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はじめての海外グループ・スタディ・ツアー[マレーシア編/パイロット版]2026 レポート
遠景と近景の間で/混ざり合わない文化をめぐる旅
文:岡田 琉生

2026.08.16
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フライト中の風景 (往路は関西国際空港からクアラルンプール国際空港を経由してペナン国際空港へ向かった)

遠くの風景は常に新しく、近くの風景は常に安らぎを与えてくれる。
今年の3月、私にとっての6ヵ国目の海外渡航、今回の旅の目的地は、はじめての東南アジア、そしてムスリム圏でもあるマレーシア。東洋と西洋の文化が交錯する異種混合の街が、マレー系、中華系、インド系に分類される多民族・多宗教によって構成される。日本を含めた東アジア3ヵ国、ヨーロッパ3ヵ国を旅して、それらの文化における近景と遠景の間を埋めるように今回のプロジェクト公募に惹きつけられて、「はじめての海外グループ・スタディ・ツアー2026[マレーシア編/パイロット版]」に参加した。幅広い学生に開かれたツアーとして、芸術文化研究者/アートジャーナリストの金井美樹さん、ICA京都プログラム・ディレクター/キュレーターの堤拓也さん、美術家の小宮太郎さんの引率によりジョージ・タウン(ペナン)、イポー、クアラルンプールを巡る6泊7日の旅が行われた。公募で集まったそれぞれ異分野を専攻する京都芸術大学の学生5名に加えて、アートジャーナリスト、キュレーター、アーティスト、そして同タイミングでジョージ・タウンで開催されたインディペンデント団体やオルタナティブスペースの実践者たちによる「シェアミーティング3」への参加者たちで構成された一時的な集団でのグループ・スタディ・ツアーである。それは普段出会うはずのない異なる領域の人々が時間を共有し同じ場に集う事であり、広義でのキュレーション実践のようである。私はツアー後に現地解散をしてシンガポール、東マレーシアであるサバ州に向かった。


文化の交錯あるいは支配の痕

はじめに到着した目的地はペナン州のジョージ・タウン。イギリスと日本の統治下にあった植民地支配の歴史の残響を感じさせる、アジア文化とヨーロッパ建築の不協和がユニークな美しい街だ。乾期のかわいた空気と景色を白飛びさせるように明るい太陽、路上に溢れた車の上の陽炎が異世界のように出迎えてくる。中国の旧正月の締めくくりを告げる提灯や、偶像崇拝の否定を背景にしているように見えるテキストと紋様のみで構成される広告、鮮やかな装飾のヒンドゥー教寺院、そして真っ白に塗られた西洋風の建物が同じ領土にストリートを隔てて存在し、文化が混ざり切らずに同居している。西洋風の建物はポストコロニアル建築と言われ、イギリスをはじめとするヨーロッパ圏の長きに渡る植民地時代のものとしてモニュメンタルに堂々と都市の中心部に佇み、支配の痕を前景化させつつ、混沌とした街並みに秩序を生み出す。

ジョージ・タウン風景

イギリス軍が建設し、日本軍占領下で使用されていて、今や廃墟となった要塞を用いた博物館「War Museum」は残忍な行為から日常の生活、遊戯まで分け隔てなく戦時中の事実を遺物を用いて語る。

War Museum (軍の要塞であった空間に当時の写真が展示されている)

都市空間に浮かび上がる傷跡として、凍結した時間に触れる経験は中学生のときに観た広島の原爆ドーム以来だろうか。歴史の象徴的な一面だけを切り取る教科書や博物館とは異なる体験として、実際の戦争跡地を歩んだ。真っ暗闇の地下通路、薄汚れた鏡、錆びついた鉄格子といった風化した建造物の断片に触れ、自分の人生よりも長い時間軸について想う。要塞に遺された痕跡は武器庫や捕虜の記録といった戦争による歴史の中の古傷として一見暗い物語を語ろうとする。しかし、そこには人々の日常の記憶が、色褪せつつもモノとして、そして空間として確かに形に残っている。戦時中にそこで行われていた行為が残虐かつ非人道的であったことに変わりはないが、私は不思議とその場所で悲しみや憎悪と同等の安心感を覚えた。そこに確かに人々が生きていたのだということを荒れ果てた景観の中で感じとるように、他者の記憶としてのモノに鎮魂の意を捧げ、静かに空間と対話する時間を過ごした。それは平和な領土だからこそ実感し得るものなのかも知れない。

