)【『旧修辞学――便覧』沢崎浩平訳、みすず書房、1979年】という長い論文があります。これは、過去の修辞学の歴史や方法が簡潔にまとめられている教科書的な論文なんです。それをバルトという人が書いたという事実がすごく面白い。当時はバルトだけではなく、ジェラール・ジュネットをはじめ色々な人が修辞学的な語彙を使って高度な議論をしていた。メタファーやアレゴリーといったものはすべて修辞学に由来する比喩ですが、当時これらが哲学や批評の領域でさかんに論じられていたわけです。バルトはその背後にある歴史的な前提を共有するために、古代から近代まで続いてきた修辞学をいったん総ざらいする必要性を感じて、ああいうものを書いた。それはすごく意味があることだと思います。その意味で、『旧修辞学』という本はバルトらしからぬ本なんですが、教科書的な、遺漏のない本であると同時に、様々な発見に満ちた本でもあります。実はフリードリヒ・ニーチェにも『古代レトリック講義』(1874)【『ニーチェ『古代レトリック講義』訳解』山口誠一訳著、知泉書館、2011年】という本があるのですが、ニーチェはもともと文献学者としてキャリアを出発させましたから、それこそ実際に授業で使うために書いた古代修辞学についての草稿が残っているんですね。ニーチェとバルトという、19世紀から20世紀にかけてのふたりの重要な思想家が、それぞれ過去の修辞学を総ざらいする仕事をしたのはすごく面白いことだと思っています。




美学的崇高の成立から20世紀後半の崇高リバイバルへ

池田 なるほど。いま修辞学について話してもらったので、これから崇高のほうに行きたいと思います。先ほど少し言われましたけれど、僕たちが崇高という概念を使うときには、基本的に「美と崇高」というワンセットで考えるわけですね。例えば小さくて弱さや儚さを持つ花に対して美を感じ、他方では、切り立った崖や荒れ狂う大波に崇高を感じたりする、と。しかしこの「美と崇高」のカップリングは、星野さんの本の中で指摘されるように、近代になってエドマンド・バークとカントを中心に作られた構図であり、ロンギノスまで遡りながら、そうではない別の崇高について再考されています。このことについては後で伺うとして、その前提となっている美学的な崇高、主にバークやカントによる美と崇高についてお話しいただけますか。

星野 はい。そもそも「美学的崇高」という用語はまったく一般的なものではなくて、この本では「修辞学的崇高」という用語を導入するために、その対応物として「美学的崇高」という言い方をしています。言いかえれば、普通我々が崇高と言うときには……

池田 言うまでもなく美学的(笑)。

星野 そう、言うまでもなく美学的なわけですよね。それがいつごろ成立したのかということも、この本では書いています。かいつまんで言うと、それはおおよそ18世紀であると。特に18世紀のイギリスにおいて、それまで言語(詩や弁論)の問題であった崇高が、まずは心理学的な問題に変わっていくわけですね。当時の心理学というのはいわゆる経験主義心理学で、いまの実験心理学とはまったく異なるものです。今日で言うフォークサイコロジー、素朴心理学に近いものですね。そういう議論が、経験主義を背景に当時のイギリスで流行した。この本では挙げていませんが、『スペクテイター』(1711-1712)という雑誌をやっていたジョゼフ・アディソンがわりと重要で、その周辺で美と崇高を人間の心理や感情の問題として論じることが広まったと言われています。

池田 なるほどバークより前、ということですね。

星野 そう、バークよりも前に。バークはそのような言論状況の中で、あらためて美と崇高というふたつのカテゴリーを比較検討するために、『崇高と美の観念の起源』(1757)【中野好之訳、みすずライブラリー、1999年】という本を書いた。これは彼がまだ20代のころに書かれたものです。知られるように、バークは後に保守政治家になりますから、石原慎太郎が若いころに書いたものみたいな感じですけど(笑)。それで、これがすごくヒットする。そのあたりを境として、美と崇高は人間の感情に属するカテゴリーであり、なおかつ両者は明白に対立しているという考えが次第に一般的になってくる。ただし、バークが挙げるその具体例を見ていくと、ポリティカルにはかなりインコレクトなことを言っています。男性は崇高で女性は美であるとか、黒人は崇高で白人は美であるとか。そのようなごく通俗的な類型学にもとづいたふたつの概念の対比によって、現在でも共有されているような美と崇高というカップリングが出来上がる。なおかつ、それが美学というディシプリンの中で、人間の感性(感受性)に関わる概念になったことも重要です。

