交錯:東南アジアをめぐる思索
歴史を手繰る芸術の身ぶり ②マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター
文:金井美樹
Photo by Pam Lim
Courtesy of Five Arts Centre
言葉の響き、祈りのかたち、暮らしの手触りも、それぞれに異なる。さまざまな営みが織りなされて、ひとつの社会を形づくるマレーシアという国。豊かな多様性の光をたたえながらも、時にざわめく気配を孕ませ、その表情は繊細に揺れ動く。
多民族社会の入り組んだ文脈のなかに設立されたアート・コレクティブが、ファイブ・アーツ・センターだ[*1]。1984年、クアラルンプールを拠点に活動を始め、演劇、ダンス、音楽、視覚芸術などの表現領域を横断しつつ、マレーシア社会の現実に切り込む実験的な作品を数多く制作してきた。「表現の場とは何か」を問い続けながら、国家が形づくるナラティブに対して、アートとパフォーマンスを通じて批評的な視点を投げかけてきた。一方で、ワークショップや教育プログラムにも力を注ぎ、芸術文化を担う若手の育成に継続的に取り組んでいる。
最新作『トゥアの片影』は、2025年8月下旬から9月上旬にかけてクアラルンプールのKLPAC(クアラルンプール・パフォーミング・アーツ・センター)で初演され、10月には京都国際舞台芸術祭(KYOTO EXPERIMENT)のプログラムにも組み込まれている[*2]。
本作は、15世紀のマラッカ王国(現在のマレーシア・マラッカ州を中心に栄えた)で王に仕えたとされる戦士ハン・トゥアを題材にしたドキュメンタリー・シアターだ。書籍はもちろん、演劇や映画、教科書、政治家のスピーチ、さらにはビデオゲームに至るまで、トゥアはマレーシアで国民的なイメージとして広く流通している。実在が定かでないにもかかわらず、忠誠心や勇敢さを描くその物語が繰り返されることで、トゥアは国家統合の象徴、「理想的なマレー人像」として機能してきた。ディレクターのマーク・テ率いる制作チームは、国内外の資料を丁寧に調査し、トゥアゆかりの地を訪ね歩き、SNSに見られる現代の「トゥア像」にも着目した。作品全体を通して、その神話に繊細な光をあてながら、マレーシアの歴史的背景の中で形成されてきた「ハン・トゥア像」を深く掘り下げている。
物語を紡ぐのは、パフォーマーでありミュージシャン、さらにデジタルプロデューサーでもあるファイク・シャズワン・クヒリだ[*3]。しかし彼は単なる語り手にはとどまらない。自身の現実へと語りを引き寄せながら、生い立ちやキャリア、物議を醸したバンドのミュージックビデオ、そしてそれに対する社会的反響などを巧みに織り交ぜる。神話の中のトゥアと、現代を生きるファイクという個人像が交錯し、物語は観客の手の届く「いま」に鋭く迫る。

