ICA Kyoto TALK 055 レビュー
アジアのアートシーンを渡る「鳥の眼」と「けもの道」の中継地 これからのICA京都

ICA京都は2025年4月より、キュレーターの片岡真実氏を新たな所長として迎え、ディレクター陣も新たにリスタートした。4月3日に開かれたICA京都主催の公開トークでは、「リ・ポジショニング:京都、アジア、世界~現代アートのエコシステムを考える」と題し、ICA京都のこれからについて、いくつかの視点で問題提起がなされ、議論が行われた。本記事ではそのトークを美術評論家の三木学氏に振り返っていただきながら、ICA京都がこれから担う役割について考えていきたい。(ICA Kyoto Journal 編集担当)。
文:三木学
アジアのアートシーンにおけるICA京都の役割
2020年に浅田彰が所長となって設立されたICA京都では、この度、片岡真実が新所長に就任し、メンバーも新たなヴィジョンのもとに再編されることになった[*1]。その名称の元になったICA(Institute of Contemporary Arts)は言うまでもなく、ロンドンにある分野横断的な現代芸術の交流拠点[*2]であるが、その大学でもなければ公的な美術館でもないオルタナティブな活動が、先鋭的なアートシーンをロンドンに生み出してきた。もしそのような組織を日本につくるとしたら、京都がふさわしいというのが設立時の浅田の見解であった[*3]。
今回、片岡が設立した国際的なアーティストを輩出するための大学院の専門コース「グローバル・ゼミ」[*4]を、京都芸術大学大学院の再編により、大学院共通のプロジェクト科目としてICA京都が担うことになり、それを機に片岡がICA京都の2代目の所長となった。新生ICA京都がどのようなことを目指す教育・研究機関なのか。その見取り図が、2025年4月3日、京都河原町にあるQUESTION(クエスチョン)で、「リ・ポジショニング:京都、アジア、世界~現代アートのエコシステムを考える」と題して、ICA副所長・中山和也の司会のもと、新所長の片岡と、新メンバーである堤拓也(ICA京都プログラム・ディレクター、キュレーター)、金澤韻(ICA京都特別プロジェクト・ディレクター、インディペンデント・キュレーター)、桐惇史 (ICA京都エディトリアル・ディレクター、編集者)によって語られた。新体制でのICA京都が目指すものと、それらが何と繋がり、どうなっていくのか、トークをもとに考察していきたい[*5]。
(なお、トークそのものの詳細とレビューについては、同時リリースしている瓜生通信の記事『これからのICA京都が担う新しいアジアのアート交流拠点「リ・ポジショニング:京都、アジア、世界~現代アートのエコシステムを考える」』をご参照されたい)
片岡が近年、講演をする際、必ず使用する図がある。それは世界地図の中で、アートシーンの変遷を表す図と、アート業界の「エコシステム」を表す図である。それによると、少なくとも1980年代までアートシーンは、ヨーロッパとアメリカの東海岸と西海岸の一部が中心だった。明治時代に遅れて近代化し、国民国家として「西洋列強」に参画した日本も、パリやニューヨークを目指してきた。日本の場合は、美術の公的な制度であるアカデミー(美術大学)と美術館をつくり、サロンに相当する文展(官展)も開催されてきた。戦後、公的なサロンが解体されたことを除いて、現在でもその制度は多かれ少なかれ続いている。
戦後、世界では、2年に1度開催される、国際芸術祭(国際美術展)の元祖でもあるヴェネチア・ビエンナーレと、4~5年に1度開催されるドクメンタがアートシーンをリードしていく。ドクメンタは、ナチスの主導した「退廃美術」展の反省のもと、1955年に現代美術による復興を目指して開始されたが、1972年の「ドクメンタ5」においてインディペンデント・キュレーターの嚆矢であるハラルド・ゼーマン(Harald Szeemann)が芸術監督になり、キュレーターがコンセプトを決めて問いを投げかける、今日の国際芸術祭のスタイルを築いて影響力が高まった。また、南米のサンパウロ・ビエンナーレ(1951~)やアジア太平洋圏のシドニー・ビエンナーレ(1973~)を先駆けとして、非西洋圏でも国際芸術祭が開催されるようになった。戦後の現代アートは全体として「現代の問題」を大きく扱うようになったのが特徴だろう。