カントの場合も、基本的にはバークと同じく美と崇高というカップリングは維持されますが、今度はこの両者がより哲学的な仕方で規定される。カントの場合、美を悟性と構想力の一致、戯れと考える。それに対して崇高は、理性と構想力の不一致によって生じるものであるとされる。このあたりはカントのターミノロジーを押さえていないと意味不明なわけですが、ともかく崇高というのは感性の外部にあるもの、すなわち理性という超感性的なものに想像力が到達しえないことに起因する、ある種の苦痛によって引き起こされる感情だということになる。

とりわけ20世紀に、このカントによる崇高の規定が大きくリバイバルしてくる。カントの『判断力批判』において、「崇高の分析論」という章節は「美の分析論」のたんなる付録に過ぎない。カント自身がそういう言い方をしているので、後の新カント派などはそれほど「崇高の分析論」には注目してこなかった。しかし20世紀後半になると、どうもこの「崇高の分析論」というのが重要そうだ、という話になってくるわけです。特にフランスでは、ジャック・デリダ、ジャン=フランソワ・リオタール、ミシェル・ドゥギー、フィリップ・ラクー=ラバルトといった人たちが70年代から80年代にかけて様々な仕方で崇高を論じている。まずはそのようなカント読解における「崇高の分析論」の再評価という動きがありますね。さらにこれとはまた別の動向として、美術の文脈でも60年代くらいから崇高というタームが頻繁に出てくるようになる。すごく単純な話で、抽象絵画というのは……

池田 対象が見えない。

星野 そう、これはアンフォルメルやボワ+クラウスの『アンフォルム』(1997)【イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス『アンフォルム——無形なものの事典』加治屋健司+近藤學+高桑和巳訳、月曜社、2011年】にもつながっていく問題ですが、まずは単純な話として、20世紀における抽象的ないし不定形な作品を理論化する際に、崇高という概念が用いられる。それは、バークやカントが崇高を不定形なもの、曖昧なものに結びつけていることに起因しています。そうした18世紀的な崇高の美術批評における応用として、20世紀に崇高という概念が再び台頭する。それ以外にも、20世紀において、崇高は科学技術や資本主義の問題など、様々な議論に応用されていきます。ですが、基本的にそれを美学=感性論(エステティクス)の問題として扱うという点は疑われなかった。言い換えれば、そこで一貫してメインストリームだったのはバークとカントの崇高論であったということですね。それに対して拙著では、言葉における崇高の問題を論じたドゥギー、ラクー=ラバルト、ポール・ド・マンらの議論に即して、近代以降はマイナーなものにとどまっていた「修辞学的崇高」をそのオルタナティブとして提示するという格好になっています。

池田 すでに丁寧にまとめていただきましたが、改めて確認したいと思います。カントの場合、無限のような大きな対象を前にしたときに、人間の構想力(想像力)はそれを把握することができない。しかし把握することができないという不可能性を通じて、かろうじて無限のような対象を感知することになり、そこで崇高の感情が惹起される、と。これは否定弁証法モデルと言っていいと思いますが、捉えることができないという否定性を通じて高次の快を得ることになる。宮﨑裕助さんが『判断と崇高』【『判断と崇高――カント美学のポリティクス』知泉書館、2009年】の中で詳しく論じていますが、そういうモデルが特に20世紀の後半、様々な議論の中で前景化してくると思うんですね。このあたりについては、また後で検討することにして、いまバークからカントによる美と崇高のカップリング化と、その後の20世紀における崇高のリバイバルについて確認してもらいましたので、いよいよその前提の上で星野さんが出されている修辞学的崇高についてお聞きできればと思います。




