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Out of Kyoto
005 線引きの問題
文:小崎哲哉

2026.04.07
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2024年4月の第60回ヴェネツィア・ビエンナーレ内覧日に、ジャルディーニで行われたパレスチナ連帯デモ

5月9日の開幕を前に、第61回ヴェネツィア・ビエンナーレ(以下「VB」)についての議論がかまびすしい。ウクライナへの侵攻を始めてから2回続けて参加しなかったロシアが復帰を発表し、VB財団がそれを認める決定を下したからだ。

3月10日にヨーロッパ22か国の文化・外務大臣がVBに再考を求め【*1】、欧州委員会(EC)も「財団の決定を強く非難」する声明を発表した。声明は「VB財団の決定は、ロシアの野蛮な侵略に対する欧州連合(EU)の集団的対応と相容れない。VB財団がロシアの参加を認める決定を進めるならば、VB財団へのEU助成金の停止または打ち切りを含む、さらなる措置を検討する」【*2】という文章で結ばれている。助成金額は200万ユーロ(3億6千万円強)。侵攻以前は親ロシアと見られていたイタリアの首相も「モスクワの参加に反対」【*3】というコメントを出している。

前回(第60回)の開幕日にキュレーターふたりとアーティストが自主的に閉館を決めたイスラエルも、第61回への参加が決まった。ジャルディーニ内の既存パビリオンは改修を要するため、会場はアルセナーレに移すという。アート関係者が構成する複数の団体が即座に反対を表明したが、財団が応ずる気配はなく、EU/ECからの批判もない。

第60回VB内覧日:
(上)ジャルディーニで行われたパレスチナ連帯デモの参加者が、ジェノサイド条約第2条の条文を記したプラカードを掲げる。
(下)デモの主催者が配付したチラシ。「死をヴェニスに持ち込むな/ジェノサイド・パビリオンに反対」と書かれている。
なお、イスラエルの代表作家であったルース・パティルは、これらの文化的ボイコットには断固として反対しつつも、自国の政府を公然と批判し、「自分に与えられた場所でできることをするしかない」として閉館の決断に至った。(編集注)

第60回VB内覧日:
(上)イスラエル館は、ガラス越しに1階内部が見えるだけで中には入れなかった
(下)参加を取り止めたロシア館は建物をボリビアに貸し出した。

ECとイタリア政府の二重規範(ダブル・スタンダード)は、中学生でもわかるくらいに明白である。二重規範でないのはVB財団だけであって【*4】、2024年2月末に、イスラエルとイランの参加問題について「イタリア共和国が承認するすべての国は、自主的に公式参加を申請できることを明言する」【*5】という声明を出している。この方針のおかげで(いや、中学生にも劣る倫理的レベルの露以米伊蘭首脳のおかげで?)今年のVBでは、進行中の戦争当事者であるウクライナ、ロシア、イスラエル、米国、イランが軒を並べるという珍しい光景が出現するかもしれない。パレスチナも前回と同様にコラテラル参加する。
各国が国別パビリオンを構えるVBは、オリンピックと同様に二重規範を生じさせやすい。背景事情は複雑であり、アーティストやキュレーターらアート関係者、そして観客の立場は様々だから、反応もそれぞれに異なるだろう。だから以下はまったくの個人的意見であって人様に押し付けるものではないが、僕はこの手の問題の線引きについてはふたりの先達の見識に頼ることにしている。エドワード・サイード(1935-2003)とシモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)である。
サイードは「現代の知識人は、アマチュアたるべき」【*6】と唱え、慣習的な知識人像を拡張した。アマチュアリズムとは「利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のこと」【*7】であり、知識人の公的役割は、ひとことで言えば「アウトサイダーであり、『アマチュア』であり、現状の攪乱者である」【*8】という。念の為に付け加えれば、サイードが定義する「知識人」には、もちろん芸術家や芸術の専門家が含まれる。批判精神を抱く芸術愛好家も含まれるだろう。

