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交錯:東南アジアをめぐる思索
歴史を手繰る芸術の身ぶり ④チョン・シー・ミン
文:金井美樹

2026.03.12
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展示風景:「パイナップルの後に」展、Warin Lab Contemporary、2025年
チョン・シー・ミン《私たちは裸足で歩き、彼らは車に座っている》2024年(手前)
Courtesy of the artist and Warin Lab Contemporary

糸に宿る記憶 ― 東南アジアのテキスタイル文化とコンテンポラリー・アート

手に触れれば、編み目の凹凸や糸の微かな重みが、過去の時間を感覚として伝える。麻やシルク、染めの跡や織りの揺らぎは、日々の営みを記憶として抱え込んでいる。東南アジアのテキスタイルは、こうした物質的な感覚を通して、衣服や装飾品、宗教儀礼など、人々の生活のあらゆる場面と深く結びついてきた。

とりわけバティック[*1]をはじめとする染織の手仕事は、色彩や紋様をまといながら、物語や象徴を内包し、共同体の世界観を伝えるメディウムとして機能する。日常に近く、身体に触れる素材であるがゆえに、過去と現在、伝統と歴史とのあいだでささやかな対話を可能にする。しかし同時に、国家や観光のイメージを飾る記号として消費されることもあり、地域ごとの特徴や歴史的背景が見えにくくなる。

こうした特性は、コンテンポラリー・アートにおいても新たな解釈を得ている。テキスタイルというメディウムは、技法や構造、概念の変容を経て表現の幅を広げ、もはや伝統工芸の枠にとどまらない現代的創造の基盤となっている。一方、制度的枠組みにおいては、テキスタイル作品は美術のジャンル体系の中で周縁化されてきた。

しかし近年、テキスタイルは、アーティストやキュレーターによる多様な試みを通じて、学術的・批評的文脈で改めて評価されるようになった。この背景には、国際的なアートシーンにおける視座の転換がある。ジェンダーや人種に関する議論の深化と、地域性や土着性に根ざす表現、個人のアイデンティティやナショナリティをテーマとする制作が、コンテンポラリー・アートにおける認知や関心の多元化に寄与している。こうした潮流の中で、テキスタイルは従来の周縁的カテゴリーを超え、表現のメディウムとしての意義が再認識されるに至った。


空間を編む ― チョン・シー・ミンのインスタレーション

本稿で取り上げるマレーシアの作家、チョン・シー・ミンのテキスタイル作品は、作家自身の幼少期の記憶を出発点に、細密なリサーチを重ねながら歴史的背景を遡ることに重きを置いている。彼女の思索の軌跡は作品の内部に巧みに織り込まれ、個人的な体験と社会・歴史の出来事との接続を示す。色彩や質感、糸のわずかな揺らぎの中から、これまで見過ごされてきたものたちが、ゆっくりと姿を現してくる。

2024年6月、クアラルンプールのギャラリーThe Back Room[*2]で開催された展覧会「親密さの目録」は、3名の新進作家によるグループ展であった。会場には、テキスタイルを介して記憶や個人史の質感を内省的に表現した作品が並ぶ。その中でチョン・シー・ミンの小品は、一見すると粗く野暮ったい編みの構造を呈し、描かれる対象や物語の具体的内容も直ちには把握できなかった。この「粗さ」と「不明瞭さ」は、作品自体の表現手法としての性格を示唆すると同時に、鑑賞者に物語の断片を再構築させる余地を残していた。

展示手法は配置や形態において変奏を伴い、天井から吊るされた作品群では、裏面が露わになることで表裏の二面性やイメージの断片性が顕在化し、空間内での存在感が際立っていた。一方、壁面に直接貼り付けられた作品は、織物としての物質性と壁という展示環境との間に微細な違和感を生じさせ、わずかな不協和を誘発した。いずれの場合も、計算された機械的な完璧さとは異なる手仕事の軌跡を通じて、制作にかけられた時間の厚みや手触りが伝わる。その質感が、テキスタイルの物質的存在を実感させた。

The Back Roomでの展示風景(中央の3点がチョン・シー・ミンの作品)
Photo by Kenta Chai
Courtesy of the artist and The Back Room