War Museum 地下通路 (昼間も光が入らず、真っ暗で人一人が通れる程の幅となっている)

滞在した期間はペナンアートウィーク。異文化が交錯し、複雑な歴史を背負う街で白人系、マレー系、香港系といった異なる背景を持つギャラリーやアートスペースが文化に活気をもたらす。腐食した無骨な建築物が並ぶストリートに突如と現れるガラス張りのホワイトキューブは、まるでポストコロニアル建築のように外来の異物として振る舞う。奇しくも同じ元イギリス領の香港に長らく拠点を置いていたマレーシア出身のコレクターにより運営されるペナンで最も大きいアートスペースの一つである「Blank Canvas」では大都市のコマーシャルギャラリーと遜色ないスケールの展示が行われ、筆者はそのオープニングパーティーに出席した。禁酒文化のあるムスリム圏においても、香港や中華系のコミュニティが中心となる食事会では当たり前のようにグラスワインが提供され、深夜には道教寺院でのDJイベントが繰り広げられ、文化の帰属性が曖昧になるような祝祭を経験した。

Blank Canvas (HE ANの個展 “A WIND-BLOWN FIRE NEEDS LITTLE EFFORT” 、アーティストによる作品解説の風景)

このように混合文化が見て取れるマレーシアだが、国民の大多数を占めるマレー系民族は基本的に皆イスラム教徒である。本ツアーの渡航期間ならびに私のムスリム文化圏への滞在期間はちょうどラマダンという期間に重なっている。日中の断食が必要とされるムスリムにとってのラマダン期間の断食明けの夕食はイフタールと呼ばれ、モスクやマレー料理店、マレー系の各家庭で日が沈む時間に皆、同時に食事を口にし始める。ツアーの中ではそのイフタールの場に出席し、ココナッツミルクや多様なスパイスを使ったマレー系民族独特の食事を体験した。はじめて赴く地ではじめての景色に触れ、はじめて出会う人々とはじめての料理を食べる—食文化とは単なる料理の内容についてではなく、実際に人々が集い、その地域の温度や気候に触れ、建築物で空間を共有することで生まれる民族のアイデンティティを表象するかけがえのない慣習であることを実感した。

ペナンでのイフタール風景

自然に還る都市、生成と崩壊の間

海外旅行といえば、人で賑わい文化の中心となる大都市を訪れることばかりだ。今まで訪れたロンドン、パリ、ヴェネツィア、ソウル、香港はいずれも確立された古典的な様式や近現代の都市計画によって制度化された街並みで、人々が流動しながら暮らしている。そのような環境で生まれる文化や芸術、建築物は常に私を楽しませる。しかしながら、ツアー内で訪れたペナンと、首都クアラルンプールの間の中規模な都市イポーでは中規模都市ならではの大都市とは異なるヴァナキュラーな体験ができたように思える。整備されていない旧市街のマーケットでは山積みにされた生きているのか死んでいるのか分からない鮮魚や、皮だけが剥がれて身体の原型を保った生肉が並び、あたりで野良猫が彷徨う。そこにはZINEを制作しているコレクティブKINTA ZINE CLUBのスペースやリサイクルショップのような雑貨を扱う店など、特定のフレームに分類しきれないような店も入居している。また、バティックと呼ばれる染織物を扱う店やすだれを制作する工房など、工芸が盛んな街としても魅力的であった。

ローカリティが豊かなこの街では都市と自然の関係について考えるきっかけをくれた二つの場所がある。一つ目がウン・セクサン(Ng Sek San)という自然豊かなランドスケープデザインを得意とする造園家による「セケピン・コンヘン(Sekeping Kong Heng)」という築数十年のショップハウスを改装したブティックホテルだ。ここでは建築における内と外の概念が入り組んだ路地のような中庭によって曖昧化され、建造物に植物が絡み合うことで、都市と自然の融合を実現している。自然を支配するべきものではなく、共生するべき運動体として捉えることで、近代の壁面による空間の分断や恒久的なシンボルを用いた中心性を特徴とする西洋建築を脱構築しているように見える。開放感のある有機的な空間へ降り注ぐ光と吹き抜ける風が心地よいこの場所は、都市と自然の両者は互いに調和し得ることを教えてくれた。