ヴェイユは、ユダヤ人家庭に生まれながらイスラエルの選民思想に嫌悪感を抱いた。キリスト教文化の中で育ったが「[カトリック]教会への無条件の愛は、偶像崇拝の一種である」【*9】と断じた。マルクス主義を学び、工場労働に従事してスターリン主義を糾弾する一方、デカルト的な合理的思考と近代科学を労働者と共有したいと考えた。神の実存と不在を 数学的に同時に確信し、「わたしは無神論者であらねばならない」【*10】と記しつつ神を信じた。
勤勉かつ清貧に生き、栄養失調に陥って34歳で亡くなった人生は、虚言、脱法、脱税、汚職、職権濫用、ネポティズム、不正な利益誘導、差別、弾圧、暴力扇動、国際法無視などを競い合うように行い、性犯罪疑惑や政敵殺害疑惑にまみれた政治家とは正反対だ。マイノリティのために戦い続けたサイードと同様に、信頼に値する真の知識人だと思う。

そのヴェイユが「合法性に照らされぬ権威を振りかざす人間への服従、これぞ悪夢である」【*11】と記し、「死は人間に与えられたもっとも貴重なものだ。だからこそ死の誤用はこのうえなき不敬虔である」【*12】「戦争。[中略]自身がひきうける覚悟もないまま、死を他者に投げつけてはならない」【*13】と述べている。露以米伊蘭首脳+αにぜひ読ませたい文言だが、少なくとも1名は中学生にも劣る知的レベルだから読んでも理解できないかもしれない。
ふたりの賢人に従うなら、露以米伊蘭のすべてに「ノー!」を突き付けるべきだろう。ロシア館は文化省と外務省に委託された会社が運営していて、コミッショナーは国防コングロマリットの副社長の娘、会社を共同経営するパートナーは外務大臣の娘である【*14】。イスラエル館も文化スポーツ省と外務省に資金提供を受けている。米国館の運営は非営利法人が担当するが、内容を承認・管理するのは国務省教育文化局。イラン館はイラン・イスラム指導文化省が担当している。どのパビリオンも、他国民や自国民に「悲惨と抑圧」【*15】をもたらし、「死を他者に投げつけて」いる国家の政府に支えられている。

3月中旬現在、内戦・戦争中の国はパキスタン、ソマリア、シリアなどほかにもあるが、特筆したいのはサウジアラビアだ。実権を握る王太子兼首相は、副首相時代にイエメン内戦への軍事介入を行い、深刻な食糧危機など悲惨な状況を招いている。他方、「世界とあらゆる宗教に開かれた穏健なイスラム」【*16】に立ち戻ると宣言し、石油依存度を減らし、多様化を目指す経済・社会・文化的プログラム「サウジ・ヴィジョン2030」を主導している。
史上最高額での「サルヴァトール・ムンディ」購入ほか話題の多い人物だが、忘れてならないのは自国のジャーナリスト、ジャマル・カショギを殺害させたことだ。カショギはサウジの体制にも、知的・倫理的に中学生にも劣る某国大統領にも批判的で、2018年10月、結婚手続きのためにイスタンブールのサウジ総領事館を訪ねた際に行方不明となる。同館を盗聴していたトルコ当局が、拷問・絞殺されたことを明らかにした。遺体は切断され、酸で溶かされたと推測されている。裁判はサウジで行われ、政府の工作員5名に死刑判決が下された一方(その後、恩赦)、王太子の指示は否定された。CIAと国連は関与があったと結論したが、王太子と武器取引していた、中学生にも劣る大統領は結論を無視した。【*17】

サウジは「サウジ・ヴィジョン2030」の一環で、2021年から光のアート・フェスティバル「ヌール・リヤード」【*18】を開催している。各国のキュレーターが協力し、多くのアーティストが参加しているが、カショギ事件のことを誰も覚えていないのだろうか。あるいは王太子が主催者であることを知らないのだろうか。王太子が宗教警察の力を殺ぎ、女性の権利向上を図り、娯楽や文化芸術振興に注力する姿勢を評価しているのかもしれない。湾岸諸国はどこも言論統制が厳しいから程度問題だと考える向きもあるだろう。前述したとおり、僕は自分の意見を押し付けるつもりはない。けれども、事件についての認識と評価は行動を決める際の大きな判断基準になりえたと思う。