日本人は、1952年の第26回ヴェネチア・ビエンナーレから出品し、1956年には日本館が完成する。初期においては日本画家や洋画家による展示であったが、徐々に前衛芸術のアーティストが参加するようになり、国際的な動向を確認できると同時に、国際的な発信ができる場として国際芸術祭を目指すようになる。
1990年代からは、国際芸術祭が世界各国、アジアでも多数開催されるようになり、地域としても急速に拡大、多極化するようになった。その時点でもはやすべてを見ることはできず、誰もそれを公平に評価できなくなる。また、アートマーケットも広がり、アート・バーゼルを中心としたアートフェアも世界各地で開催されている。トーク内では、その量と内容が多岐にわたる状況を見て、片岡は「うろたえる」と表現していたが、アーティストを選ぶキュレーターや出来事を正確に記述する必要がある美術史家にとっては、どこから手を付けていいかわからない、といった状況だろう。ましてや若手のアーティストやこれからアートシーンに参画しようというプレイヤーならなおさらだろう。
国際芸術祭の多極化は、地理だけではなく、内容においても見られる。脱西洋中心主義が浸透し、美術史の中で抑圧されていたプレイヤーに光が当てられるようになっているからだ。片岡はトークで、2024年のヴェネチア・ビエンナーレの例が顕著であると紹介したが、そこでは「Foreigners Everywhere(どこにでもいる外国人)」をテーマに、アウトサイダーやクィア、先住民といった多くのマイノリティのアーティストが紹介され、パビリオンの金獅子賞はオーストラリアの先住民、アボリジナルのアーティスト、アーチー・ムーア(Archie Moore)が白いチョークで延々と家系図を書いた作品《kith and kin》(2024)が受賞した。マイノリティの当事者が自身のルーツをたどり、民族特有の伝統的な技法と今日的な表現を組み合わせて見せることは、「現代の問題」を照射する現代アートにおいて重要な位置付けにある。それはかつてJ=H・マルタン(Jean-Hubert Martin)のキュレーションによって、1989年にポンピドゥー・センター他で開催された「大地の魔術師たち」展のように、当事者ではあっても、現代アートではなく「民族芸術」だった時代とは異なる。当時者が批評性のある個人の表現として制作しているところに大きな意味があるからだ。
また、日本館では毛利悠子が東京の地下鉄の漏水のパッチワーク的な補修に着想を得て、同じく浸水被害の深刻なヴェネチアで現地で取れた植物も含めた生態系をつくりあげた[*6]。そのような気候変動による人類史的な危機的状況に対するアクションは、政治や社会運動だけではなく、美術界においても重要なトピックになっている。同時に、それを自身の身近な経験から引き寄せて、展示空間を取り囲む環境も含めて鑑賞者の知覚につなげる手付きは、毛利ならではのものだろう。さらに、かつて西洋美術によって劣位に置かれた様々な地域の工芸、手芸の再評価も特筆すべきだろう。そこには京都で継承されている工芸の職人の技も含まれる。
トークで片岡は、それらを俯瞰して見た場合に、全体の中で自身をどこに位置付けるか、ポジショニングするかが重要であると語る。特に急速に成長するアジアの中の日本を再定義する必要があるという。あえて大胆に言い換えるのならば、西洋の最後尾から、アジアの一地域というリ・ポジショニングである。しかし、これは意外に難しいことである。明治以降、美術は西洋と対置して考えられてきた歴史があるからだ。言わばアートの「脱亜入欧」である。それはとりも直さず、アジアからの文化流入によって生まれた日本美術の歴史を切断することでもあった。
例えば、日本の高等美術教育は、「洋画」を中心とした西洋美術、江戸の諸流派を基につくりだした「日本画」、工芸の一部を抜き出した「美術工芸」という3つの方向で教えられてきた。それは、西洋美術の導入と同時に、西洋の価値観と教育体系による日本美術の再編といってもよい。それを主導したフェノロサや岡倉天心は、「洋画」と対置するために「日本画」をつくったが、その際、「書画同源」とされてきた東アジアの伝統が切り離され、書や書画一体の「文人画」は東京美術学校(現・東京藝術大学)のカリキュラムに入れられなかった[*7]。当時、フェノロサや岡倉の理論は、文学的な要素を排除したモダニズム的なもので先駆的であったと思うが、書が高等美術教育に入らなかったのは、今日から見れば喪失したものも大きいように思われる。