二つ目は、イポーの外れにある「パパン」という街である。この街はひと気が殆どない、ましては電波も繋がらないような言わばゴーストタウンである。100年以上前に錫鉱山として栄えたこの街は、錫価格の暴落と共に産業が衰退し、急速な人口減少により手付かずの崩れかけたコロニアル建築が並ぶ。そこでは、まるで時間が停止したかのように、当時の生活空間や道具が遺物として取り残されていて、人々だけが不在となった歪な部屋が見受けられた。熱帯雨林気候により、目を見張るほどの成長を遂げた巨大な植物は建物の壁面をつたいながら都市空間を侵食する。多くの大都市では庭園や街路樹のように建造物と植物の領域を切り分けて2次元的な地図を描くような秩序化が行われるが、ここでは都市と自然が同化していき、その両者の境や主従が曖昧化されたシームレスな世界が構築されていた。人々がいなくなった後、崩れゆきつつも常に新しい形へと変わっていくパパンの廃墟は人間の時間軸をちっぽけに感じさせるほど荘厳で、ポストアポカリプスと表現しても大袈裟ではないような、かつて栄えた都市が自然に還っていく大きな力学が感じられた。

セケピン・コンヘン

パパン

人類は自然を開拓し多くの都市を築くことで文明を発展させてきた。近代までに築かれた多くの建造物は変わりゆく自然環境の循環から乖離し、人工的に規格化を優先して作られた都市の構造は限界を迎えているように思える。木々が作る運動的な骨格と開放的な建築が交わることで巨大な生命体のように広がるセケピン・コンヘンと、植物や風雨に侵食されて、崩れゆくコロニアル建築が並ぶパパンの街並みを通して、世界は生成と崩壊の間で成り立っていることを意識する。異物としての都市は時の経過とともに自然に還っていく。人類の文明の在り方として、自然を一方向的に都市化させ、環境を支配するのではなく、自然に還る力学を引き入れながら地球と共存していかなくてはならないという、制度化された大都市では気が付かないような視点を異国の地であるこれらの場所は私に与えてくれた。

また、豊かなローカリティを感じられる都市であるイポーはマレーシアにおけるコーヒー飲料(KOPI)の一つであるホワイト・コーヒーの発祥の地でもある。少量のマーガリンのみで焙煎されて、砂糖とミルクの代わりに加糖練乳を入れる飲み方がポピュラーなホワイト・コーヒーは、苦味がなくクリーミーで濃厚な味わいが特徴的で、私がマレーシアで最も印象的であった飲食料のうちの一つである。それは、まるでバタートーストと共にコーヒーを味わっているような脂味と香ばしさが、一杯の飲料の中に凝縮されているような、他の何にも代え難い味わいであった。また、東洋のバニラとも言われるパンダンの葉やココナッツミルクを合わせたスプレッドであるカヤジャムとバターを用いたカヤバタートーストも合わせて食べられるローカルフードであり、初めて食したパンダンの葉の独特な香りは茶葉のような渋みを持ちつつもバニラのような甘さがあり、ホワイト・コーヒーと抜群の相性であった。匂いや味をきっかけに昔の記憶や感情が蘇る現象を指すプルースト効果というマルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』に由来する言葉があるが、嗅覚や味覚は記憶と密接に結びついているのだと、日本でマレーシアの飲食料を頻繁に探し購入するようになってから度々思う。記憶に覆い被さるヴェールが不意に剥がれるように、ローカルフードは旅先の風景を鮮明に蘇らせてくれる。ホワイト・コーヒーとカヤバタートーストを囲んだ昼食風景があの匂いと味に結びついているのだろう。


多民族・多宗教空間における芸術、クアラルンプールのアートシーン

ツアーの最後に訪れた都市はクアラルンプール。高層ビルが立ち並び、商業施設や文化施設にあふれた大都市である。イスラム美術の収集に特化した東南アジア最大級の美術館であるマレーシア・イスラム美術館 (Islamic Arts Museum Malaysia) では、開放感のある白を基調とする空間で、無限に続くような紋様やテキストが象徴的な陶器や金工、紙本を見ることができる。現代美術においてはNational Visual Arts Gallery、ILHAM、UR-MUといった広大な展示スペースを持つ美術館があり、イスラム教の偶像崇拝の禁止が反映されたような抽象的なパターンを主にした表現、世俗的なモチーフやポップカルチャーを反映したストリートアート、伝統的な技法や素材を引き継ぐフォークアートを軸にした表現、自然や植物の造形を参照にした表現が特に多く見受けられた。宗教美術から現代美術にかけて、時代が進むにつれて特定の様式や文化的帰属性は徐々に曖昧になっていくものの、同時代のローカルな人々の関心や流行を反映させる鏡であることに変わりはない。