The Back Roomでの展示風景
Photo by Kenta Chai
Courtesy of the artist and The Back Room


果実の影 ― パイナップルから見る歴史と個人史

チョンの作品との再会は、タイ・バンコクのWarin Lab Contemporary[*3]での個展「パイナップルの後に」によって実現した。前回の展示で強い印象を残した構造性や断片性を踏まえつつ、本展では作品群を横断する叙述の編成が、より明確なかたちをとっていた。タイトルが示す通り、本展の主題はパイナップルをめぐる歴史的連関である。

多くの場合、果実そのものや観光土産として流通するパイナップルケーキといった消費的イメージが前景化する。そこから植民地支配やプランテーションでの労働の歴史へと連想が及ぶことは、少なくとも日本の文脈においては自明ではない。チョンは、鮮やかな黄色の果肉や象徴的形態を明示的に強調するのではなく、むしろ葉繊維という素材や染色の痕跡へと視線を移すことで、土地・労働・植民地期の記憶を物質的次元から浮上させる。

マレーシア・ジョホール州において母や祖母が従事したパイナップル農園の記憶、幼少期の風景、さらに台湾での調査を通じて参照した日本統治期のプランテーション資料は、単なる史実の提示ではなく、個人史と植民地史とを交錯させる複層的な時間の重なりを形成する。こうして作品は、特定の地域史に根差しながらも、プランテーション経済の展開と帝国支配が遺したものを可視化する装置として機能している。

作家はそのリサーチの過程で、日本統治期の台湾で収穫されたパイナップルの葉繊維が、天皇陛下の衣服に使用されるために送られていたことを資料で知った。この発見は調査をさらに深める契機となり、歴史的・物質的手がかりは、展示空間における作品の素材選択や質感、描写に反映されている。

薄暗い展示室には、天井から吊るされた作品や壁面に配された織物が並んだ。光と影の交錯により、作品はまるで映写機から投影された映画のコマのように宙に浮かび、テキスタイルの物質的な存在感がいきいきとした印象を放つ。糸の太さや色の差が立体的なリズムを生み、手仕事ならではの編み目の不均質さは、その息づかいとなる。作品は、プランテーションで働く人々の姿を軸に、過去の記憶を描き出し、その物語の余韻を展示空間に持続的に漂わせた。

《私たちは裸足で歩き、彼らは車に座っている》は、タイのプランテーション経済に関するアーカイブ資料をもとに制作された作品である。作中では、自動車に乗る外国の統治者たちと、裸足で立つ現地の人物とが対置される。現地の人物は簡略化して描かれ、まるで空洞のように表象される。この不均衡な構図は、両者の身体的距離と社会的立場の隔たりを露呈させ、歴史的・社会的状況の影を映し出している。

19世紀後半の英領海峡植民地で、イギリス人を中心とする植民地社会の視点から編纂された『海峡植民地シンガポール名鑑』。その英語テクストを天然染料のパイナップル葉繊維、綿糸、金箔で織り込んだ《動揺する大地》シリーズは、空間の中心で宙に据えられていた。作品に近づき、光の角度を変えると文字がかすかに透けて見える。だが、あらわになるのは、テキスタイルという柔らかな物質性を媒介に、現地住民を蔑視する辛辣な言説だ。作品の表面に打ち込まれた多数のピンは、植民地支配者が地図上に領有や管理の形跡を刻む行為を想起させ、言説と支配が重なり合う大地のかたちを、触覚と視覚の両面から空間に定着させる。

展示風景:「パイナップルの後に」展、Warin Lab Contemporary、2025年
チョン・シー・ミン《動揺する大地》のシリーズ、2024年
Courtesy of the artist and Warin Lab Contemporary

展示風景:「パイナップルの後に」展、Warin Lab Contemporary、2025年
チョン・シー・ミン《失われたパイナップル缶詰工場》のシリーズ、2025年
Courtesy of the artist and Warin Lab Contemporary

チョンの実践は、植民地期に形成された言説が日常の表象や物質文化に沈み込み、無自覚のうちに社会的・文化的権力構造や不均衡を映し出す様子を、ポストコロニアルな視座から読み解く。作家は、こうした歴史的資料やアーカイブを単に提示するのではなく、テキスタイルという触覚的なマテリアルに翻案することで、植民地的言説の優越性や固定性を相対化している。