また仏像彫刻は高村光雲らによって木彫技法として継承されたが、明治以降の神仏分離令と「廃仏毀釈」を経ているため、宗教的文脈というより、美術品あるいは文化財として位置づけられ、戦後も造形的・保存的観点から教育されてきた。しかし、インドや中国大陸に起源をもつ仏教彫刻との技法的な比較や、造形表現における共通性・相違点については、実技教育の場において必ずしも十分に取り上げられてきたとは言いがたい。さらに、東南アジアにおける仏教彫刻や関連美術に対する体系的な美術的視点は、教育・研究の両面においても依然として限られているといえる。明治以降の日本美術をアジア美術として結び付けるとき、一度切れた線や、今まで見えなかった線を結び直さなければならない。単純に「脱欧米入亜」というわけにはいかないのだ。
今回、片岡が大学院生へのプロジェクト科目として提供するというアジア・スタディーズやアジア美術史を考えるとき、どのように大学、官展、美術館といった西洋的な制度を取り入れてきたか、植民地支配の影響でどの程度、自国の美術が影響を受けているかなど、各国、各地域の歴史的背景や、制度的基盤の有無によって内容は、大きく左右されるだろう。現代アートが取り扱う「現代の問題」においても、政治的、歴史的、地理的、社会的、文化的、宗教的な制度や慣習の違いは大きく出る。その中でどのような共通点を見出すのかも鍵だろう。
日本がアジアへ視点をシフトした際、戦前の欧米に対抗したアジア主義や、そこにつながる岡倉天心の「アジアは一つである(Asia is one)」という歴史観・地理観を更新し、「それぞれのアジア」に分解したところから、「結び付くアジア」を発見しなくてはならない[*8] 。そもそも岡倉天心は、「東洋」の訳語として「アジア」を考えたと思われるが、インドから東部を想定しており、中東は含まれてないし、中国画や韓国画も日本画と同様に、東洋の中の絵画というより、西洋画との対置でつくられている[*9] 。しかしこれからは西洋美術の軸ではなく、地域間の美術やアジア美術の新たな体系が求められるだろう。この科目には、福岡アジア美術館の学芸員として、長らく九州派を中心とした戦後の前衛芸術やコレクティブを研究している黒田雷児氏も招聘されるという。それはアジア芸術の結び付きのピースになるだろう。
オルタナティブ・スペース同士が結びつく新しい「けもの道」
いっぽうで堤拓也は、そのような制度から漏れ落ちた、オルナティブな活動からアジアへの眼差しを送る。堤は、京都芸術大学の卒業生を中心に京都と滋賀県の県境・比叡山の中腹にある共同スタジオ、山中suplexのプログラムディレクターとなり、アジア各地のオルタナティブ・シーンを調査したり、コレクティブを招いたりして、それぞれの問題を共有する「シェアミーティング」[*10] を開催してきた。
また、インドのニューデリー、インドネシアのジョグジャカルタ、韓国のソウル等をサーベイし、公的セクター、民間セクター、市民セクターといった視点で、それぞれの特徴を分析している。東南アジアに言えることは、公的セクターの層の薄さだろう。これはまさに美術大学、美術館、官展といった西洋の美術制度を導入してきたか、どの国から近代の植民地支配を受けたか、戦後の独立と軍事政権の変遷など複雑な事情がからまっている。アジアにおいて「オルタナティブ」や「インディペンデント」といったとき、軍事政権の検閲と対峙したり、対立を回避したり、サバイブするために不可欠な相互扶助だったり、もっと切実なニュアンスを孕んでくる場合も多い。公的に整った「制度」に対するオルタナティブとは意味合いが異なるのだ。いっぽうで、国や行政の支援や制度的な保証がない分、活動の自由度は高い。