マレーシア・イスラム美術館 (Islamic Arts Museum Malaysia)

ILHAM

ボルネオ半島のサバ州生まれのアーティスト、Yee I-Lann (b.1971)はマレーシア原産のパンダンの葉を用いたパンダン編みという伝統的な手法を用いて「TANAH & AIR」という大きな文字を編み込んだ織物を提示する。抽象的なパターンと色彩と文字の大胆な構成からなる大きな織物は「Tanah Air Ku (私の故郷)」と題され、マレー語で土を表す「Tanah」と水を表す「Air」の語呂が合わさって故郷や祖国を表すことが示されている。ポップな装いで巨大なスケールでありながら、安らぎを与えるような表現は工芸や自然へのリスペクトを感じさせる。クアラルンプール生まれの彫刻家Joshua Kane Gomes (b.1993)は駐車場に設置されたコーンや看板、椅子やタイヤといったイメージとそれらが置かれていたGPS座標を金属板に刺繍する作品や古いカタログをリサイクルするように紙粘土にして日常の構造物の形に鋳造する作品といった遊び心のあるオブジェクトを制作する。人工物を本来の用途から切り離す手法によって、都市における見慣れた風景の中の違和感を提示してくれる。

Yee I-Lann, Tanahairku #002 with weaving by Kak Sanah, Kak Budi, Kak Raziah, Adik Kooil, Adik Darwisa, Adik Alisya, Adik Dela, Adik Enidah, Adik Asima, Adik Norsaida, Adik Erna, Adik Dayang, Adik Tansya, 2020

Joshua Kane Gomes, Study of Makeshift Markers #1-100, 2025 (平面作品) / I’m still here #1-#3, 2025 (立体作品)

多民族・多宗教の国家における大都市のアートシーンは、人々が流動し移り住むことで顕在化される故郷の文化や風土の再考の姿勢または、人工物に満たされた都市空間の歪な風景への関心という二つの異なる軸を持って発展しているように思えた。異なる信仰や価値観を持つ人々にとって共有できる最も身近な主題は私たちが生きている環境である。人々が自らが生まれ育った環境や住んでいる場所へ自覚的であるという点は、クアラルンプールの美術館やアートスペースを巡る中で最も特徴的であったように思える。異なる文化を受け入れる包容力のある土壌がこの都市には充分にあるように思えた。大都市とは遠目から全体を見ると、国家や領土の中心として全てが統一されていくような危機感を感じる。しかし、実際に自分の足でそこに立ち寄るとその内部は、混沌とした多様な文化が溶け合いながら出会う場所であり、中心は周縁によって支えられているということを意識する。マレーシアの旅路で最後に訪れた大都市としてのクアラルンプールでは、常に溶け合いつつも完全に混じりきらない文化の渦の中にいるようであった。


分からないことを受け入れる、目的を手放す、身体を取り戻す

本ツアーにおいて、マレーシアの3都市を訪れる中で、混ざり合わない文化の手触りに触れた。それはアート、工芸、建築、食文化、宗教において、いずれも統一されずに異なるものが共生している。大半の文化は外国人の私にとっては初めは分からない。しかし、分からないものを分からないままに受け入れることは他者を認めることに等しく、はじめて経験することへの心構えとしては重要だ。目的を手放して、未知の領土と文化で暮らすことで気づくのはその地域の特色だけでなく、自分自身が今まで当たり前だと考えていた固定概念そのものである。私は灼熱の太陽が昇る領土で、街中を移動し、乾燥した風やときどき降るスコール、街中のスパイスやドリアンの香りといった慣れない環境に触れることで自身の身体感覚を取り戻せたように思えた。
インターネット上でスクリーンを通じて自由にイメージ世界を旅することができる私たちは、再現された仮想を現実のように認識し、世界を知った気になることが容易にできる。私も大人になるにつれて、歳を経るごとにあらゆる物を知った気になっていくだろう。遠くへ行くことが億劫になっていくのかもしれない。しかし、実際の旅ではその場所の風景の奥行き、太陽の光、空の色、物質の手触り、街の匂い、風、温度、湿度—それらの混在によってもたらされる感覚はまだ私に「しらないせかい」を知覚させてくれる。

Malayan Railway Administration Building, Kuala Lumpur (クアラルンプールで購入したインスタントカメラで撮影した風景)