Faiq Syazwan Kuhiri
Photo by Pam Lim
Courtesy of Five Arts Centre

『トゥアの片影』 上演風景
Photo by Pam Lim
Courtesy of Five Arts Centre
ライティングやプロジェクション、ライブ音楽の効果が際立つ舞台上には、トゥアにまつわる幾つもの現物の書物が、時を止めたかのように佇んでいる。その背後には、膨大なアーカイブ資料が、まるで織物のように折り重なり、「歴史の断片」として広がっている。それらは沈黙することなく、舞台の動きに呼応し、もうひとつの「視線」として機能する。長年にわたりトゥアに関する歴史書や物語を記してきた研究者や作家たちの眼差しが、文字を超えて舞台に現れ、声なき囁きのように観客席の暗がりを漂う。その気配が、作品全体に独特の緊張感を張り巡らせていた。
さらに、トゥアという像の形成に関わってきた人々の中には、クアラルンプールの博物館が所蔵する彼の肖像制作を依頼された彫刻家や、トゥアが琉球王国を訪れていたという説を唱えた言語学者もいる。こうした人々へのインタビュー映像も劇中に挿入された。実在が曖昧な存在に命を吹き込もうとするそれぞれの試みには、歴史叙述を信じて語ろうとする意志とともに、どこか拭いきれないぎこちなさが漂う。しかし、これらのドキュメントが挿入されるのは、一つの明確な答えを示すためではない。むしろ異なる視点や語りが混ざり合うことで、舞台全体がまるで生きたコラージュのように脈動し始めるのだ。
そして、その脈動の合間にしなやかに響き渡るのは、ファイクによるオリジナルの歌唱である。舞台には圧倒的な詩情が静かに立ち上がり、その旋律は淡く揺れながら、メランコリックな歌声が儚い翳りを帯びて観客の内奥へと染み入っていく。歌う彼の姿はやがて、「英雄」という名の重荷を背負わされたトゥアのイメージと重なり合い、その内面ににじむ痛みは、現代を生きる男性たちが抱える、「男性」という枠に押し込められた身体や心の軋みにも、ひそやかに共鳴していく。
『トゥアの片影』は、歴史学やジャーナリズムが足を踏み入れない領域に、臆することなく踏み込み、その境界を繊細かつ確信的に往還する。時に楚々たる微笑みをたたえつつ、ユーモラスでありつつもクリティカルな手つきで、歴史叙述の奥底に埋もれた隠蔽や矛盾を掘り起こして解体しつつ、語りそのものの構造を揺さぶっていく。本作が示すのは、過去にまつわる一義的で決定的な「真実」ではなく、物語の周縁に現れる、不確かで錯綜した言説の連なりである。そして、そこから立ち上がるのは、解釈や問いの複数性だ。それらは、いまを生きる観客にとって、自らの立場や、そこに絡みつく記憶・記録・情報の層を問い直す火種となる。歴史をめぐる語りを、単なる遡行ではなく、過去と現在を撚り合わせるような営みとして差し出すこの舞台には、歴史認識とアイデンティティの再構築へ向けた緊張と可能性が、確かに共存している。

『トゥアの片影』 上演風景
Photo by Pam Lim
Courtesy of Five Arts Centre
[*1] “About – Five Arts Centre.”
[*2]マーク・テ / ファイブ・アーツ・センター『トゥアの片影』KYOTO EXPERIMENT 2025
[*3] “3 Questions: Faiq Syazwan Kuhiri,” Five Arts Centre, February 27, 2023.
※上記URLはすべて2025年11月6日閲覧
本連載について
「交錯:東南アジアをめぐる思索」は、マレーシアを拠点に活動する芸術文化研究者、金井美樹氏による連載です。東南アジアのアートを歴史、地域特性、人々の連帯など多視点で紐解き、現代の東南アジアとアートの関係性について、日本的な視点も交差させながら考えていきます。
執筆者プロフィール
金井 美樹(かない・みき)
芸術文化研究者。アート・ジャーナリズムを通じて現場を記録・分析し、その実践的知見を研究に結び付ける。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジにて美術史(20世紀)修士課程修了。約20年間ベルリンを拠点に、欧州20か国以上のアート現場を取材。そのうち2年間は文化庁新進芸術家海外研修員(美術評論)として活動。『美術手帖』『芸術新潮』『ART iT』などの日本のアート誌を中心に、『生活考察』『STUDIO VOICE』などの文化誌にも寄稿。書籍、ウェブサイト、展覧会カタログの執筆・編集を手掛ける。こうした取り組みや展覧会のコーディネートを通じて、ヨーロッパのアートシーンおよびアーティストを日本に紹介してきた。現在はマレーシアを拠点に、研究・執筆に加え、展覧会やワークショップの企画にも関与する。国際美術評論家連盟(AICA)ドイツ支部会員。