堤はトークで、日本の場合、制度がある程度機能しているだけに、その脆弱な制度の中で助成に漏れたりすると諦めることがあるのではないかと述べた。確かに、大学や行政、企業のレジデンス助成を奪い合い、それに落ちたら受け身的に待つという姿勢が多いように思う。しかし、アジアのオルタナティブ・スペースであれば、「明日にでも」という気軽さで行くことができるという。それは堤らが自力で発見した「けもの道」のようなものであろう。インフラやサービスが脆弱であったとしても、ある人生の瞬間、そこに賭ける意義は十分にあるように思う。それは片岡が堤への応答で、京都から直接、ジョグジャカルタやチェンマイ、教育研究機関ではなくても、オルタナティブ・スペースと結び付いてネットワークを広げた方がいいと言った見解にもぴったりはまる。堤が今回担当するという「国際シンポジウム」も、シェアミーティングで得た課題や知見が大いに役にたつのではないか。
アジア美術の新たな対話の場
また、金澤韻は、アジアの美術系学生たちによる会議「KYOTO Gathering for Asian Art Students」を隔年開催で10年間続けるという。それは「けもの道」からつながる「広場」の役割を果たすかもしれない。中国、上海をベースにキュレーション活動をして、コロナ禍の政策転換のただ中にいた金澤は、中国という巨大国家の中で、民間セクターの広がりを目の当たりにしつつも、いっぽうで、検閲に苦労するアーティストや美術関係者を間近で見てきた。
中国の美術教育は、互いに影響を受けた日本と共通する部分もあるが異なる点も多い。美術教育においても、近代化は清末期から中華民国時代にかけて始まった。官展が開催され、後の美術大学になる高等美術教育は、フランスや日本への留学の経験と、東京美術学校(現・東京藝術大学)をモデルにつくられていく。その際、日本と同じように西洋美術に加えて、伝統的技法を教える「国画」が体系化された。それは「日本画」に相当するといえるが、書法や写意画(文人画)は大学教育の中に残された。
日本は、第二次世界大戦で敗戦し、教育カリキュラムが変更されたが、美術の高等教育に関しては連続性がある。ただし、官展は民間主導になり、対抗としてのアンデパンダン展や前衛芸術団体を中心に前衛芸術が広がり、今日の現代アートに継承されていった。いっぽうで市場としては小さかったため、今日においても現代アートのアーティストは大学教員が多く、国公立や私立など全国にある美術大学とそのネットワークが制度の中心にあるといえる。
中国の場合、第二次世界大戦後、中華民国から中華人民共和国に政治体制が変わり、美術教育もソビエト連邦方式のリアリズム教育の影響を受ける。社会主義国としてのテーマが称揚され、ある種の「社会主義リアリズム」の時代になったといえる。しかし、文化大革命を経て、鄧小平による改革開放政策以降、美術大学においても、西洋美術の再導入が図られると同時に、艾未未(Ai Weiwei)が参加していた「星星画会(The Stars Art Group」に端を発する制度批判やオルタナティブ・スペースでの前衛芸術活動が活発になる。
それらは冷戦終結後の国際戦略と連動していき、上海ビエンナーレや広州ビエンナーレを経て、中国の現代アートの国際的認知を高めることになった。そして、北京オリンピック、上海万博を超えて経済大国になり、その恩恵で金澤が詳細に調査している私立美術館やオルナティブ・スペースなどの民間セクターを含めたアートのエコシステムが形成されている[*11] 。しかし、「現代の問題」を扱うことが主流の現代アートにおいて、政治的なモチーフは扱いにくいという、複雑な矛盾を抱えている。
日本と中国は、美術の近代化においても相互に影響を受けているが、アメリカとソ連といった異なる価値観と政治体制を取り入れたため、二国間のみの関係性がわかりにくくなったともいえる。近代化の過程において、中国は「国画」の中に書法や書画を残したが、「日本画」のような鉱物系の顔料を使う絵画は、「設色画(shèsèhuà)」や「壁画技法」として技法の一部として教えられてきた。
その後、中国の画家が、日本の美術大学で「日本画」を学び、逆輸入したのが「岩彩画」である。逆に日本の場合は、美術大学において書画の系譜は途絶え、掛け軸などの表具や展示方法も保存修復などの一部になってしまった。それらの日中や大学内外で分断された伝統技法も再考すべきテーマだろう。今日においては、伝統技法もアーティストの表現のルーツとして現代アートの中で取り入れるアーティストも多いからだ。近代以降の伝統技法の日中の文化交流もアジア美術を見る上でのもう一つの視点になるかもしれない。
