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ポツドールとブリュイエール
浅田 彰

2012.10.27
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Kyoto Experiment では、ハイテックな映像と音響だけから成る池田亮司の「datamatics」が上演される一方、それとは対極的な「肉体派」の作品も取り上げられた。ポツドールの「夢の城」(10月25日-28日)である。三浦大輔が「愛の渦」で岸田國士戯曲賞を受賞したあと2006年に発表したこの話題作は、一転、動物化した若者たちの生態を台詞なしで描くもので、初演時からすでに伝説とされてきた。彼らが同居する「汚部屋」を、隣のアパート、あるいは高架道路から、ペット・ショップのショー・ウィンドーでも見るように観客が覗き込む設定なのだが、なにしろその部屋では男5人と女3人(今は絶滅したと思われる「ヤマンバ」を含む)がゲームをして食ってザコ寝して出かけて帰って、その間に全裸で乱交するは乱闘するはゲロを吐くは排泄するは、およそ24時間のその生態をおそろしくリアルに描く舞台だからだ。しかし、たんなる混沌を想像してはいけない。都築響一の写真集も色褪せて見えるほどありとあらゆるものがぎっしり詰め込まれた「汚部屋」は、舞台装置として見れば驚くほど手の込んだもので、照明(たとえば冷蔵庫の中から溢れる光)や音響(たとえばつけっぱなしのTVの音声)も実に精緻に設計されている。俳優たちも、すべての挙動が動物的に見えるように、言い換えれば人間的な意図や感情を帯びた演技に見えないように、徹底して訓練され、それらの挙動がきわめて精密なコリオグラフィによって組み合わされていく。そこでは、乱交のあげく女が潮を吹いたり、乱闘の中で男たちが本当に激突しあったりするのだが、とくに猥褻にも暴力的にも見えることがない。本能に任せて交尾し争う動物たちが猥褻にも暴力的にも見えないのと同じことだ。むしろ、そこまで徹底した動物性ゆえに、この舞台からは一種の爽快ささえ感じられる。また、混沌がどうしようもないところまで煮詰まったあげく、ふとそこに包丁で鍋料理の食材を切ったりナイフでドラッグを砕いたりする乾いた小さな音が響く、あるいは、女が物憂げに自慰を繰り返しているところへ何の脈絡もなくドビュッシーが響く、それらの瞬間のほとんど奇蹟的なリリシズムは何としたことだろう。
よく知られているように、アレクサンドル・コジェーヴはポストヒストリカルな生活様式を体現するものとして「アメリカ的動物」と「日本的スノッブ」を挙げ、東浩紀はアメリカ化した日本における動物的スノッブ/スノビッシュな動物としての「おたく」に注目した。だが、「おたく」だけを特権化することはない。たとえば千葉雅也の「ギャル男」論は、たんに動物的と見える「ギャル男」もまた、東浩紀が「おたく」に見た「データベース的消費」を行っている、という論点を含むものだ。しかし、逆に、スノビッシュな動物ではなくとことん動物的な動物に注目することも可能だろう。実はそれを2006年にやってのけていたのが「夢の城」なのだ。その後、この話題作は国内では再演されなかったが、国外で衝撃をもって迎えられたのは当然のことだろう(*注)。そしていま、それが日本の舞台に帰ってくる。この機会を逃す手はない。

京都では旧立誠小学校の講堂が使われ、舞台の内容とのミスマッチがアイロニカルな効果を上げる一方、単純に演劇の舞台としてもたいへん見やすいセッティングになっていた。東京では性器の露出に対する検閲が厳しいようだが、京都ではみんなけっこうのびのびとやっていた——全裸でスケートの真似をするシーンでペニスを太ももにはさんで隠したりするのも逆に小学生のようで面白いのだが。それを小学校の講堂跡で見るというのも、不思議な体験ではあった。

このあと「夢の城」は Festival/Tokyoでも11月15日-25日に上演される予定である。繰り返すが、この機会を逃す手はない。

 