このツアーの後にアジア最大の国際都市であるシンガポール、美しい自然や先住民族の文化が残る東マレーシアであるサバ州にも訪れた。シンガポールでは美術館の他に商業施設の空きテナントや公園などを利用した都市型ビエンナーレを目にし、リトル・インディアやアラブ・ストリート、キリスト教文化が集中する中心部のホワイトチャペルといった文化圏の領域区分と都市のエネルギーを意識し、サバ州コタキナバルでは野生動物や自然豊かな原生林、島々から見える美しい海を通して、熱帯雨林気候の豊かな地表に触れ、海辺のナイトマーケットといった地域ならではの文化を体験した。いずれも都市の特色は類似点はありつつも異なり、新しい風景の中に見慣れた安らぎを同時に感じられるように、多層に文化が混在している。

Singapore Biennale 2025: pure intention 展示風景(上写真はシンガポール美術館(SAM)の会場、下写真は旧ラッフルズ女学校の会場)

サバ州の原生林

あらゆるものは輪郭が溶け合いながら、ときに解れ、ときに接続する。そのような一時的な繋がりの連鎖こそが文化を築いているのだと。はじめての東南アジアへの渡航を通じて、統一されない文化の数々の断片を知り、異なるものへ触れることの豊かさをより一層強く感じられた。3月のマレーシアのツアーから早くも4ヵ月が経とうとしている。6月はチューリッヒ、バーゼル、コルマール、ケルン、デュッセルドルフを訪れた。次はどこへ旅しようか。旅の学びや発見は遅れて不意に思い出すようにやってくる。変わり続けることを受け入れることが、常に好奇心を持ち続け旅をする原動力になる。情報化とグローバリゼーションによって、あらゆるものが地域性を失い統一されゆく時代において、そこからこぼれ落ちるローカリティに目を向け、自身の身体を用いて訪れたことのない地を歩んでいきたい。



ICA京都|はじめての海外グループ・スタディ・ツアー2026[マレーシア編/パイロット版]
開催日時: 2026年3月6日(金)―12日(木)(6泊7日/うち、機内で1泊含む)
対 象: 京都芸術大学に通学部に在籍する学部生、および大学院生 計5名程度

はじめての海外グループ・スタディ・ツアーとは?
ICA京都「はじめての海外グループ・スタディ・ツアー」は、海外渡航経験が少ない、あるいはこれまで国外を訪れたことがない学生を主な対象とした、短期集中型のグループ・スタディプログラムです。
2025年度はパイロット版として、東南アジアの一国であるマレーシア(ペナン、イポー、クアラルンプール)にみんなで訪れました。現地の文化施設やアートスペース、地域コミュニティを巡りながら、実際に「見て」「聞いて」「食べて」「歩いて」、そして参加者同士や現地の人々と対話することで、土地に根ざした文化や社会のあり方を総合的に体験しました。そうした身体的な経験を通じて、アートが社会とどのように結びつき、どのような文脈の中で生まれ、そして身近な環境のそれとどのように異なるのかを考える機会を目指しました。
また本プログラムは、作品制作を目的とするものではありません。観察すること、問いを立てること、対話を重ねることを重視し、異なる文化や歴史、価値観に向き合うための導入的な学びの場として設計されています。海外を「遠い場所」として眺めるのではなく、自分自身の問題として引き寄せ、今後の学びや実践につなげていけることを目指しています。



執筆者プロフィール

岡田 琉生(Ryusei Okada)
2003年、神奈川県生まれ。2026年、京都芸術大学美術工芸学科卒業。同大学大学院芸術実践領域在籍。都市空間における人工物の作用、抽象芸術と画像生成の関係を研究主題とする。無機的造形と有機的造形の拮抗や次元の横断性、フォーマリズム、光学的図像への関心を軸に、連続性のある空間の分割と隔てられた領域の侵食を図る装置としての絵画、彫刻、インスタレーションを制作・展開している。主な展覧会、「累なりあうもの、崩れゆくもの、それは地表」(AIR大原, 2026)、「現在地の視座2026」(京都芸術大学 ギャルリ・オーブ, 2026)、「DOUBLE ANNUAL 2026」(国立新美術館, 2026)、「CONSTELLATION」(MEDIA SHOP | Gallery2, 2024)ほか。
掲載メディアとして、「美術の窓No.512 2026年5月号」、「土色豚 DOIROBUTA VOL.11」
クマ財団10期生。「西條茜・グランフロント大阪プロジェクト」、「ULTRA_Sandwich #18」参加。