グローバリズム時代のアートシーン、アート・インスティテューションにおいて守るべき理念は「表現の自由」であり、それは民主主義国家の理念とも一致していた。しかし片岡が指摘するように、グローバリズムが逆回転する現在、民主主義国家においても「あいちトリエンナーレ2019」や「ドクメンタ15」で起きた出来事、あるいは近年のガザにまつわる問題などの例にあるように、すでにアートシーンは表現の安全地帯ではなくなっているという現実がある。つまり、それは世界中のどこのアートシーンにおいても、明示的、非明示的な「表現の検閲」があるということであり、それを現実として直視していかなければならないのだ。
アジアは、ヨーロッパと同様に、文化が複雑に入り組んでいる。大航海時代以降、アジアは隣国や隣接する地域であっても、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランス、日本など異なる列強による植民地支配や米ソの政治的干渉を受けた歴史があるし、同じ国家内であっても異なる文化的、言語的、宗教的なコミュニティが共存している。その意味では、アジア共通の文化言語を見出すのが難しいかもしれないが、それだけ多様な文化があり、共通した価値観ではなく、文化が伝播し、変容しながら少しずつ共有するという、グラデーショナルな価値観を持っていることもある。
アジアは西洋社会の倫理・道徳観をそこまで共有しておらず、社会がアートに求めるものが地域によってそれぞれ微妙に異なるという面もある。いっぽうでモダニズム的な普遍性が解体した後、ポスト・モダニズムを経て、マイノリティやルーツが重視され、個人主義ではなく、コレクティブのような協働性や共有性が評価されるようになってきている。インドネシアのアート・コレクティブ「ルアンルパ」のように、アジア地域の集団文化が現代アートに影響を与える例も見られる。大衆文化で言えば、日本の漫画やアニメ、韓国のドラマや音楽の国際的影響も無視できないだろう。
また、中国、韓国、台湾、日本などに広がる漢字文化圏は、微妙に異なりながらも、西洋とは異なる視覚芸術のあり方や認識を共有しており、アジア文化の可能性の一つだろう。さらに、知覚や感性のレベルで、気候が芸術の様式に大きな影響を与えているといるという研究もある。アジアでいえば、モンスーン気候や湿度の高さは、否が応でも物理的な芸術の形態を左右するし、感覚や価値観にも影響を与えている。アジア文化の対話のための土台づくりと、気候変動のような人類的な課題への展開は並行して行うべきものだろうし、その可能性は十分あるように思える。
鳥の目、虫の目が集まる文化的中継地
ICA京都の独自メディアである「ICA Kyoto Journal」を担当する桐惇史が、他者といっても隣人によって自分のこと、自分の立ち位置を知ることが多いということを指摘をしていたが、アジアの隣人を通して、自国や自分の地域の文化的背景やアイデンティティを確認できることも多いだろう。あるいは少し離れている地域に共通性がある場合もあるかもしれない。
それらをつなげるためには、堤が実践しているような「けもの道」の開拓と、片岡が提唱するアジアを横断する渡り鳥のバードアイのような視線が必要である。ICA京都はその中継地である。ICA京都は、アーティストがメインではなく、キュレーターや編集者といったある種の俯瞰的、鳥瞰的な眼差しを鍛えているメンバーによって構成されている。さらにアジアを渡るそのような眼に加えて、複雑な歴史と地図を、豊かな織物のようなアートヒストリーを編む大局観がもっとも求められることではないか。それには美術史家や美術評論家に加えて、認知科学者や人類学者なども入れた学際的な共同研究も必要になるかもしれない。
アートシーンの中で、日本のプレイヤーは増えているが、日本の視点で世界のアートヒストリーを語る人材は極めて少ない。美術史家の富井玲子や村上隆以外にも大きな歴史観を示す人物が出なければ、具体を含む戦後の前衛芸術、もの派、「スーパーフラット」のアーティスト以外、グローバル・アートヒストリーの中でポジショニングする/されることは難しい。もちろん、アーティストの生存に必要不可欠な価値(金銭的、文化的の双方)にもつながらない。美術館・芸術祭とアートフェアの二項対立のように言われる部分もあるが、アートヒストリーの裏付けがなければ、長期的な価値の向上は望めない。
