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実験工房・ゴームリー・瑞泉寺――冬の鎌倉から
浅田 彰

2013.01.31
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実験工房展を見に、鎌倉の神奈川県立近代美術館に向かう。

本館は坂倉準三の作品であり、ちょうど刊行が開始された『磯崎新建築論集』(岩波書店)第1巻の坂倉準三論(どんな建築史家の論文よりはるかに鋭く面白い)を読み直したところだったので、見慣れていたはずの建築があらためて新鮮に見える。磯崎新によれば、坂倉準三はル・コルビュジエの弟子として前川國男よりも正統的であり、1937年パリ万博の日本館で賞をとるにもかかわらず、日本国内では一貫して微妙な立場に置かれ、それゆえにアメリカ中央情報局(CIA)との関連も疑われる右翼的な人脈と結びつくことにもなったらしい。その真偽はともかく、そういう坂倉準三の立場は磯崎新自身の微妙な立場ともそこここで響きあうのではないか……

この美術館ができた1951年に結成――というか命名されて東京での「ピカソ祭」で最初の発表を行ない、1957年の最後の発表会(そのころ鎌倉に遊んだメンバーがピカソ版画展の開催されていたこの美術館を訪れた写真がある)にいたるまで、ジャンルを超えた前衛芸術運動を展開したアーティスト集団が、実験工房である。1951年といえば敗戦からわずか6年。戦争中は前衛芸術に関する情報などほとんど入ってこなかったし、敗戦直後も最初は占領軍が設置した民間情報教育局(CIE)のライブラリー(そこには本や楽譜があったほか、アーネスト・サトウの解説によるレコード・コンサートも開かれた)の図書館がほぼ唯一の情報源だった(先ほどの坂倉準三の話にもつながるが、アメリカ型モダニズムが世界を席巻したのが、社会主義リアリズムに対抗するためのCIAの陰謀の結果だと決めつける議論は、明らかに乱暴すぎるものの、アメリカの文化政策が戦後日本におけるモダニズムやアヴァンギャルドの復活を加速したことは事実だろう)ことを思えば、現在から見るとその作品に稚拙なところや古めかしいところも感じられるにせよ、「実験工房」がこれだけ多彩な活動を展開してみせたこと自体、驚異的と言うべきではないか。

展覧会は福島秀子の絵画に始まる。この展覧会は総じて資料展といったほうがよく、そのようなものとして興味深いのだが、福島秀子の抽象画、とくに冒頭に飾られた「無題(母子)」(catalogue number[以下 cat.]Ⅰ-015, 1948)などはなかなか質の高いもので、昨年の東京都現代美術館・常設部門での特集展示とあわせ、このアーティストを再発見するきっかけとなるだろう。この福島秀子の弟の和夫が作曲家だったため、姉弟をひとつの触媒として美術から音楽に至る脱領域的な集団がつくられ、瀧口修造の命名による「実験工房」が成立する。他方、福島秀子は一時期、能楽師・観世寿夫のパートナーだったので、1955年に実験工房と演出家・武智鉄二が組んだシェーンベルク『月に憑かれたピエロ』上演に観世寿夫(アルルカン)や狂言師・野村万作(ピエロ)が出演する(コロンビーヌは関西歌劇の歌手・浜田洋子;ちなみに、もうひとつの演目が三島由紀夫の『綾の鼓』)という、現在からみると想像のつかない事件が発生するのだが、この関係が解説でも座談会でもほとんど触れられていないように見える、これはいったいどうしてだろう?

ともあれ、舞台芸術については、残念ながら、舞台装置や衣装のスケッチやモデルなどを除いて、スチール写真しか残っておらず、実際のパフォーマンスを想像するのは難しい。その点、音楽の場合は楽譜も録音も残っているので、現在でも十分な追体験が可能だ。1996年の「再現・1950年代の音楽 実験工房コンサート」の録音を収めた『実験工房の音楽』(fontec)のほか、今回の展覧会に合わせて「NHK『現代の音楽』アーカイブシリーズ」の特別篇『実験工房』(Naxos)も出たので、それらをCDウォークマンで聴きながら見たのだが、佐藤慶次郎の自筆譜などはきわめて精密に書き込まれていて感心させられる――総じて、シェーンベルクやウェーベルンの模作と言ってよく、「ピアノのための哀詩」(1955年)などはウェーベルンの「変奏曲」そっくりの箇所があって驚かされるけれど。他方、鈴木博義の「二つのピアノ曲」(1952年)第2番は、むしろミニマル・ミュージックを先取りするようなところが面白い(その後、佐藤慶次郎は電子音響へと移行し、この展覧会にも指で触れて音を出す「エレクトロニック・ラーガ」[cat.Ⅲ-049,050:1967]というオブジェが出品されている。他方、鈴木博義は作曲をやめた)。しかし、湯浅譲二の「内触覚的宇宙」(1957年)になると、模作や習作の域を超え、固有の表現が確立されていると言っていいだろう。

