交錯:東南アジアをめぐる思索
歴史を手繰る芸術の身ぶり ③アイン
文:金井美樹
Courtesy of Blank Canvas
制度の縁で、息づく記憶へ
まだ言葉を持たない沈黙の間(ま)に、入り込むような体験がある。展示空間に引き寄せられるかのように、感覚の扉が開き、世界の位相はわずかにずれ、思考の重心がそっと移動する。瞬間でありながら、全身に広がる確かな余韻。アインの展示は、こうした感覚を静かに呼び起こす場であった。
本連載で紹介した『トゥアの幻影』(マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター)がナショナル・ヒストリーへの批判的アプローチであるとすれば、アインの作品は、制度的な枠組みからこぼれ落ちた、きわめて私的でささやかな記憶に光を当てる。一方は国家の記憶に問いかけ、もう一方は家族の記憶に寄り添い、やわらかく手を添える。
アイン[*1]の展示体験を理解する鍵のひとつは、作家自身の生い立ちにある。マレーシアにルーツを持ち、タイで生まれ、インドネシアや日本を往来し、オランダ・ハーグでファイン・アーツを学んだ。2022年からはマレーシアを拠点に活動している。国境を越える暮らしと記憶は、国家の枠に収まらない自己像への洞察をもたらし、彼女自身を「ディアスポラ」と位置づける。移動の経験から、言語や制度、文化の違いにさらされ、自己の輪郭や価値観も幾重にも書き換えられてきたのではないかと想像できる。
そしてアインが思想的な拠りどころとするのが、エメ・セゼール(1913–2008)の「Man of Culture」という概念である。ネグリチュード運動[*2]を牽引した詩人、セゼールは、文化人を単なる作品の創造者ではなく、抑圧され、歪められてきた民族の精神や文化を回復する責任を担う存在として捉えた。アインはこの思想を起点に、ポストコロニアルの歴史の受容、脱植民地化の文脈における作家としての立場や役割と向き合いながら、自身の文化的・芸術的アイデンティティを構築しようとしている。創作への内的な欲求と、社会・歴史・芸術への鋭敏な感受性。その二つが拮抗し、均衡を保つ地点で、彼女の作品はかたちを得る。会場で直接作家と対話した経験からも、彼女の旺盛な知的好奇心と、対象との慎重な距離感の両方によって、この均衡は支えられていることが伝わってきた。
本稿では、マレーシア・ペナン島のアートスペース、Blank Canvas[*3]で開催された個展『da lama dah (it’s been too long)』[*4]を通して、彼女の制作における歴史と記憶の交わりを辿っていきたい。
家具・小皿・灰―記憶のための、不確かなかたち
息づくのは古い木製のキャビネットやテーブル、肘掛け椅子、そしてカーペットだ。それらは時間の厚みと、かつて人々が使った痕跡としての記憶を宿す。キャビネットの内部には、土産物店で見かけるような陶器の皿が並ぶ。透明なプラスチックのスタンドに支えられ、まるでこちらに目を向けているかのように立つ小皿。その小さな姿の愛らしさに、思わず緊張がほどける。皿の表面には、作家の先代が残した古いアルバムの写真がレーザープリントされているが、人物像は曖昧で、誰であるかを特定できる情報はほとんどない。この匿名性には、個人史の親密さを手渡しながらも、他者が踏み込めない内奥の領域を守ろうとする、作家の繊細な配慮がある。

アイン《見えざる親族|陶芸作品シリーズ(手作りの粘土)》2024-2025年
Courtesy of Blank Canvas
会場には冊子が用意され、本展の制作過程について、アインとベトナム・ホーチミン在住のアート・ライター、フン・ドゥオン[*5]とのメールのやり取りが掲載されている。作家はそこで、「よりパーソナルな作品となるように、家の裏で見つけた粘土を使って皿を作りました。まるでこれらの写真、特に写真の中の人たちに、新しい住処(皿)を与えるような感覚です」[*6]と語っている。
この言葉は、本来は大量生産され、均質に流通するキッチュな土産物の皿が、アインの手を経ることで、やわらかく不均衡な凹凸や擦れをまとい、強い手仕事の痕跡を帯びていく過程を示している。そこでは制度化された「商品」が、固有の記憶を受け取る器へと変容していく。さらに、作家が家の裏の粘土を用い、周辺の植物や建築パターンをモチーフに刻む制作行為は、彼女の移動性と、現在立っている土地との触覚的な結びつきを示唆する。
焼成の過程で生じた灰を使った小さな絵画群は、空間に十分な余白を残しながら、支持体である紙がわずかにしなるように配置されている。従来的な額装や展示形式から身を引くように、灰の脆さと手仕事の痕跡は、かえって強い存在感を放つ。
アインは、祖母の語りを糸口に、老いによって揺らぐ彼女の記憶の断片をもとに人物や風景を描いてきた。灰を使った作品について、彼女は次のように語る。「私が灰の絵をつくった目的は、記憶を永遠に残すことではなく、むしろ一時的に形として現すことで、それが消えゆく過程を受け入れられるようにすることでした」[*7]。
この言葉は、記憶を固定的なアーカイブとしてではなく、生成と消滅のあいだを往還する可変的なものとして捉える視点を差し出している。灰という素材は、記憶の不確定性や時間の揺らぎを物質として可視化する。脆く、掴みどころのない素材と、不確かな記憶が重なる瞬間に立ち会うことで、私たちは記憶の「保存」よりも「変容の受容」へと理解を広げることができるのではないだろうか。