汎アジア的なアートヒストリーをつくるのはもっと高度になる。新たにそれをつくるのは、多くの外国人が訪れると同時に、伝統文化に接触している京都の文化従事者の役割でもあるだろう。伝統の中には、文化交流の記憶も含まれているし、ルーツの探求とも重なる部分もある。何より、明治以来の西洋化政策の影響で、アート関係者は、日本文化の知識が浅い傾向にあるが、アジアのことを考えるとき、失われた知識体系を早急に埋める必要がある。それには京都で学ぶのがもっともふさわしいだろう。京都は美術・芸術大学が集積し、神社仏閣も無数にあるが直接的な接点は多くはない。それらと学術的なつながりを深めたり、アジア美術史的な観点での再評価の試みも積極的にすべきではないか。
ICA京都はこれから、アジアのアーティストや文化従事者と交流し、アジア各地の人々と語りながら、アートシーンの中でいかに京都のプレゼンスを上げることができるのか。西洋によってつくられた「極東」という地勢概念をリ・ポジショニングし、アジアの豊かな織物を編んで、世界で活躍するアジアや京都・日本のアーティストやキュレーター、美術史家、美術評論家などを輩出していくことを期待したい。
- *1新体制についてはこちらを参照されたい。各ディレクターのプロフィールも掲載されている。
(2025年7月15日閲覧) - *2Institute of Contemporary Arts
(2025年7月15日閲覧) - *3ICA京都 開設記者発表会 片岡真実×浅田彰トークセッション(2020年4月)
(2025年7月15日閲覧) - *4グローバルゼミ
(2025年7月15日閲覧) - *5ICA京都のディレクターはトークに登壇していた面々に加え、マネージング・ディレクターとして清水千帆も加わっている。清水は長年ヤノベケンジの「ウルトラファクトリー」に所属しており、世界の第一線で活躍するアーティスト・クリエイターの牽引する「ウルトラプロジェクト」のマネージメントを担当してきた。国際プロジェクトの経験も豊富で、ますます多様化するICA京都の活動を適切に運営していくという観点で、清水の存在は重要である。
- *6毛利裕子の展示の詳細については以下にレポート記事があがっている。
ヴェネチア・ビエンナーレ2024日本館、毛利悠子「Compose」を現地から速報レポート
(2025年7月15日閲覧) - *7親関公子『東京美術学校物語:国粋と国際のはざまに揺れて 』岩波新書、2025年
- *8岡倉天心『東洋の理想』講談社学術文庫、1986年、pp.17-27。その上で、岡倉天心が、さまざまな時代のアジア文化を取り入れて、現代まで文物を残している日本が、「アジア文明の博物館となっている」という指摘は、今日においても有効な部分があると思えるし、現在ではそこに西洋文明も入っている。
- *9佐藤道信『〈日本美術〉誕生:近代日本の「ことば」と戦略』講談社選書メチエ、1996年、pp.101-104。
- *102024年から堤が企画者となり、全国・海外のコレクティブやスペースオーナーなどを招き、問題を共有するプロジェクト。2024年に第1回が、2025年に第2回が開催された。
シェアミーティング「一人で行くか早く辿り着くか遠くを目指すかみんな全滅するか」
シェアミーティング2「つぎつぎに (あつまっては) なりゆくいきほひ」
(2025年7月15日閲覧) - *11金澤韻「中国現代美術館のいま」『ウェブ版美術手帖』
(2025年7月15日閲覧)
イベント概要
イベント名:ICA Kyoto TALK 055「リ・ポジショニング:京都、アジア、世界〜現代アートのエコシステムを考える」
登壇者:片岡真実、中山和也、堤拓也、金澤韻、桐惇史
⽇時:2025年4⽉3⽇(木) 18:00-19:30
会場:京都河原町クエスチョンビル4F Community Steps
定員:50名 対面開催 日本語のみ
料⾦:無料 (申込不要)
主催:ICA京都、京都芸術⼤学⼤学院
協力:SCHMATZ(ビール提供)、一般社団法人HAPS
執筆者プロフィール
三木 学(みき・まなぶ)
文筆家、編集者、色彩研究者、美術評論家、ソフトウェアプランナーほか。アート&ブックレビューサイトeTOKI共同発行人。独自のイメージ研究を基に、現代アート・建築・写真・色彩・音楽などのジャンル、書籍・空間・ソフトウェアなどメディアを横断した著述・編集を行なっている。美術評論家連盟会員、日本色彩学会会員。