 
他方、10月27日に始まったFestival/Tokyo では、言語ではなく身体に照準を当てるという意味で「夢の城」と共通する、しかしむしろ「悪夢の収容所」とでも言うべき作品が、一足先に紹介されている。ジャン・ミシェル・ブリュイエール/LFKs(フランス)の「たった一人の中庭」(10月27日-11月4日)だ。「にしすがも創造舎」を乗っ取ってつくられたこの収容所は、しかし、かつての「巣鴨プリズン」のような戦犯や政治犯の収容所ではない。むしろ、一種の医療収容所——人間を主体としてではなく身体として監視・制御する時代(ディシプリン[フーコー]の先に現れたコントロール「ドゥルーズ]の時代)にふさわしい施設なのだ。動物化した身体が野放図なアナーキーの中でしかし群れの秩序とも言うべきものを自然発生的に生み出すのが「夢の城」だとすれば、夢から覚めたときに見えてくるこの収容所では、身体は群れから分離され、医学的な視線によって個々にコントロールされるのである。

中学校の体育館だったところに、14台の医療用ベッドがずらりと並び、自動的に昇降を繰り返している。周囲では、レベッカ・ホルンの作品を乱暴にしたようなオブジェが血液と見紛う液体を振りまいていたり、得体のしれない言葉やノイズが響いていたり。窓から外をのぞくと、見えるのは墓地だ……。しかし、そこにあるのはゴミ処分場のような混沌ではない。体育館の一隅には軍用と思しきテントが張られ、中では防護服のようなものを着たスタッフが収容者の身体を検査して情報を蓄積している。いや、それも含めた体育館内部のすべての状況が、元の教室のひとつだった「政治オフィス」からリアルタイムで監視されているのだ……。

驚くべきことに、この作品では、元の学校の全体が舞台となり、毎日6時間にわたるパフォーマンスが展開される。観客はそこを横切るようにして作品を体験することになるのである。

私が会場にいたのはたかだか一時間くらいなので、パフォーマンスのすべてを体験したとはとても言えない。私が「政治オフィス」にいたときは、施設の状況と並び、日本赤軍や連合赤軍の情報が映し出され、スタッフが巨大なバナーに文字を書き始めていた——そのバナーはやがて施設の外壁を飾ることになるらしい。

私の見た収容者はタイトルの通り「たった一人」で、体育館のテントで超音波エコーの検査を受けているドレッド・ヘアの黒人男性だった。彼が密航に使ったらしいボートや、フランスから国外退去処分になる様子も、教室のひとつに展示されている。だが、他に収容者がいないという保証はない。そもそも、観客のつもりの私たち自身、つねにさまざまな角度から監視されているのだ。考えてみれば、私たち自身、学校をはじめとするさまざまなディシプリンの装置によって鋳型にはめられ、パフォーマンス会場を後にして自由に行動しているときもさまざまな形で潜在的にコントロールされているのではなかったか。日本人の多くが移民や国外退去といった問題を意識していないとしても、それは偶然に過ぎず、グローバル化の中ですべてが流動化・不安定化しているいま、私たちもいつそういう問題に直面しないとはかぎらないのだ。そう、学校の中庭にずっと前から立っていた彫像も、梱包されていつでも送り出せるようになっているではないか。

程度の差はあれ、フランスでも日本でも私たちの直面している状況を鋭く照らし出す、これはきわめてアクチュアルなパフォーマンスだ。といっても、なにか陰鬱な作品を想像すべきではない。教室のひとつではモンスター(?)たちが踊り狂っているし、テントの医療スタッフも「イミグレーション・マン(移民の男)」というポップな音楽に体を揺らしながら作業に当たっていた。何より、壮大なインスタレーションはそれだけで一見の価値がある。

というわけで、まずは「西巣鴨プリズン」へ! そこで観客は前代未聞の事件を目撃することになる。

 
 
(*注)ちなみに、ポツドールより前に内外で注目されたものとして、もっと「普通」の若者たちの微温的な日常をやはり徹底して厳密に再現するチェルフィッチュの作品群がある。私がライヴで見たのは2006年に京都芸術センターで上演された「体と関係のない時間」(小山田徹の秀逸な装置による)だけで、他は映像を見たことがある程度だから、まだ確信をもって判断できる段階にはないのだが、第一印象としては、岡田利規の演出の徹底性に感心する半面、ここまでつまらない日常をそこまで厳密に再現するのが徒労のように思えてならない。