対して、現在では「実験工房」の最も有名なメンバーということになるだろう武満徹の作品は、この段階ではまだまだ形が定まっていない。「実験工房」の前、最初期の「二つのレント」(1950年)を批評家・山根銀二が「音楽以前」と切り捨てた、それも無理のないことだったのかもしれない。しかし、それは、言い換えれば、武満徹の音楽が最初から12音技法のような定型的な「現代音楽」の枠に収まりきらないものだったということだろう。その延長上で彼は個性的な不定形の音楽を作り出し、やがてそれが日本独自の現代音楽として世界的に評価されることになる……。その研鑽の過程の一端を、ここでも見ることができる。この展覧会には「遮られない休息1」(1952年)の自筆譜(cat.Ⅱ-029)が出ている、それが私の記憶とやや違うので、帰宅してSalabert社版の楽譜(それには、2・3を加えた3曲セットの作曲年が1952-1960、出版年が1962と記されている)を見ると、やはり細かく手を加えているのがわかった。譜面を見なくとも、先に挙げた2つのCDに園田高弘の1957年の演奏と1996年の演奏が収められているのを聴き比べればわかるだろう。たとえば、1957年の録音の31秒以降と1分38秒以降ではE♭-C-B♭という下降音形が自筆譜通りオクターヴのユニゾンで演奏されるが、1996年の録音の28秒以降と1分25秒以降では同じ下降音型の上にC♯-A-F♯という「エコー」が加わって、メシアン的とも言える虹のような効果を生み出しているのだ。ちなみに、こうしたレパートリーについて現在では高橋悠治・アキ兄妹の演奏が標準的だが、初演者の園田高弘がしっかりと硬質な音楽をつくっていることを改めて確認することができたのも、ひとつの収穫だった。

音楽と並んで面白いのは映像作品である。といっても、動画にはまだ手が届かなかったと見えて、東京通信工業(ソニーの前身)のオートスライド(音声にあわせてスライドが切りかわっていく)というシステムを使って4つの作品(1953年)がつくられた、その再現を見ることができる。これがなかなか面白い。「試験飛行家W・S氏の眼の冒険」(山口勝弘[映像]+鈴木博義[音楽])は、透明なガラスの街の映像のあと、核爆発をへて、眼のない顔に終わる。どこか安部公房を思わせるSF「見知らぬ世界の話(Another World)」(北代省三[画像構成]+鈴木博義・湯浅譲二[音楽]+武満徹[脚色])では、第3惑星で起こった核爆発が太陽の爆発を誘発した結果として、放射能によるミュータントが出現する。当然ながら、核が戦後間もない時代の想像力に大きな影を落としていたのだ。
ちなみに、別館の会場では、松本俊夫が実験工房のメンバーたちとつくった映画「銀輪」(1956年;2005年にフィルムが再発見された)――日本自転車工業会のプロモーション映画――も上映されていた。それに関連して言えば、昨年開催された東京国立近代美術館の開館60周年展、とくに1950年代を扱ったセクション(独立の展覧会といってもよい)はきわめて刺激的なもので、「実験場」というタイトルのもと、「核実験場」としての戦後日本におけるアートの展開がアクチュアルな観点から見直されていたのだが、そこで上映されていた松本俊夫の「白い長い線の記録」(1960年;音楽は湯浅譲二)――関西電力がスポンサーで、最後は原子力発電に至る――まで含めて、実験工房のオートスライド作品に含まれていた萌芽のひとつの展開と見ることもできるのではないか。