アイン《二度目の物語|灰を用いた絵画シリーズ》2024-2025年
Courtesy of Blank Canvas
アルバム―触れることで甦る記憶
さらに展示室の奥には、キャビネットと対を成すようにビーズのカーテンで仕切られた小部屋があり、一冊のアルバムが置かれている。肘掛け椅子に腰掛け、アルバムを開くと、まるで誰かの家に招かれ、ひとり思い出を辿るような感覚が生じる。ページには、灰で描かれた小さな肖像画がそのままの姿で並び、原資料には、十年以上前の洪水を辛うじて免れた写真も含まれている。壊れやすい灰のイメージを傷つけないよう、慎重にページをめくる所作そのものに、身体的な緊張を伴う。観者は、作家とのあいだに結ばれる微妙な信頼関係のなかで、記憶の再構築に関わることになる。


アイン《見知らぬ頁|灰を用いた絵画のアルバム》2024-2025年
Courtesy of Blank Canvas
マレーシアの植民地期、イギリス植民地政府は行政文書や教育制度を通じて、西洋中心の視点から社会と歴史を編纂した。社会構造は支配者側の論理で体系化され、日常の営みや家族、地域の経験は、制度の外部へと押しやられた。1941年から45年の日本の占領期にも同様の状況が見られる。口承や私的文書として残された記録も、時間とともに風化していく。
2000年生まれのアインにとって、植民地期はすでに歴史として学ばれる過去だ。一方、祖母の世代は、その終わりも移行期も生活の現実として経験してきた。作家の現代的な生活感覚と、祖母の身体に刻まれた歴史的時間とのあいだには、容易には埋められない隔たりが横たわっている。
アインの作品は、こうした世代間の時間的隔たりや断絶に向き合いながら生まれる。編纂の網目からこぼれ落ちた個人や地域の記憶を掬い上げ、皿やアルバムといった親密な素材を通じて、世代を超えて継承されてきた断片的な記憶を手繰り寄せる。こうして、歴史叙述の外側に眠る生活世界が、息を吹き返す。
本展を通して立ち上がるのは、個人的記憶が物質的な実践と結びつくことで、制度化された歴史の外側に、別の時間の流れがそっと現れる瞬間である。土や灰、紙といった素材は、作家の越境的な経験と現在立っている土地とを結びつけ、記憶を固定された像ではなく、触れれば揺らぎ、やがて形を変えていくものとして差し出す。アルバムに触れるとき、観者は記憶をたどりながら、壊さないよう慎重に扱う。その慎重な身ぶりのなかで、家族史や地域の経験は、遠い過去としてではなく、いまここで関わり直されるものとして存在する。記憶は保存される対象ではなく、他者との距離や配慮のなかで、かろうじて保たれる関係であることが、身体的に理解される。
アインの作品は、消えゆくことを前提とした痕跡に、わずかな時間と空間を与える。それは歴史を書き換える試みというよりも、歴史の周縁に置かれてきた経験が、ひととき息をするための場をひらく行為だろう。観者はその小さな間(ま)に立ち会い、立ち去ったあとも、記憶に手を添える所作や感覚を心に留めることができるかもしれない。

Blank Canvasでのアインの個展「da lama dah (it’s been too long)」 の展示風景
Courtesy of Blank Canvas
[*1] Ain
[*2] ネグリチュード運動
1930年代に、フランス領アンティルおよびフランス語圏アフリカ出身の知識人たちによって、主にパリで形成・概念化された文化・政治解放運動のこと。ネグリチュードとは元来、蔑称であった「黒(nègre)」を再定義して生まれた概念で、歴史的・文化的経験としての「黒人性」を肯定的に捉え返す思想のこと。黒人としての自己認識を促す標語であると同時に、精神風土や文化的実践の総体を意味する言葉でもある。
エメ・セゼールは、フランス植民地主義の同化政策を批判し、否定されてきた黒人の存在と尊厳を問い直すために「ネグリチュード」という概念を打ち立てた。その思想に至るまでの意識の変化と内的経験は、『故郷へのノート(Cahier d’un retour au pays natal)』に結実している。
(編集注)
[*3] Blank Canvas
[*4] da lama dah (it’s been too long), Blank Canvas
[*5] Hung Duong
[*6] アインとベトナムのホーチミン在住のアートライター、フン・ドゥオン(Hung Duong)による、本展の制作についてのメールのやり取りから引用。
Email Exchange Ain Hung Duong, p12
[*7]注6と同様。
Email Exchange Ain Hung Duong, p15
※上記URLはすべて2025年12月29日閲覧
本連載について
「交錯:東南アジアをめぐる思索」は、マレーシアを拠点に活動する芸術文化研究者、金井美樹氏による連載です。東南アジアのアートを歴史、地域特性、人々の連帯など多視点で紐解き、現代の東南アジアとアートの関係性について、日本的な視点も交差させながら考えていきます。
執筆者プロフィール
金井 美樹(かない・みき)
芸術文化研究者。アート・ジャーナリズムを通じて現場を記録・分析し、その実践的知見を研究に結び付ける。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジにて美術史(20世紀)修士課程修了。約20年間ベルリンを拠点に、欧州20か国以上のアート現場を取材。そのうち2年間は文化庁新進芸術家海外研修員(美術評論)として活動。『美術手帖』『芸術新潮』『ART iT』などの日本のアート誌を中心に、『生活考察』『STUDIO VOICE』などの文化誌にも寄稿。書籍、ウェブサイト、展覧会カタログの執筆・編集を手掛ける。こうした取り組みや展覧会のコーディネートを通じて、ヨーロッパのアートシーンおよびアーティストを日本に紹介してきた。現在はマレーシアを拠点に、研究・執筆に加え、展覧会やワークショップの企画にも関与する。国際美術評論家連盟(AICA)ドイツ支部会員。