アイロニーと修辞学的崇高のリミット

池田 とはいえ、この修辞学的崇高というのは美学的崇高との対になるというよりは、星野さんによる緻密なお仕事を通じてようやく可視化された、美学的崇高からすれば傍流となる非常にか細い系譜なわけですね。著作の内容にこれから踏み込んでいきたいと思うんですけど、古代、近代、現代の3部立てになっていて、さらにそれぞれが3章ずつに分かれていて、かつそれぞれの章は4節ずつに分かれるいう、非常に形式的というかクリアな構成を持っている。この形式へのこだわりも気になるわけですけれど、非常に明快に組み立てられている星野さんの著作をインタビューとして、どのように再編成できるかなと考えていました。

まず終わりから始めてみたいと思います。いま説明していただいたように、美学的崇高とは異なる修辞学的崇高を系譜立てしつつ、最終的にド・マンのアイロニー概念を通じて修辞学そのものが、そのリミットに至る。ここでは狭義のレトリック、つまり弁論や文学で使われるような技術のみならず、ほとんど僕らが日常会話で使っているような言葉すべてにまで至るようなレベルでの修辞そのものの瓦解が描かれることになる。この本の帯に書かれている「我々が用いる言葉のうち、およそ修辞的でない言葉など存在しない」というテーゼは、この辺に通じると思うのですが、まずこの結論部分についてお聞かせいただけますか。

星野 序論でも書いたように、この本の最も大きな狙いというのは、西洋の思想史の中に「修辞学的崇高」と呼びうるひとつの系譜を探り出すことです。しかし、実はその下位区分というか、その大きな目的の下にさらにいくつかの異なる目的がある。歴史的には古代、近代、現代へとつながってはいるのですが、それぞれの部でやろうとしていることは、実は微妙に違ってもいる。第Ⅲ部は僕がいちばん書きたかった部分で、言ってしまえば第Ⅰ部と第Ⅱ部というのはそこに至るまでの長い遠回りでもあるわけです。その第Ⅲ部の最後に来るド・マンを扱った章(第九章)では、言語が言語そのものとして自律的に作動した結果、我々のコントロールから離れていってしまうということについて書いています。

池田 言語の意味が決定不能となり、言語自体が勝手に作動してしまう。

星野 ええ。しかもそれはすごく凡庸な話でもある。いま僕たちがこの会話ができているのは、そういう言葉の自律的な次元を括弧にくくっているからですね。そもそも言語というのはそういう性格を持っている。その問題を、ド・マンの崇高に関するいくつかのテクストを出発点としながら論じているわけです。最終的には、アイロニーという比喩こそが、そのような言語の裂け目を最も顕著に示している比喩なのではないかということで、本書はアイロニー論で締めくくられています。

この本でも書いているように、アイロニーというのは非常に危険な比喩であり、そもそも比喩と言っていいのかどうかも微妙なものです。もちろん、修辞学の本にアイロニーという項目は必ず入っていて、それをごく手短に定義することもできる。日本語でいえば皮肉や反語と訳されるような、自分が言おうとしていることを反対の表現によって言うための修辞的な技術ですね。しかし同時に、アイロニーは非常に巨大な問題を含んでもいる。つまりアイロニーとは、自分が意図していることをまるっきり反対の表現によって言うことであるわけですが、それをひっくり返すと、自分が意図したこととまったく反対の内容を言葉が自律的に伝えてしまうという危険も含んでしまう。普通、アイロニーというのは、それを相手に読み取ってもらうための構造を備えているのが常ですよね。

池田 だいたい文脈でわかる。

星野 そう、通常であれば、アイロニーというのはその解読格子を文脈の中に埋め込んでいるとも言えるわけですが、しかし厳密に考えると、それがアイロニーであるかどうかを決定できる人は誰もいない。例えば池田さんが、僕の本に対する褒め言葉を繰り出しているときに、それが本当に褒め言葉なのか、あるいはそれこそアイロニカルに侮辱しているのかっていうのは……