思い返せば、森美術館の「メタボリズムの未来都市」展のシンポジウムで同席した山口勝弘の話を聞いたとき、彼はこの実験工房展の企画のことも語っていた(彼の所蔵するアイテムも今回たくさん展示されている)。実際、実験工房の試みは、そのシンポジウムで語られた1960年代のさまざまな展開、そして1970年の大阪万博にまでつながっていくのだ。もとより、この時代のことをいたずらに神話化する近年の傾向は警戒すべきものだ。しかし、テクノ資本主義とアートが惹きつけあい反発しあいながら前進していたこの時代は、むしろその矛盾ゆえに、現代につながるさまざまなヒントを孕んでいる、そのこともまた疑いを容れない。半世紀以上たったいま、まずはその時代の記録と記憶を集大成しておく必要がある。その意味で、この実験工房展はまことにタイムリーな催しと言えるだろう。2014年1月まで各地を巡回する予定なので、鎌倉で見逃したとしてもぜひどこかで見ることを勧めたい。

 

 
せっかく鎌倉まで来たのだから葉山まで足を延ばさない手はない――と思ったのだが、都合があって、実際に葉山を訪れたのは3月1日だった。とはいえ、ひと続きの話題なので、ここでまとめて書いておくことにする。なぜ3月1日に行ったかといえば、2012年8月18日から神奈川県立近代美術館・葉山館で開催されてきたアントニー・ゴームリーの「Two Times―二つの時間」というプロジェクトが3月3日で終了するからだ。

ゴームリーは、現在もっとも注目すべき彫刻家である。自分の体をそのまま型取った彫刻は、日本でもいろいろな場所――たとえば東京国立近代美術館の2階ロビーにも設置されているので、見たことのある人も多いだろう。だが、それだけではなく、彼は人体像をいわば量子力学的に分解するスリリングな試みも展開しており、他方、おなじみの人体像を広大な地域に散在させることでその地域をいわばヴァーチュアルに occupy する(占める)試みも行っている(*注)。今回、葉山で試みたのは、後者の最小限の形――浜に近い道端で海を向いて立つ像と、そこから見える美術館の屋上で山を向いて立つ像、その2体だけからなるヴァージョンだ。道端の像は近隣の人々に愛され、この日も誰かが頭にスカーフを巻いてやっている。他方、屋上の像はそう遠くないところにあるようで実際には手が届かず、こちらに背中を向けてどこかを見つめている。たったそれだけのコントラストが、磁石の両極のように強い磁場を生み出すのだ。私が訪れたのは、春の訪れを告げる強風の日で、波立った海の彼方に富士山が浮かんで見えた。そのドラマティックな自然環境に重ねて、二体の像の生み出す磁場に身を曝すというのは、忘れがたい体験だった。聞くところでは、東京のいくつもの高層ビルの上に像を置く計画もあったはずで、実現していたらそれはそれで面白かったろうと思われるものの、葉山の海と陸の間に半年間だけ置かれたこの最小限のユニットを見るというのは、ゴームリーのプロジェクトのエッセンスを体験する得がたい機会だったと言っておこう。
ついでに言えば、美術館の中で開催されていた「検証 二枚の西周像――高橋由一から松本俊介まで」展(1月26日-3月23日)もなかなか興味深いものだった。幕臣から明治政府の官僚に転じた西周(にし・あまね)は、「philosophy」を訳するのに「哲学」という言葉を作ったことで知られる啓蒙家だが、彼を高橋由一が描いた二点の肖像画(津和野町郷土館のものと2009年に発見された大皷谷稲成神社のもの)の調査修復が終わったので、関係資料とともに並べて展示し(両者は見分けがつかないほど似ている一方、下絵はまったく違う構図になっているのが面白い)、それを起点に日本近代美術史を見直す試みだ。このブログの2012年10月20日のエントリーで述べたように、日本近代美術史のひとつの軸は、高橋由一が創始し、岸田劉生が別な形で展開したリアリズムであるというのが、私の見方(とりたててユニークな見方ではない、むしろ常識とされるべき見方)だが、ここではまさにそのような軸にそって展示がなされている。彼らに続く村山知義や藤田嗣治もそれぞれ興味深い。この美術館のコレクションから170点ほどを並べた展覧会で、大々的なものではないけれど、葉山館のスケールにはぴったりだし、近代日本美術史のエッセンスをコンパクトに示すものとして教育的効果も大きい。ゴームリーに惹かれて葉山までやって来たおかげで、美術史を復習する機会を与えられたのは、思いがけない僥倖だった。
 

 
こうして神奈川県立近代美術館の3つの展示場をめぐることでずいぶん豊かな体験をすることができたのだが、ついでに鎌倉の歴史を遡る体験についても触れておこう。京都造形芸術大学で、鎌倉で造園業を営む大学院生が瑞泉寺の庭園に関する論文を書いた、それに興味を惹かれて、せっかく鎌倉に来た機会に現場を訪れてみることにしたのだ(ただし以下の記述は私が勝手に考えたことであり、文責は全面的に私にある)。