さらにギャラリーの2階では、アーカイブ資料の展示も行われ、パイナップル農園での家族写真や、複数の国の博物館で収集された植民地期の写真・ポストカード、作家が近年インドネシアや中国で収集したマテリアル、繊維サンプルなどを確認できる。これらの資料や制作工程、繊維の質感や精緻な構造は、歴史を伝えるにとどまらず、作家のリサーチの方法や制作上の試行錯誤の過程を表出させる役割を果たしている。1階の作品と併せて向き合うことで、作家が歴史的資料を批判的に読み解き、素材化し、問いとして構成している過程を、より立体的に辿ることができた。

展示風景:「パイナップルの後に」展、Warin Lab Contemporary、2025年
2階の資料展示室
Courtesy of the artist and Warin Lab Contemporary

歴史の手触り ― 再び出会う糸と記憶

チョンの作品と三度目に出会ったのも、テキスタイルを主題とするグループ展においてであった。色彩豊かな作品や明確な社会的メッセージを前面に出した作品が並ぶなか、ひときわ控えめな佇まいを見せていたのが、麻とシルクで織られた《無題-家》である。

表面上は小さな家の形にすぎない本作が描くのは、プランテーションで暮らした出稼ぎ労働者たちの質素な生活空間である。清潔で整然とした麻とシルクの織り目は一見無機質だが、そこにあったのは生活の過酷さだ。視覚的な形態と背後にある物語との関係が解きほぐされるにつれ、労働者たちの存在は、物質的かつ身体的な次元で、徐々に立ち現れる。

この抑制された身ぶりは、チョンの表現の核心を打ち出す。作品は歴史の記録や証言に依拠しながらも、それを身体感覚へと変換し、声高に語られる歴史叙述とは異なる手触りとして差し出す。編み目の奥でかすかに震える振動は、個人の記憶と植民地期の社会構造を結び、テキスタイルの物質性を通して、歴史の残響を体験させる。

触れることのできない作品を前にしても、編み目の凹凸や糸の重みは感覚を呼び起こす。そこに浮き彫りになるのは、過去そのものではなく、なお触れきれない歴史の輪郭である。その輪郭は、決して完全には手に収まらず、なおほどけきらないまま、私たちの時間のなかで揺れ続ける。

展示風景:「ASEAN ART AND TEXTILES- 継ぎ目と継ぎ目のない世界」展、CULT GalleryとSAMYAMA by John Angによる共同企画、会場はYap Ah Shak House、 2025
チョン・シー・ミン《無題ー家》2020
筆者撮影



[*1] マレーシアやインドネシアで伝統的に受け継がれてきたろうけつ染め技術を用いた布であり、2009年にUNESCOの無形文化遺産に認定された、国を代表する芸術であり、文化。(編集注)

[*2]The Back Room

[*3]Warin Lab Contemporary:After the Pineapple

※上記URLはすべて2026年3月12日閲覧


本連載について
「交錯:東南アジアをめぐる思索」は、マレーシアを拠点に活動する芸術文化研究者、金井美樹氏による連載です。東南アジアのアートを歴史、地域特性、人々の連帯など多視点で紐解き、現代の東南アジアとアートの関係性について、日本的な視点も交差させながら考えていきます。



執筆者プロフィール

金井 美樹(かない・みき)
芸術文化研究者。アート・ジャーナリズムを通じて現場を記録・分析し、その実践的知見を研究に結び付ける。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジにて美術史(20世紀)修士課程修了。約20年間ベルリンを拠点に、欧州20か国以上のアート現場を取材。そのうち2年間は文化庁新進芸術家海外研修員(美術評論)として活動。『美術手帖』『芸術新潮』『ART iT』などの日本のアート誌を中心に、『生活考察』『STUDIO VOICE』などの文化誌にも寄稿。書籍、ウェブサイト、展覧会カタログの執筆・編集を手掛ける。こうした取り組みや展覧会のコーディネートを通じて、ヨーロッパのアートシーンおよびアーティストを日本に紹介してきた。現在はマレーシアを拠点に、研究・執筆に加え、展覧会やワークショップの企画にも関与する。国際美術評論家連盟(AICA)ドイツ支部会員。