ところで、ロシア館の展示はヴェイユの著作に想を得たものだという【*19】。2020年にトーマス・ヒルシュホーンが「シモーヌ・ヴェイユ地図」【*20】という作品をつくり、昨年の「岡山芸術交流」では、芸術監督も務めたフィリップ・パレーノがイソラーリと組んでヴェイユの断章を翻訳出版した【*21】。ささやかながらアート界にヴェイユの波が来ている。こんな時代における朗報だと思う。

Simone Weil, Decreation, edited and published by Isolarii and Philippe Parreno, 2025



【*1】 Ministry of Culture of the Republic of Latvia, “Ministers from 22 countries urge Venice Biennale to reconsider Russia’s participation,” March 10, 2026

【*2】 European Commission, “Statement by Executive Vice-President Virkkunen and Commissioner Micallef on Russia’s participation at the Venice Biennale Art Exhibition,” March 10, 2026

【*3】 Serge Duchêne with AFP, “Russia returns to the Venice Biennale amid fierce criticism,” in euronews, March 7, 2026

【*4】 財団理事長は親ロシア派として知られるジャーナリスト/作家/演劇人で、2015年にイスラム教に改宗している。「[自分の故郷]シチリアのアイデンティティはイスラム的だ」というのが理由で、同州知事選の右派連合候補として名前が挙がったときに「キリスト教徒がイスタンブールで立候補して選ばれるみたいなもの」と友党党首の現首相に拒否権を行使されたという逸話が伝わる。イスラム教徒の社会民主主義者がニューヨーク市長になったいま、首相の見解は変わっただろうか。
Philip Oltermann and Lorenzo Tondo, “Venice Biennale’s new, rightwing director has art world guessing,” in The Guardian, November 18, 2023

【*5】 La Biennale di Venezia, “La Biennale di Venezia on the National Participations and Collateral Events,” February 28, 2024

【*6】 エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(大橋洋一訳。1994/1995)p.130

【*7】 同 p.129

【*8】 同 pp.4-5

【*9】 シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』(田辺保訳。1950/1976)p.98

【*10】 シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(冨原眞弓訳。1947/2017)p.199

【*11】 同 p.294

【*12】 同 p.154

【*13】 同 p.155

【*14】 Kate Tsurkan, “What’s on at the Venice Biennale? Russian soft power,” in Kyiv Independent, March 7, 2026

【*15】 Simone Weil, “Le sang coule en Tunisie,” in Écrits historiques et politiques. Deuxième partie : Politique, 1937, p.98

【*16】Martin Chulov, “I will return Saudi Arabia to moderate Islam, says crown prince,” in The Guardian, October 24, 2017

【*17】“Khashoggi murder: Body ‘dissolved in acid’” in BBC, November 2, 2018
“Jamal Khashoggi,” in Wikipedia

【*18】 Noor Riyadh

【*19】 pavilion.rus, “Russian Pavilion, Giardini della Biennale.,” in Instagram

【*20】 Thomas Hirschhorn, Simone Weil-Map, 2020

【*21】 _isolarii_ in Instagram

※上記URLはすべて2026年4月7日閲覧


本連載について
「Out of Kyoto」では、著述家/アーツ・プロデューサーの小崎哲哉氏が芸術や文化の話題を取り上げていく。歴史を参照しつつ、現代における表現のあり方を探る連載となる。



執筆者プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
著述家/アーツ・プロデューサー。2000年にカルチャー・ウェブマガジン『REALTOKYO』を、2003年に現代アート雑誌『ART iT』を創刊し、あいちトリエンナーレ2013ではパフォーミングアーツ統括プロデューサーを担当。2012年9月から2020年12月まではカルチャー・ウェブマガジン『REALKYOTO』の発行人兼編集長を、2021年2月から2025年3月までは同『REALKYOTO FORUM』の編集長を務めた。編著書に20世紀に人類が犯した愚行をまとめた写真集『百年の愚行』『続・百年の愚行』、著書に『現代アートとは何か』『現代アートを殺さないために』などがある。2019年にフランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエを受章。