池田 決定できない(笑)。

星野 誰も決定できないという、そういう次元にまで至ってしまう。ここは言い方に慎重を要するんですが、それは僕たちの間で成立しているコミュニケーションが、ふとした綻びから崩壊してしまうという危険性と背中合わせである、と。それこそ、あれは本心だったのか、あるいはアイロニーだったのか……という疑念があらゆるコミュニケーションにつきまとってしまうという事態を「テクスチュアル・サブライム」という言葉で形容できるのではないかと思いました。最終的に本書は、日常的な言語運用の背後には、いついかなる瞬間においても生じてしまうような言語と人間の裂け目が控えているという結論に持っていきたかった。それは、言葉そのものが自律的な機械(マシーン)である以上は避けがたい。それによって生じてしまう亀裂のようなものを、本書では言語に内在する崇高――ある種の内在的な「臨界」――と呼ぼうとしたわけです。

池田 日常の言葉まで含めて、すべての言語が根本的にその意味を規定することができなくなってしまう、ということであくまでも内在性が強調されているわけですね。アイロニーとは、そうした言語が根本的に持つ決定不可能性を露わにしてしまいかねない危うい修辞である、と。

くだらない例になりますが、このアイロニーに関して、ある学芸員の人と(ゲルハルト・)リヒターについて話していたことを思い出します。基本的にリヒターは偉大な絵画の歴史が終わった後に、絵画をいわば誇張的な身振りで再現する、ある種のシミュレーションとして絵画をやるわけですが、その学芸員の人が言うには、日本の多くのペインターたちはリヒターによる例えばブラッシュストロークの持つ物質性などを「普通に」崇高なものとして見ている、と(笑)。リヒターはある種のアイロニーとして、例えば抽象表現主義をシミュレーションとしてやっているわけですよ。まさにアイロニーの持つ決定不可能性が露呈してしまっている例でもあるのかもしれない(笑)。これはすごくダメな例なわけですけども、もう少しイメージするために何か関連づけされそうな作品などがあったりしますか。

星野 アイロニーに関してですか?

池田 アイロニー、あるいはド・マンの言うような言語の物質性みたいなものが日常的なレベルから露呈する、というような議論に関連して。

星野 そうですね。いま池田さんが敷衍して下さったように、言葉がモノとして、物質として現われてくるというベクトルが一方にはあると思うんですが、僕の議論だと、意味が宙吊りになった結果として、その言葉の物質性が迫真性を持って迫ってくる、といった話にはなっていないんですよね。むしろ意味の決定不可能性という側面を強調している。だから、それを美術作品に即して考えてみても、それはおそらく物質性を露わにするような作品にはつながっていかないだろうと思います。

池田 いや、僕もそう思っていて。というのは星野さんの言う言語の決定不可能性というのは、ちょっとしたボケのようなものに近い感じはするんですよね。だからいわゆる意味が決定不可能になって物質的残余が露呈するという話だと、アートの文脈ではリヒターだったり、あるいはもっとベタにやればキーファーだったりがわかりやすいと思うんですけれど、神話的なアレゴリカルな水準があり、しかし同時に絵画的な物質性と拮抗する、みたいなものとして捉えられがちなんじゃないかなと思うんです。星野さんが出している論点というのは、むしろ日常の只中にあって、その意味がちょっとズレるとわからなくなるとか、そういうことに近いと思う。

(2017年3月5日、元新道小学校・池田剛介アトリエにて/2017年5月9日公開)

▶ 星野太『崇高の修辞学』をめぐって2




ほしの・ふとし
1983年生まれ。美学、表象文化論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、金沢美術工芸大学講師。著書に『崇高の修辞学』(月曜社、2017年)、共著に『コンテンポラリー・アート・セオリー』(イオスアートブックス、2013年)、共訳書にカンタン・メイヤスー『有限性の後で』(共訳、人文書院、2016年)などがある。

 
いけだ・こうすけ
1980年生まれ。美術作家。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。自然現象、生態系、エネルギーへの関心をめぐりながら制作活動を行う。近年の展示に「Malformed Objects-無数の異なる身体のためのブリコラージュ」(山本現代、2017)、「Regeneration Movement」(国立台湾美術館、2016)、「あいちトリエンナーレ2013」など。近年の論考に「虚構としてのフォームへ」(『早稲田文学』 2017年初夏号)、「干渉性の美学へむけて」(『現代思想』2014年1月号)など。



〈C O N T E N T S〉
芸術論の新たな転回 01 星野太(Interview series by 池田剛介)
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