鎌倉は京都と並ぶ――いや、一時は京都に勝る禅宗の中心地で、後に夢窓国師と呼ばれることになる疎石も京都の建仁寺のあと鎌倉の円覚寺や建長寺などで禅宗を修め、後に瑞泉院(瑞泉寺の前身)を開いた。庭園も疎石の手になると言われる。その後、京都で天龍寺や西芳寺(苔寺)の庭園をつくることになるのだから、その原型がここにあったとしてもおかしくない。残念ながら、庭園は長い歴史の中で荒廃したが、近年、発掘調査をもとに復元された。もとより、それが原状にどれくらい近いのかはわからない。だが、この庭は全体が巨大な岩から削り出されたような形で、池の向こうの岩壁に2つの洞窟が見える、その構図そのものは現状とあまり変わらないと考えていいだろう。では、この洞窟とは何か。寺伝では座禅などの修行の場として掘られたと言うのだが、付近に「やぐら」という中世鎌倉の横穴墳墓がいくつも見られることからして、それを意識していなかったとは考えにくい(素人の想像では、もともとあった「やぐら」を利用して洞窟にしたとさえ考えられなくはない)。つまり、この庭園は、王朝の浄土庭園のように池を中心としながら、その対岸に死の空間を直視するものだったとも考えられるのではないか。いわゆる日本的美意識からすると、異様な構図である。たまたま書店で手にとった山折哲雄監修・槙野修著『鎌倉の寺社122を歩く』(PHP新書)には、「いま復元されている岩窟をたくみに取り入れた庭園は夢窓疎石が作庭したものとされ、京都の天龍寺や西芳寺(苔寺)で見せたような疎石の芸術性があらわれているというが、前面の大きな崖と岩穴に驚くだけだったと、不粋者は正直にいっておこう」(p.75)とある、それも決して不思議ではない――というか、そう思わないほうが「不粋者」だろう。しかし、それに対していかにも洗練された美意識が行きわたっているかに見える京都の西芳寺の庭園も、下部の池を囲む苔庭が西方寺を受け継いでいる一方、上部は穢土寺の跡(死体を土葬し、骨になってから本格的に埋葬する、その最初の土葬の場としての「三昧」だったと言われる)につくられ、そのあたりにあった古墳の石も庭石として利用されたらしい。いまでは異様とも見える瑞泉寺庭園が、その原型のひとつだったとしたら? その後の歴史の中で多少とも美化された京都の庭園では、そういう原型が見えにくくなっているのだとしたら? むろん、専門家でない私が答えられる問いではなく、ここに述べたのは勝手な想像に過ぎない(ただし似たような議論はこれまでにもある)。だが、瑞泉寺の庭は、夢窓国師の庭園をもういちどラディカルに見直すきっかけを私に与えてくれた。教師稼業の余禄と言うべきだろう。冬の鎌倉を歩きながら、私はそんなことを考えていた。
 
 
 
(*注)

ゴームリーの彫刻を物理学の比喩で語るのはこじつけではない。ブリュッセルでの展覧会カタログ “Antony Gormely : Aperture”(Xavier Hufkens, 2009)にはスティーヴン・ホーキングと並ぶ大家ロジャー・ペンローズのエッセーと講義録が掲載されている。なお、直島のベネッセハウス・パーク棟にある、人体像を直方体のブロックに分解した作品は、量子力学を連想するところまで分解が進む手前に位置付けられるだろう――むろん、それ自体、素晴らしい作品ではあるのだが(ちなみに、ずっと前、金沢21世紀美術館で会ったゴームリー夫妻が、直島まで列車を乗り継いでいけるよう、ナヴィゲーター役をつとめたことがある――考えてみれば、通常のJRの切符に英語表記はなく、それを重ねたまま自動改札機に入れるなどというのは至難の業なのだ)。
そのほか、ゴームリーには、参加型の作品として、大勢の人々がつくった小さな粘土像をびっしりと並べる「フィールド」シリーズもあれば、空っぽの台座の上に人を立たせて好きなことをしてもらうプロジェクトもある。その多様な広がりは従来の「彫刻」の枠を大きく超える――彼が現在もっとも注目すべき彫刻家だと言ったのはまさにそのような意味においてである。